♪‐01
わたしの名前は
秋山澪。今年晴れて二年生となった、悩み多き女の子。
悩んで悩んで、あまりにも悩みすぎるもんだから、たまに自分を見失いそうになる。
よくいるよね、そんな女の子だって。
でもそんな時は、歌詞に自分の想いを乗せるといい――そう思って走らせるシャープペンシル。
驚くほどスムーズに、歌詞が形作られてくる。いい、とてもいいぞ、その調子だ。
「なにしてるの?」
「ぴゃあっ!」
背後から声をかけられて、間抜けな叫びをあげる。
たった今まで、頭に浮かんでいた言葉たちは、一瞬のうちに霧散していく。
「な、なんだ和か」
「邪魔しちゃったかしら」
「そんなことは無いけど……」
それよりも、勢い余って、歌詞を書いていた紙が吹き飛ばしてしまい、
近くに見当たらないことが気になる。どこにいったのだろう。
あれを他人に見られたら、恥ずかしくて、舌を噛み切る自信がある。
「ところでそこに落ちているの、澪のよね?」
右斜め前の机の下。指差した先にあるのは、例の紙と――誰かの手。
自然な動きで、その手は紙をつまみ上げた。
「これ、和ちゃんの?」
その机の持ち主だ。和とは違う、ふちなしの眼鏡と、カチューシャをした彼女は、
面白そうに紙をぺらぺらと揺らしている。和は肩を竦めた。
「書いてあることを読み上げれば、自然とわかるんじゃない?」
「待って」
「そうだね、じゃあ早速」
「頼むから待ってくれ!」
♪‐02
舌を噛み切るまでもなく、精神的に死にかけたわたしは、足をひきずるようにして部室に入った。
「とおっ!」
「うお!?」
突然、わたしの胸になにかがぶつかってくる。
よく見れば栗色をして、甘い香りのする、柔らかくてふわふわした――唯だった。
「おお、澪ちゃんでしたかー」
「な、なんなんなんだ、いきなり!」
不意に転がり込んできた出来事に混乱し、上手く言葉をまとめられない。
なんで唯はわたしに抱き付いてきてるんだろう、その役目は梓のはずなのに。
「おーい、そろそろ離してやれー」
「これはこれで普段見れない光景ね……」
「冷静に分析すな」
律とムギは椅子に座ったまま、観客然としてわたしたちのことを眺めている。
「これはどういうことなんだ、律!」
「おいおい、いきなりわたしのせいかよ」
「じゃあ、誰のせいだっていうんだ」
律は指先をくるりと回して、
「わたしだよ」
「言わんこっちゃないじゃないか!」
正面から唯に抱き付かれながら、律に猛抗議していると、背後で呆れを含めた声が聞こえてきた。
「なにやってるんですか……」
振り返ると、梓がわたしと唯を交互に見て、ため息をついていた。
明らかにわたしも、呆れられた数に入れられている。
「待て、誤解だ梓。わたしは巻き込まれた側なんだ」
「せめてその緩みきった顔をなんとかしてから、言ってください」
厳しい言葉でわたしを一蹴すると、梓は横をさっと通り抜けていった。
そんなに緩んでるのかな。鏡が欲しくなった。
♪‐03
鞄から手のひらに乗る正方形の、コンパクトサイズの鏡を取り出し、
いつの間にか定位置となっている、自分の席に座る。
そこで自分の顔と正対すると、まだ微かに、緩んだ表情筋の名残が見て取れた。
律が咳払いをする。手を顔の前で組み、深刻そうな表情を浮かべた。
「ところで、諸君。今日は月曜日。つまり、期末テスト一週間前になるわけだが……」
大体の内容は察してしまった。
「手伝わないぞ」
「くっ、裏切り者が!」
一体なにを裏切ったんだ、わたしは。
「りっちゃん、わたしならいつでもウェルカムだよ?」
律は目を丸くし、ぽかんとしてしまう。そのことがさぞかしショックだったのか、唯は腕をぶんぶん振り回し、
「その反応はひどいよ、りっちゃん! 一緒に勉強しようって言ってるのに!」
「いや、今の話で唯先輩を誘ってもメリットはないでしょう……」
今度は梓からの攻撃だ。唯は、梓に視線を移した。
「あずにゃん、わたしだって頑張れば凄いんだよ?」
「それでも今の先輩に勉強は教えられないですし」
「あうー……あ、そうだ。澪ちゃん、去年みたく、わたしに勉強教えてよ~」
「いまさっき、律に“手伝わない”って言ったばかりだろ……」
「駄目……?」
唯は目を潤し、わたしを見つめてくる。
純粋で、穢れを知らないようなその目に、わたしの顔が鏡のように映り込む。
「……ま、まあ少しぐらいなら」
「はあ!?」
海岸に作られた砂の防壁のように容易く、わたしの決心は唯にさらわれてしまった。
代わりに律が素っ頓狂な声を出し、間髪入れず不服を訴えた。
「おま、おい澪、それはひどいんじゃないかー?」
「だけど、唯はこう言っているし……」
「わたしのことはどうなるんだ!」
「二人とも、それならこうしましょう」
ムギが身体の前でぱんっと手を合わせた。
「わたしがりっちゃんの、澪ちゃんが唯ちゃんの勉強を見てあげるの。それなら平等でしょ?」
なるほど。わたしを含め三人が異口同音に納得だった。
「あの、それだったら四人集まって勉強してもいいんじゃ」
「それはいいな。よし、勝負だ唯、澪!」
「臨むところだよ、りっちゃん!」
「どうして勝負する方向に持っていくかな、この先輩たちは!」
梓は呆れを含めた叫びを上げながら、ちらりとこちらを見やった。
わかっている。梓には、全くの事故だったけれど、知られてしまったんだ。
でもわたしは、唯の純粋な心と正対するために、清く純粋な心をもって唯に勉強を教える。
他のみんなが出て行った後、そのことを梓に伝えると、
「別に澪先輩のこと信用してないわけじゃないです。けど、なんといいますか……」
梓は言いにくそうに、口をもごもごさせている。
「いいんだ、なんでも言ってよ」
「……澪先輩って、正直チョロいですよね」
「はっ!?」
なんでも言ってとはいったけれど、オブラートの一つにも包んでくれないなんて。
これが梓だと言われれば、それまでなのかもしれない。そう思って、涙を堪えるんだ。
「でも澪先輩、こういうことはあまり続けて起こさない方がいいと思いますよ」
「そうだな。気を付けるよ」
「とか言ってる間に、顔が緩んでますよ」
「えっ!?」
「冗談です。それじゃ、帰りましょうか」
そう、涙を堪えるんだ、わたし。
♪‐04
早速今日から唯の部屋で、二人きりの勉強会を開くこととなった。
憂ちゃんの用意してくれたお茶とお菓子、そしてテキストやノートをテーブルの上に並べる。
「澪ちゃん、よろしくお願いします!」
「まずは何から教えようか」
「んーとねえ……じゃあ英語からで」
英語か。今回の英語のテストは、わたしのクラスを担当する先生が作成するという噂だ。
学生たちは勉強に精を入れる前に、よくこういったテストの解法を考える。
それが世渡り上手になる秘訣だと、誰かが言っていた。
確か、わたしの親だ。なんてことをぶっちゃけてくれてるんだ、ママ。
「今回のテストは萩山先生が作るっていうから、まずはこのプリント」
「萩山先生って、澪ちゃんのクラスを担当してる?」
「そう。一部、厳しいから嫌っていう人もいるけど、いい先生だよ」
それはさておき。
「あの先生は教科書の範囲は当然として、そこから発展させた問題を出してくる。
ただその発展のさせ方が、授業中に配るプリントと類似しているんだ」
「ほうほう」
「と、いうわけで。唯には基礎も教えつつ、このプリントも参考に教えようかと思う」
「おー! 至れり尽くせりだね!」
「律はさておき、相手はムギだからな」
しかし唯のことだ、いきなり発展させた問題を見せても意味がない。
教科書の範囲の基礎事項をどれだけ理解させることができるか、それにかかっているだろう。
結果だけいえば、それは成功に終わった。
唯も一通りの基礎を身につけ、発展問題へのアプローチ法も理解し、それを物にした。
ただ一つだけ、問題が起こってしまう。
「澪ちゃん……今、何時……?」
「……七時」
夜ではない。朝である。
お風呂も晩御飯も寝床も、全て用意させてしまった。
寝ずに勉強、という体育会系なことはしていないけれど、それにしたって。
「やりすぎたな」
「うん」
次からは目標設定を少し甘めにしよう。
♪‐05
早寝早起きは徹底していたため、その日の学校生活に影響が出ることはなかった。
一方で律は、ムギの家に招かれていたのだろうか、
「もう一生試験一週間前でいいわー……」
などと言っていた。それ無限ループ入ってるぞ。
一方でムギも今日一日心を弾ませていたので、勉強といっても、
楽しい雰囲気でやっていたのかもしれない。
となると、さすがに唯が可哀想だ。
ただ梓にあのように宣言した手前、油断することは許されていない。
心を鬼にするんだ、秋山澪。
今日はわたしの家に招き入れ、勉強会を開くことになった。
ママとパパが自分の娘を差し置いて、唯を自分の娘のように可愛がる様子は、
なんというか仲間に入れてほしい気持ちになってしまう。
勿論、唯を愛でる側の仲間に、ということだ。
今日は古文を教えることになった。英語よりはやることが少ない。
なんとか今晩中に終わりそうだと、わたしは胸を撫で下ろした。
唯が、わたしの作成した重要単語リストに目を通していると、不意に、
「忍ぶ――昔の人は、好きな人に会いに行くのも大変だったんだね」
「……そうだな」
心の中で、そっと呟く。
唯。それは今の時代でも、同じようなものかもしれないよ。
耐え忍ぶ恋なんて、気づかないだけで、ありふれてるかもしれないじゃないか。
――なにをやってるんだ、わたしは。
今はそういった想いに、取り憑かれるときじゃない。
わたしは左右に首を強く振り、悶々と頭を上っていく熱を払った。
今日の勉強は夜のうちに終わり、唯は晩御飯をうちでとった。
「唯ちゃん、遠慮しないでね。いつもうちの澪がお世話になってるんだから」
「いえいえ、わたしも澪ちゃんには頼りきりでして~」
驚異的な速さで我が家の食卓に溶け込む唯。
そのコミュニケーション能力、半分とは言わない、四分の一でいいから分けてくれないか。
まるで自然に過ぎた晩御飯の時間、唯はお皿の片づけを手伝っている。
唯とママの背中を、わたしは居間に座りながらぼうっと眺めていた。
ママは癖のない真っ直ぐな、濡れ羽色の艶やかな髪が自慢だ。
その自慢の髪を伸ばし、唯と仲良く話しながら左右に揺らす。
わたしも手伝えば良かったと、いま深く後悔した。
「どうしたんだ、澪」
テレビのチャンネルを報道番組に切り替えたパパが、不思議そうにわたしを見ている。
「ううん、なんでもない」
「そうか」
「ところで、さっきの番組、わたし見てたんだけど」
「そうか」
パパは腕を組み、政治関連のニュースを食い入るように見ている。
政治なんて、見ててもムシャクシャするだけなのに。
わたしの声など、パパにはまるで届かないようだ。
唯は予め覚悟していたからだろうか、
家から持ってきたパジャマを、どや顔を浮かべつつ取り出した。
胸の部分には文字が書いてある。“へるぷ!”。そんなに助けてほしかったのか。
「風呂は先に入っていいからな」
「ありがと~。あ、一緒に入ってもいいんだよ?」
たまらず吹き出す。
「ば、バカ! そんなスペース、あるわけないだろ!」
「そうなの?」
「どっかの大きなお風呂ならまだしも……しかも両親がいるだろ、恥ずかしすぎる……」
唯はそれでも頭の上に疑問符を浮かべながら、お風呂に入っていった。
別にわたしも、一緒に入るのが嫌なわけじゃない。
唯の吸い付くような、きめ細やかな肌を、大切に洗ってやりたいと思う。
だけれど、今それを叶えてしまうのは、違うんじゃないか。
最終更新:2014年06月23日 07:38