◆  ◆  ◆

 まだ眠いの、と聞かれて顔を上げたら自分と目が合った。

 ガラスに映った姿は外の明るさでもう消えかかっていて、
 ろくに眠れてないから死んだような目をしていて、
 本当に幽霊みたいで
 思わずうすら笑いをにじませてしまうその顔がきもい。
 消えろ。
 消えてよ私。

「もうちょっと寝ててもいいよ、新幹線の時間分からないけど。
 あと溶けちゃうよ、フルーリー」

 混じり気ひとつない顔でくすくす笑いながら、
 澪が白いスプーンを私に向けた。
 チョコレートの黒い粉のつぶが混じっていて、なにも考えずに口に含む。
 あまい。
 そこの水コーヒーとは比べるのも失礼なほど、
 本物のとろけるような甘さ。
 今度こそ嘘じゃない。


 わあ、よく見える、と
 澪が窓の外を見下ろしていた。

 組んでた腕を上げて垂れた髪を耳に流す姿と、
 浮かせた爪先を子どもっぽくぶらつかせる姿が 一枚の絵のようで、
 この人が自分の恋人だって気がしない。たった数日で別人みたいに輝いていた。
 そんな人が、こちらを振り向くだけで、
 ほら、
 胸がおかしくなりそうなほど。

「見てたんだろ」

 母親みたいな声で澪がいう。

「ごめん」

 なんで謝るんだ、といって私の頭に手がふれた。
 手の重さに思わず目を閉じると、
 はずみで乾燥した目がうるみ出しそうになった。


「だって、覗き見ってさ、悪いことじゃん。たぶん」

 言いながら頭をなでる手を外したくなった。
 でも私は目をつむったまま、首を澪に近づけるばかりだ。

「誰かが見ていてくれるって、それだけで安心できるよ」

 瞼を透き通して感じる光がまぶしくて、
 前髪が垂れるほどうつむく。

「ケータイ、充電終わってる。そっちの寝やすい席に行こっか」

 ぽん、と手が私をたたいた。
 移動ついでに水コーヒーを捨てようとしたけど、
 身体を動かすのがかったるくて、結局トレイに乗せたまま澪が運んでしまった。

 そうやって私たちは判決を先延ばしにする。


 こっちおいで、と言われて二人してソファー側に座る。

「大丈夫、みんな寝てるよ」

 見透かしたように耳打ちされた。
 あわてて出て行ったおじさんの空席。
 一組のスプーンとフォークみたいに寄り添って眠る、
 揃えた髪の色がきれいな二人。

 向こう側でテーブル越しにうつむきあう二人は
 イヤホンを分け合って歌詞カードを開いて、わずかに頭をゆらしている。

 さっき清掃が入ったばかりで、
 バイトの店員もこの空間に踏み込む気配は、まだない。
 ポテトの焼き上がる音が階段の向こうからかすかに聞こえる。

 つむじに添えられた手につられるようにして、
 私は澪の膝に頭を寝かせていった。
 耳に当たるショートパンツの縫い目を指でなぞってると声が聞こえる。

  ねえ律、なに聴いてたの。

 私をのぞき込む顔の方を向くと、天井の照明が目に染みていたい。
 光をかくすようにポケットのプレイヤーを渡すと、
  へえ、ぴったりだ、
 と澪がいった。


 どこが、ときくと、だって今日って日曜の朝じゃん、
 と返された。

 軽いどや顔で見せつけられたプレイヤーの画面には、
 夜の町を上空から見下ろしたジャケット画像とともに

  《Bloc Party - Sunday》

 と映し出されていた。

 そっか、もう日曜なんだ。


「そうだよ。明日は月曜だ」

 口に出した覚えもないのに澪が返す。
 軽い寝ぼけ頭と照明と朝の光のまぶしさのせいで、
 余計なことまで言いそうだったから、
 ヒステリックグラマーはやめといて正解だな、と一番余計なことを言ってみた。

「かわいかったのに。ロックな感じで」

「いきなり攻めすぎなんだよ、お前は」

 むくれた声が見なくても聞こえる。
 律がいなきゃ、こんな服も買えなかったよ。
 その声の微妙な表情が心のひだに染み込んで、
 澪のおなかに顔を押しつけてしまう。

「……ごめん。澪、ほんっとごめん」


「ヒスグラのこと?」

 黙ってると、勝手に澪がしゃべりはじめた。

「すっごく楽しかった。ずっと、ドキドキしてる」

 さわってみる?なんて私の手を取って自分の胸元に伸ばそうとした。
 でも手がもう固まっちゃって動かない。

 澪は私の指先を置き去りに自分の手をテーブルの上に乗せた。
 そんな些細な動きも視界の隙間に入れないようにと抱きついて寝ていたのに、
 腕の動きやあいつの癖なんて簡単に読み通せてしまう。

 ガストのドリンクバーで取ってきたストローの噛み跡。
 ボックス席の窓際に乗せた、コンビニの箸袋を折って作った箸置き。
 駅弁、期待してたほどうまくなかったって変な顔してたっけ。
 もう口の中の味なんて分からなくなってたけど、
 澪がまずいって言うからたぶんまずかったんだ。

 想像と現実は違う。
 思い知っただろ、お前だってさ。


「うわ、これ懐かしい。律にだまされて買ったやつだ」

 捨てそびれたレシート、紙のがさがさいう音。
 声の温度がゆがんだ眉とあの唇とを思い出させた。
 わるかったよ、だましてばっかで。
 もう乾き始めた口の中で人工甘味料の気持ち悪い味が浮かぶ。

「ヨーグルト味だけは失敗だった、うん」

 わかってるよ、私だって。
 なのになんで澪、まだ楽しそうなの?

「ああそうだ、もんじゃ焼き! あれ二人じゃ絶対多かったよね」

 財布を開ける音が聞こえて、紙の音がかさかさ鳴った。
 澪までレシート整理を始めたらしい。
 上の方で思い出をひもといていく声が聞こえる。
 昨日のことなんて遠すぎて忘れてしまってたのに。


 ケータイのカメラを使いすぎて
 駅のニューデイズで買った充電パックとか、

 電車に集団で乗ってきた同い年くらいのJKたちの方言に
 いちいち感動しながら飲み干した
 澪のポカリスエットとか、

 電車が行っちゃって
 四十五分待ちだからって開き直って
 改札を抜けてもトタン屋根の広がる田舎駅で何もなくて、
 なのに
 くたびれた世界を見渡す澪の目はひたすらキラキラしてて、
 駅名の看板と
 ピースサインを無駄に撮らされたりしながら、
 照りつける陽射しから
 逃げ込むように滑り込んだセブンで買った
 ご当地チロルチョコとか。
 あれくっそまずかったっけ。
 食べ物の運わるいな、私ら。  あは。

「ん、どうしたの律」

 そんなとこばっかみるな。


「ああこれ! やっぱ水上バス乗っとけばよかった」

 ったく、観光じゃねえだろ。
 わらいそうになった頬を見せたくなくて膝に押しつけたら、
 澪の方がくすぐったそうに身体をよじって笑ったりする。

「ねえ澪、あの子たちとなんか話したりしたの」

 これでも話題をそらそうとしたんだよ。

「えっ? ああ、
 あの子たち両親とケンカして帰れなくなっちゃったんだって」

 ……失敗した。


「なんかね、宿題やってないのに夏祭りに行ったのがバレちゃって。律みたいだ」

 うるせーよ本当。

「ぜんぜん違うし。唯だろ、そういうの」

 そうかなあ、って思い返す斜め上の目線。
 見なくたって知ってる。
 きれいな顔のくせに少し抜けてる子っぽくてかわいいんだ。
 そしたら澪が、

「ちがうよ。唯は、いろいろ助けてくれた」

 聞いたことのない声でつぶやいた。
 だから思わず顔を上げてしまう。


 光に慣れない目がまぶしかったせいだ。

 マックの弱い灯りでも、一瞬よく見えなかった。
 私の大事なひとが、
 妙に真面目な顔してテーブルの奥でなにか手遊びをしている。
 明け方マックの淡い光に照らされて、ここからだと手先までは見えない。

 それだけなのに、
 その瞬間 その姿がなぜかとても 神聖な幻覚のようにみえた。

 空間を満たしていたゆるいBGMがちょうど途切れて、
 柔らかい光が蒸気のようにたちこめたままで、
 曇りガラスごしに水を浴びる愛するひとの
 存在や重さを感じ取るみたいな、
 なんだろう、
 とにかくとても尊いもののだと思ったんだ。

 わかってた、錯覚だって頭は言ってた。
 澪の癖だって知ってた。
 だけど、
 テーブル下の暗いとこで
 この身体をつつむ膝やおなかの慣れきった温もりにひたって、
 今だけはまぼろしの答え合わせをしたくなかった。

 私は時を止めたかったんだ。
 こんな気持ち、神様にだって伝わりっこないけれど。

 でも、終わるんだ。
 こんな時間は。


 紙の音も終わって、ケータイのボタンをニチニチ鳴らす音がする。
 ほら、この写真、律が半目だ、とかなんとか。
 その話何度目だよ。

 ボックス席に二人きりで居たときも
 澪がケータイをいじくってるのはだいたい写真の整理だった。
 一緒に 部屋の壁にもたれ掛かってても、
  どうしよう律 どれも消せない って
 相談してくるくせに、
 私がいくつか消させようとすると
 残すべき理由を無理矢理こじつけてくるんだ。

「やっぱかわいいな、これ。私センスあるよね」

 いやな予感がした。

「ほら、昨日の明け方。お化粧したげたの、おぼえてる?」


 飛びついて携帯を奪おうとしてテーブルにおでこをぶつけた。
 痛みが染みる。

「返せよ、みお! それ絶対あたしの黒歴史になるからっ!」

 じたばた動かす私の腕を押さえつけながら染みた額をなでてくれたりする。
 むかつく。
 私、子供じゃないってのに。

「あは、さっきの子たちみたい。バンソウコウ貼ったげようか?」

 いらん。
 てか消してよ。

「やだよ。だってこんな可愛いのに」

 そう言って画面を見せつけられた。

 ラブホの洗面所のくすんだ空気、水垢の残る鏡、
 突き刺すようなカメラのフラッシュが鏡に反射してる。
 そのカメラを向けてる澪の腕にくるまれて、
 少女趣味な格好をさせられた私がいた。


 思い出した、午前四時半のベッドサイド。
 だいたい二十四時間くらい前。

 自己嫌悪を煮詰めるような悪夢にうなされて、
 目覚めて澪がいなくなってて、
 つぶれそうだった時にあいつは
 風呂上がりののんきな顔と乾かしたての髪で私を抱き起こして、
 動かない頭と身体をいいように買ってきた服を着せていったんだ。
 あれ、澪のために買った服なのにな。

 サイズが少し合わなくて、
 自分の小ささが浮き彫りになるようで いやだったのに
 私はなぜかベッドの上に座って化粧道具をかまえる澪の前に
 目を閉じて顔を差し出してしまったんだ。

 マスカラやファンデやリップなんかが 目元や頬や唇の上へと触れてくのが
 キスするみたいで、
 キスよりもずっと繊細な感触で、
 こわれものを扱うように肌に触れるのが 気持ちよかった。


 画面の中の私はまだ目を細めていて、
 相変わらず正面を向けずに洗面台の上の歯ブラシを凝視していて、
 おどおどと胸元を隠すように握ってたりして、
 肩の線がやけに小さく見えて、
 こんなの私と同一人物だって思いたくないほどだった。

 だから黒歴史なんだ、
 って消そうとしたのにまた奪われた。

「この写真だけは絶対消さないからな。世界で一番可愛い律だもの」

 なにそれ、他に律がいるの?ってかやめてよほんと。
 自分の顔から目をそらすと、

 なにか白いものが目にとまった。


 わかるかな、紙のバネ。

 ストローの細長い紙袋2本を直角に重ねて、
 互い違いに折り込んで作る、
 あの、
 子供の手なぐさみ。

 それが、広がったままトレイの隅っこに転がっていた。

 窓から差し込む明かりの当たらない、
 ちょうどフルーリーのカップが陰になった場所で、
 光から隠れるように寝そべっていた。

 ああそっか、これも澪のくせだった。
 つまみあげると、
 片方の紙袋はくしゃくしゃにつぶされた痕がある。
 もう片方のはさっき澪が買ったときのストロー袋で、
 目立ったシワはなかった。


 捨てようとしてた私の紙屑は、澪のと重なって一つの形をなしていた。

 伸ばしてみると少しずつねじれて、
 まるで DNAのらせん構造 のように
 ゆるやかな曲線を描いて 裏も表もなく絡まり合っていて、
 ますます離れそうになかった。

 それあげるよ、って耳元で言われる。
 いらねーよ、とは言えなかった。
 重なり合った二つの袋には、
 まだ澪の手の熱が残っている気がしたから。

 そこでさっきの、あの真剣な表情が浮かぶ。
 なんだ、これを作ってたのか。
 まるで子供みたいだ、昔とぜんぜん変わらない。

「それ、律に教わったんだよ」

 そうだったかな、忘れちゃったよ。


 ごごご、とストローをすする音が聞こえた。
 見たら澪が、私の水コーヒーを飲み干してた。

「あ、ばか、それまずいんだから捨てようと、」

「水だよ、これ。ただのぬるい水」

 私のおなかを抱きかかえる腕が前にすっと伸びて、
 5ミリほど残った透明な液体を見せた。

 それは本当に透明で、
 氷のかけらだって一粒もない。
 味なんてぜんぜんしない、ただの水だったらしい。

 なんで飲んだの、って聞いたら、
 電話で律が言ってたから、って。


 たぶん、長い間ほっといたせいで分離してたんだ。
 私は沈殿したコーヒーだけ飲んで、
 澪は透明な上澄みを飲み干した。

 うそつき、ぬるいけどまずくはないじゃん、
 って笑い声に言い返したりはしない。
 だって、
 その手で代わりに飲ませてくれたオレンジジュースは果汁100%で、
 本当の甘さを教えてくれたから。

 手の中でもてあそぶ白い紙のバネ、
 光を浴びて熱を帯びて、みずから輝いているように見えた。
 柔らかな腕の中で、こんな時間がいつまでも続けばいいのに、
 二人で世界の果てまで行ければいいのに、
 ってまた思ってしまう。

 でも、終わるんでしょ。
 終わるんだよ。

 結局どこにも行けやしなくて、
 現実の長い腕が私たち二人を捕まえてしまって、
 すべて明るみになって、私たちは引き戻されて――

「律。こっち向いて」


 両手で顔を持ち上げられた。
 目に刺さる光の痛みが角膜を潤ませる。
 そうだ、涙が出そうになったのはまぶしいからだ。

「さっき、聡から電話があったんだ」

 ああ、判決が下る。
 耳をふさぎたい。

「十時過ぎに家に帰ったら誰もいなくて、びっくりしたって」

 ……はあ?


「なに言ってんだよ、聡のやつ、私らのことバッチリ見て、」

「聡は何も見てない。何も知らない。
 お母さんが、
 私の家にずっと泊まるとご迷惑だから
 早く帰ってきなさいって言ってたって、聡が言ってた」

 家族そろって大うそつきだ、って澪が笑った。
 目を離したくても、こっち向いてって言われてたから、
 あの子が神様みたいに笑うのをずっと見てた。


 大丈夫だよ、って澪がいう。

 もらった紙のバネを手のひらでつぶさぬよう指に力をこめたら、
 まぶたの奥まで熱にひたされだした。
 それでも見ていてって言われてたから、
 神様みたいなあの子をみてた。

 わかってる。
 光が目に染みたからだ。
 唇が震えるのも、あの子を見る目から熱の滴がこぼれ出すのも、
 朝焼けの光がまぶしかったからなんだ。
 それを今日、私が最後につく嘘にしようって決めた。

 それから大きな手と腕で視界をふさいでくれるまでの十秒間、
 滴がこぼれないように目を細めながら、
 しゃくりあげてしまうのを抑えながら、
 朝焼けの光を受けてほほえむ私の神様を最後まで見てた。

 また暗くなっても
 瞳孔に焼き付いた残像が何年経とうとも消えませんようにって、

 私の神様の姿を ずっとずっと見てた。



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最終更新:2014年08月31日 11:22