突然、唯が立ち止まった。


「…どした?」

「…セミ」


俯いたまま、地面を指差す。


「死んでる」


蟻がたかるセミの死骸を跨ぐのではなく、迂回するように避けて、再び唯は歩き出す。

そのまま今度は立ち止まることなく二人、行き交う人の少ない、知らない道を歩いた。










ドーン










遠くの方から打ち上げ花火の音が響いた。

音だけしか聞こえない。花火は、見えない。


「ごめんね」

「何が?」

「私のワガママのせいで、花火見れなくなっちゃった」

「いいよ」

「みんな、怒ってるかな」

「大丈夫だよ」

「あずにゃんは、怒ってそう」

「あー梓はな…それと澪な」

「ムギちゃん、ケバブ、食べれたかな?」

「どーだろうなー」

「悪いことしちゃったなー…」

「ホントにそう思ってるのかよー」


極力冗談めいた響きに聞こえるよう、つとめて軽く、明るくいつもみたいな調子で、私は笑いながらそう言った。


「半分ホントで、半分ウソ」


そう言って、唯は笑った。


「ねぇ、りっちゃん。卒業した後のこととか、考えてる?」

「なあんにも。第一進路希望用紙すら提出してねーし」

「はは…そうだったね。私もだ。でもね…」

「でも?」

「いざとなったらきっと何でもできると思うんだ」

「何でも…って何すんだよ。卒業したら大学に進学するんじゃないのか」

「そのつもりだけど…でもいつかは働かなきゃいけないでしょ」

「そりゃあ、な」


そのいつかのことは今の私にはうまく想像できない。
働くことも、大学に行くことも、みんな離れ離れになることも。
いつかそうなっちゃうのかもしれないけど、今の私にはうまく想像できない。

今日は昨日と同じで、明日も今日と同じで、同じような毎日がずっと続いていく。
そんな風にしか思えなかった。


「いざとなったら夜のお仕事でもしてみようかなぁ」

「何バカなこと言ってんだ」

「でもお金いっぱいもらえるんでしょ」

「憂ちゃんが泣くぞ」

「憂にはナイショで」

「第一年齢制限とかあるんじゃないか?未成年だろ、私たち」

「年齢なんて誤魔化せばいーじゃん。二十歳、って言ってさ」

「唯にはムリだろー」


澪やムギならともかく、唯にはムリだろ。
下手したら実年齢よりも下に見られたっておかしくないぞ。


「そんなこと ないよ?」


唯は、そう言うとヘアピンを外して、くるっと一回転してみせた。
髪がふわっと揺れて、少し長い前髪が、唯の左目を隠した。



生ぬるい風が吹いて、私の心にざわざわっとした波を立て、過ぎ去っていく。



ああ……唯、髪の毛伸びたんだ。


「りっちゃんがニートになっても、私がちゃんと稼いで、養ってあげるからね」

「……唯のヒモになるほど落ちぶれてねーよ」


何発も連続して、花火が打ち上げる音が聞こえた。

私たちはまた無言になって、歩いた。

歩いた。







「あ、あれ見て!」

「駅だ」

「電車、乗ろう」

「…だな」

「今後はちゃんと方向間違えないようにしないとね」

「…お前が言うなよ」

「えへへ…」


近くで鈴虫の鳴いている。

駅には、誰もいなかった。

誰もいない駅で二人、ベンチに腰掛けた。


走ったり歩いたり、バタバタしていたせいで乱れてしまったのだろう、唯の浴衣の合わせの部分が少し広がっていた。
そこから見える鎖骨に汗が流れている。

見て見ぬ振りをした。


「もう少し涼しくなると思ったのに…あっついなー…」


私は立ち上がって二人きり座っていたベンチから離れると、ホームの間際まで歩いて、線路の向こう側を眺めた。


もうすっかり太陽は沈んでいて、線路の向こうは夜の闇に包まれている。
何も見えなかった。電車が来る方も、進む方も。

空を見上げても昼間からずっと変わらず曇っているようで、星一つ見えなかった。


唯は口笛を吹いていた。『冬の日』だった。


「季節外れだな」

「涼しくなるかと思って」


ちっとも涼しくなんかならなかったけれど、唯は笑った。
私も笑った。




静かな、静かな駅のホームには、ヒグラシの音色と鈴虫の音色、そして遠く、花火の音が響く。

それと、唯の口笛。

口笛は風に乗って、どこまでも遠くまで響いていくようだった。


私はもう一度ベンチに腰かけた。ちょっとだけ唯と離れたところに。

すると今度は唯が立ち上がって、ベンチを離れた。

さっきは自分から席をたったくせに、
ちょっと離れた場所に座ったのも自分のくせに、
唯に置いてけぼりにされてしまったように思えて、私はすぐに立ち上がった。

光が射して、電車がやってきた。






いつものなじみの駅で電車を降りる。
会場から少し離れているとはいえ、駅周辺も花火目当ての人が大勢集まっていて、いつになくにぎやかだった。


唯は何も言わず、自宅とは反対の方向へと足を進めた。

私はもう、何も聞かなかった。
きっと理由があるんだろう。

話したくないなら、何も言わなくもいい。

今日はもう、とことん唯に付き合おうと決めていた。

そんなことしか、今の私にできることはない。


駅から離れるにつれて、人ごみは少しづつ消えていった。

歩き慣れた道を迷いなく進む唯。
変わらずに、ガラガラとキャリーバッグを引きずる音、カランコロンと下駄の音。
それももう、聞き慣れた。

そのままずっと歩き続け、桜高までやってきた。
唯が校門の前で立ち止まる。

もちろん、校門は閉まっている。

キャリーバッグを置いたまま、ギー太をかついでひょいと門を乗り越えた。


「りっちゃん、カバンおねがい」

「あいよ」


バッグをかついで門の上から唯に渡す。思ったより、軽かった。
続いて私も乗り越える。


宿直の警備員がいるのかどうかわからなかったけれど、なるべく目立たないよう、忍び足で歩みを進めた。

唯がどこに行こうとしているのか、私には検討がつかなかったけれど、どこまでもついていく気持ちだけは変わらなかった。
ヤケになっていたわけじゃない。むしろ、唯に導かれてすっごい冒険をしているような気持ちになってきて、ワクワクしていた。


「ねぇねぇ、りっちゃん」

「なんだ?」

「ドキドキするね、夜の学校って」

「…だな!」


校舎は、見たこともない外国のお城みたいに見えた。
いつもみんながいたずらしている初代校長の銅像は、古の英雄の銅像みたいに勇壮に見えたし、明るく元気に咲き誇る花壇のひまわりは、一年に一度しか花開かない、秘密の花のように見えた。




校舎の横を通り抜け、私たちはプールのところまでやってきた。
先を行く唯が、立ちふさがるフェンスをふんすとよじ上って乗り越える。


「よい、しょ……っと」

「暗いんだから、気をつけろよ」


がしがしと勢いよく登ってひらりと飛び降りる唯は、いつもの鈍くささのカケラも見当たらなかった。
校門のときと同じように、フェンスの上からバッグを渡す。
続く私は暗い中、足を踏み外さないよう慎重によじ上って、降りた。



真っ暗な闇が溶け込んだプールの水は、まるで墨汁のように真っ黒だった。



「なんだか泥棒みたいだよね、私たち」

「だよな。バレたらヤバいよなぁ、これ。ゼッタイ」

「さわちゃんに怒られる?」

「いやもっと上の先生に怒られるじゃないか?」

「校長先生?」

「あんまり怖くなさそう」クス

「…でも、泥棒もいいな。卒業したら、泥棒になろっか。私たちふたりで」

「レオタードなんか着ちゃって?」

「そうそう…ってひとり足りないよ?」

「ハハ…そうだったな」

「何を盗む?」

「え?」

「泥棒になったらさぁ。りっちゃんなら何を盗みたい?」

「そうだな………悪いことしてお金を稼いでる、悪徳政治家やブラック企業の社長からお金を盗むぜ!私なら」

「正義の味方だねぇ、りっちゃん」

「はっはっはー!まあな!…唯は?何を盗むんだ?」

「そうだね…」


唯はフェンス際にギー太を置くと、黙ってプールサイドを歩き始めた。
そしてそのまま飛び込み台の上に立つと両手を広げてクルクルッと鮮やかに回転した。


夜空を見上げると、いつの間にか雲は晴れて、月が煌々と照っていた。


天気予報、外れたな。


月の光に照らされながら、回転とともに浴衣の袖がひらひらと揺れる。

ひらひらと回り、暗闇に踊る唯の姿は、浴衣の柄と同じように、ちょうちょみたいに見えた。



「あなたの心を!」



右手をピストルに見立てて私の方に狙いを決めると、射撃の真似をする。



「バーン」

「バカ言ってんじゃないよ」

「なに言ってるのりっちゃん。こんな時間にこんなところでこんなことしてる時点で、りっちゃんだって私と同じバカなんだよ。大バカだよ。私たち」


プールの水面にはたくさんの星が映っていて、まるで夜空がもう一つ増えてしまったようだった。

唯は右足で、プールの水を蹴った。パシャっとしぶきがあがる。





「ねぇねぇ、りっちゃん」



「なんだかプールを見てたらさ…」



「泳ぎたくなってきちゃった」


そう言ってするすると帯を外し浴衣を脱ぐと、そのまま勢いよく星空に飛び込んだ。





  ザブン






「おい!あんま大きい音を立てると…!」


「りっちゃんもおいでよ!きもちいいよ!」



月の光に照らされて、きらきらと光り、揺れる水面。上半身だけ姿を現して、手を振る唯。

気がつくと、私は誘われるようにしてプールの中に身体を沈めていた。

先を行く唯に追いつこうとして泳ぐけれど、水を吸った着衣の重みのせいか、なかなか唯に追いつけない。
そんな私を見て「早くおいでよ、りっちゃん」と笑う唯。「よーし!」とムキになって追いかける私。

けれど、泳いでも泳いでも唯に追いつけない。まるで人魚のようにスイスイと泳ぎ、先を行く。
捕まえた、と思った刹那、その手を水をかいている。


「あれ?もしかしてりっちゃん、泳ぐの苦手なひと?」

「唯にだけは言われたくねえっちゅーの!」


捕まえようとしても、服を脱いだ唯の姿をヘンに意識すると、急に恥ずかしくなって追跡の手が鈍ってしまう。
私が顔を赤らめているのを見て、「あれ?りっちゃん、もしかして何かやらしいこと考えてる?きもーい」と唯が笑った。


「…このりっちゃんを甘く見ると痛い目に合うぞ?唯」


私は覚悟を決めた。


服を着てるから動きが鈍るんだ。どうぜここにいるのは二人だけ…私はTシャツと一緒に恥じも外聞も投げ捨てた。


遮二無二追いかける私が、やっとのことで捕まえようとすると、唯がビシャッと水を浴びせた。
同じように私もやり返す。

まるで子供みたいな、小学生に戻ったみたいな…ううん、これが私と唯の普段の姿なのかもしれない。水を掛け合って、ふざけ合って、笑い合って…ここが夜の学校のプールだってことも忘れて二人、騒ぎ合った。


そうして騒ぐうち、唯が不意に私の肩を掴んだ。


「つかまえちゃったー♪」

「つかまっちゃったー♪…って私が追いかけてたんですけど」


お互い顔を向き合わせて笑って、それから手と手を握って、身体をぷかっと水に浮かべて、夜空を見上げた。



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