第五章《メフィストフェレス》


『日誌 田井中律、記 2022年10月20日
 午前10時。梓からの電話で目が覚めた。気づかないうちに眠っていたようだ。
 疲れでひどく身体が重い。気分も悪い。脳みそと内臓の代わりに、身体中にコールタールが
 充満しているようだ。
 何度も電話しているのに、と梓が怒っていた。悪い事をしてしまった。せっかく私の調査を
 手伝ってくれているのに。
 三十分後に私のマンションの前で待ち合わせ。車を出すと言っていた。

 角砂糖をかじりながら、窓から外を眺める。
 老若男女が呑気な馬鹿面を晒して歩いている。
 この街は、この世界は、私達は一匹の巨大な獣だ。
 その生態を理解するには、ケツの穴からひり出した糞をほぐし、臭いを嗅ぎ、寄生虫を
 調べるしかない。
 この世の糞とも言うべきクズ野郎共を調べれば、自ずと真相に近づける訳だ』



梓「律せんぱーい」プップー

クラクションと共に聞こえた梓の声。
マンション前に立つ律がそれの聞こえた方へ眼を向けると、梓が赤いニューミニの窓から
手を振っている。

梓「お待たせしちゃってすみません。さ、乗ってください」

律「あまり待ってない。それよりも、電話に出られなくて悪かったな」バタン

梓「いいんですよ。気にしてませんから」

律が助手席に乗り込み、シートベルトを締めた事を確認すると、梓はゆっくりとアクセル
ペダルを踏み込んだ。

梓「そういえば、律先輩。車はどうしたんですか? あのパジェロ」

律「売った」

梓「どうしてですか?」

律「調査にゃ何かと金がかかるからな」

梓「はあ……」

二人の会話は長く続かない。それが世間話ともなれば尚更だった。
大抵は梓の方から積極的に話し掛けるのだが、律は言葉少なに返し、それ以上話題を膨らませ
ようともしない。
元の律の性格から考えると信じられない程の変わりようだ。
そうして、勢い二人の間を沈黙が支配せざるを得なかった。

梓「……」

律「……」

梓「……二人で調査を始めて今日で四日目ですけど、なかなか進展が無いですね」

律「……え?」

梓「調査の進展が無いですね、って言ったんです。ちゃんと聞いてください」

律「すまん。ボーっとしてた」

梓「まったく、もう……」

律「ああ、そういえば、ムギを襲った犯人の身元がわかったぞ」

梓「えっ!?」

素っ頓狂な声を上げて、律に顔を向ける梓。

律「ちゃんと前見て運転しろよ。危ないぞ」

梓「だ、だって、そんな! いきなり! どうやって調べたんですか!?」

律「まあ、落ち着けって」

梓「これが落ち着いていられますか!」クワーッ

律「ちゃんと説明するから落ち着けってば。どうせお前が反対するだろうから、少し一人で
  調べに行ったんだよ。昨日の夜な」




梓「ですから、どうやって!?」

律「えーと……――

   1.まず事件の担当刑事を尾行します

   2.人通りの無い場所まで来たら、袋を頭に被せ、物陰に引っ張り込みます

   3.相手の心が折れるまでボコボコにしたら、指を折りながら尋問します

   4.必要な事をすべて聞き出したら、再度ボコボコにします
     ※この時、相手の顔を踵で踏みつけたり、頭をサッカーボールのように蹴ったりすると
      効果的です

  ――ってな感じだな。意外と簡単に教えてくれたぞ」

梓「なっ、な、なんて事を…… あ、相手は、警察ですよ……?」

律「だから何だ。真犯人を探し出す為には、絶対妥協しないぞ」

梓「あああ、これで私達は犯罪者の仲間入りです…… お父さん、お母さん、ごめんなさい……」

律「ほらな、絶対そういう事を言い出すと思ったから、お前には協力を頼まなかったんだ。
  でも、心配すんなって。実行犯は私一人だからさ」

梓「そんな問題じゃないですよぅ……」

真っ青な顔で肩を落とす梓。どこ吹く風の律。
調査の手伝いを買って出た事を、梓は全力で後悔していたが、さりとて泣いてばかりもいられない。
梓にしてみても、唯や純の死の真相を解明したい気持ちは律に負けていないのだから。

梓「……それで、ムギ先輩を襲った犯人はどんな人なんですか?」

律「ヤクザ」

梓「はい?」

律「だからヤクザだよ。山内組の二次団体、五藤組の準構成員。まあ、厳密にいうとヤクザ
  じゃなくて、組事務所に出入りしてるチンピラってとこか」

梓「え? で、でも、テレビではちょっと気持ち悪いオタク系の人だって言ってましたよ。
  部屋の中も映してましたし」

律「そうだな。でも、実際は違う。どうとでも使えるチンピラをオタク野郎に偽装していた。
  真犯人、警察、マスコミがグルになって、真相を隠し、捏造で皆の眼を欺いているんだ」

梓「何故、そんな事をする必要が……」

律「それを今から調べに行くんだよ」

梓「あ、なんかイヤな予感がします」

律「あのチンピラ野郎が入ってる留置所に乗り込むぞ。直接、話を聞き出してやる」

梓「ほらー! やっぱりー!」

律「何が」

梓「まださっきの話は一億歩譲って良しとしますよ! 他に誰もいない状況だったんでしょうし、
  顔も見られてないんでしょうし! でも今度はダメです! 絶対無理です!」

律「無理とかそういう問題じゃなくてだな――」

梓「そういう問題なんです! 刑事や警官が何百人といる警察署の奥の奥ですよ! 絶対に
  不可能です!」

律「じゃあ、いいよ。また一人で行ってくるから」チッ

梓「ダメー! 絶対ダメです!」

律「それならどうしろってんだよ! あれもダメ、これもダメって、そんなんじゃ真相に
  近づけないだろ! 大体、私は協力してくれなんて一言も――」

そこまで言った律は思わず言葉を飲み込んだ。
運転席の梓が泣いていたのだ。
ハンドルを握る手には強く力が込められ、肩は小刻みに震え、両の眼からは涙がこぼれ落ちている。

梓「危ない事は、ぐすっ、やめてください…… 律先輩まで、ううっ、ひぐっ、いなくなっちゃう
  なんて、嫌です……!」ポロポロ




律はもう何も言えなかった。
慕っていた先輩。仲の良かった親友。この短期間に、梓は近しい人間を二人も亡くしている。
普通ならば、それだけでも立ち直れない心の傷となってもおかしくは無いのだ。
だが、梓は気丈にも律の調査を手伝おうとしている。

律「梓……」

『律先輩まで失いかねない、失いたくない』という、梓の恐怖心。
そんな事にも気づいてやれない己の壊れた心に、律は軽い絶望すら覚えていた。

律「とりあえず、車を脇に停めろよ。危ないからさ。な……?」

梓「はい……」グスッ グスッ

二人の乗るミニクーパーはハザードランプを点滅させながら、路肩に停められた。
その横を何台もの車が次々と通り過ぎていく。

律「……悪かったよ。お前の気持ちも考えずに」

梓「いえ……」グスッ

律「他の方法を考えよう。二人で考えりゃ、何か良い方法も思いつくさ。二人なら……」

梓「はい……」

その時、梓のバッグの中で何やら電子音が鳴り響いた。携帯電話の着信音だ。
梓はバッグを探り、携帯電話を取り出したが、躊躇いがちにそれを律へと差し出した。

梓「あの…… すみません……」グスッ

嗚咽も残り、鼻も詰まっている。とても電話に出られる状態ではないという事だろう。
すぐに察した律は携帯電話を受け取ると、通話ボタンを押し、耳に当てた。

律「はい、もしもし。中野梓が出られないので、代わりに出た者ですが……―― あ? 何だ、
  またアンタか」

不審そうな眼で律の反応を見ている梓。
律は通話口を手で押さえ、梓に向かって『ムギの秘書だ』と小声で伝えた。

律「それで、何だ? ムギからの伝言でもあるのか?」

携帯電話から話し声が漏れ出ているが、梓に内容が聞こえる程の音量ではない。
ただ、律の表情が見る見るうちに険しいものへと変貌していった。
更に、握り潰してしまうのではないかと思うくらい、携帯電話を固く固く握り締めている。

律「……」ピッ

結局、ろくな返事もしないまま、無言のうちに律は電話を切った。

梓「あ、あの、どうしたんですか? ムギ先輩から何か悪い知らせですか?」

律「……スリーストライク、バッターアウト」ボソッ

梓「え……?」

能面のような無表情。恐ろしく低い、抑揚の無い声。
不可解な言葉を呟いた律は、続けて言った。

律「犯人のチンピラが自殺した。留置所の中で。タオルで首を吊って」

梓「そ、そんな……」

律「バッジ欲しさのチンピラがせっかく一仕事終えたってのに、自殺するワケが無いだろ。
  しかも、監視の眼が光ってる留置所でどうやって首を吊るってんだよ。くそっ、また
  消されちまった……」

梓「……」

梓はガックリと肩を落とし、ハンドルに突っ伏してしまった。
唯一残された手がかりを失った挫折感だけではない。
律の推理は正しかった。
紬襲撃犯(自称唯殺害犯)が不自然な死を遂げた事によって、今回の一連の事件に関わった
人間は必ず抹消されるという事実が証明された。
そして、自分が追っているのは、そんな恐ろしい事実をいとも簡単に実行してのける巨大な
力を有した存在なのだ。
嫌でも信じるより他は無い。
無力感を伴った圧倒的恐怖が、梓の心を支配しようとしていた。




梓「もう…… ダメかも……」

律「まだだ。まだ他に方法はある」

梓「どんな方法ですか……」

律「死んだチンピラはチンピラに過ぎない。五藤組の中でそれなりの力を持った野郎がムギの
  暗殺を命じたんだろう。そいつはたぶん、真犯人に暗殺を依頼された野郎でもあるんだ」

梓「それで……?」

律「五藤組の事務所に行く」

梓「そう言うと思ってました…… でも、暴力団の事務所に乗り込むなんて、殺される為に
  行くようなものじゃないですか。それに、真犯人は暴力団を操れる上に、警察内部にも
  協力者を持っています。一般市民の私達が敵う相手じゃありません。もう、ダメです……
  諦めましょう……」

律「殺される、か……」

溜息を吐いた律は、ロールシャッハ模様のニット帽を被り直し、トレンチコートの胸ポケットに
差したサングラスをかける。
梓の方は向かず、黒いレンズ越しにフロントガラスの向こうを見据えながら、静かに話し出した。

律「いいか、梓。何も行動しないってのは、私にとって死んだも同然なんだよ。ここで妥協して、
  唯の事を諦めてしまったら、その瞬間に私はただ生きているってだけの、血と糞が詰まった
  皮袋になり下がるんだ」

梓「……」

律「私はもう死ぬ事は怖くない。でも、梓、お前は別だ。お前が自分の人生を大切にしたいと
  思うのなら、やっぱり私達はここで別れた方がいい。私一人でやる方がいいんだ。たとえ
  そうしたところで誰もお前を責めやしないよ」

梓「……」

思いの外、優しい口調の律。
ハンドルに突っ伏したままの梓。
沈黙の中、エンジン音だけが響いている。
車が再び発進する気配も、ドアが開く気配も、感じられない。



コトブキ・エンターテインメント本社ビルの社長室。
紬は年代物のアンティークデスクの上に置かれた書類に眼を通しながら、受話器を片手に
何やら指示を出している様子であった。

紬「ロッキード・マーティン、ボーイング、BAEシステムズ、EADSの株を買い。それと
  大成建設、鹿島建設、清水建設、大林組、竹中工務店も買いよ。あとは、旅行関連の
  企業はすべて売りで。いいわね」

欧米の軍需企業と日本五大ゼネコンの名が発せられた時、紬の表情は近しい者が見た事も
無いような険しく厳しいものとなっていた。
やがて、紬は固い表情で受話器を置くと、額に手を当てて大きく息を吐いた。
眉根はきつく寄せられ、眼は閉じられている。
五分経っても眼は開けられない。十分経っても同様だ。そのまま眠ってしまったのだろうか。
それ程の長い時間が経過した後、不意に内線電話のコールが鳴り響いた。
社長室長の斎藤菫からだ。
紬はすぐに眼を開け、ワンコールで受話器を取った。

紬「何?」

菫『エイドリアン・ヴェイト様より国際電話が入っております。この度の契約履行について
  お話したいそうですが、お繋ぎしてもよろしいですか?』

紬「……体調不良の為、静養していると伝えてちょうだい。それと、こうメッセージを。
  『今回の契約に関して、迅速かつ誠意ある対応に感謝致します。今後も琴吹グループは
  ヴェイト社の善きビジネスパートナーでありたいと、心より願っております』と」

菫『承知致しました』

返答の後、少し経っても電話が切られる気配は無かった。
不思議に思った紬は、再び受話器の向こう側の菫へ声を掛けた。

紬「どうしたの?」

菫『お姉ちゃん…… 大丈夫……?』




二十代後半という年齢に不釣り合いな、あまりにも子供染みた口調。
それが意味するところを感じ取れない紬ではない。

紬「……ここ最近、色々とあり過ぎたせいでちょっと疲れてるかもね。でも、大丈夫よ。
  ちゃんと休養を取るから。これから予定通り別荘に向かうわ」

通じ合えたという安心感があったのか。菫は次の瞬間には、コトブキ・エンターテインメント
社長室長に、琴吹紬代表取締役社長秘書に立ち戻っていた。

菫『……はい。ではお車をご用意します』

紬「ありがとう」

受話器が静かに置かれ、その代わりに携帯電話が内ポケットから取り出された。
連絡先を選択し、耳に当てる紬。
もう片方の空いた手は、社長室に相応しい大きな窓ガラスに添えられる。
その手はまるで照準器のように、紬の眼と、遥か彼方に屹立する138階建ての東京新名所
グラスタワーの間を結んでいた。



車通りの多い四車線の国道。
赤いミニクーパーがやや制限速度を超えるスピードで疾走している。
車内は、運転席に一人、そして助手席に一人。
梓に代わってハンドルを握る律は視線を前に向けたまま、隣へと声を掛けた。

律「いいのか? 梓」

梓の視線が律に向けられる。その眼は強い光を以って律の横顔を離さない。

梓「二人で、ですよね? 私達、二人で……」

律は相変わらず前を見据え、しかし、それでも梓の方へ手を伸ばし、彼女の手を強く握り締めた。
そして、手と同様に力を込めた声で答える。

律「ああ、二人だ」

梓「……それなら、大丈夫です」ギュッ

壊れそうな笑顔を滲ませた梓もまた、律の手を強く握り返す。
オートマ車はその構造故にしばらくの間、握り合う二人の手を離させなかった。

梓「そ、そう言えば私、少し考えたんです…… 唯先輩の事件も含めてですけど、放課後
  ティータイムに関係する報道って、やっぱり昔から不自然なところが多いかなって」

梓は少し頬を染めつつ、なるべく自然を装いながら律の手を離そうとしていた。

律「例えば?」

梓「良い事はいっぱいテレビで取り上げられたけど、その、スキャンダル的なものは一切
  報道されなかった気がするんです。放課後ティータイムとしても、メンバー個人個人
  としても、解散してからも」

律「スキャンダル? 男関係とかか? まあ、そうかもな。ていうか梓、男いた事あったんだ」

梓「失礼な! 私だって普通の女ですし、この年齢まで男性との交際が無い方がおかしいでしょう」

律「いや、それこそ聞いた事が無いからさ。お前の男関係」

梓「……長続きしないんです、いつも。最初はいいんですけど、少し経つと必ずギクシャク
  しちゃって。あの、その…… ほら、あっちの方が問題で……」

律「あっちの方? 何だよ、あっちの方って」

梓「ですから、その…… アレです…… 男女の、ほら……」

律「ああ、セックスか」

梓「少しはオブラートに包んでください!」

律「んな事でいちいち恥ずかしがるなよ。三十路のババアのくせして」

梓「ババアじゃないもん!!」

律「“もん”って…… 痛さ炸裂だな、お前……」

梓「それはいいとして! おかしいと思いませんか? いくら当時人気があったからって、
  異性関係に限らずマイナス面が全然取りざたされないなんて」




律「ふうむ…… でも、今回の事件は別としてもさ、その前の報道に関しては、お前の気のせい
  だと思うぞ。第一、あの大晦日の路上ライブは大々的に報道されたし、叩かれまくった
  じゃないか」

梓「あ、そっか……」

律「それに、男関係ではそう簡単にボロが出るような行動も取ってないだろ? そばにいた
  私も知らなかったくらいだから、誰にも言ってなかったんだろうし」

梓「確かに…… 唯先輩に相談したくらいですね」

律「私もそうだよ。何故か唯には話しやすかったんだよな」

梓「唯先輩の人柄だったんでしょうね……」

律「さてと、お喋りはここまでだ」

車はスピードを落とし、路肩へ駐車された。
二人の視線の先にあるのは、然程大きくもないが小奇麗な七階建ての雑居ビル。
ネイルサロンや鍼灸治療院がテナントとして出店している他、その中のひとつの看板には
“五藤経済研究所”と書かれている。

律「行くぞ」

梓「は、はい……」

車を降りた二人は、エレベーターを経て、五階へとやって来た。
ワンフロアに二つあるテナントのうちのひとつ、五藤経済研究所の前に立つ律と梓。
律は変わらず無表情だが、梓は真っ青な顔で膝を笑わせている。
梓に確認する事も無く、ノックも声掛けも一切抜きで、律は勢いよく事務所のドアを開けた。

ヤクザ「誰だ!」

室内には入口へ背を向ける形でソファに座るスーツ姿の男が一人。彼は驚愕と恐怖の入り
混じった表情で振り向いた。
手を突っ込んだ上着の内側からは、黒い金属質の何かが見え隠れしている。
律は遠慮無しに室内へ歩みを進めると、座っている男へ声を掛けた。

律「聞きたい事がある。琴吹紬を襲ったチンピラに関してだ。この事務所に出入りしてたろ。
  奴本人か、暗殺の依頼主について知らないか」

何の駆け引きも無い、ストレートど真ん中の質問。
男は上着の内側から手を抜き、ボタンを閉めると、律を眼光鋭く睨みつけた。

ヤクザ「ああ? 何言ってんだ、テメエこの野郎。今すぐ消えねえとブチ殺すぞ、コラ」

凄味の効いた脅し文句に、梓は律の背中に隠れてしまったが、当の律は表情ひとつ変えていない。

律「手品を見せてやろうか?」

ヤクザ「ああ?」

テーブルにはタバコと共に百円ライターが置かれている。
律はライターを手に取ると、テーブルの上に立て、片手をかざした。

律「このライターが一瞬で消える」

ヤクザ「テメエ、いい加減に――」

怒り心頭で立ち上がろうとする男。しかし、律は彼の頭を引っ掴むと、顔面をライターの
立てられたテーブルへ荒々しく叩きつけた。

ヤクザ「ぎゃああああああああ!!」

部屋中に、いや、フロア中に男の絶叫が轟いた。

律「じゃじゃーん。見事に消えた」

梓「ひいっ……!」

確かにライターがテーブルの上から一瞬にして消えていた。そして、男の左眼からは血が
止めどなく流れている。
ライターは男の眼球に突き刺さり、眼窩深くへ押し込まれていたのだ。

ヤクザ「ああああああああ! 眼が! 俺の眼がァ!!」

男は左眼を押さえて床の上をのたうち回っている。相棒の梓でさえも顔面蒼白で床にへたり込んだ。
律が無慈悲に男の胸倉を掴む。




律「これで私の聞きたい事を喋りたくなった筈だ。それとも――」

律は男の上着の内側から、無造作に拳銃を抜き取った。
銃口が男の額に押しつけられ、撃鉄が起こされる。

律「――拳銃の手品が見たいか?」

ヤクザ「わかった! 教える! 教えるよ!」

律「言え」

銃口を向けたまま、律は男から手を離し、僅かに距離を開けた。
梓は再び律の背中に隠れ、彼女のトレンチコートの端をギュッと握る。
ノロノロと体を起こした男は激痛に身を捩じらせながら話し始めた。

ヤクザ「琴吹紬の殺しを依頼してきたのは企業舎弟のシャイニングプロダクションだ!
    適当なのを見繕って、キモいオタクに仕上げて、琴吹を襲ってくれって!」

律「シャイニング? あの評判の悪い芸能事務所か。で、どんな奴だよ。依頼してきたのは」

ヤクザ「し、知らねえ! やり取りは全部メールだし、報酬も振込だ! 何にもわからねえんだ!」

律「知らない、か。襲ったチンピラが消されたのは知ってるか?」

ヤクザ「あ、ああ…… けど、あいつだけじゃねえ。ウチの組のもんが次々と消されてる。
    オヤジは女の家のガス爆発で死んだ……! アニキも地下鉄のホームから落ちて
    死んだ! 他にも…… 次は、次は俺かもしれねえんだ!」

律「ああ、そうだろうな。だが、人はいずれ死ぬ。私の友達も、私も、お前も。そして、
  あの世なんてものは、天国や地獄なんてものは無い。死ねば意識は永遠に閉ざされ、
  完全な無になるだけだ。そう考えれば、少しは楽になるだろ」

ヤクザ「ちっ、ちくしょう……! そんなワケあるかよ……」

右眼からは涙を流し、左眼からは血を流し、男はガックリとうな垂れた。
レンコン状の弾倉から弾丸がパラパラと抜かれ、銃は男の足元へ放り投げられたが、彼は拾おうともしない。
意気消沈する男を尻目に、律はいまだ震える梓を促し、事務所を後にした。

律「邪魔したな。殺される前に病院に行っとけよ」



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