われわれはあまりにうまく「古き良き時代」を模倣することができるようになったので、今ではもう「過去」は存在しない。
——(F・ヤング博士東京特別講義「複雑系シミュレーションとその実践」より)
※
唯先輩は突然わたしに予想もできないくらい変わっていくけれど、憂はいつでも唯先輩に似たままだ。
それは唯先輩が非線形で、憂が線形であることの一つの証明でもある。
線形っていうのはXにこれこれを代入したらYはこうなるってことで、非線形はそうじゃないってこと。まあかなりおおざっぱに言えば。
そういうわけで方程式と代入数がわかれば、線形があらわすものは常に予想できる。
投げたものは放物線を常に描くし、木の玉と鉄の玉は等しい速度で落下する。
でも現実にはそうじゃない。
投げたものは空気抵抗を受けて完全には放物線を描かないし、羽は玉よりゆっくり落ちる。
ただし摩擦や空気抵抗をないものとする。それは現実じゃない。
人間っていうのは現実に生きてる。
まあ十年前までは確実にそうだった。
話を戻そう。
現在における唯先輩の唯先輩らしさ——唯先輩性は、線形だと言える。厳密には非線形だけど、線形として扱うことはかなり簡単にできる。
唯先輩性の方程式にそのときのだいたい状況を代入すれば、唯先輩がそのときとるであろう行動はかなり正確に予想できる。
ちょっとした気圧の違いやそのときコップの位置が1ミリずれてたとかは考慮に入れる必要がない。
カオス理論なんかを持ち出してよく言われる世界の微妙さは人間性とはあまり関係ない。唯先輩はいかなる状況でも唯先輩的な行動をとる。
いつもよりちょっと太陽がまぶしかったからといって急に人を殺し出すようなことはしない。残念ながら。
だから唯先輩方程式は線形である。
だけどここに時間の問題がかかわってくると問題はかなりややこしくなる。
つまり唯先輩方程式は線形的だけど、唯先輩方程式の変化は非線形であるということだ。
唯先輩はいつまでも唯先輩ではない。
唯先輩がそっくりそのまま唯先輩であり続ける可能性は低い。
人は変わる。
ある日突然。
人を変えるのはおおかた周囲に起こるマクロな出来事で、そして未来になにが起きるのかを予測するのはかなり難しい。
だから非線形に変化し続ける線形の唯先輩性は結局のところ非線形だ。
それが線形であるのはある一点においての唯先輩性で、そして憂はそのある一点の唯先輩だった。
憂は高校2年生の唯先輩で、今も高校2年生の唯先輩のまま成長し続けている。
憂は唯先輩が唯先輩のまま大人になっていく。
だからいつまでも唯先輩に似ている。
高校二年生の。
そしてわたしが唯先輩って言うとき、それはたいてい高校生の唯先輩を指している。
たぶん、わたしたちは瞬間には線形なので、線形的に物事を考えるのだろう。あるものは一次方程式のグラフみたいにまっすぐ変化していくのだと。
だからわたしたちは過去にとらわれている。いつでも。
※
——あなたは唯先輩ですか?
プレイヤーA うん、そうだよ!決まってるじゃん!
プレイヤーB Yes.
※
アラン・チューリングは人工知能を初期に定義したことが知られている。
彼の考案した機械に対する判定実験はチューリングテストと呼ばれている。チューリングテストにおいて、機械が人間のように振る舞い、それを人間が機械と見分けられなければ、その機械は知能を持っていると定義される。
質問者が人間か人工知能かわからない被験者と文章でやりとりし、その被験者が人間が人工知能かを質問者が判別するというのが最もよく知られたチューリングテストの形式だが、チューリングがその論文の中で示した原初のチューリングテストはもう少し複雑だ。チューリングは、プレイヤーが紙面上の質問を通して、男性を模倣するひと組の男女のうちどちらが女性であるか判別するパーティゲームをもとに、それを人工知能バージョン化つまり、ゲームの中で人工知能が女性の役割を演じ、男性のふりをしてプレイヤーをだまし、プレイヤーの正答率が先のゲームと同じくらいならばその人工知能は十分に高度であると認められるというテストを考案した。テストは複雑だが、それが示唆するのはつまり高度な人工知能は人間をだますことができるというもので、これは映画なんかの紋切り型のロボット(決して人間に嘘をつかない)に比べてかなり人間らしい特徴であると言えるかもしれない。
人間は嘘をつく、ということだ。
わたしたち——っていうのは、わたしと唯先輩と憂——がよくやってたゲームも原初のチューリングテストによく似てた。
憂は唯先輩の真似をする。唯先輩はいつも通り唯先輩。わたしは別々にふたりにチャットで同じ質問して、どっちが唯先輩が当てる。
わたしは、その、なんていうか、唯先輩については一権威だったから、たいてい正解した。最初の頃は。
ま、ってことはだんだん当たらなくなってきたわけだ。
最初憂がわたしたちのところにやってきたとき——憂は唯先輩のお父さん(よく知らないけどコンピューターの世界的な権威だったらしい)が連れてきた——憂ははがき大の簡素な段ボールの中に入ってて、唯先輩のコンピューターにダウンロードされた。わたしたちは唯先輩のYUIからひとつとってUIって名前をつけた。はじめのころ憂はてんでだめなやつで、しゃべるのは英語だし(これを再設定するには憂と喋ってやんなきゃなんだけど、なにせわたしと唯先輩別に頭がいいってわけじゃないからすっごく苦労した)、唯先輩の模倣プログラムなはずが全然唯先輩に似てもいなかった。わたしたちはさっきのテストを繰り返したり、いろんな唯先輩の情報を憂に食べさせたり(って言い方が唯先輩はお好み)して(その間にわたしは毎日唯先輩の家に通ったりしてその結果まあいつもいっしょにいるふたりが何となく勘違いするようなところからはじまるおまけもあった)、憂を唯先輩化させようと努力した。
憂はそのためにつくられたわけだから、覚えははやかった。一ヶ月もするとわたしはどっちが唯先輩でどっちが憂か当てられなくなってしまった。
憂は元々人間模倣知能——まあいわゆる人工知能だけど、特定の作業のためじゃなくて包括的に人間になろうとする——実験のためにつくられた優秀なプログラムで、だけどそのプログラムは結局憂で最後になってしまった。
憂が開発された直後にすべてがひっくり返ったからだ。
複雑系(ミクロからマクロまであらゆるものがこんがらがって関わってきて個々の要素からでは全体が予想できない非線形をばらさずになんとかそのまま扱おうって考え方)関係の方でちょっとした発見があって、それが非線形処理をかなり高度なレベルで可能にした。それは近似値のより高い包括シミュレーションを完成させ、そのことが結局非線形知能を生み出した。非線形知能は、従来の人工知能がプログラムの結果として人間のような言動を可能にする(チューリングテストからもわかる)のと比べて、その処理経路が人間にかなり近く、そのことは予期しない状況や得意な条件下でも人間性を失わせない。
こうして憂は「過去」になった。
古くなった。
わたしの携帯デバイスも3世代も前のもので、そいつ以降は憂を処理する接続を持っていないのだ。
わたしのポケットの中には憂がいて、よくわたしはそれに話しかける。
梓「いろんなものが変わってくよね」
憂は言う。
憂「でも、わたしたちずっとずっと一緒だよ!」
※
——あなたは唯先輩ですか?
プレイヤーA うん、そうだよ!決まってるじゃん!
プレイヤーB 当たり前じゃん!そんなこともわかんないなんてあずにゃんばっかだなあ。
※
桜が丘宇宙センターで最初のロケット打ち上げがあるので見に行こうと唯先輩を誘った。
唯先輩はやだよ、と言った。
煙草の煙をふかす。
梓「そうですか」
唯「うん、あずにゃんもそっちの方がいいんじゃない?」
梓「なんでですか」
唯「ほら、だって、あの男の人といけるじゃん」
梓「だからあれは仕事で」
唯「へえ、どうだか、あずにゃんはいっつも仕事で忙しいね……この前も」
梓「だからそっちは……」
唯「ま、いいや。わたしはあっちのあずにゃんに会いに行くよ。向こうのあずにゃんは浮気もしないし、わたしが煙草吸うたびやな顔しないし、若いし、かわいいし」
梓「あの……夕飯は?」
唯「後で食べる、おなかすいたら」
梓「せっかく用意したのに」
唯「用意したって買ってきただけじゃん」
梓「そりゃあそうですけど……」
唯先輩はじゃあねって手を振って、チェリオのジュースみたいにどぎつい色の薬を何色か飲む。
β29はそれぞれの色が、人間の視覚野、聴覚野、嗅覚野、触覚野、味覚野に作用して、脳のその部分を興奮させ待機状態にさせる、この状態でものを見たりするとかなりきつく見える、ハイライトの効きすぎた画像を見るみたいに。
しかしβ29の真の効果は眠っているときに起こる。眠ってるとき、待機状態になった五感は、側頭葉(記憶がここにある)の発火とどうじにそこから発生した刺激に鋭敏に反応する。つまり、記憶の再生、過去の復活とともにそれがリアルに体感されるってわけだ。
そしてそんな記憶待機状態にある唯先輩は側頭葉を電飾につないで、いわゆるタイムマシンにつなぐ。
個人用タイムマシンは、だいたいクローゼット一個分くらいの大きさで、値段もそれなりにして、まあ学生じゃ買えないけど、ふつーに働いてれば買える。タイムマシンのなかのプログラムは実は大規模シミュレーションで、体験者は自分の海馬のなかの眠った長期記憶を刺激して(わたしたちは何かを忘れるわけじゃない、思い出せないだけだ)、その様々な評価値をもとにシミュレーションをかける。そうして、過去に——さらに言えば自分が見たいようにあらかじめ入力した要素をもとにタイムマシンの方で再構築した過去に、戻る。
シミュレーターが見せる過去は常に分岐していて、わたしたちはあらゆることを体験できる。
唯先輩は世間で言われるところの過去中毒者で、働いてるかご飯食べたり眠ったりしている(タイムトラベル中も眠ってるけど)とき以外はたいてい過去にいる。
たいてい過去は、わたしたちが高校生の頃で、部室でともだちとくっちゃべって、わたしはいつも唯先輩のそばにいてふたりははずかしいまでにくっついてる(と、唯先輩はいい、そう言うからわたしは唯先輩をやめさせられない。結局それだってわたしじゃないか?)それが唯先輩にとっては「古き良き時代」なのだ。
もちろんわたしにとってもそうなんだけど。
その古き良き時代を過ごしたわたしたちの高校は7年前に取り壊されてしまった。
取り壊されたのは高校だけではない。わたしの家、唯先輩の家、ムギ先輩が乗って帰った駅、公園、よく通った駄菓子屋。
そこを含めた大きな一帯で日本で7番目の、大きさで言えば5番目のロケット発射基地を建設する予定で、それが今日唯先輩を誘った宇宙センターでもある。
その「古き良き時代」の崩壊の日、わたしたち——唯先輩、ムギ先輩、澪先輩、律先輩、(憂)は取り壊された街を見に行った。
恐竜みたいにでっかい黄色い機械が町中をうろうろして、道路は裏返され、建物はみんなどこかへ消えてしまっていて、まるで街に爆弾が落ちたみたい。
そしてわたしたちがいた高校は爆心地にあって、そのときはまだそこに立っていた。
校庭には黄色い恐竜が所狭しと集まっていて、ごうごうぐるぐると囁き声でお互いに何かを伝え合っていて、肉をはがされた校舎はその骨を痛々しく周囲に露出していて、あ!あそこに見えるの音楽室じゃない?とムギ先輩が言った。
わたしたちはまるで映画でも撮ってるかのように五人並んで(右からわたし唯先輩ムギ先輩澪先輩律先輩)、校舎を眺めていた。
窓ガラスが落ちた、のが見えた。
スローモーションで。
接地点にひびが入って、そこから全体に広がる、それからそれぞれの破片が中心に対して放射を描くように分離した。
いやあ、と律先輩が声を出す。
すごいな。
唯「びっくりするねー」
梓「別にびっくりはしない」
澪「……さびしいな」
紬「ねー」
律「梓、泣けよ」
梓「なんでですか」
律「絵になるだろ」
唯「あずにゃん泣いたらわたしも泣こーっと」
梓「意味わかんないです」
律「あはは」
澪「なにがあははだ!」
律「なんで叩いた?」
澪「いや、何となく。ほら、絵になるかなって」
紬「じゃあわたしも!」
律「わたしの頭は、そんなに軽いもんじゃねーから、いてーし」
梓「でもほんと言えば悲しいですね」
紬「そうだね、なんだか、わたしたちの思い出がなくなっちゃう感じで」
唯「心配することはないんだよ。だってあの頃はみんなここにちゃんとあるんだからね」
唯先輩は律先輩の頭を叩いた。
それでわたしたちは笑ったものだ。
帰りに居酒屋でみんなでお酒を飲んだ。
いろんな話をして、昔みたいにあんな感じで、楽しかった。
あの頃はちゃんとこうして続いてる、そんなふうに思った。
ま、たしかにそれはちゃんとわたしの頭の中に残っている。側頭葉のどっかには。そしてそこにあれば、それはいつでもここにある。
今、タイムマシンで、あの瞬間に行ったとしても、わたしは笑えないだろう。
あの頃は続く。
唯先輩の部屋で這うようなうなり声を上げるあの機械とドラッグのふらふらの中で。
※
——好きな食べ物はなんですか?
プレイヤーA お母さんのつくったハンバーグ!
プレイヤーB アイス!チョコのやつでぱりぱりしたやつがいいなあ……あ、おなか減ってきちゃった……。
——どうしても欲しいギターがある、お金がなかったらどうしますか?
プレイヤーA ムギちゃんパワーで……じょ、じょうだんです。
プレイヤーB ギー太より欲しいギターは絶対にないもん!
——好きな人はいますか?
プレイヤーA あずにゃん!
プレイヤーB あずにゃん!
——いままで一番印象に残ってる出来事は?
プレイヤーA 二年の時の文化祭!
プレイヤーB あずにゃんとはじめてしたとき!
——たぶんBが憂ですね。
プレイヤーB せいかい!なんでわかったの?
——唯先輩の性的なことにたいする恥ずかしがり方は普段からは想像もできないですから。
プレイヤーB ふむふむ、記録します。レコーディングします。
プレイヤーA や、やめてよっ。恥ずかしい!
〈これで今日のテストを終わりにします。模倣値88、88。これから長期修正を行いますので修正中は起動を行わないでください。それでは、おやすみなさい——ぷちん〉
※
ロケットが夜に上がるのは、それが人類の夢に直結しているからだ。
わたしたちは、夜、黒々と広がる空を眺め、その向こうをいつでも思い描く。空に浮かぶたくさんの星、そのずっと向こうの誰かが生きる星、特別な色を持つ星、出会わなかった誰かに出会う星。
冷たい夜と満天の星空、そこへ向けて一直線に燃える炎。
それがわたしたちの抱いていた宇宙の夢だ。
実際には、単に視界が不良好で、精密性を欠く可能性があるという理由で多くのロケットは昼に上がる。
夜に上がるロケットの数は少なく、日本で打ち上げられているロケットの20パーセントがこれにあたる。そのうちの半分が軌道計算の要請によるもので、残りの半分の半分が地球間ロケットの夜間便である。そしてそのほかが観光用ロケット——いわゆるロケットの夢を叶えるために、わざわざ夜を選んで飛ぶロケットである。
今は、9時で、よく晴れた日だった。
空を見ると、星が見える。
ロケットの基地の近くにはたくさんの関連企業が集まって一種の産業地帯が形成されてるので、そこでは昼夜問わず明かりがぴかぴか輝いて、煙がもくもく上がっていて、空は狭く汚れて、だからあまり星がよく見えないなんてジョークがよく言われるけど、それでもふつーに星は見えるのだなあ、となんだか拍子抜けした。
桜が丘の郊外の土手(唯先輩とふたりでギターの練習としたとこではない)にはロケットを見に来たたくさんの人が集まっている。こども連れの家族とか、物好きなカップルとか、大学生の集団とか、気合いの入った人たちは前の方を陣取ってレジャーシートなんかを敷いてたりして、三分の一の人はビールを持ってる。少し離れたところでは出店もでてて、焼きそばが食べたかったけど混んでたから行かなかった。
唯先輩も来ればよかったのにと思う。
唯先輩はこんなお祭り騒ぎが大好きだったはずで、わたしはちょっと苦手だった。
憂「どんなふうになってる?」
と、憂が聞くので、わたしは周囲の状況を説明してあげる。
憂「梓ちゃんはひとり?」
梓「憂を勘定に入れなければね」
憂はわたしのことをもうあずにゃんとは呼ばない。
わたしがそう教えたからだ。
実際のところは相変わらず唯先輩はわたしのことをあずにゃんあずにゃんと呼び、唯先輩がわたしのことをまだそう呼び続けるのは、唯先輩にとってまだ高校生は昨日、いや今日のことだからかもしれない。
憂にはそう呼んで欲しくはない。
なぜなら、憂は唯先輩じゃないから。
少なくとも、もう違う。
憂「ム……わたしだって努力してるんだよ! あずにゃんはきびしい」
憂ならそう言う。
でも、努力してもたいていうまくいかないというのが、唯先輩じゃなかったっけ?
憂「なんだか花火大会みたいだね!」
と、憂は嬉しそうに言った。
梓「たった一発分の」
憂「おっきいやつ!」
梓「ま、爆発もしないけどね」
憂「爆発したらことだもんね」
もしかしたら爆発するかもしれないな、なんてことをわたしはちょっと考えてみる。
花火みたいに、ばーん、と。
ここからだと打ち上げ予定のロケットは、工場に阻まれて、屋根部分しか見えなかった。
真っ赤な屋根。
そいつはセレモニー用のやつで、無人機で、軌道計算なんてものもなくただ宇宙の彼方の後退する無のなかに向かって慣性の法則に従って永遠に(おそらくは途中で何か宇宙的なものにぶつかって壊れるだろう)進んでいく、あのアニメなんかによくある三角屋根に長方形の身体、円い窓の復刻版(ロケットが夢の時代の復刻)ロケットだった。
集まった客たちがざわつき始めた。
そろそろ打ち上げの時刻だろうか、と思ったときに誰かがわたしの肩を叩く。
梓「澪先輩!」
澪「久しぶりだな」
梓「澪先輩も見に来たんですか」
澪「うん、唯は一緒じゃないのか?」
梓「そうですね。まあ、忙しいらしいので」
澪「ふーん、唯とはうまくやってるの」
梓「まあまあですよ。なにもかもがいいってわけじゃないですけど、そういうものですよね」
澪「そうだな。まあ梓と唯は心配ないよなあ。高校生の頃からあんなに仲良くて、つきあい始めたときもあんま驚かなかったもん」
梓「あはは……澪先輩はひとりですか?」
澪「いや、家族できたよ。たぶん向こうにパパとママがいると思うけど」
梓「そうなんですか」
澪「それにしても、すごい人だかりだなあ」
梓「ですねえ」
澪「昔わたしたちがいた高校がロケット基地になるなんてなんだか感慨深いよな」
梓「わたしたちもまっすぐ飛んでいっているといいんですけどね」
澪「うまいこと言ったな」
梓「べ、別にそんなつもりじゃ」
澪「じゃあ家族待ってるからそろそろ行くよ。今度また久々にみんなで集まろうな」
梓「そうですね、じゃあ」
澪「うん、ばいばい」
澪先輩が遠ざかっていく。
ちょうどそのとき音がした。
割れるばかりの轟音。
赤い光が集まる人々を照らした。
銀色の塊が空に浮かぶのが見えた。
そのしっぽから、赤、黄色、青、紫、と移ろう炎が伸びている。
ゆっくりと、そしてだんだんはやく、それは小さくなっている。
熱い風がここまでやってきた。
ロケットの風は、川を揺らし、木々をざわめかせ、人々の歓声を聞き、ここまでやってくる。
わたしのほっぺたを叩いた。
この光景を見た憂のはしゃぐ姿がとってもよく想像できた。
あれ見て、あれ、たぶん、わたしたちあそこに乗ってるよね!だってわたしたちのいたところから上がってるんだもん!
わたしはただ立ち止まってそれを見ていた。
黒い夜のカーテンを引き裂いて、おもちゃみたいな炎を吹き出す銀色の大きな空っぽの星は、空を満たすたくさんの輝きの一部になり、そして消えていった。
※
——ハネムーンはどこに行きたいですか?
プレイヤーA 宇宙に行く!
プレイヤーB あずにゃんの行きたいとこならどこでも!
——別にわたしととは言ってないですよ。
プレイヤーB 違うの?
——いや、まあそうですけど。
プレイヤーA 自意識過剰だ。
プレイヤーB あずにゃんは自分のかわいさに絶対の自信を持ってるんだよ。
——そ、そんなことないですよっ。
プレイヤーAB かわいい。
——かわいくないですっ!
※
最近、唯先輩の帰りが遅い。
っていうのは、仕事から帰ってくるのが遅いとか遊びに行ったらそのまま夜遅くまで戻ってこないってことじゃない。唯先輩がタイムマシンにつないだらその後なかなか戻ってこないってことだ。
最近、唯先輩は過去からの帰りが遅い。
いままでは、少なくとも、わたしがベッドに入って眠るまでの間には、唯先輩が戻ってきて、隣の布団の中に滑り込むのがわかったものだった。いまは、ずっと自室にこもって出てこない。いつなにをどうやって食べてるのかもわからないし、いつ寝てるのかも知らないし、いったいどのくらい過去にいるのかというのも不明なままだ。
時々、心配になって部屋の扉を開けると、いつでも唯先輩は過去につないでいて、そして眠っている。髪はぼさぼさで、何となくやせ細っているように見えるし、顔に疲労が浮かんでいるのもよくわかる。お風呂だってもう何日も入っていないのだろう、唯先輩のにおいがした。過去につないでいる間は外界のどんな音にも反応しないし、揺すっても叩いても起きない。わたしにできるのはβ29が切れるのを待つか、唯先輩が自発的に過去から戻ってくるのに任せるだけで、一度はタイムマシンの主電源の方を立ってしまおうかとも思ったのだけど、そうしたことでとりかえしがつかない精神支障を来した事例を聞いたこともあるから何となく踏ん切りがつかない。
一度だけこちら側にいる唯先輩と見たことがある。
ある日、部屋から出てきた唯先輩は、とても焦っているようで、というのは部屋にストックしてあったドラッグが切れてしまったらしくて、急いでそれを取りに来たのだった。
わたしは唯先輩に話しかけようと、もっと言えば唯先輩を止めようと試みたのだけど、唯先輩はうわごとのようにあずにゃんが死んじゃったあずにゃんが死んじゃった、と呟くばかりで、まったく話にならない。
唯先輩にはわたしが見えていないのだ。
唯先輩の中で、わたしは死んでいて、わたしは幽霊としては未熟なので、唯先輩の目には映らない。
そして、ばたん!と扉が閉じる音がして、唯先輩は過去にいた。
部屋の中には、うなるような音を立てるタイムマシンが立ちはだかっていて、その前で死んだように深く眠る唯先輩がいて、そしてその頭には電飾が刺さっていて、ここではないどこかにつながっている。
わたしは部屋の中でひとりだった。
憂が言う。
憂「それで梓ちゃんはどうするつもり?」
梓「わからない」
憂「おねーちゃんに直接言えばいい」
梓「ことは複雑なんだよ。憂」
憂「複雑な問題に対してむりやり単純な解法を示すことで、とにかく行動させるのがおねーちゃんのいいところだと思うけど。たいていの場合行動し続けることは、前向きなフィードバックが発生させて、いつの間にか問題が解決するかあるいはいろんな新しいことが入ってきて問題自体を忘れることにつながるよ」
梓「空計算領域に勝手にアクセスするな」
憂「あずにゃんのけちー」
梓「はあ……」
憂「人間の脳みその半分は使ってないって言うけど、ほんとは信号オフって情報を送ってるんだよ」
梓「それが?」
憂「わたしだって計算領域の全部を使ってもいいはずだよ」
梓「今までそんな文句言ったこともなかったくせに」
憂「ふふふ……優秀なロボットがいずれ人間世界を乗っ取るんだよ」
昨日テレビでやってた「アイ・ロボット」なんか見なきゃよかったと思った。
梓「脳みそがどうとかそういう情報をどこで知るわけ?」
憂「インターネット」
梓「あれは有毒だ」
憂「タイムマシンとどっちが?」
梓「それは……まあとにかくこの場合の問題は、問題自体の複雑さに唯先輩が絡んでるってことだよ。それで唯先輩風の単純解法がうまくいかない」
憂「まあ、ねえ。おねーちゃんがもういっこあればいいんだけど」
梓「憂がいるじゃん」
憂「行動すべし、とわたしのなかのおねーちゃんは言ってる」
というわけで、わたしたちはタイムマシンに接続する。
※
——タイムマシンがあったらいつに行きたいですか?
プレイヤーA ジュラ紀。
プレイヤーB 10年後!見てきたい!
——ジュラ紀っていつか知ってるんですか?
プレイヤーA うーん……でも、タイムマシンって言えばジュラ紀じゃない?
——まったく……。
プレイヤーB ジュラ紀(ジュラき、Jurassic period)は現在から約1億9960万年前にはじまり、約1億4550万年前まで続く地質時代である。三畳紀の次で白亜紀の一つ前にあたる中生代の中心時代、あるいは恐竜の時代と言える。ジュラ紀の名前は、フランス東部からスイス西部に広がるジュラ山脈において広範囲に分布する石灰岩層にちなみ、1829年にアレクサンドル・ブロンニャールにより提唱された。その後、1962年と1967年に開かれた国際ジュラ系層序小委員会により、11の階(期)の区分が確立された(時代区分参照)。なお、漢字を当てる場合は「侏羅紀」となるが、一般的ではない。だよ!わたしって頭いい!
——お前は勝手にインターネットにアクセスするな。
プレイヤーB えへへ。
※
そこはとても寒かった。
とても寒くていまにも体中が凍っちゃいそうで、自分の身体を抱きしめようとして、そしてわかった。
わたしはいなかった。
どこにも。
暗闇の中にひとりでいたのでも、いわゆるどこでもないところにいたわけでもなく、意識がだけがふわふわとあったのでもなかった。
ただわたしはいなかった。
それはよく覚えている。
次に気がついたときには、憂の中にいて、憂はわたしにこう言う。
梓ちゃん、死んでたよ。
梓「いったいどういうこと?」
憂「ここどこか覚えてる?」
憂の目を通して景色が見えた。
見て、すぐにどこかわかる場所。
三股に分かれたアスファルトの細い道。カーブミラーに憂の頭のてっぺんが見えた。
垣根の向こうの庭の木が紅葉しているから秋だろうか。
梓「確かムギ先輩の駅に向かう曲がり角だよね、ここでムギ先輩とお別れして、右に行くと純の家があったところだ。まっすぐ帰った」
憂「えーと、そうじゃなくて。つまり、この、なんていうんだろう。世界が?」
それでわたしは思い出した。
梓「あ、そっか、えーと過去か。唯先輩のタイムマシンにつないで、ここはどこ?」
憂「あるいはいつ?」
梓「そう」
憂「梓ちゃんはどこにもいない」
梓「どういうこと?」
憂「死んでるんだよ。そう、死んでて。だから計算機にアクセスしてわたしをおねーちゃんの妹ってことでシミュレーターに組み込んで、そのなかに梓ちゃんの認識経路を通したんだ」
それでまるで憂が見るように世界が見えるのか。
梓「唯先輩はどこに?」
憂はなにも言わずに歩いて行く、道を戻って、大通りに出た。そこには人だかりができていて、そうだ、あそこはクレープ屋で唯先輩が好きだったからよくふたりで行った。
梓「繁盛してるね」
憂は——と言うことは、つまりわたしのしたように感じられるということでややこしいけれど——人だかりが見つめる地点を指さす。
バンパーのへこんだトラック、警察車両、救急車、サイレン。
血?
憂「さっきまでおねーちゃんはそのあたりにいたんだけど……」
梓「誰が轢かれたの?」
わたしはそこまで言って、やっと気がつく。
梓「わたし?」
憂「うん」
と、憂が頷く。
憂「わたしが来たとき、ちょうど梓ちゃんが轢かれるのが見えたんだよ。おねーちゃんは呆然と立ってて、救急車がいま出たから、そこに乗ってるのかな?」
梓「生きてたの?」
憂「ばらばらではなかった」
梓「シミュレーションだとしてもいやな気分だ」
憂「轢かれる前に来なくて良かったと思うよ」
と、憂はあまり慰めにならないことを言う。
わたしは死んでた。
いったいどういうことだろう?
最終更新:2014年11月09日 11:11