…………


『わたしは自分がそんなに好きじゃない。
 むしろ嫌いなのかもしれない』


 …………


 ■Chapter01‐秋と猫と小旅行


 「似合ってる似合ってる!」


 耳に届くのは、公園で走り回る子供よりも快活な声だった。

 心地よく涼やかな風が頬を撫でる。
 目に優しい色をした木々が揺られ、木漏れ日が覗く。
 本格的な秋色に染まるまでには半歩ほど足りていない。
 しかしそれでも私の目の前ではしゃぐ先輩は、紅葉以上に色彩豊かな感情を私に見せてくれていた。


 「猫っぽいから、とか言うんじゃないでしょうね?」

 「ううん、あずにゃんだからじゃないかなあ」

 「余計意味がわかりません」

 「えー?」


 私はぷいと顔をそむける。腕につけた鈴のブレスレットがちりんと音を鳴らした。
 つい先程、唯先輩から貰ったものだ。

 私は断ろうとしたが、安いから安いからと繰り返され、強引に押し付けられてしまった。
 なんでもこの旅行に際し、なにかプレゼントを、と思ったらしい。
 どのぐらい安いのかと聞いたら百均で買ったのだという。――本当に安い。

 とはいえ腕に巻き付けるためのリボンは別に購入しているようで、
 赤色の生地に金色で淵と文字が刻まれたリボンは、百円均一の鈴をそれ以上のものに見せている。


 「ほら、あまりモタモタしてると電車きちゃいますよ」

 「急ぐよ、あずにゃん!」

 「あ、でも別に急ぐ必要はないです」


 立ち止まった先輩が膨らました顔を振り向かせる。


 「ちょっとあずにゃん、どっちなのさ! はっきりしてよ!」

 「どうして私が怒られなくちゃいけないんですか」

 「急ぐよって言ったのに、急いでないじゃん!」

 「……私、そんなこと言ってませんよ」

 「……そういえばそうだったかも?」


 唯先輩はうんうんと何度か頷くと、


 「それなら、ゆっくり行こっか」


 そう言って、私の手を掴んだ。
 身体中が火照って仕方のない私のことは気にせず、前へ前へとずんずん進んでいく。
 途中で道を間違える。こっちですよと引っ張ってあげると、次の瞬間には先輩が前に出ている。
 そのまま私は引っ張られていた。

 最寄り駅から馴染みの電車に乗り込む。空いた席に座ると、外の景色が動き出した。
 染まりかけの赤や黄色が映し出され、それを眺めている唯先輩がぽつりと呟く。


 「もう秋なんだねえ」


 ずしり。言葉が私の心に重くのしかかる。


 「いえ、まだ夏です」


 唯先輩は意外なものを見つけたような表情を浮かばせる。
 目を背け、そのまま、私は言葉を繋げた。


 「……ぎりぎり、そう言えなくもないです」


 唯先輩の視線が私から、窓の外へ移ったことを感じて、顔を戻す。
 窓の向こうに見える山々を先輩は見ていた。
 今日は晴天だ。空から降り注ぐ日光が、先輩の横顔を照らして出している。
 その表情に驚きはない。どこか、しみじみとなにかを感じているかのような、そんな顔つきだった。


 「そうともいえるかもねえ」

 「先輩はそうは思いませんか? まだぎりぎり境界線なんじゃないかって」

 「私の夏は夏休みが終わったときに、もう終わっちゃったような気がしちゃって。
  ううん、だけどこれは夏の続きなのかも」


 にこりと微笑むと、先輩はまた窓の外に目を向けた。
 やってしまった。私は心の中で、何度も自分に言い聞かせてきた言葉を、再び浴びせていた。


 …………


『どうしていつもこうなるのだ。
 わたしは余計だ。いつも余計だ。
 余計な言葉ばかり吐いていて、出来上がったものも揺らして揺らして』


 …………


 ■Chapter02‐月明かりの首筋に


 この県内二泊三日の旅行が出来たのはムギ先輩のおかげだ。
 ムギ先輩が商店街のくじ引きで当てたペアチケットを二枚とも、私たちに譲ってくれたのだ。
 ちょうど都合が合わず、無駄にするのは勿体ないから、ということらしい。
 私も唯先輩も断る理由は特になく、こうしてこの旅が形となった。

 いま私たちは山を越えるバスに揺られ、そこから望める海を、窓から眺めている。

 目的地に到着し、バスを降りると、すぐそこに小さな雑貨屋を見つける。
 唯先輩の目が、その建物に釘づけになっていた。
 いいですよ。そう言うと、先輩はすぐさま入り口へ走っていった。
 私も後からついて歩いていく。

 白い石造りの壁と、緑色の三角屋根が西洋の趣きを感じさせる。
 軒下では観葉植物がシンプルながら、白い壁にアクセントを加えている。
 木製の看板に書かれた「MOON」という黒い文字。これが店名だろう。
 内装も外観のそれに違わず、真っ白の壁に若葉色のツタの絵があしらってある。
 商品を置く棚は木製で、上に乗せられた貴金属が、温かな光に当てられて映える。
 なにより、ガラスケースの中等よりも、親近感を持たせてくれていた。

 ふと唯先輩の目に留まったものがあった。
 三日月型で、光に当てると表面が虹色に輝くネックレス。
 小ぶりで主張も強すぎず、控えめに、したたかに光を放っている。


 「これが欲しいんですか?」

 「うん。でもどうしようかなあ」


 唯先輩は腕を組み、身体を左右に揺らす。値札を見てみると、別段高いというほどでもない。
 控えめながら確かな輝きを持つこのネックレスは、間違いなく唯先輩に似合うだろう。
 私はちょっと目をそらしたくなった。


 「それなら私が買ってあげますよ」

 「えっ」

 「お金なら多く持ってきてるので心配ありません」

 「なんだか悪いような……」

 「これのお返しです」


 左手首を揺らす。ちりんと、鈴が申し訳なさそうに鳴った。


 「だってそれ百円だよ?」

 「先輩がそれ言っちゃいますか」

 「あっ、あっ、でも買ってくれるなら嬉しいかな~って……?」


 慌てた様子の先輩を尻目に、ネックレスをお会計に持っていく。
 背中に受ける感謝の言葉が層を成し、いくつも重なっていった。
 振り返り、ネックレスの入った小袋を渡してからもそれは止まらない。
 先輩は私と目を合わせようとする。私はつい、目を逸らす。
 視線をずらしたまま、どういたしましてと言うぐらいしかできない。


 …………


『先輩はまっすぐだ。どこまでもまっすぐで、それが美しくもある。
 対してわたしはどうだろう。わたしはどこまでも捻り曲がっているんじゃないか。
 素直という言葉が限りなく遠いわたし。まるで正反対。
 どうしてわたしはこの人の近くにいることが出来ているんだろう。
 どうしてこの人は私を近くに置いてくれているんだろう』


 …………


 ■Chapter03‐海の見える部屋


 「こちらでございます」


 そう言って案内された先の部屋が、私たちの寝泊りする部屋だった。
 古民家のような趣きのある部屋で、畳の香りが心地よい。
 窓を開けると、白い飛沫をあげてうねる海が望める。


 「お夕飯はいつお持ちしましょうか?」


 仲居さんが尋ねる。


 「唯先輩、何時ぐらいがいいですか」

 「私はいつでもご飯一杯食べれるよ!」

 「そういうことを言ってるんじゃありません」

 「え~……じゃあ八時ぐらいで!」

 「はい、かしこまりました」


 くすりと笑みをこぼすと、仲居さんは静かに部屋を辞した。
 悪い気持ちのしない笑みだったけれど、恥ずかしいものは恥ずかしい。

 初めに出掛けた場所は、海の近くに立地した水族館だ。
 白いアーチをくぐり、建物の中に入りこむと、そこはもう地上から隔離された水の世界だった。

 ガラスに隔てられた向こうの空間を、魚たちが自由に舞う。
 エリア毎に世界が切り替わり、新しい統一された空間が姿を現した。
 周辺の港近くににいる生き物、温かい海に住まう生き物、極寒の海を泳ぐ生き物。
 そのどれもが力強く私たちの前を横切っていく。

 唯先輩はそんな魚たちの姿を見るたびに子供のようにはしゃぎ、私の肩を叩いてくる。
 私も私で、彼らに釘づけになっているわけだから、先輩のことはあまり言えない。

 特段、深海に生きる生物たちには目を奪われた。
 生きる知恵を身につけた故の異形の者たちは、私の日常世界から切り離された場所にあって、
 それだからこそ強く私たちを惹きつけているようだった。

 先輩はこの不思議な生物たちを見て、どのように思うのだろう。
 気になって、先輩の方へ顔を向ける。腕が揺れた。


 …………


『そんなに見て、どうしたいの?』


 …………


 それはあまりにも唐突に、しかしはっきりと聞こえた。


『私は先輩のなにになりたいの?』


 また聞こえた。耳のうずまきをぐるぐるめぐり、頭の中を響く。
 声だ。それは唯先輩の声ではなく、しかし唯先輩の方から聞こえている。
 周りの人は誰も声に気づいていない。


『<わたし>はこんななのに、先輩のどこを見て、どうしていきたいと思っているの?』


 声は私を咎める――まずあなたは誰だ。<わたし>とは、誰だ。


『本当に? 気づいていないの?』


 私はあなたを知っている。それはもうわかっているはず。
 <わたし>と名乗る者は、そう語った。わからない。私が知っていることに、こんな怪奇現象はない。
 だから質問を繰り返す。あなたは誰なのか。

 はっとした。血が凍り付いたようだった。悪寒がぞわぞわと身体中を巡る。
 わかりきっていた。私にはこの<声>が誰なのか。

 私は声を出していないのだから。

 首を大きく何度も振る。身体中に走る痺れを振り払う。
 だって声を出せずに質問できる相手なんて、そんなの限られてくるじゃないか。
 以心伝心とかじゃない。もっと冷たくて、突き刺すように痛くて、でも愛さなくちゃいけないもの。


『あなたは私。<わたし>はあなた。<わたし>は私』


 耳を塞ぐ。無駄だってわかってる。
 あなたは私が声を出さなくても、私の声が届く。
 それならあなたが私に語りかけるためにも、声なんて実はいらない。
 この耳に触る感触も、全部は嘘っぱち。
 どれだけ遠くのものも射抜ける矢があっても、あなたには勝てないだろう。

 でも。それでも。私はあなたは遠ざけたい。
 だってそうでしょう。

 不意に肩をつつかれる。
 隣で、エイが悠々と泳ぐ水槽を見ていた唯先輩が、私を心配そうに見つめる。
 強張っていた顔を緩めて、先輩の方を見やる。

 ――絶句した。どうしてそこにいるんだ。

 唯先輩の背中側、決して唯先輩には見えない位置に――、<わたし>は立っていた。
 他の誰にも視認することはできない。私だけが<わたし>を確かに見ていた。
 胸が張り詰める。心拍数がどこまでも上昇する。身体を流れる血はどこまでも熱く煮えたぎる。

 消えろ。どっかに行け。

 心の中で幾度もそう唱え、一方で先輩には平然を装う。
 自分でも可笑しくなるぐらいの作り笑顔は、かえって先輩を心配させてしまったようだ。


 「あずにゃんって、本当はお魚嫌い?」

 「えっ、いや……そんなことは……」

 「良かった。さっきからあずにゃん、怖い顔してるからさ~……」

 「……ごめんなさい、心配かけちゃって。全然大丈夫ですから」


 今度はまがい物ではない、本当の笑顔を見せる。


 「……うん。あずにゃんみたいな子には、笑顔が一番だね」

 「なに言ってるんですか……」

 「あずにゃんは超可愛いってこと!」

 「恥ずかしいです、やめてください」


 ぷいと顔を背ける。横目に<わたし>が見えている。
 黒い影のようなもやもやしたものが、相変わらずそこに立っていた。
 エイのお腹側みたいな笑みを見せるのでもなく、不気味に無表情に。

 ――影の中に表情なんて見えないはずなのに。

 ただ、私にはそう感じられた。
 腕に巻き付けられた鈴がちりんと寂しげな音を鳴らす。


 ■Chapter04‐夜の対談


 海の近くに位置する旅館とだけあって、
 夜は豊富な海の幸が食卓を彩っていた。
 私たちはそれをぺろりと平らげ、早くも就寝の準備に入っている。
 お風呂は食事の前に済ませていた。

 時刻は二十二時を回ったころ。

 先輩の首筋から三日月が外される。
 それを見て、私も自分の腕から鈴を外して枕元に置く。
 先輩は名残惜しそうに私の布団を見てから、自分の布団に入っていった。


 「もう一日が終わっちゃったね」


 仰向けで顔だけを出し、私に語りかける。


 「私ね、本当はあずにゃん、誘って来ないんじゃないかって思ってたんだ」

 「私がですか?」

 「あずにゃんってあんまりこういうの好きそうじゃなさそうっていうか……。
  とにかく、私と一緒にここに来てくれて、本当に嬉しいの」


 ずきん。胸の膨らみの間が痛む。


 「……確かに知らない土地とかは苦手です。でも嫌いじゃないです」

 「そっか……」


 先輩は布団から片手だけを出し、天井に向けて持ち上げた。
 横目でその手の甲を見つめる。形が整っていて、吸い込まれそうな肌。
 私のただ細い身体とは違う、温かみのあるカタチ。


 「あずにゃん」

 「は、はい?」


 急に呼ばれたので声が上ずる。
 先輩はこちらに身体を向けて、言葉を続ける。


 「あずにゃんは<自分>について、なにか考えたことある?」


 唐突に現れた<自分>という言葉が、私に重くのしかかった。
 唯先輩。どうしてこのタイミングで、そんな質問をしてしまうんですか。


 「私ね、最近<自分>について色々考えてるんだ」

 「大学に進学するんですからね」

 「ううん、それだけじゃないんだよ」

 「他になにがあるっていうんですか?」

 「勉強とかじゃない……もっと<自分>に近くて、でもなかなか触れられないの……」


 わけがわからなかった。
 明日は早い。今日も疲れてしまったので、どうせなら早く眠りたかった。
 枕元に転がる鈴に右手が触れる。


『私はどう思ってるの?』


 声が聞こえた。途端に息が詰まる。先輩の背後に立つ黒い影。


『私は私のことどう思ってるの?』


 私はあなたに質問される筋合いはない。
 そもそもあなたの言う私とは、誰のことなのか。


『わからないのなら、わからせてあげようか?』


 そう言うと、影は先輩の背中から、身体の中へするりと入り込んだ。
 先輩は一瞬身体を震えさせると、一切の力が失せてしまったように項垂れた。
 むくりと立ち上がる。首だけでなく、腕もぶら下がっていた。


 「先輩……?」


 わかっていた。いま私の目の前に立っているのが、
 先輩であって先輩ではない、ということは、十分にわかっていた。
 あなたは<わたし>を名乗る者だ。


 「『私は私のことどう思ってるの?』」


 先輩の声で。身体で。<わたし>は私に問いかける。


 「私がどう思っているのか……?」


 そんなの。まるで素直じゃない。意地っ張りだ。
 生意気だ。馬鹿のつくほど真面目だ。
 でもついつい誰かに引っ張られて、釣られて。
 それを心地よいと感じてるのだから、質が悪い。


 「でも」


 心地よいのは私だけ。結局一緒にいる人は、そうは思っていないんだ。
 輪を乱す。ぐるぐるぐるぐるかき混ぜて、全部を台無しにする。
 先輩は笑ってくれているけど、先輩を見ていると、
 私なんか近くにいない方がもっと笑顔になれるって、よくわかる。


 「『どうして』」

 「なにが」

 「『私の話をしてと言ったのに。どうして<わたし>の話をしているの?』」

 「は……?」


 怪訝そうにしていると、先輩、ではなくて<わたし>は、
 枕元に置いてある三日月のネックレスに視線を移した。
 影から表情は読み取れない。
 しかし私は影から目を逸らしたくなった。

 似ても似つかない。

 <わたし>はそう言っただろうか。
 三日月のネックレスを見て、そう言ったのだろうか。


 「……そろそろ消えて。勝手に唯先輩の身体を借りないで!」


 苛立ちが募ってきたことを隠そうともしない私の語調に、
 <わたし>は一つも怯まない。
 その顔は惨めなものを見るように歪み、下卑た笑みを浮かべていた。


 「『借りてるのは、どっち?』」


 言葉を失った。なにが言いたい。それでは、まるで……。


 「『こう言ってほしいの?』」


 <わたし>に乗り移られた唯先輩の口が動く。

 ――だいっきらい。

 言葉を失う。何故その口で、姿で、声で、その言葉を吐くのか。
 頭の中が真っ白になっている私に満足したのか、影は先輩の背中からするりと抜け出した。
 そのまま夜の闇の中へと消えていく。

 先輩は倒れこみ、布団の上に横たわった。
 しばらく呆然としてから私は立ち上がり、先輩の掛け布団を上からかけなおす。
 自分の布団に戻った後も、先程の<わたし>の言葉は頭の中をぐちゃぐちゃに引っ掻きまわしていた。
 しかしどう片づけることも出来ず、私は一度その問題を頭の隅に追いやり、隔離することにした。

 私は<わたし>で私なら、明日もきっと否応なく出会う。
 その時に全て問いただせばいい。私はそういうことにした。



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最終更新:2014年05月14日 23:05