一日の仕事を終えてアパートに戻ると、 部屋の外にまでビーフシチューの匂いが漂っていた。


「あずにゃんおかえり〜!」

「あずさっ、おかえり」

「…ただいまです。もしかしてごはん、待っててくれたんですか」

「だってあずにゃんとごはん食べたいもん」

「頑張って仕事して疲れて帰ってくるのに、先に食べてちゃ悪いだろ」

「…ありがとうございます」


あれから三日。
以前住んでいたマンションの契約も切れてしまい住む場所がない、と言われては放り出すわけにもいかず、住居が決まるまで当面の間、唯先輩は我が家に居候することになった。

律先輩はどうせ居候するなら自分の家に来いって言っていたけれど、唯先輩はわたしのところに住むと言って頑として聞かなかった。

…いままで離れていた分、わたしと一緒にいたいと言って。

ここで引き下がってしまっていたら三行半を叩きつけるところだったけれど、さすがにそこまでのヘタレではなかったみたいで、


『じゃあわたしも梓んちに住む』

『…なんで????』

『あーほら。久しぶりだろ?唯と会うの。なんかさーちょっとの間だけでも一緒に暮らしてわいわいしたいじゃん…みたいな?』


そうですね!たのしいじゃないですか!ちょっとの間でも三人暮らししましょう!…とわたしも賛同したものだから、「えぇ〜…あずにゃんとふたりきりがいいのにぃ…」といいながらも唯先輩は渋々受け入れてくれた。

本心は、なにが『みたいな?』だ。はっきり言えよ。このヘタレカチューシャ!(最近の律先輩はカチューシャをすることはほとんどなかったけれど)と心の中で毒づいていたけれど。



「あずにゃん、お風呂にする?ごはんにする?それとも…」

「ごはんにしましょう。お二人ともおなかすいてるでしょ?お待たせしてすみません」

「あずにゃんのいけずぅ…」


ビーフシチューは想像していた以上においしかった。


「ねぇあずにゃん。今日の晩御飯はどっちが作ったと思う?」

「唯先輩」

「正解!よくわかったね!」


律先輩が作った料理は、絶対にわかる。


「ホントはね、ホワイトシチューにしたかったんだけど…」

「梓はホワイトシチュー嫌いなんだよ」

「ウソ。そんなことないよぉ。昔よく一緒に作って食べたもん」

「…嫌いです」

「えぇ〜…」


わたしはずっと強くなった。三年半前よりもずっと。
時間が経って、随分と大丈夫になった。
でも、それでも。あの頃のことを思い出すのは怖い。唯先輩のつくる、あったかくておいしいシチューを食べて、あの頃を思い出すのが怖い。
しあわせだった頃を思い出して、気持ちが盛り上がったその後に、もう二度とその頃に戻れないという事実をまざまざと思い知らされるのが怖い。その落差に耐えられるんだろうか。


「唯、料理上手くなったんだな」

「まあね。あっちのレストランで住み込みで働いてたりしたこともあったから、そのときに」

「ふぅん」


三人暮らしは意外に楽しくて、まるで学生時代に戻ったみたいだった。

一緒に生活するようになってからの律先輩は、忙しい仕事を定時で切り上げて帰って来る。
わたしと唯先輩をふたりだけにしないように。

それは嬉しいことだったけれど、もうちょっとはっきりしてくれたらな。人のこと言えないか。



ビールが切れた。三人暮らしはアルコールの消費も早い。


「わたし、買ってきますね」

「じゃあわたしも付き合うよ」

「わたしも行く!」フンス!

「いや…別にビール買いにいくだけですから三人揃っていかなくても…」

「そうだよ、唯は留守番してな」

「え〜りっちゃんが留守番しててよぉ。わたしがあずにゃんと一緒に買い出しにいくからぁ」

「じゃあわたしが留守番しています。先輩たちが買い出しに行ってる間にお風呂に入ってきますから」

「ならそういうことで。行くぞ、唯」

「ちぇっ。寒いしヤダなぁ外出るの」

「文句ゆーな」

「あ、あずにゃん。このマフラー借りるね。外寒いから」

「ダメです!そのマフラーに触らないで!」


思わず大きな声をあげたわたしに驚いた唯先輩は、動きを止めた。


「…唯、それは梓のだ。わたしの貸してやるから、これ使え」


律先輩は首に巻いたマフラーを解いて、唯先輩に手渡す。
唯先輩は小声で「ありがと、」とつぶやいて、わたしの方を見ることなく二人は出て行った。

カーテンをあけると、秋の夜空にオリオン座がきれいだった。
もうすぐなくなっちゃうかもしれないなんて話も聞く、オリオン座。
毎年決まった季節に決まったように夜空に輝いている星だって、永遠じゃないんだ。
それなら人間なんて。なおのこと。

しばらくすると窓から二人の姿が見えた。何をしゃべっているのかはわからない。何か言い合いをしてるようにも、じゃれあってふざけてるようにも見える。
わたしは二人の姿が見えなくなるまで見送った後、お風呂に入った。



「律先輩、何か言ってました?」

「何かって?」

「いやだからそのぅ」

「ああ、だいたい想像つくよ。アイツのことだから。はっきりしないんだろ」

「まぁ、そうです」


チェーン店ではない、少し洒落たコーヒー専門店でカフェオレを飲みながら澪先輩は言った。


「でも態度をはっきりさせないといけないのは梓の方もだろ」

「それはそうですけど…でも律先輩がはっきりしてくれないことには」

「どうかな。律がどういう態度をとるかよりも梓がどうしたいかの方が大事だろ。
 じゃあ梓は律が身を引くって言ったらそれに同意するつもりなのか」


正論だった。わたしは何にも言い返すことができなかった。


「律が煮え切らないのも、唯が自分勝手なのもわかる。そのことで梓が悩んだり、苦しんだりしてることも。
 三人で生活して久しぶりに学生のときみたいな気分に戻って楽しいのもわかる。
 でもそんな中途半端なぬるま湯みたいなことしてたら、
 結局二人のことを傷つけるだけだぞ」


店内には洒落た音楽がかかっている。この間の居酒屋とは全くちがう雰囲気だ。
そういえば澪先輩と二人で飲んだことはなかったな、と思った。



「わかってます。唯先輩にははっきり言おうと思います」


唯先輩がいなくなってからしばらくの間。わたしは夜、あまり眠ることができなくなった。
もともと少食な方だったけれど、さらに食べる量は減ったし、気分を変えようとギターを弾いてみても、集中できずにすぐにやめてしまう。大好きだったチョコバナナタルトの味だって、すっかりわからなくなってしまった。
まわりのものに興味が持てなくて、ボーッとしていることが多くなった。

それでもきちんと職場には出ていたし、やるべきことはそれなりにやっていて、同僚と笑いながらランチをしたり、上司のつまらない冗談に付き合ったり、お客さんにはいつもより深い角度でお辞儀したりしてた。

わたし、すごいじゃん。ちゃんと大人じゃん。

…他人から見れば当たり前のことだから、誰も褒めてはくれなかったけどね。

先輩たち以外は。

わたしのことを心配した先輩たちは、それまで以上に頻繁に連絡をくれたし、4人で会う機会も増えた。
わたしはとにかく笑顔でいようと努めた。

『まったくもぅ唯先輩ってむちゃくちゃなんだから!ホント、わたしのことも少しくらいは考えて欲しいです!』なぁんていつもみたいな調子で言ってみたりなんかしちゃったりして!

でもわたしの演技が下手くそだったせいか、付き合いの長い先輩たちの洞察力が優れていたせいか、わたしの底の浅い強がりはバレバレだったみたいだ。

最初は唯先輩に対して腹が立って仕方がなかった。
なんで急にこんなことをするのか。なんで何も言ってくれなかったのか。いつ帰ってくるのかも言わないで。
せめて、待っていてほしいのか、別れたいのか、はっきり言って欲しかった。

でも時間が経って段々と考えが変わった。

唯先輩がそうしたんじゃない。わたしがそうさせたんだって。
わたしが唯先輩にとっての居場所でありさえすれば、先輩がどこか遠くに行ってしまうなんてことにはならなかったはずだから。



「あの、澪先輩」

「なんだ」

「もし…もしですけど。放課後ティータイムが今でも続いていたら。学生時代みたいにバンドできていたら、唯先輩は外国に行ったりなんかしなかったんでしょうか」


わたしという存在だけで、唯先輩をつなぎとめることはできなかった。でも。
唯先輩にとって、かつて居場所であったけいおん部やバンドがあったら、どこかに行っちゃうなんてなかったんじゃないか。



「さぁ…どうだろうな。それはわからないよ。やり直しなんて効かないしな。それに人は変わっていくだろ。ずっと同じところに居続けることはできないと思う。でも…」

「…でも?」

「いや。変わらないものもあるかもしれないと思ってさ」

「何がです?」

「唯にとって梓はさ。今も昔も大事な存在だってことだよ。
 唯が梓にしたことは自分勝手で酷いことだと思うよ。でもさ。唯が梓のところに戻ってきたことだって事実じゃないか。
 唯も梓もわたしだって…たぶん昔のままじゃないと思うんだけど…でも唯は梓のところに帰ってきた。
 それは唯にとって梓が帰りたい場所だったから。大切な存在だったからじゃないか」

「そんなの…勝手です」

「まぁ…な」


わたしがどれだけ傷ついたか、それを思えば少しくらい唯先輩を苦しめてやったって罰は当たらないと思う。でもそれは律先輩を苦しめる理由にならない。

それに。
唯先輩がああいう行動に出たことだって、わたしに責任がないわけじゃないのかもしれないし。



あの頃のわたしは一人でいるとロクに食事さえもしなかったから、心配した律先輩が声をかけてくれて、美味しいと評判のレストランに連れて行ってくれたり、家に食事を作りに来てくれたり、わたしが律先輩の家にお招きされたり、よく面倒を見てもらった。

はじめの頃は味覚がすっかりバカになっていて何を食べても味がわかりはしなかったのだけど、次第にそれが治っていったのは、律先輩の料理の腕前によるものだけではなかったと思う。

あれはその年の暮れだった。

いつものように、律先輩の家に遊びにいく。

『梓ももう少しくらい料理のレパートリー増やさないとな』なんていつも言われて最近少し料理の勉強をしている。
だから時々は教えてもらいながら、わたしが作って先輩に振る舞うこともある。
先輩は美味しいよって言って笑ってくれるけれど、到底律先輩にはかなわないってわかってる。
律先輩の手料理は何よりもおいしい。

それなのに、その日の律先輩自慢の手料理には一切手がつけられなかった。

わたしが家に着く頃にはコタツの上に並んでいた晩御飯。
今日は冷えるから、あったかいものがいいと思って、と自慢げに笑う律先輩。

平気な顔して食べようと思ったのに…無理だった。

もう大丈夫だと思ったのに。
食卓に並んだその日の晩御飯を見た瞬間、かつての記憶がフラッシュバックされて、自分でも気がつかないうちに声をあげて泣き出してしまっていた。

わけも分からず泣き出して、涙の止まらないわたしを、律先輩はやさしく抱きしめて、背中をさすってくれた。


ごめんなさい…ごめんなさい…せっかく作ってくれたのに…ごめんなさい…。
わたし…たべられない…シチューは…たべられない…です…ごめんなさい……。


律先輩は「いいよ、気にすんな。わたしの方こそ、ごめんな」そう言って、ずっと背中をさすってくれた。わたしが眠りにつくまで、ずっと。



「梓はもう、十分に知ってると思うんだけど。それでも一応言っておきたいことがあるんだ」

「何でしょう?」

「律はさ。ずっとお前のことばかり見てたぞ。昔から。
 梓が唯と一緒にいるときも、ずっとな。
 それは今だって変わらない。一番近くにいたわたしが言うんだから間違いない」

「澪先輩は…わたしがどっちとくっつけばいいと思ってるんですか」

「どっちとかそういうんじゃないよ。だって二人ともわたしの大切な友達だ」

「まぁそりゃ、そうなんですけど。なんかこう、アドバイスとかないんですか。先輩として」

「梓が思うようにしたらいいと思うよ。決めるのは梓自身だ。
 他人がどうこう言える問題じゃない」

「…ムギ先輩とおんなじこと言いますね」

「ああ、そういえばこないだも二人で飲みに行ったんだって?仲良いよな」

「まぁ…あ、でもそういうのじゃないですよ!腐れ縁みたいなものです!」

「わかってるって。慌てるなよ」


「なんだよ、腐れ縁って…」ツボに入ったらしく澪先輩が笑う。
その笑顔を見て、なんだ、この二人、結構うまくいってるんじゃないのって思った。



朝方から降り続けた雨が夕方過ぎになってようやく上がった。

その日はわたしの誕生日で、平日にも関わらず集まってくれた先輩たちが、パーティを催してくれた。
洒落たレストランでも予約しようか、と澪先輩は言ってくれたけど、気兼ねなく騒ぐなら家の方がいいんじゃないか、ってことになって、パーティはわたしの家で開催された。パーティといっても鍋を囲んで、最後にケーキを食べるだけだったんだけど。

随分とビールを買い込んでいたし、先輩方の持ち込みのお酒もたくさんあったはずなんだけど、その日はいつにも増してペースが速かったのか、あっという間に買い置き分はなくなった。


『梓は主役なんだから部屋で待ってて。わたしが代わりに行ってくるから』


買い出しに出ようとしたわたしを澪先輩が止めた。『じゃあわたしも行く!』とムギ先輩も一緒に出かけて行った。部屋に残されたのは律先輩とわたしの二人。


『あ、梓。えーっとあのな、これ…』


おずおずと差し出されたのは、先輩たち三人からの分とは別に、律先輩個人からのプレゼント。

それは縞模様の可愛らしいマフラーだった。


『べ、別に怨念とか込めてないぞ。今時手編みってのもどうかと思ったんだけど、最近ちょっと編み物にハマっててさぁ…』


マフラーは百貨店の店頭に今年の新作として並んでいてもおかしくないくらいの出来栄えで、プレゼントをくれたことの喜びより先に、律先輩の腕前に感心してしまった。
昔はミシン縫いもできなかったくせに。ボタンつけはうまかったけど。この人ホント女子力高いよなぁ。
そんなことを考えてしまっていたから、マフラーを見つめて、わたしはしばらくの間黙ったままだった。


『あ、もしかして、気に入らなかった…か?梓の普段のファッションの雰囲気とか考えて、似合いそうなデザインにしてみたつもりだったんだけど…まぁ最悪腹巻の代わりにでもしてくれよ!ハハ…』

…腹巻になんかしませんよ。ありがとうございます。すっごく嬉しいです。


そう言ってわたしはくるくるっとマフラーを巻いてみせた。


…似合いますか?

『うん。よく似合う』

…これで今年の冬はあったかく過ごせそうです。

『そりゃよかった。喜んでくれてなによりだ』


そういう律先輩の方がうれしそうだった。



買い出しに行った二人はなかなか帰ってこない。

わたしはカーテンを開けて、窓の外を眺めた。二人の姿は見えない。


『今日も星が綺麗だなぁ』

そうですか。ちょっと曇ってますけど。あんま見えませんよ、星。

『そ、そうか。でも秋の空は綺麗だよな。晴れの日は気持ちよくていいよなー』

わたしは、秋に降る雨も嫌いじゃないですけどね。

『ですわよねー…。秋の雨もいいわよねー…な、なぁ、梓』

はい。なんですか。


本人は至って自然を装っているつもりらしかったのだけど、こちらとしてみてはバレバレで、なんともかんとも待ってるこっちの方がハラハラして落ち着かない。


『つ、月が…』

はい。

『…綺麗デスネー……』ナンチャッテ

…だから曇ってますけど。


この人にはがっかりだ。心底がっかりだ。


『いや、その、だから、さぁ…ほら。そういう意味ジャナクッテ』

…どういう意味ですか。

『あー、えーっと……なんだ、あれだよ。あれ。曇っていても月が綺麗だって話だよ。ハハ…
 …梓はどう思う?』

…じゃあ答えますね。今夜の月を見て綺麗だとは思いません。曇ってますから。これでいいですか。

『…』



律先輩は黙ってしまった。このヘタレっ。
わたしはこれ見よがしに大きくため息をついた。


『だ、だよな!今日はちっとも月が綺麗じゃないよな!ハハ…わたしの勘違いだったよ恥ずかしー!』


照れ笑いでごまかそうとする先輩に腹が立って、わたしは思い切りお腹の真ん中あたりにエルボーを喰らわせた。

ぐえぇっ、というカエルみたいなみっともない声をあげて、律先輩はうずくまった。


…情けないですね。これしきのことで。

『いや…マジ…痛かったんだって…』

…そういう卑怯な物の言い方はよしてください。

『…うぅ……どういうことだよ』


自分で全く気がついていないのかこの人。
へたりこんでお腹を押さえながらみっともない表情でわたしを見上げて尋ねる。


…なんとでも取れるような曖昧な言い方は嫌いです。ズルいです。


今まで仲良くやってこれたのに、その一言で関係が壊れてしまうことがある。
それが何より怖い。

でも、想いを伝えたい。どうしても伝えたい。だから勇気を振り絞る。

それでもし、想いが受け入れられなかったとしても。
伝えようとした想いは、振り絞った勇気は。それだけはきっと相手に通じると、わたしは思う。

それなのに、曖昧な言葉で、濁すような表現で、自分の気持ちをぼやかした形で伝えようとするのは、卑怯者のやることだって思う。


まったく、ヘタレなんだから。


…じゃあヘタレの律先輩に代わってわたしの方からお伝えしたいことがあります。

『ヘタレゆーな!』

…ヘタレでしょうが!もういいから黙ってわたしのいうことを聞いてください!

『……はい』

…言いますよ。ちゃんと聞いていてくださいね。

『…はい』


行儀よく正座しちゃって、可愛いんだから、もう。


「…好きです、律先輩。大好きです。どうかわたしの側にいてください。これからずっと。」


夜風が窓を揺らしてガタガタを音を立てる。
澪先輩もムギ先輩もまだ帰ってこない。
部屋に二人。わたしも律先輩だけ。

まるで犬みたいな目をしてわたしを見つめて。

誕生日の夜は更けていった。



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最終更新:2014年11月11日 08:07