♪‐01
日本の夏は特別暑い。
外国に一度も行ったことのないわたしがこんなことを言うと滑稽に聞こえるけれど、
そう表現したくなるのも仕方ないほどの猛暑が、日本列島を襲っていた。
お日様は遠くの山陰に姿を潜めようとしているものの、
この熱気だけはしばらくなりを潜めてくれそうにない。
ところで他のもっと気温の高い国々よりも、
湿度の関係で体感気温は日本が高いと聞いたことがある。
そうとなるとこの国に生まれたことや、この夏という季節を恨みたくなるけれど、
しかしそうすると目の前のこの光景を拝めなくなるということを意味してしまう。
ので、掌を返すごとく、さっきの言葉を迅速に訂正。日本の夏は最高だ。
「ねえねえ、この浴衣どうかな? どうかな?」
淡いピンク色の浴衣に身を包んだ唯が、腕を広げ、これでもかと自分を見せつけてくる。
所々に散りばめられているのは、撫子だろう。
その身体をきゅっと締めている帯は浴衣より濃いピンク色。
全てが唯のイメージにぴったりで、実に可愛らしい。
もちろん、撫子の花にも負けないほど咲き誇る唯の笑顔も、格別に可愛い。
「はあ」
わたしの背後でわたしに聞こえるほど大きな、というかわたしに聞かせる気で吐いたであろう溜め息。
いつまで呆けているんですか、しっかりしてください。
後輩からの刺々しい言葉が痛いほど伝わってくる。一切無言なのだけど、伝わってくる。
「うん可愛いよ、唯」
「そんじゃ、わたしの浴衣も評価してもらおうかー!」
調子に乗った律のことを横に置き、ムギの浴衣に視線を移す。
ムギの浴衣は白地に薄紫色の花をあしらったもので、
帯は深い夜の海のような青に染められている。
「ムギのも涼しげでいいな。えーっと、その花は」
「菖蒲よ」
「そうそう、菖蒲だ。とっても似合ってる」
「良かった~」
さて、その後も律が度々視界に入り込んできたが、
梓の浴衣を律以外の全員で褒めちぎった後、わたしたちは目的地に向けて進みだした。
律は不服そうに眉根を寄せ、わたしと並んで歩いていた。
「ちえっ。なんだよお前らさー」
「そんながっつかなきゃ、勝手に褒められてただろうに」
「じゃあ澪はこの浴衣どう思うよ?」
「律は本当ひとの話を聞いてないんだな」
♪‐02
神社を中心とし、その周囲の道路までを広く広く巻き込んだこの祭りには、
その近くに住まう人のみならず、周りの町からも多くの人が集まる。
露店が道の両端にずらりと立ち並ぶその姿に、
唯や律はもちろん、ムギは特に感情を高ぶらせていた。
「こ、これ全部お店なの?」
「そうだぞ。そして!」
一拍置いて、
「美人は全部無料で食べられる!」
「えぇ!?」
「嘘をつくな!」
そういうサービスをしてくれる気前のいい人がいる、
という噂は今までに何度か小耳に挟んだ。
しかしそんな簡単に無料といって、ムギがそれを信じ、
例の“もう一声”を発動させてしまえば、
来年の開催が危ぶまれるかもしれないじゃないか。
とか考えながら歩いているうちに、
わたしの両手は綿菓子やら、りんご飴やら、焼きそばやらで一杯になっていた。
しかも全部無料である。貰った。なぜだ。
「なんでだろうなあ」
全てしっかりお金を支払ってきた律が、
わたしの太腿に繰り返し軽い蹴りを入れながら、
恨めしそうな視線をぶつけていた。
荷物が片付いたら覚えていろ。
「わたしもなんで綿飴もらっちゃったんでしょう……」
「小さいからねえ」
「それどういう意味ですか!」
梓は、さすがに本当にそう思われているわけではなく、
唯や律が小さい子扱いしていたところに、
お店の人がその場のノリで分けてくれたというカラクリだ。
そんな理由で色々なものを受け取っている梓だから、
モノそれ自体から漂うのは、小さい子向けのそれだった。
ヨーヨーなんか、いくつぶら下げているかわからない。
傍から見ればヨーヨー釣り名人として崇められそうだ。
「あ、水鉄砲も貰ったんだ。あとで遊ぼうよ」
「浴衣が濡れるので嫌です」
このままではただ歩くだけでも大変な労力を消費してしまうため、
わたしたちは一旦近くにあったベンチに腰掛けた。
その際、わたしは思い出したように、軽く律の頭上へ手刀を振り下ろした。
容器に入っている焼きそばなどは側に置き、
一先ず綿菓子などからお腹の中に収めることにした。
梓も、大量のヨーヨーや水鉄砲を自分の横に置く。
こちらはまるで、お祭りのおもちゃ箱をひっくり返したかのような様相だ。
夏の薄闇に、屋台の明かりが一際目立って行き交う人々を照らす。
空にかけられた提灯は、淡い光で空気を彩りながら、わたしたちを見下ろしている。
ふっと息を漏らす。
それぞれの明かりに照らされた彼女の頬は、
りんご飴みたいに赤く、綿菓子のようにやわらかそうだ。
ふと、彼女の目がこちらに向いた。
わたしは訳も分からず焦って、右手の綿菓子を一息に食べてしまった。
口の中でふわりとした食感はすぐさまとろけて、甘い砂糖になる。
「澪ちゃん、どうしたの急いじゃって」
「あ、ああ……ほら、こんなにあるし、早く他のところも見たいでしょ」
「それもそっか。じゃ、焼きそば食べるの手伝ってあげよう」
ふふんと声を漏らし、唯は得意げな顔で両手をこちらに差し出す。
ただ食べたいだけだろと苦笑しながら、すぐ側に置いた焼きそばに手を伸ばす。
「あれ」
いくら手を動かしても、焼きそばの容器に手が当たらない。
はっと顔をそちらに向けると、なんということだろう。
焼きそばが容器ごと一切の痕跡なしに消えてしまっているのだ。
「……盗まれた」
「えぇ!?」
そうとなれば大変だ。他に、盗まれたものはないか。
「あ、わたしの水鉄砲とかも盗まれてます!」
なんと梓の水鉄砲や、ヨーヨーの一部も姿を消していた。
それ以外に盗まれたものはないかと、各々で確認する。
財布、携帯、
その他の荷物。全て無事だった。
「ああ、良かった」
「とりあえず近くにあって盗れそうなもんから盗ってったてところか」
「浴衣の袖にしまってるからって、油断しないほうがいいですよ。
酷い人は、こうして後ろから浴衣の袖を切ってしまうそうです」
「げっ、マジか」
今回の盗みは軽いものだったということもあって、
通報は必要ないだろうと判断、
わたしたちは特になにをするでもなく灯りの合間を進んでいった。
♪‐03
時間が経つほど、そして道を進んでいくほどに、人は数を増やしていく。
そんな中で子供たちが迷子になるのはある種必然かもしれない。
「あの、すみません。子供を見ませんでした?」
話しかけてきたのは、大人の女性だった。
そう老けていない。おおよそ三十代前半といったところだろうか。
高圧的な雰囲気を身にまとい、近寄りがたい印象を覚える。
「お気に入りのお面をずっと被っているので、
すぐわかると思うんですけど」
「お面、とはどのような?」
「白い狐のお面です。自分で作って、このお祭りで被るんだって、
前から楽しそうに言ってましたので」
「狐……。すみません、ちょっとわかりませんね」
「そうですか。どうも、ありがとうございました」
女性は大きなため息をついた。
すぐわたしたちへの興味を失った女性は、少し頭を下げてから身を翻し、
周囲を見回しながらずんずん人混みの中を歩いて行った。
「見つかるといいね」
「そうだな」
手作りのお面だと言っていた。
なら見つけさえすれば、すぐにでもわかるだろう。
注意しながら歩いていこう。
そういえば、焼きそば。
不本意に貰ったものとはいえ、食べたくなかったといえば嘘になる。
あったものが無くなってしまうと、途端にそれが恋しくなって、
わたしはきょろりきょろりと、焼きそばの屋台を探していた。
あった。焼きそば、という赤い生地に書かれた黒い文字。
その屋台からは芳しいソースの香り。
羽虫が街灯に自然集まっていくように、わたしはふらりと屋台に引き寄せられる。
と、そのとき。
「あいつだ、捕まえろ!」
太鼓よりもお腹に響く怒声が、わたしの足を止めた。
あまりにも響くから、心臓を握られたような心地だ。
一体なにごとかと怒声をあげる主を探す。
たった今まで引き寄せられていた、焼きそば屋台のおじさんだった。
♪‐04
そして狙ってもいないのに、何故またわたしはタダで焼きそばを貰っているのだろう。
また、なぜ律は腿に軽く蹴りをいれてくるんだろう。
屋台のおじさんが叫んだのは、目の前で盗みが起きたことに対してだという。
どうやら自分の店で焼きそばを買ったお客が、
そこのベンチで休んでいたところ、すぐ横に置いたそれを盗られたらしい。
全くわたしが遭った手口と同様のことだった。
焼きそばを盗まれたお客は、がっくり肩を落としている。
その顔に見覚えがあった。
「あれ、島さん?」
島ちずるさん。同じクラスで、席も近い。
話したことはそう多くないけれど、接しやすい人だという印象を覚えている。
「へえ、澪ちゃんもやられたんだ」
「そうなんだよ」
お互いの状況を伝えあった結果、やはり同様の盗難だということがわかった。
財布は携帯などの貴重品は無事で、焼きそばが盗まれる。
他に水鉄砲などは盗まれてないか尋ねようとしたが、
それは梓だけの特例だろうと控えておく。
「ところで島さん、一人なの?」
「いや。焼きそば買ってきてーって、同じ部活の子に頼まれちゃって」
「おいー、ちずるー!」
島さんの名前を呼ぶ声がした。
見ると手を大きく振って、こちらに近づく人がいた。
「どうしたのさ、遅いよ」
「ごめん、チヨちゃん。ちょっとトラブルでさ」
チヨ、というのがこの子の名前なのだろう。
わたしとは違うクラスだったので、お互い少しのあいだ目を見合わせただけで、
すぐに目を逸してしまった。
島さんは数多くの言い訳を並べていたが、
結局そのチヨさんにぐいぐいと連れられていってしまった。
まあ、焼きそばを買ってきてと頼まれたのに、
ベンチで休憩をしてしまうほどのマイペースを発揮してしまったのが、
運の尽きだったのかもしれない。
ふと後ろを振り返ると、律と唯がひそひそなにかを話していた。
「まさか……あいつに和以外の友達が……」
「いやいや、ただの顔見知りという可能性も……」
二人の脳天めがけて拳が向かう。
♪‐05
「りっちゃん、風邪になったわけでもないのに頭が痛いよ」
「奇遇だな、わたしもだ」
「二人してなに馬鹿みたいなこと言ってるんですか」
梓が呆れたように二人を見る。
と、その視線をそっくりそのままわたしに向ける。
どうしてだ。
いや確かに、梓には少々の面倒をかけた。
二人同時に拳骨を食らわそうと思って、両手を挙げようと思ったら、
その手には焼きそばがあったのだ。これでは片手しか使用できない。
ということで、一旦それを梓に預ける(ここが梓の面倒)。
そしてまた二人のもとに行ったものの、
今度は二人が二手に分かれて逃げ出してしまったのだ。
あとは自動的に、てんやわんやの鬼ごっこが始まってしまって――
そして先程二人をやっと捕まえて、
ついに念願の拳をお見舞いしてやったのだ!
一体梓はわたしのどこに呆れているのだろう。
全部か。
「ところで梓、わたしの焼きそばは?」
「あそこです」
指差した方向には、金髪のぽわぽわお嬢様。
その容貌には似合わず、随分と庶民的な食事をとっているご様子。
「って、それわたしの焼きそばじゃないか!?」
「だって食べたかったんだもん」
「そ、そんな理由で……!」
顔を傾げて、わたしに容器を差し出す。
残りの焼きそばを食べるか、聞いているのだろう。
ということで容器の中身を確認。
残っていたのは、短冊切りにされたニンジン。
以上。
「これじゃただの“ニンジンのソース炒め”じゃないか!」
「ううん、これは焼きそば。“麺と、その他多くの具材抜きの”焼きそばなのよ?」
「無理があるだろ!」
いまのムギはどこかおかしい。
本当はこんな悪いことをする子じゃないはずなのに。
不意に頭を擦っている唯と律が視界に入り、はっとした。
ああ、ムギはこの流れの中に入りたいのだ。
端的にいうと、わたしから拳を一発貰いたいのだ。
ほら、いまもムギは目をキラキラ光らせながらこっちを注視してる。
澪ちゃん、わたしならいつでもいいわよ。
ムギの心の声が聞こえる。以心伝心。友達って素晴らしい。
友達なら、多少の期待に応えるのも、まあ悪くない。と、思う。
それが例え拳骨の一つだったとしても。うん。
「よ、よし、いくぞムギ……」
「ええ!」
そんな威勢の良い返事をもらうと反応に困る。
梓はわたしを見て、また呆れた。だからなんでわたしなんだ。
深く息を吸う。周りを確認する。
紬お嬢様に危害を加える者を排除するような黒い人たちがいないか。
テレビの見すぎと言われようと、わたしの精神はそれぐらい必死だった。
深く長く呼吸を繰り返す。決死の覚悟を決め、拳を握りしめた。
それを大きく振り上げ、ムギの頭上めがけて落とす。
「えいっ」
こつん。
「……だ、だめだぞ、人のもの食べちゃ」
ごつん――、ではない。こつん、である。
いや無理だ、無理に決まってるじゃないか。
こんな純粋な眼で見つめてくる子を殴るなんて。
いや純粋という点では唯も負けてないし、
くりくりの眼も、そりゃあとても可愛くて純粋で、
どこまでも穢れなんて知らないようなものかもしれないけれど、
ムギのこれとは話が別というか。
とにもかくにも、わたしにムギは殴れなかった。
頭にこつんと、握り拳を軽く当てるか乗せるかぐらいのことしかできなかった。
どうしよう。どう考えても期待に応えられてない。
とりあえず笑って誤魔化そうか。
「澪ちゃん、ひどい……」
「えっ」
「わたしとは遊びだったのねー!」
「えぇ!?」
ムギはわざとらしく目を押さえながら、どこかへ走って行った。
待ってくれ。なぜそんな多大な誤解を招く言い回しを採用したんだ。
梓がため息を漏らす。もちろんわたしに対して。だから何故なんだ。
「あー、ムギちゃん泣かせたー」
「いけないんだー、澪ー」
「ち、ちが、これは違うんだ!」
確かに泣かせたのはわたしだけど、いやこれ絶対理不尽だろう。
わたしは逃げるようにその場を離れ、ムギのあとを追った。
ぴんぽんぱんぽん。迷子のアナウンスが聞こえる。
狐面を被った迷子を捜してるという旨。あの女性の子供だろう。
そちらも心配だけれど、今のわたしにとって迷子はムギだ。
その姿を見つけ出すのにあまり苦労はしなかった。
ただ、どこか様子がおかしい。
ムギはじっとなにかを見ていた――というより魅入っていた。
視線の先に目を向けると、茶髪で長身の少し近寄りがたい、
いわゆる“チャラチャラシタ、ワカモノ系”の女性と、
黒髪の、どこかミステリアスで、
だけれど肝の据わったように見える女性二人が向き合っていた。
茶髪の女性は、黒髪の女性が持つたこ焼きに興味津々。
一方黒髪さんは嫌そうな顔をして、たこ焼き屋台の方角を指さす。
――でも、最近バイトあんま入れなくてお金がね。
――知らないよ、そんなの。
――一つだけ、ね、一つだけ。
――じゃあ口開けて。ほい。
口に放り投げられるアツアツのたこ焼き。
当然茶髪の女性は口を押さえながらアタフタ慌てて、
眼に涙をためている――ように見える。
セリフも勝手にわたしが当ててみただけだけど、きっとそんな感じ。
「澪ちゃんも夢中ね」
「うわっ!?」
ムギが視界ににょきっと現れる。
「わたしもあの二人からはただならぬ雰囲気を感じていたの」
「いや、ただ友達同士でじゃれあってるだけじゃ」
「女の子が二人並べば可能性はできるのよ」
「なんてこった」
「それに、想像だけで留めるならタダだもの」
タダを気にするとは、ムギもすっかり庶民派になったようで。
「そういえばあの二人、どこかで見たことあるような」
「同じ学年よ?」
ああ、どうりで見たことあるような気がしていたわけだ。
名前は
立花姫子さんと砂原よしみさんというようだ。
二人とも、わたしと同じクラスになったことはなく、面識はない。
と、視線を感じ取ったのか、砂原さんが不意にこちらを向く。
目が合ってしまい、突然のことで、目を逸らすのもちょっと悪い気がしてしまう。
面識はないのだけれど、こういうときはどうすれば。
「……あっ、縞々の人」
「ひゃぃっ!?」
本当、こういうときはどうすれば。
最終更新:2014年09月28日 10:43