☆
「はぁはぁはぁ…」
「見られた…かな」
「見られたら、マズいの?」
「……いや、だって『ふたりだけのヒミツ』なんだろ?」
「…ちゃんと覚えててくれたんだね、りっちゃん」
澪を一人置き去りにして家を飛び出したんだから、きっと後で怒られるに決まってる。
鉄拳制裁のことを考えると少し憂鬱だけれど、これはもう、仕方のないことだ。あきらめよう。
家の鍵の場所は澪が知っているし、防犯上の危険は問題ない…むしろ私や聡よりよっぽど澪の方が安心だ。
「私たち…なにしてんだろな」
「わかんない。でも…なんか、おもしろいね」
「…だな」
二人して汗をかきながら、顔を見合わせて笑った。
走ったせいで二人とも息が上がっていたけれど、ついさっきまで瞳を涙でいっぱいにしていたのがウソみたいに笑う唯を見て、私はひとまず安心した。
途中、コンビニによってジュースを買った後、川沿いの遊歩道に降りてそのまま流れに合わせて歩く。
カラン
コロン
カラン
コロン
「下駄履いてるのに走らせちゃって、ゴメンな。荷物、持つよ」
「ううん。いいよ、大丈夫。…りっちゃんこそ、健康サンダル」プッ
「うっ…笑うなよ!仕方ないだろ、慌ててたんだから!」
「気にしない気にしない。いいじゃん、健康にいいんだから」
「くっそー…」
そもそもきちんと出掛ける準備してなかった私が悪いから言い返せない。
「ところで唯。なんだ?その荷物」
着の身着のまま飛び出してきた私に比べ、唯は紺地にちょうちょの柄の入った浴衣を着て、ガラガラとキャリーケースを引っ張っている。
走りにくい服装に大きな荷物。走らせて悪かったな。
後でアイスを奢ってやろう、そう思いながら尋ねた。
「女の子はいろいろと入用なんだよ。気にしない気にしない」
「でもギー太は持ってこなくてもいーだろ。一緒に花火見るつもりかよ」
「まあね。私とギー太はいつも一緒なんだよ」
「さいですか」
「あれ?もしかしてりっちゃん、妬いてる?」
「ばーか」
遊歩道に転がる石を、かつんと蹴っ飛ばした。
さらさらと川が流れている。
川沿いだからと言って、特別に涼しいわけじゃない。じめっとした湿気と、さきほどかいた汗が肌にまとわりついて鬱陶しい。
けれど、日中とはいえ曇っているおかげで日射はきつくなかったし、きらきらと輝く水面を横目に見ながらのんびりと歩いていると、気持ちだけはほんの少し涼しくなれる気がした。
「暑いねぇりっちゃん…」
「言うな。今気分だけでも涼しくなろうとしてたんだから」
「気分だけで涼しくなれるものなの?私、アイス食べたいよ…」
「もう少し我慢しろ。ほら、昔のエラい人が言ってただろ。『心頭滅却すれば火もまた…」
「涼し』!」
「知ってるなら、頑張ろうな」
アホなやりとりのおかげでまた汗かいた。つつつーっと一筋の汗が、額から左目の横を伝って落ちていく。
「でも、暑いのもいいよね。なんかこう『日本の夏』!ってかんじで!」
「そうかぁ?なんだか唯らしくない発言だな」
「ヒドい!」
「そういえばムギが言ってたけどさ。ヨーロッパは夏でも日本みたいにジメジメしてないから、もっと過ごしやすいんだってな。
なんでこう、日本の夏はジメジメして暑いんだろうな。ヤになっちゃうよ」
「…ふぅん」
なんだかそっけない返事だなと思ったら、唯は突然川の方を向いて足を止めると、そのまま腰を下ろした。
浴衣汚れるぞ、って注意したけれど、別にいーよ大丈夫、ってこっちを水に川の方を向いたまま答えたから、私も隣りに座って、一緒になって川の方を見ていた。
ふたり何も言わず、きらきらと輝く川面を、しばらく見ていた。
時折、鳥がさーっと飛んできて、川の真ん中の大きめの石に止まったりして、「りっちゃんあれなんていう鳥?」「んー知らねえ」など意味のない会話を交わした。
私が立ち上がってあたりにある手頃な石を拾い、水切りを始めると、真似して唯も水切りを始める。
唯が投げた石はちっとも水面を跳ねず、1、2回くらいでどぼんと川に落ちた。
私が投げた石が3回、4回、5回…とバウンドするのを見て、「りっちゃん師匠!水切りの極意を教えて下せえ!」なんて言ってくるもんだから、投げ方のコツを教えてやった。
教え始めは苦戦していたものの、一旦コツを掴むと唯の投げた石はトントントンと水を切るようになり、ついには川向こうまで届いてしまうくらい、遠くまで跳ねていった。
唯が投げた石は、私が投げた石よりも、ずっと遠くまで。遠く、反対側の岸まで跳ねていった。
私が投げた石は、向こう岸まで届くことはなく、沈んでいった。
水切りに夢中になりすぎて、ちょっと疲れた私は腰を下ろす。
並んで唯も腰を下ろす。
さっきよりも少しだけ二人の距離が近くて、唯が座った拍子に、互いの左手と右手が少し触れた。
私は髪をかきあげる振りをして右手を引っ込めた。
それから、また二人は無言で川面を見つめていた。
ヒグラシの鳴く音が聞こえていた。
「そろそろ行こうか」唯が不意に立ち上がって、歩き出した。
太陽が傾いてきているなぁと思い、そのときになってはじめて私は自分がケータイを持っていないことに気づいた。
「いま、何時?」唯に聞いてみたけれど、「わかんない」と言うだけで、唯は時間を確認しようとしなかった。
「ケータイ忘れちゃったから時間わかんねーんだよ。待ち合わせに遅れたらマズいだろ?」
「私も持ってないよ。ケータイ」
「はぁ?忘れたのか?」
「ううん。要らないから。置いてきた」
今どきの女子高生が、ケータイを要らないなんて言うだろうか…。もはや生活必需品じゃないか。
ここにきて私は、唯の様子がおかしかったことを思い出した。
「なぁ、唯。なんかあったのか?」
「なんかって?」
「なんかだよ」
「だからなに」
「わかんねーけど…いつもと様子が違うからさ」
「違わないよ」前を向いたまま唯は答えて、ガラガラキャリーバッグを引きずり、カランコロン下駄を鳴らし、歩いていく。
柳が葉を揺らす様子を見て、風が吹いたことに気がつく。
「時間なら心配ないよ」
「?」
「もうすぐ三角州でしょ。そこから大通りに上がれば交差点のところにバス停があるよ。そこからバスに乗ればすぐに戻れるから」
「そっか」
無計画に見えて計画的。唯にしては珍しいことだけど。
これで待ち合わせ時間に遅れたら、澪の鉄拳が二倍になる。それはさすがに身体が持たない。
私がほっと安心していると、唯が急に私の右手を掴んだ。
「りっちゃん!バス!バス来てるよ!乗らなきゃ!早く!」
「えっ!おい!ちょ、ちょっと待てよ!」
さっきとは反対に、唯が私の手を取って走り出す。私もそれに引っ張られるように走った。
バスは近くまで来ているものの、渋滞のせいでなかなか停留所までたどり着かない。
唯って、こんなに足早かったっけ?不思議なくらい早く走っていた。
唯って、こんなに力が強かったっけ?不思議なくらいの力強さで私は引っ張られた。
そうして駆け込んだバスは、目的地とは反対方向へ向かうバスだった。
☆
バスは、私たちの住む町とは、逆の方へ逆の方へ、どんどん走っていく。
乗客でいっぱいの車内では、制服を着た女子高生の集団が楽しそうにはしゃいでいる。
私たちも、端から見ればああいう風に見えるのだろうか。
キャリーバッグにギターケースを背負った唯は、一人で二人分くらいの場所をとっている。
他の乗客にしてみたら随分邪魔なはずだが、唯の隣りに立つおばさんは不愉快そうな素振りも見せていないし、唯自身も気を使うこともなく素知らぬ顔をしていた。
「混んでるね、バス」
「………花火大会、どーすんだよ」
「花火見たいの?」
「唯は見たくないのか?」
「見たいの?りっちゃん」
私は諦めて、澪に殴られる覚悟を決めた。
「なぁ…このバス、どこ行くんだよ」
「どこ行こっか。どこでもいいよ。りっちゃんの行きたいとこ」
バスの窓からは、見慣れない町の風景が後ろに消えていく。
「東京?大阪?それとも外国?新幹線に乗って遠くまで行っちゃおっか」
「やっぱり海!海に行く?」
「海に行ってもそこからじゃ花火は見れないぞ」
「そんなこと、行ってみなきゃわかんないことでしょ」
バスが大きく揺れて急停車した。私の身体が唯の方にもたれかかる。
踏ん張ってみたけど踏ん張りきれなくて、もたれかかった私を、唯が受け止める。
「ごめん」
「いいよ」
身体を離すと同時に目を逸らした。
バスが停留所に着くと同時に、一斉に乗客が降りていった。
賑やかな女子高生の集団も、唯の隣りのおばさんも、降りていった。
静かになった車内の、空いた座席に二人して座る。
新たに乗車する客がいないことを確認して、バスが動き出す。
けれど、動き出してすぐに信号に捕まった。
赤信号の間、私たちは無言だった。
信号の色が変わり、ゆっくりと動き出す。
「りっちゃん… …怒ってる?」
「…怒ってないよ」
「ほんと?」
「…ああ」
「よかった」
「なぁ…」
「なぁに」
「何があったんだ?何か、あったんだろ」
「ないよ。何もない」
どうしても唯は答えようとしなかった。
その態度が気になって、私は食い下がった。
「ウソつけ」
「ウソじゃないよ」
「この大荷物…もしかして、家出か?」
「ちがう」
「じゃあ何があったんだよ、言えよ」
バスがまた停留所に止まった。
年配の夫婦が乗ってきたのを見て、私たちは席を立つ。
そのあとに続いて、観光に来ていたらしい大勢の外国人の集団が、どっと押し寄せる。
そういえば、観光名所がこの近くにあったっけ。
あっと言う間に再び混雑する車内。
聞き慣れない言語が飛び交う。
人の波にぎゅうぎゅうに押し込まれ、互いに正面を向けば唇が触れてしまうくらい、二人の距離が縮まった。
私より少しだけ身長の高い唯が上を向き、私は下を向いた。
「…家出じゃ…ないよ」
わぁわぁと騒ぐ、観光客だらけのにぎやかな車内で唯が呟いた。
「かけおち、だよ」
☆
バスの終点。
東京でも、大阪でも、外国でも、なかったけれど、そこは来たこともない、名前も知らない、聞いたこともない停留所だった。
もちろん、海でもない。
もはやバスに乗っているのは私たち二人だけだった。
今が何時かわからない。けれど、そろそろ周囲が暗くなってきているから、たぶんもう17時はまわっているだろう。
澪、怒ってるかな。
ムギや梓、心配してるかな。
三人には申し訳なく思ったし、心配かけて悪いなと思ってけれど、それ以上に目の前の唯のことが気がかりだった。
けれど、唯は自分から何も言わない。
私たちは、桜ヶ丘に向かってゆっくりと歩いた。
こっちの方向であっているのか、あんまり自信がなかったけれど、バスが来た方に戻って歩いていくしか、私たちにできることはなかった。
唯は何も言わなかった。
唯が何も言わないから、私も何も言わなかった。
腹を立てているわけじゃなかった。
普段バカばっかしてる私たちだけど、時と場合を選んでしているつもりだ。
今の唯には何も言わない方がいいと思った。
いや違う。
今の私には、前を歩く唯になんて声をかけていいかわからなかった。
どうしたら唯が本当のことを話してくれるのか、わからなかった。
なんで今日は様子がおかしいのか、わからなかった。
そんな自分が情けなかった。
でもどうしたらいいかわからなかった。
だからただ何も言わずに歩いた。
少しづつ少しづつ空は暗くなり、宵闇の迫る影が私たちの来た道を飲み込んでいく。
カナカナとヒグラシが鳴く声が聞こえる。
最終更新:2014年08月21日 06:26