「あっ」と梓は冷たいパンプキンスープを一口分スプーンで口に運んでいる途中に漏らした。
それはまるで黒歴史をふとした瞬間に思い出して、真夜中に布団にくるまって悶える時の雰囲気をまとった「あっ」だった。
一体どうしたんだよ、と私はひきちぎったパンを口の中に放り投げる手を寸でのところで止めて尋ねる。
パンプキンスープは昨日梓が作った夜の残り物で、温めるのもなんだし風流に冷たいまま飲むことにしたものだ。
後ろめたいことが何かあるのだろうか、梓は黙ったまま、口まで上げていたスプーンを皿に戻す、私はそれを無言で見ていた。
「訊こうと思ってすっかり忘れていたことを思い出した……、律は、聞いていないの?」
えぇと……、内容を察することもできないその話の切り出し方に私は困惑した。
部屋の中にはアナログ時計のカチカチと時間を刻む音、そしてつけっぱなしのテレビからタレントの乾いた笑声が聴こえていた。
おいおい、梓、それじゃ何が言いたいのかわからないよ、なんだよ、気になるじゃないか、さっさと言ってくれ。
梓はなにやら言うのかどうかを決めかねているらしかった、とても気まずそうにスプーンでスープを掬っては垂らしを繰り返す。
髪に入れた櫛が降りていくように、トロリとクリーム色が滴っているその様子を私は不安げに見つめていた。
「律が本人から聴かされていないということは、何かわけがあるのかもしれない、私が言っていいのか、躊躇うよ」気後れしたように梓は言うけど、そもそも何のことを言っているのか私はまだわかっていなかった、本人って誰だ?
梓は一人でうーん、とか、いや、でも、言っちゃっていいのか、でも、訊こうと思ってたし、などと
繰り返しては私をさらにモヤモヤとさせたるからもう付き合いきれなくて、私はパンを口に放り投げた。
さっきまでやっていた番組が終わったのか、テレビから聞こえてくるのはいつの間にやらばかりになっている。
軽音部として高校で音楽を続けていなかったら、どうなっていたのだろう、と聞こえてくるCMのイメージソングを聴きながら思う。
休日の朝にこんな形で唯の唄声を聴くとはな、不思議な思いで冷たいパンプキンスープを一口分掬って飲んだ。
濃いパンプキンの風味が口いっぱいに広がっていく、梓が作るパンプキンスープが最近の私のお気に入りだった。
うなっていた梓はいつの間にか私の方をずっと見つめていた、その視線に気づくと、梓は「あのさ」とおずおずと言った。
「さっきの話だけど、律はなにも訊かされていないのかもしれないけど、それはかわいそうだから言うね」
あぁ、そうなの、教えてくれるん?憐れみがあっても今ならオッケーよ?で、何?それってさ、もしかして私以外はみんな知ってるわけ?ムギも唯も、澪も。
「知っていると……思う。というか、私は自分が知らされたのが一番最後なんだと思っていたから」
梓が仲間外れというわけではないけれど、私たちの中での公式な連絡はいつも梓に伝えるのは最後になっていたからそう考えるのも最もだった、でも、梓はほら、違う情報伝達の経路もってるじゃんか。
「凄く……申し訳ないけど、今?って思って、私はちょっとそれを聞いてから戸惑ってるんだよね」
なになに?どういうこと?私の物言いは少しとげがあるものになってしまっただろうか、梓の表情が少しこわばった。
「せっかくあんなにシンガーソングライターとしてもアーティストとしても絶好調なのに、どうして、って、……思ちゃうんだけど」
内容そのものを言っていないのに、まだ何も私は把握できていないのに、得体の知れない焦燥が私の胸にあふれ始めていた、一体どっちのことだ。
それはまるでダーツに似ていた。始めは勝手がわからずにシングルばかりに突き刺さる。
でも、慣れてくるとだんだんと思い通りに狙えるようになってきて、ついには、矢は的の中心、ダブルブルへ。
たまらずに、スープを一口分啜った。ああ、うまい、大丈夫、スープがうまい、私は落ち着いている。
何だよ、もったいぶらずに……ささっと言っちゃいなよ……、オチャラケた動作をしながらそう言ったけど、
ネチャネチャとスープが絡みついたみたいで、梓は少しだけ神経質そうに口もとをひきつらせた。
「私が報告することでもないと思うんだけど……」そう言って梓は目線を私に向けて来た。
「引退するらしいよ、澪先輩」
つ、、、、つまらないこと言うなよ。「つまらないことじゃないでしょ」
そんな冗談言うなんて梓らしくないぞ?「冗談じゃないって」梓が少しだけ語尾を強めた、そのことがもっともらしいことをさらにもっともらしくする。
手のひらがジットリと汗で湿っていた、私らしくない、こんなことで動揺するなんて私らしくない。
え?動揺なにそれ、誰が動揺してるって?え、……私?
「突然そんなこと言われてもって顔してるね」梓が私の顔色を伺いながらそう言った。
いや、別にそんな、そんなことないんだけど、ええと、あれ?いんたい?引退って言った?「引退って言いました」誰が?「澪先輩が」
なんてこった……、私はパンプキンスープ臭い溜息を一つ漏らしてそう呟いた。
次の番組が始まったのか、また違った笑い声が部屋の遠くから聞こえてきて、私は自分が笑われたのかと思ってそっちに目をやる。
二人羽織をした芸人2人がテレビの中で笑われていた、奇形のようなずんぐりとした身体からニョキっとでた細長い右手がそばを持ち
近づいては遠ざかるそばを食べようと顔を必死で突き出す、左手に持ったそばつゆは顔がグラグラと激しくそばを追うたびにスタジオの床を汚していた、
てか、そば食べてんの唯じゃん……、そば顔に塗りたくられてるの、唯じゃん……あいつ新曲出さないでなにしてんだよ。
ぬめりのようなものを喉元に感じて、それはさっき食べたパンプキンスープだと思い込むのに必死だった。
「大丈夫?」と梓が聞いていた、それに私はどう答えればよいのやら、
「あとあれは映画の主題歌のタイアップ決まって仕方なく出てるだけだからね」なにも言ってないのに言ってくる。
「ねぇ」と梓がまた聞いてくるもんだから、まぁ私らも若くないしな、引退したってそりゃ大丈夫なんじゃない?
答えになっていない応えをする、もちろん梓は不快を顔に出していた、
「そういうことじゃなくって、律は大丈夫なの?って聞いてるんだよ」
のんびりと、私は小中高、そして大学生活を澪とともに過ごしてきた、本当にのんびりと春夏秋冬桜水着お月見マフラー楽しい時悲しいとき
病める時苦しい時、本当にのんびりと
澪に対するこの気持ちが端から見たら友達以上のものだなんて、これっぽっちも気づかないでそばにいた。
はみだしたものを、通常からははみだしたものを人は自覚したとき一体どうすればいいのだろうか、私は一体どうすればよかったのだろうか。
まさか、焼きたてのトーストの上にまんべんなく塗りたくった余分なジャムをスプーンでまたジャムの瓶に戻すように摺り切ることなんてできないし、そのまま旨い旨いと食べられるなら別にそれでいいじゃないか、端から見たらおかしくてもそれでいいじゃないか。
ひゅーと口から息が漏れた。前を向くと梓が私を見ていた。
なんで澪、私に引退すること言ってくれなかったんだろう、チョーショック、私はいつものようにおどけて言った、
乾いた笑いが部屋を満たす、テレビで観客の歓声が沸いた。
「2人はやっぱり付き合ってたの?」そんなことをまた梓は聞いていた。
もう何回もそれ言ったじゃんか、そういう気持ちは無いってば「いや、でも」でももいやも何もないんだって。
変なこともう聞いてこないでほしいって言ったよね?「変なことじゃないよ……」
変なことだよ、私が澪と付き合うなんておかしなことだろ。
「そんなこと言うなら、私たちもおかしいの?」
梓が怒りをこらえた口調でそう言ってきてハッとした、2人の沈黙にCMが流れ出す、
こんな時でもやっぱり澪の唄声は心に響いた。
放課後ティータイムは素晴らしかった、いや、正確に言うと素晴らしかったのは放課後ティータイムその物じゃない、
放課後ティータイムは
平沢唯、そして
秋山澪というアーティストの孵卵器としてはとても素晴らしかった、という意味だ。
私たちが大学3年生、そして梓が2年生の7月、放課後ティータイムのリーダーである私にメールが届いた、
メジャーデビューを目指して様々な方面にがむしゃらに働きかけていた私たち5人にとってそれは良くも悪くもある報せだった。
まぁ、簡潔に言うとそれは放課後ティータイムのデビューのお知らせなどでは決してなく、
「平沢唯」「秋山澪」の両者に対してのソロデビューの報せだったのである。
私はまずこのことを2人に知らせるかどうか悩んだ、最低な考えだけどちょっと許せなかったんだ、
2人のデビューが、それはないだろ神様、と心からこの世の中の不平等さを呪ったんだ。
澪と唯、2人だけがアーティストとして評価された、この事実は私を傷つけた、2人のデビューを私は友達として心から悦んだ、
でも、放課後ティータイムのリーダーとしては。
切り捨てられるのが私だけならまだいい、でもムギと梓の2人も切り捨てられる側に含まれている、ともに青春時代をすごし、
大学生活の大半を捧げてきたバンド活動……、それがこんな形で切り分けられるだなんて私は思ってもいなかった。
無神経な言動が私のウリだけど、このメールに関しては私は1人で約2週間ほど悩み通した、
このことをみんなに告げるのかどうか、告げるとしてもいつ告げるのかどうか、
何度メールをこのまま削除して闇に葬ってしまおうかと思ったわからない、
自分の中の嫉妬と暗闇に吐き気がした。
女々しくウジウジとしていた私に最初に気づいたのは梓だった、
その頃私は梓といくつか取っていた授業が被っていて、ほぼ毎日と言ってもいいくらいお互いの姿を見ていたからだろう、
さほど面白くもない授業という名の暇つぶしが終わって気晴らしにドラムでも叩くか、
どうせ次のアキコマに他のやつらはサークル室にこないだろうし、と思っていたら梓が話かけてきた。
あの日、もしも梓が私を心配して声をかけてくれなかったらおそらく「平沢唯」「秋山澪」という人間は
日本の音楽業界の表舞台に登場せず、私という人間の愚かな嫉妬と浅はかな平等主義にかき消された存在になり
人々を音楽とその歌声で感動させることもなかったんだろうな、と思うとゾッとする。
モカコーヒーにミルクを注ぎながら「どうしたんですか?最近元気ないですけど」と梓は話を始めた、
大学近くの喫茶店の中はクーラーが28℃設定でとてもエコだ、
そのおかげで学生はその付近のクーラーが効きまくったジャンクフード店に流れるため、
その喫茶店に大学生の知り合いがきて鉢合わせすることは
放課後ティータイムが5人全員でデビューする可能性くらい皆無だった。
私は最初は話をはぐらかし、
いや、再試がさ、とかあのレポートが大変で、とかもっともらしいこと言ってその場を切り上げようとした、
実際私は澪唯デビューメール問題に心を奪われまくりで、本当に再試にひっかりそうなくらい勉強が手についていなかったし、
その3日後に提出のレポートの参考資料も集めていなくてまだ表紙しか打っていない状態だった。
「やっぱ律先輩は大学生になっても変わらないですねぇ……」
そう、諦めにも似たような言葉を吐きながら梓は
「それで?そんな風にごまかして何を悩んでいるんですか?」と率直に聞いてきた。
澪ほどに私を知りもしないのに梓はたまにこうやって私の心を読んでくる、
いや、澪以上に私のなにかを正確に見出してくる、私のダブルブルは梓にとってそんなに楽勝なんだろうか。
いや、別にそんな、ごまかしたわけじゃないんだけどさ……、
私はポツリポツリと例のメールが届いたこと、メールの内容のこと、
そのメールについて私がどうしようとしたのかを素直に話した。
梓は私を罵倒するでもなく、驚くでもなく、ただたまに呆れたような溜息と2人のデビューの話に感歎の声を挙げた。
私がこのことを2週間も1人で悩み続けたのは、
最初はただ単にどうやって告げるかそもそも告げるのかというリーダーとしての悩みが大半だったけど、
日数が経つにつれて私がこんな風に悩んだりメールのことを隠し続けたことをみんながどう思うのかが怖くなった、
ということが大きかった。
唯は怒るだろうか、澪は私を罵倒するだろうか、ムギは私に紅茶を淹れてくれなくなるのだろうか、
様々な想像が膨らんではそんなことあるわけないと萎んでいった。
梓は……、梓は一体どんな反応をするのか、怒りそうだし、罵倒もされそうだった、
いろんな想像が膨らんでは全部実現されそうで怖かった、だって。
「えっと……それで、言わないんですか?デビューのこと」梓はどう思う?
「私は、さっさと言うべきだと思うんですけど」でもさ「でも?」唯がデビューしたら
「したら?」梓、唯と一緒に居られなくなっちゃうよ?
私がおどおどしてそう言うと、梓は目を一瞬見開いたかと思うと突然噴き出して笑い出した。
「をっぅひゃひゃひゃひゃ……!!律せんぱっ……そんなことまで気が回ったんですか……ぷっ!!!あはははははははははは」
な、おまっ、人がせっかく心配して悩んでたのに笑うなんて……!!!!
「んふふ…あははは……………ふぁー……あぁ、面白くて涙出たじゃないですか、もうっ」
梓は目元に浮かんだ涙を人差し指の背で掬い、そして私の方を向いてこう言ったんだ、
「大丈夫ですよ、あの人は元々私が一人占めしていいような人じゃないですから」
唯と澪は在学中にインディーズデビュー。
そして大学卒業とともにメジャデビューを果たした。
その頃の私の胸の中には2人に対して「頑張れ」と言う気持ちしかなかった。
ただ、頑張れ、と。ひたすらそれを願った。
平凡な私の願いなんて全く効力を持ち得なくて、
私の心配をよそに2人はアーティストとしての実績と実力を着実に積み上げていった。
街を歩けば唯と澪の唄声があちらこちらで鳴り響く。
マイクとスピーカーごしに聴いていた2人の歌声への賛美がが日本のいたるところで鳴り響く。
そういう時私はいつも5人で過ごしたあの放課後のティータイムを思い出した。
澪が正面で紅茶を啜り、唯が隣でケーキを頬ばる。
梓がムギに紅茶を手渡され、私は窓の外の入道雲を見上げていた。
あのころは私の記憶の中で、思い出したくない過去にはならなかった。
どうしてだろうと考え、梓が隣にいるからだ、と気づいたのは最近になってからだ。
唯がデビューをしたころから梓が私の家に入り浸るようになった。
ムギは大学を卒業してから親の会社に就職した。当たり前といえば当たり前の気がするけど、
私は2人のデビューを告げた時のムギのあの優しい笑顔を忘れることができない。
シャンプーの泡がスッとシャワーで流れるように、
そんな簡単に私たち放課後ティータイムの活動っていうのは他人の思惑と金の流れでどうにかこうにかできるものではない
と私は信じていた。
私は梓と同学年になった。
なんと4年生で留年である。
あれにはマジでビビった。だってあの再試受かった気満々だったから。
報告がてら実家に帰って過ごした春休み。
布団にくるまり部屋に引きこもる私に
親は「あんたらしいけどがんばりなさい。学費のことは大丈夫だから」と笑顔で言ってくれた。
あれほど親の温もりを感じたことはなかった。
あの両親の優しさ、澪のことを知っている親は私のことを不憫に思っていたのだろうか。
申し訳なさに生まれ変わろうと決意した。
涙が止まらなくて鼻水でティッシュを消費しまくった春だった。
私はその年の新歓後の打ち上げでビールを飲みまくり
急性アルコール中毒になりかけ一緒に呑んでいた梓に大変な迷惑をかけた。
梓がいなければ私はきっと死んでいた。文字通り生まれ変わる寸前だった。
唯と澪の居なくなった放課後ティータイムは存在はしているものの、
ムギも社会人入りしてお互いに予定を合わせることが難しく活動停止状態に陥り、
私は梓と新しいバンドを組むためにボーカルとベースとキーボードを探すのに必死だった。
いや、必死だった気がしているだけで実際は必死を装っていた。
梓には悪いけど、唯と澪とムギ以外のボーカルとベースとキーボードの後ろで
ドラムを叩くのなんてノーセンキューだった。
私はそういう気持ちを全部心の中に秘めていたのだけど、
急性アルコール中毒になり意識が飛びかけながらうわごとのように
「あの5人じゃないといやだいやだ」と喚いていたらしい。
つまり、梓にだだ漏れしたのだ。
梓から「律先輩らしい」とだけお小言を言われ、
そして「ベースとキーボードいなくてもやってけますよ私と律なら」と救われた。
梓伝達唯経由で伝わったのだろう澪には「このバカ律」と電話越しに言われた。
どんどん遠くに行っている澪を自分を比べてとても恥ずかしかった。
澪は卒業式の次の日に東京へ行ってしまった。
「その方が仕事がやりやすくなるから」
だなんて正論を言われてしまったら引き止める理由なんてなにもない。
むしろ引き止めることは澪の邪魔でしかない。
澪がいなることに寂しい気持ちはもちろんあった。本当に悲しかった。
自分の中にすっぽり穴が空くってこんな感じなのか?と梓に尋ねると、
「そんなこと言われてもキモイ」と言われてそれも悲しかった。
でもそれ以上に、澪は私を頼らなくてももう大丈夫なのだ、という事実の方が私はなんだか嬉しかった。
小学校からずっと今まで一緒に居られたことがむしろ奇跡で、そんな夢みたいな魔法はもう解けてしまっていた。
新幹線の駅のホーム。
ムギも梓も唯も気を効かせてくれたのか、澪と2人きりだった。
別の新幹線がホームに入るたびにゴウゴウと風が吹き抜けては止んだ。さよならをするのにふさわしい日だった。
2人でベンチに座り、新幹線を待った。
2人の間を繋ぐのは澪のイヤホンだけでとても頼りないそれは、それでも風が吹いてもお互いの耳から離れることはなかった。
右手につないだ澪の冷たい手をずっと握りしめていた。
大丈夫だよ「本当?」うん、澪なら大丈夫だ「保障がないよ」
私がずっと応援しているから、大丈夫だよ「……」CDでたらくれ買うのめんどいから「おい」
嘘嘘ちゃんと買う!!20枚くらい買う!!「それは買いすぎだろ」
あははと笑ったところで澪はなにやら昔話をしてきた。私は途中から上を向いていた。
小学生の私に話しかけてくれてありがとう、
中学生の時に男子にからかわれた私をかばってくれてありがとう、
私にベースを教えてくれてありがとう、
高校同じところに受かってくれてありがとう、
軽音楽部を立ち上げてくれてありがとう、
私をむりやり入れてくれてありがとう、
音楽を私に教えてくれてありがとう、
一緒に居てくれてありがとう、ありがとうありがとうありがとう……。
震える声と右肩に突然かかった重みに驚いて顔を下げると澪は私にしがみついて泣いていた。
なんだよ、どうしたよ、澪?と声をかける。
澪はそれでも泣きながら続ける、律、本当にありがとう、と。
私はもう自分の目にたまった涙の流れをせき止めることができなかった。
なんもだ、なんもないだろ、私と澪の仲じゃないか、
そんなありがとうとかそんな、それはお互いさまだろ、
私だって澪に感謝したいことたくさんあるんだから、
そんな言い逃げみたいなことするなよ、
澪がいたから頑張れたことたくさんあったんだ、
澪だから私がしたことたくさんあったんだ、
澪、頑張れよ、私だって頑張るからな、
澪、一人じゃないからな、いつだってつらくなったら電話とかメールとかしてきていいんだからな、
大丈夫、大丈夫、澪は大丈夫だ。
澪のいなくなったホームで私は一人、声をあげて泣いた。
悲しかったのか嬉しかったのか自分でも全く分からない感情のせいで涙があふれて止まらなかった。
ゴウゴウと、風が吹き抜けては私の弱さをかき消してくれた。
唯と澪のデビューシングルは同時期に発売で、2人は私にCDを送ってくれた。
まさか唯までも送ってくれるとは。実に律儀だ。
梓の元にも届いたその2枚のシングルを私たちは梓が私の部屋に来るたびに聞き入った。
1人で聴くには私も梓もまだ時間が必要だった。
唯がいなくなった寂しさを梓は私で埋めることにしたようだ。
そのことに別に反論はない。私だって澪のいなくなった寂しさを梓で埋めていることを自覚しつつあった。
あれはいつだっただろうか。
私と梓が社会人1年目の夏のことだ。
私は澪、梓は唯からそれぞれ連絡が少なくなって、
「あぁ、仕事楽しいんだろうな」なんて毎日言う梓と会社の帰りに待ち合わせしてバーで呑んだ時のことだ。
私はその時梓と唯の関係を初めてつっこんで聴いた。
梓は杏子のカクテルを日本酒のようにチビチビ呑んでいて、
私はたしかモスコミュールをビールのようにガバガバ呑んでいた気がする。
梓は、こちらが気を許すと何でもかんでも知りたがってちょいちょい探りを入れてくるくせに自分のことはガードが固くて、
唯とのことをあまり私に漏らしてこなかった。
私が大学生の時に唯と梓が付き合っていると知ったのもわかりやすい唯がいたからであって、
梓単品だと聴きづらいというのもあって私は唯とのことを梓に深く聴いたりはしなかった。
ただ、梓が家に来るときに機嫌がいい日と悪い日がある原因が生理などというわけではなく、
唯のことが根底にあることはしっかりわかっていた。
まさかその夜の半年後に2人が別れるなんて思ってもみなかったけど。
12月、私の家で梓と豆乳鍋会をしていた時のこと。
「あっ」と梓は私の作ったつみれを口に入れながらつぶやいた。
ん?まだ生だった?と私はアホみたいな返答をしながら豆乳のしみ込んだキャベツを咀嚼していた。
「唯と別れた」
ぶほっ!?と私は口に入れていたキャベツを梓の方まで飛ばして「もーなにしてんの!?汚い」と叩かれた。
ちょうど音楽番組の3時間生放送スペシャルを見ていて、唯の番が終わった後だったからびっくりした。
さっきまで唯のMCで笑っていた私をよそに道理で梓が鍋ばかりつついているわけだ。
「別れたけど、唯とは友達に戻ったというか。メールは別れてからもちょいちょいしてるよ」
言い終わった梓はそれ以上聞くなオーラを出していて、
ふーん、そうかまぁ、同性愛は大変だもんな、
といい加減なことを言いつつこの部屋の湿気の籠った空気をどうにかしたくてテレビのチャンネルを回そうとしたら梓に止められた。
「もう少ししたら澪先輩でるからそのままでいいよ」
あぁ…ありがとう、まぁ、録画してるから別に違うやつみてもいいんだけど。
梓がそのまま無言で鍋をつつき続けたから私はチャンネルを変えることをやめて、鍋のお代りをして澪の出番を待つことにした。
テレビ越しに視る澪はやっぱ美しかった。
テレビ越しに視る友達に見とれるっていうのもおかしな話だけど、
私は食べることも忘れて澪に見入った。
あのホームで別れて以来、澪には会っていなかった。
その頃には澪とのメールのやり取りはほとんどなかった。
新譜よかったよ、と送っても1〜3週間後、こっちがメールを送ったことを忘れたころに返事が来る。
もうきっと過ごしている時間の流れが違うんだ。
澪の唄声をこうやって他の誰かと一緒に共有して聴けるのは素晴らしいことだ。
澪の唄声が私の知らない誰かの心に響くのはいいことだ。
そうやって自分を言い聞かせるのにも、もう疲れてしまっていた。
「律は澪先輩が好きなの?」んん?
「だから、澪先輩が好きなの?」いきなりどうしたよ
「いや、だって見とれてるから」見とれてないし
「見とれてるよ」見とれてないって
澪の唄声をBGMにまさか梓とこんな会話を繰り広げるとは思ってもみなかった。
それからなんでかイライラしだして機嫌が悪くなった梓に、
雑炊食べたいからそろそろご飯入れてもいい?と聞いたところで
「好きです」と言われた。
私はそれから梓とのことを真剣に考えた。
自分の中に梓のことを好きだという気持ちがあることはたしかだけど
それが「ライク」なのか「ラブ」なのか全くわからなかった。
なにかヒントになるものはないものかと、その頃にでた唯のアルバムを聴いていると、
ある曲の中に「愛なんて幻想」という歌詞があっていたたまれなくなった。
梓は私が返事を返さずに悩んでいても相も変わらず部屋に来ては
一緒にご飯を食べたり唯や澪の曲を聴いたり、借りてきた映画を見ていたりしていた。
2月のある日、私が家に帰ると部屋が暗くて、あれ?となった。
いつもは先に帰っている梓の姿もなくてさらに、あれ?となった。
少し待ってみたけど、梓が来る気配がなくて21時ぐらいに電話をすると息絶え絶えの梓が電話に出て驚いた。
「あ、ごめん、ちょっと……風邪ひい……ちゃって家に……帰ってた」家ってどこに?いないじゃん
「え、自分の家だけど……」え?
「……え?」
私はそれからすぐに梓の家に行って、いろんなものでもうぐっちゃぐっちゃになってた梓を救急病院に連れて行った。
嘔吐下痢症というあの家の見た目そのままの病名の梓は数日入院し、
その間に私は梓の入院手続きを家族以外の他人がするめんどくささとか、
ぐっちゃぐっちゃになってた梓の家の掃除とかをして、回復して退院した梓をそのまま自分の家に連れて帰った。
そこまでしてようやく、私は自分が梓のことが好きなんだな、と思った。
まだ完全には回復していない梓にうどんを作って、それを梓と一緒に食べている時に返事をした。
「同性愛は大変なんじゃないの?」と言われた。
なんだこいつ根に持ちやがって。
その大変さひっくるめて一緒に居たいんだよ、梓と。
そう返すと「ふーん」と言いながらうどんを啜り、梓は泣いた。
今、すべてがとても懐かしい。
唯と澪のデビューのことで悩み、梓に笑われ、
新幹線のホームで澪とさよならし、唯と別れた梓に澪を好きなのかと疑われた揚げく告白され
うどんを啜りながら泣かれた私はまさか梓の作ったパンプキンスープを飲みながら、
梓から澪の引退報告を受けるだなんて思ってもいなかった。
私たち5人の中でそれぞれの状況が大学卒業を境に変化していったように、私と梓の関係も私の留年を境にずいぶんと変わった。
ムギからはよくなんだかよくわからないけど高そうなものが家に届く。
私も梓と共同出費をしてこちらができる最大限の送りものをムギに返している。
そういうやり取りはお互い大人同士になったことを自覚してたまに悲しくなるけど、
必ず同封して送られてくる直筆の手紙と紅茶の缶を見ると高校生のころのムギが私に微笑みかけてくれる。
いつの間にか私の生活には澪ではなくて梓がいた。そのことに気づいたら、もういろいろなことがどうでもよくなった。
もとから冷め切っているパンプキンスープを掬って口の中に流した。
その直後、午後2時から始まる昼の報道番組に私は釘づけになる。驚きすぎて声が出なかった。
梓もテレビの方を向いた。
テレビの中では澪が大量のシャッター音とライトにまみれて映っていた。
「引退の記者会見、今日なんだよ」梓は知っていたかのように言った。
澪からなにか聴いていたのだろうか。ライトを向けられても澪が顔を
歪めずに凛としていた。
その姿を見ただけで、これから語ることは本当に現実のことなのだろうという説得力が画面全体に生まれていた。
そもそも澪がこんな風に日本を巻き込んで冗談で引退だなんて口にするようなやつじゃないことくらい私はわかっている。
画面の中で「本日は皆様お忙しいところお集まりいただきまして誠にありがとうございます」と澪は語りだした。
それから何をしゃべりだすのかと思ったら、それは大体あの時新幹線のホームで聴いたことだった。
『私にはとても大切な人がいます。大好きな人です。
その人は私とずっとそばにいてくれて、私のことを思ってくれていました。
その人が頑張れと私をこの業界に送り出してくれました。
自分も頑張るから、私も頑張れと。
私はその言葉を支えに今日まで頑張ってきました。
ファンのみなさんの支えはもちろんです。
今日まで私を支えてくれた人は数えきれません。
本当に感謝しています。感謝しても感謝しきれないくらいです。
もちろんそれも私が唄を歌い続けたことの支えです。そこに嘘はありません。本当に本当です。
でも、私はもうその支えだけじゃ、ダメなんです。
活動を停止することも視野にいれましたが、もう私にはその程度のことではダメなんだということがわかりました。
その人がいないと、その人が支えてくれないと私はもう人としてダメになる。
…………本当に今日まで私を支え続けてくれたファンの皆様、関係者の方々。
申し訳ありません。私は引退します』
そこで画面はその番組のスタジオに切り替わり、
コメンテーターだかなんだかが「いやーびっくりしましたねぇ」とさも驚いた声色で言っていた。
梓は身動き一つしないでテレビを見続けていた。
私は。私は、何故だか流れてくる涙を止めることができず、でも、それでも泣いてはいけないと下を向き続けていた。
なにも掴めてはいないのに右手をギュッと握りしめていた。
大丈夫、大丈夫、澪は大丈夫だ。
涙がポタポタとパンプキンスープに落ちては溶けて、跡形もなくなった。
終わり。
最終更新:2014年08月08日 07:52