階段を三階まで登ると、音楽準備室の隣りにある屋上の扉が開いていた。

その向こうに唯の姿が見えた。


べたーっと大の字で地面に寝そべっている。


「………おい」

「………あ、りっちゃん。来てくれてありがと」

「…暑くないのか」

「今日は涼しいよ。風が気持ちいい」

「確かになー」

「うん。きもちいーよー」


確かに風が気持ちいい。
学校のどこかで練習しているのだろう、吹奏楽部の演奏が聴こえてくる。
私たちが生まれる前に流行ったらしいJ-POP。なんとなく聞き覚えのある夏の定番メロディ。7月に入った頃からこの曲をよく練習している。

曲に合わせて口笛を吹く。
歌詞は知らないけれど、何度も聴いているうちに、メロディだけ覚えてしまった。



唯の隣りまで歩いていって、腰を下ろした。
寝そべる唯の首筋に、蟻が一匹這っている。
気にならないのか、唯は目をつむったまま、平然と寝っ転がったまま。


「唯、虫」

「ん」

「首んとこ。虫」

「取って」

「え」

「取ってよ」

「はいはい…」


ちょこまかと動き回るアリンコ。狙いを定めてひょいとつまみ上げ、ぽいとほかした。


「ありがと」

「どういたしまして」









ファイオー
 ファイオーファイオー……








演奏がやんだ。
聞こえるのは蝉の声。
練習中の運動部のかけ声。
遠く、響いている。

そういえば、なんで屋上の扉が開いていたんだろう。

夏休みの学校は、いつもと違ってすごく静かだ。
いつもの、私たちが知っている場所とは全然違うところみたいで、どこか知らないところに迷いこんだ気持ちになった。


「なぁ」

「…」

「寝てんのか?」

「起きてるよ」

「…」

「…」





風が少し強く吹いて、唯の髪を揺らした。





「なぁ」

「なぁに。りっちゃん」

「なに、って…お前が呼び出したんだろーが」

「そっか。そうだったね。忘れてた」

「おいおい…」

「うそだよ」

「…」

「…」





ごうごうと音がして、空を見上げると飛行機が飛んでいた。





「飛行機だねー」

「飛行機だな」

「どこの国に行くんだろ」

「さぁ。外国とは限らんだろ」

「そっか」

「そうだよ」

「そうだね」








そのまま二人。また黙ったまんま。私も腰を下ろして壁にもたれて、ぼうっと空を見ていた。

静か。静かだ。
唯と二人。いつもかしましく騒ぐ私たちが、二人大した会話もせず、こうしていることが今まであったろうか。

澪となら、二人でいてもお互い別々のことをしていて、大した会話もない…なんてことがある。
けど、そうして黙って過ごしていたって、間が持たないなんてことはない。
それは二人で過ごした時間が長いから。無理に会話なんてしてなくても、それが自然。






唯との無言の時間。



慣れない空気のはずだけど、それでもいたたまれない、なんてことはちっともなくて、澪とほどじゃないにしろ、私たちが重ねて来た時間ってそこそこ長いのかもしんないな、って思った。


「なぁ、唯」

「なぁに、りっちゃん」

「何かあった?」

「何かって?」

「わかんねーけど。いつもと違うじゃん。今日」

「そうかな?」

「そうだよ」

「そっか」









ア・エ・
 イ・ウ・エ
        ・オ・ア・オ……









演劇部が練習を始めたのかな。


唯がむくりと起き上がって、私の方を向いた。



「りっちゃん。今日の花火大会さ」

「何」

「行くの?」

「決まってるだろ。私がみんなに声かけたんだから」

「私、行きたいところがあるんだ」

「どこ」

「海」

「え」

「海に行きたい」

「なんだよ。唐突に」

「ほら。今年、夏フェス行ったけど、海には行かなかったでしょ。だからさ。泳ぎたくなったの」

「クラゲが出るぞ」

「別にいいよ。行こうよ、海」

「わかったよ。じゃあいつ行く?後でみんな集まったときに予定を…」

「今日がいいな」

「はぁ?無理だろ。花火大会は?」

「予定変えられない?」

「変えたとしても今から海に向かったら、着く頃にはもう夜だっつーの」

「いいじゃん。夜の海。人も少ないし。私たちで独占できちゃうよぉ」

「夜の海って…危ないじゃんか」

「だいじょうぶ。そんなに沖の方まで行かないよ。波打ち際でバシャバシャやるだけでもいいんだよ。それでさ、そこから打ち上げ花火を見るの。夜の海から。ねぇ、すっごくよくない??」

「…たしかに、いーかも」

「でしょでしょ!泳ぎ疲れたら砂浜に横になってさ。花火を眺めるの。すっごいキレイだよ!きっと」


盛り上がる唯の話を聞いていたら、思い切っていっちまうかー…なんて気になっちゃいそうだけど、冷静に考えりゃ無理な話。


「いーけどさ…そんなに遅くまで海にいたら、帰れなくなっちゃうだろ」

「いーじゃん、帰れなくなっても。そのまま浜辺で寝ちゃおうよ」

「ダーメ。女二人でやることじゃない。ホントに危ないぞ。大体海は遠いんだぞ?そこからじゃ花火見えねえよ」

「そうかな。海から花火、見えないかな」

「見えねーよ」

「見えると思うけどなぁ…」


唯は納得してないみたいだけど、どうしたって今日の花火大会の会場の場所を考えれば、海から花火が見られるわけがなかった。


「…ま、海はまた別の機会に行こうぜ。みんなで、さ」

「うん…………今度。今度、ね。ぜったいだよ」

「ああ」





救急車のサイレンの音が近づいてくる。
緊急事態を知らせるその音色も、無関係な私にとっては生活音に過ぎない。
私にとっての日常も、誰かにとっては非日常なのかもしれないな、などと思った。





「プールは?」

「どっちにしてもおんなじだろ。行って帰ってくるだけで泳いでる時間ねーよ」

「そっか…だよね」



サイレンは音を変えて遠ざかっていった。



「ならさぁ…

 川沿いを下っていったところに三角州があるでしょ。
 そこまで行って水遊びしようよ。涼しいよ」

「んーまぁそれくらいなら…でも無理に今日じゃなくたって…」

「今日がいいの」


いつになく強く断言する唯に、少し押されてしまう。


「ねぇ。ダメ?」


じっと私の瞳を見つめる唯の目の下にはクマができていた。
なんだ?寝不足か?どうせ夜遅くまでTV見てたかギー太いじってたか、どっちかだろ。


「わかったよ。でも待ち合わせの時間までだぞ」

「いいよ。少しだけでいいから」

「よし。じゃあみんなに…」







「ふたりで行こうよ」






「…なんで?」

「なんでって………好きだからだよ」

「好きって何が?」

「海」

「行くのは海じゃないぞ」

「わかってるよ。それにさ、なんだかおもしろくない?
 みんなにはナイショにして、私たちふたりきりで遊びにいくの」


唯が笑う。いつもの唯だ。人懐こい笑顔。相手をしあわせにする笑顔。


「なんだよ、それ」

「いいじゃん。ちょっとよくない?ふたりだけのヒ・ミ・ツ」

「ワケわかんない」

「私も」


ふざけた調子で唯が言う。
私は笑った。唯も笑った。




「ねぇ。ダメ?」


けれど今日だけは少しだけいつもと違っていて、唯の目は真剣さを帯びているように思えた。単に目にクマがあったせいかもしれないけれど。

不意に緊張して、私は唯の瞳から目を逸らした。


「わかったわかった。じゃあ今からすぐ帰ってお昼ごはん済ませたらすぐ落ち合うか。集合時間の17時に遅れないようにしないといけないしな」

「今から行こーよ」

「そんな慌てなくてもいーだろ」

「あ、そだね」

「せっかちだなぁ唯は」

「えへへ」

「じゃあ、待ち合わせの時間と場所は…」

「りっちゃん家まで迎えにいくよ」

「いいのか?わざわざ…」

「いいよー。だってそうしないとりっちゃん、約束忘れちゃいそうだし」

「そこまでバカじゃねーよ!唯の方こそ時間に遅れるなよ」

「わかってるよぉ。じゃあ15時に迎えにいくから〜」

「ほい。それじゃまた後で」


唯は欠伸をして大きく伸びをすると、立ち上がってお尻をぱんぱんと少し払った。


「りっちゃん」

「なんだ」

「ふたりだけのヒミツだよ。約束だからね。裏切っちゃ、ダメだよ」

「わーかってるって」


唯は満足そうに微笑むと、そのまま扉の向こうに駆けていった。




「ただいまー…っておい」

「よ。おかえり。随分遅かったな」

「ん、ああ」


家に帰るともうすでにやってきていた澪が、リビングのソファーで麦茶を飲みながら、高校野球を見ていた。

両親も聡も出払った家に、悠々と我が家のように居座る澪。
時々あることとはいえ、なじみ過ぎだろ。家族かよ。…まぁそれに近い存在か。


「裏口の鍵、開けっ放しだったぞ、相変わらず不用心だよな」


だからって平然と人ん家に入ってくつろいでるのもどうかと思うけど。


「わり。聡にちゃんと言っとくわ」


家族以外では唯一澪だけが、裏口の扉のカギの隠し場所を知っている。
だから我が家に誰もいなくても、今日のように裏口が開いていなくたって、田井中家に澪一人、という状況が時々ある。


「アイス買ってきといた。冷凍庫に入ってるぞ」

「さんきゅ」


視線をTVに向けたまま、こちらを見ずに澪は言った。
冷凍庫を開けると、7本入りのガリガリ君の箱が入っていた。
私たち2人分だけじゃなくて、家族のみんなが食べられる本数を買ってくる当たりが澪の気遣いなんだろう。さっそく一本いただきます。


「アイス食べたら、さっさとCD、iPodに落とせよ」


ようやくこちらに視線を向けて言い放つ。
……すっかり忘れてた。澪に来てもらったのは正解だったかもしれない。


「…忘れてただろ」

「…覚えてたし」

「やれやれ」


ため息をつくと、再びTVに釘付けになる澪。
アイスがキーンと葉の奥に染みた。


とりあえずシャワーを浴びて汗を流した。
その後、CDをiPodに落として…アイスもう一本食べて…17時までまだ余裕あるからそのままいつものように澪の隣りに座ってダラダラ高校野球を見ていた。

高校球児にとってみれば、この夏は一生に一度の夏だろう。
私にとってのこの夏は…一生に一度の夏なんだろうか。そうなんだろうけど、去年の夏、その前の年の夏と今年の夏は、大して代わり映えしないように思えたし、きっと来年の夏だってそうそう変わらないんだろうなぁ、なんて思った。


しかし、澪が家に来てしまったのは想定外だった。
せっかくだから澪も誘って三人で…ただ、唯には『ふたりだけのヒミツ』って言われたし。
その言葉にどこまで意味があるのかわからなかったけれど、約束した以上、簡単にそれを破るのは悪いことのように思えた。





チャイムが鳴った。





「律、お客さんだぞ」

「わかってるわかってる」


しまった。
時計を見るともう15時。

玄関に置きっぱなしの健康サンダルを履いて、扉を恐る恐る開ける。そこにいたのは予想通り、唯。
遅刻魔のくせしてこんなときだけ時間ぴったり。浴衣まで着込んじゃって…背中にはギー太、右手にはなぜかキャリーバッグ。


「えへへ。エラいでしょ。ちゃんと時間ぴったりだよ」

「あ、ああ…、その、唯、悪い。ちょい玄関とこで待っててくれる?」

「なぁんだ、りっちゃん準備まだだったの?」

「いや…そのぅ……そういうわけじゃないんだけど………」

「え〜暑いよ、家入れてよぉ」

「いやそれがさ、ちょっとマズくて…」

「もしかして…行けないの?」

「行く…行くからとりあえずそこで待っててくれ…」

「りつー、どーかしたのかー」リビングの方から澪の声が聞こえた。
それまでいつものようにニコニコ楽しそうに笑っていた唯の表情が凍り付いた。







「     りっちゃん            裏切ったの?    」







今まで私が聞いたこともない、低い重い声が、耳の奥に響いた。

裏切る、なんてそんな物騒なもの言いをしなくたって…でもそんな風に軽く考える余裕はなかった。
その声はずしりとした重量をもって、私の身体の底の方に沈んでいった。


次の瞬間、凍り付いた顔面がくしゃっと崩れると、唯の瞳一杯に涙が溜まった。


私はとにかくどうにかしなくちゃと思って、そのまま唯の手をとって強く握った。
全身を奮い立たせ、そのまま一歩を踏み出すと、強引に唯を引っ張ってサンダル履きのまま駆け出した。



後ろの方で澪が私を呼ぶ声が聞こえた気がしたけれど、私は振り返ることなく、唯の手を引いたまま走っていった。



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最終更新:2014年08月21日 06:26