そうだ。あの日も寄り道して帰ったんだった。


「りっちゃん、りっちゃん」


   「んー? なぁに、みおちゃん」


「あのね、……だいすきっ!」


 「……えへ。わたしも!」



 で、そっから七年くらい経って、




  ◆  ◆  ◆

 そこでじゃれ合ってる長い黒髪と明るい短髪の二人が
 やけに小さくかわいらしく見えるのは
 二階喫煙カウンター席の窓から見下ろしてる空間的距離ってやつのせいで、
 向かいのビルが伸ばした影と焼け付く太陽光の境目を
 ちらちら踏んだり退いたり飛び越えたりしながら
 ケータイ覗きあってくすくすやってるのが、
 こう、
 小動物的な意味でいとおしくなってしまって、
 ずっと見下ろしてたら急に周りがうるさく聞こえ出したんだ――ちがう、
 プレイヤーの音楽が鳴り止んでただけだった。

 再生し直そうと伸ばした手は、
 クーラーで誰かみたいに喉をやられてたからかな、
 プレイヤーではなく
 結露でべしょべしょになったアイスコーヒーのカップへと寄せられて
 ほとんど無意識でストローに口をつけると
 もう水っぽい薄い味だった。

 四時半の傾く陽差しに透けて見えた薄い色合い、
 もうウーロン茶なんかと変わんない。
 もらったまま入れそびれたシロップを拾い上げて
 半ばヤケで流し込む。あまい。
 さっきの水コーヒーよりは味がしてマシな気がした。
 嘘つけ、
 飲めた味じゃねーだろこれ。


 お代わりを頼める相手はいなかった。

 振り向けばすぐ後ろの席で
 干からびた汗の塊みたいなスーツのおっちゃんが
 ずぶずぶ眠り込んでて、

 向こうの壁際で
 色落ちしてプリン頭のカップルが
 ネチョネチョくっついてる。
 女の方、
 男のシャツに頭を寄せてるくせに 自分のスマホしか見てやしない。
 その身体を支える男の太い腕の先が
 テーブルと女の背中で隠れて見えなくて心からよかった。

 ちょうど反対の席、トレイ回収場所のそばで
 緑チェックのシャツに黒メガネの兄ちゃんが
 マックブックをにやにや打ってる。
 ネトゲ、いやツイッターか。どうでもいいけど。

 そう広くはない二階席がよけいに狭くみえるのは淀んだ空気のせいだ。

 おっちゃんの背中が膨らんではしぼんでイビキをザリザリ響かす。
 プリン頭がゲラゲラ笑った。
 足下に重ねたバッグがあって私は動くに動けない。

 イヤホンを掛けてブロックパーティーのセカンドを再生する。
 1曲目、アカペラのバックで勝手に挿し込まれる現実の笑い声。
 2曲目に飛ばして爆音にした。
 笑い声がサンプリング音声に混じって消えていく。

 前に組んだ腕に重たい頭を乗せると、ガラスに自分の顔が写ってサイコーだ。
 今すぐ世界が滅べばいいのに。


 外で寄り添ってる二人もケータイを見てた。

 無邪気にすり寄る短髪の女の子。
 長い黒髪の女の子がちょっとどぎまぎしてるのに気づかない。
 唯とかこういうとこあるからな……。

 すると急にすり寄ってた方が焦ってケータイをひったくろうとする。
 すかさず黒髪は回避。その手を追っかける短髪ちゃん。
 黒髪さんはよろけそうになりつつ短髪の必死の猛攻をよけて回る。
 あはは、見られたくない写真でもあったんだな。

 そこで左手の画面を引ったくろうとして短髪ちゃんが
 ぽてっとコケた。

 すぐには立ち上がらない。
 ひざまずいたような姿勢で、顔も上げられない。
 黒髪さんも思わず腰を屈めて様子をうかがう。
 ようやく上げた顔の歪みよう、あれたぶん泣いてる。
 どうしよう、超かわいい。


 昔もこんな光景をどっかで見た。
 なんだっけあれ……と、甘ったるい味。
 もう捨てようかないい加減これ。
 思い出した。
 小5の縄跳び大会だ。思い出さなきゃよかった。

 居残り自主練で、夕方四時半くらいだった。
 あのときは配役も何もかもが逆で、
 私が転んだ澪を立たせる方だった。

 クラスで一番目立つ女子グループが変に張り切ってて、
 誰かが転ぶたんびにネチネチ言ってきたんだ。
 周りが言えないことをハッキリ言うワタシがカッコいいとか思ってるタイプ。
 くそ、今さら腹が立ってきた。


 あのときもう少し幼かったら
 あの女をひっぱたいてしまってたかもしれない。
 でも、
 さすがの私もその頃には喧嘩して敵を倒せばハッピーエンド、
 みたいな単純痛快な人間関係なんかないのを悟ってたから、
 私は澪より先に引っかかって転んでみせるくらいしかできなかった。
 違う。
 大会のこととか澪のことばっか考えてたから
 ぼんやりして転んじゃったんだ。
 そう言い訳したんだった。

 私は澪を笑わせることにだけは成功して、
 乾いたささくれの痛む手を引いて
 二人で陽の沈む通学路を
 少し寄り道しながら帰った。

 なんで今さら思い出しちゃったんだろう。
 どうせ澪は忘れてるんだし、今やもう転ばなくなって、
 むしろあんな風に手を差し伸べる方の、
 基本的には強い人だってのに。


 私のケータイもチカチカ光ってた。
 見なきゃよかった。
 不在着信、弟から。諦めが悪いな、って思わず笑う。
 何様のつもりなんだろう、私ら。

 ムギからまたメール。梓とさわちゃんからも。その他諸々。
 珍しいとこではいちごから。
 その中で私が反応したのはカラオケの会員登録メールだけだ。
 しょせん金欠の学生だから50円でも100円でも割引できると助かる。
 どうせならシャワーも浴びたい。
 そしたらこのケータイはなくしたっていい。
 嘘だ、それはさすがにできない。

 うざいメールや電話だけ通じなくする方法とかないのかな。
 いろいろ設定をいじくって、
 結局また電源切るしか思いつかなかった。
 自分のなのに、使い慣れてるはずなのに、未だに何も分かってない。

 電源を切ろうとしたとき着信が入った。
 澪からだ。


 見下ろすと店の下で黒髪のあいつがケータイで喋ってる。
 なにか焦った顔。

 私は左のイヤホンだけ外して
  ああ うん そうだな わかってる だいじょぶだって
  ありがとう そうだな うんうん
 と適当に返す。
 そしたら窓の外で黒髪が怒り出した。
 肩をいからせて電話と反対の手を握りしめてる。
 何か吐き出すように重たい溜め息が聞こえた。
 あわてて短髪ちゃんが止めに入る。車の音で聞き取れない。

「って、律。聞いてる? 私たちもう、」

 受話器越しの不安げな声をどうにかなだめて、
 いいから戻ってこいよと説得する。

「戻るってどこのこと?」

 いやだからマックの二階だってさっきから言ってんじゃん。

「そうじゃなくて、ああもう……あは」
「なんだよ澪」

「ふふ、うん。やっと喋った」

 今まで会話してた相手にそう言われた。


「どーゆう意味だよ。
 ってか午後ティー買ってくるんじゃなかったの? おせえぞ」

 ごめん、ちょっと立ち読みしてて、と謝る声が聞こえる。
 水っぽい甘さ。うぇ。

「律だってずっと立ち読みしてただろ」

 また水コーヒーに口をつけてしまう。

「ちげえって。このアイスコーヒー薄くってさ、ってか大丈夫だよな?」

 ぞわり、と胸の奥で不安が湧いたのは
 流してた曲の雰囲気が急に変わったせいだ。『Uniform』は5曲目だったか。
 そういえば私の制服ハンガーに掛けてきたっけ。
 アホか、どうでもいいんだよそんなことは。

 澪、私、今からそっち行こうか?

「ねぇ律。よく聞いて」

 ――私はもう、大丈夫だから。二人とも、大丈夫だから。


「はっ?おい澪、お前まさか――」

 すぐ行くから待ってて、とだけ言い残して電話が切れた。
 窓の外に目を走らせる。
 黒髪のあいつはまだ受話器に耳を当てたままだった。
 こわばった肩と全身で吐き捨てるように顔を背けた。

 右耳の電子音がよけいに不安を逆立てる。
 溜め息の音まで聞こえそうな気がした。

 すると、短髪の子がすくっと立ち上がってあいつの左手をとる。
 両手でさするように、何か話しかけてるらしい。
 黒髪の子は携帯をしまうと余った手で彼女の頭をなでた。
 私もようやくケータイから耳を離すことができた。

 心拍数がひどくて、
 後ろの物音が聞こえないうちにイヤホンを付け直す。
 次の曲はやけに静かに始まった。
 ドラッグをキメた快感の曲だって澪から教わった気がする。
 前にその話を聞いた時は、どんな感じか想像もつかなかったけど。


 気づけば小さい方の女の子は、
 黒髪の左手をつかんで抱きしめたまま泣きじゃくっていた。
 黒髪ちゃんはその明るい髪をなでながら、
 うまく気持ちを吐き出させるようにと背中をさすっているようだ。

 この期に及んで、私はまだその場を離れられずにいる。

 足がしびれたせいだ。
  違う。
 行き違いになるのが怖い。
  そうだけど違う。
 携帯やプレイヤーの充電が終わってないから。
  全っ然ちげえよバーカ。
 店内の空気が相変わらず重たいからだ。

 私は振り返った。
 足下まで白い液体が伸びている。


 あわてて二人分のバッグをテーブルの上に載せる。
 チャックが開いてて私の財布がテーブルにこぼれ落ちる。
 店員はモップを構えて
 ここぞとばかりに床拭き洗剤を塗りたくって行った。
 ったく、
 客の荷物汚したらどうするつもりなんだよ。

 客の様子もやっぱり変わってない。
 おっさんはもう座席に脂っこい頭をひっつけるようにして寝ていて、
 兄ちゃんは小声のつもりでボイチャか何かを始めてた。
 聞こえてんだよ、プリキュアがどうとか。
 せいぜいプリン頭の奴らが少し静かになったぐらいだ。

 私は澪の荷物を抱きしめたまま、財布をしまおうとしたら
 白いのが目に入る。レシート、
 そこのゴミ箱に捨てとこうかな。
 だいぶ少なくなった五千円や千円札の隙間から
 まとまったレシートの束を出してそこに開けた。


 ガスト、セブン、カラ館、
 ファミマ、東京サニタリーサー……飛ばしてまたファミマ、
 ルノワール、ニューデイズ、セブン、ガスト、ダイソー、無印、セブン――
 セブン多いなおい。
 昨日の夜からこの財布はあまり使ってなかったから、ほんとはもっと多かった。

 ここ数日の記憶がざーっと駆け抜けてゆく。

 「ウイダーイン・ゼリー ヨーグルト味 ¥178」の印字だけで
 澪のひそめた眉と今にも何か言いたげな唇が
 浮かんで消える。
 そうだ、
 ボックス席で真っ正面から
 「いいから飲んでみろ」って押しつけられたんだった。

 舌のヒダから思い出しかかる例の味を水コーヒーで塗りつぶす。
 あのゼリーよりはマシな味だと思えた。
 これも嘘だ。


 あの子まだ泣きやまない。
 コップの結露が濡らした指先と手の汗が混じって居心地悪い。

 ちらかしたレシートに水滴が付かないように手首でどかすと
 さっきの名刺サイズの割引券が腕に引っかかってみせる。
 人目に隠すようにレシートの束に混ぜて、
 結局どれも捨てられずに、財布に戻した。

 霧雨のようにしとしと泣いているのが見える。
 その子の頭に乗せられた小さな右手、
 そのまま撫で続けて間を持たすのも限界があって、
 不安そうな目を辺りに散らすけど
 二人に寄ってくる大人は一人もいなかった。

 どこかへ行ったり
 誰かに助けを求めたりすればいいのに、
 自分一人の役目だとでも思ってるのかな、
 勝手に動けなくなっているのにイライラする。


 ああもう、何してんだよ。
 いっそこっち来いよ、ハッピーセットぐらいおごってあげるから。

 動けない黒髪の子に短髪の子が強くしがみつくもんだから、
 ビルの影どころか車道の方に押され気味だった。
 こんな時間だ、
 たまに過ぎてくタクシーやトラックのスピードは速い。

 いてもたってもいられなくなって財布を自分のバッグに投げ込んだ。
 そして二人分抱えて
 トレイを持ち上げたらバッグの重さに転びそうになった瞬間、
 横断歩道が青になって、暗がりから出てきたのが、

 澪だった。


 固まった。
 一瞬、目が錯覚を起こしたのかと思った。

 澪だ。
 そりゃあ、澪だよ。
 あっちの小学生かせいぜい中学一年生くらいの女の子だって
 長い黒髪がかわいらしいけど、後ろでくくってポニテにしてるし、
 澪じゃない。

 錯覚なんて最初からなかった、
 どうみても別人だ、まず歳が全然違う、
 なのに、
 どうして私はあの子たちを見間違えたんだ?

 澪は二人に気づくとたぶんいつもの柔らかいほほえみを見せて
 (あいにく街灯と影が邪魔してここからは見えなかった)
 短髪で唯に似てる方の足下にしゃがんで
 ポーチから何か取り出して貼り付けてあげる。

 そして頭をなでる、ちゃんと二人分。

 ポニテの方がほんの少し身を引いてたじろいだけど、
 結局あいつの広い手になでられた。


 腰にふたりしてしがみつかれて、澪が困ったように笑っていたら
 (光の下まで二人に圧されたせいで
  今度こそあいつの顔が見えてしまった)
 向こうのビル一階のスタバの方から
 三十代くらいの男女が駆け寄ってくる。

 澪は二人を立たせると、彼女たちの親元へと背中を押した、ように見えた。
 それからこちらを見上げて
 私に向かって笑った、
 本当にそう見えたから、思わず視線をそらした。

 ストローの端に残った私のリップを、目をそらしたまま
 何度も拭き取る。
 下ろすのに慣れてない前髪が瞼の上でちらつく。
 あの顔が頭から離れない。

 何度も、何度も。


 階段を上ってくる足音で気付いて振り向くと、
 新しいトレイに紙カップを二つ載せていた。
 片方にはでかいスプーンが突き刺さっている。

 ……その、私を見つけるとすぐ、
 いつもちょっとうれしそうな顔すんのやめてくれないかな。困るから。
 ってか前髪うざい。
 誰もみてないし、戻してよくない?

「だめだって。大人っぽくしようって言ったの、律じゃん」
 隣に座って頬杖ついてこっちを見る睫毛の長さ。
 テーブルについた小さな肘を寄せて、組んだ指先に頬を乗せてる姿。

「ってか、もしかして見てた?」
 と窓越しに交差点を見やって言った。
 こう、
 回転いすをくるりと回して向き直って。

 私は水滴でにじんだマクドナルドの白いロゴばっかにらんでいて、
 たぶんロクな相づちも打てやしない。
 あの細かい仕草の一つ一つに胸が鳴ってしまって、
 数十時間前の熱いめまいを思い出しそうで、全然落ち着けやしない。
 このまま私までなでられたら、もうほんとだめになる。


 みんな寝てる、と澪がつぶやいた。
 気付いてなかった。
 綿のように柔らかく固まった空気が辺りに降りていて、
 少し前まで突っ伏して寝てた私の方も眠気に誘われそうだ。

 こういう雰囲気っていいな、と澪がいう。
 つい聞き返した。
「なんだろ、やさしさに包まれてるようで」
 なにそれ、ユーミンかよ。

 吹き出す私を横に、澪があのカップルを見ていた。

「あの女の人、
 彼氏さんに自分のカーディガンを掛けてあげてる。
 肩とか冷えそうな格好なのに。でも、あったかいんだね」

 目を閉じて寄り添う女性は、ぬくい笑みをかすかに浮かべている。
 そんな彼女を大きな腕で引き寄せて、
 二の腕を暖めるようにしてぐうすか寝ている男。

 すると後ろの席でびくん、と物音がする。
 スーツのおっちゃんが目覚めたらしい。


 高そうな腕時計を何度も見て舌打ちしている。
 上着を抱えるとトレイを持って出て行こうとする。
 そこに澪が呼びかけた。

「あの、カバン忘れてますよ!」

 おお、
 と調子の外れた声で振り向いたおじさんが、
 澪に頭を何度か下げつつ重そうなカバンを受け取った。
「悪いね、ありがとうね」
 おじさんが照れ笑いをしながら階段へと走っていく。
 入り口で上がってきた若い女の人とぶつかりそうになり、
 またあのとぼけた声で 悪いね って言ってた。

 女の人は腕を組んで寝ている緑チャックの兄ちゃんのテーブルに
 しれっと自分の荷物を置くと、彼にでこぴんを一発食らわせた。
 飛び上がる勢いで立ち上がり、
 まだ寝ぼけた様子で目を何度かこすると、二人で何か言い合って笑ってた。
 女の人のスマホに付いたラブライブのストラップが
 太陽みたいにきらきら輝いてみえて、


 その瞬間、
 私は消えてしまいたいと思った。


「ね、律。この時間のマックって、なんだか守られてる感じしない?」

 そう言う澪の後ろからまだ傾いた日差しが射し込む。
 つややかな髪に淡い光が射して、まるで天使の輪っかのようだ。

「私たちも、あんなふうになりたいな」

 イスに腰掛けた足をぶらつかせて、
 私に肩を寄せて
 こっそりそうささやく。

 なんだよ澪、お前どうしてそうなんだよ。
 お前、なんなんだよ……

 光に照らされる店内の中で、
 私のなかに溜まった澱まで見透かされそうで、
 いっそ 私だけ夜に引きずり込まれてしまえばいい
 と願った。


 澪の方、もう見ることもできない。
 気の置けない笑い声が遠くから聞こえる。
 もぞもぞと動き出したプリン頭の二人、
 しびれた彼氏の腕をさすってくすくす笑ってる。

 窓の外に必死で目を落とす。
 でももう私の顔も、下の二人も見えやしなかった。
 陽は落ちるどころか明けていく一方で、
 もう月のかすかな光もわからない。

「さっきのおじさん、始発間に合ったかな?」

 赤い光に満たされるフロアの中で、つぶれてしまいそうだった。


 夕方だったらよかったのに、とずっと思っていた。

 縄跳び大会の夕暮れ通学路みたいに、
 私が先に転んで、澪をずっと引っ張って、守ってあげて、
 そういう風にしてれば二人でずっといられる。
 ずっとそう思っていた。

 でも今はただの明け方五時で、
 十七歳の私たちの居場所は少しずつ削れていく。

 何もかもがずっと変わらないって思いこみたかったんだ。
 でも昔とは全然違った。
 本当はもう逃走資金だって残っちゃいない。
 誰よりも尊い人をこんな場所まで引きずり込んでしまって、
 私はもうすぐ地獄に堕ちるだろう。ああ。

 両肩に手が触れた。
 薄目で見えた澪の両目がまっすぐ私を見つめるから、もう逃げられない。
 イヤホンも外れてしまって、
 澪の言葉を受け取るしかなかった。


「律、帰ろうよ。
 今から新幹線に乗れば、夜には家に着けるから」



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最終更新:2014年08月31日 11:21