*
『悪いっ!今日はどうしても定時で上がれなさそうだ。
梓より遅くなりそうだから、適当に時間潰しといてくれないか??』
しとしとと雨の降る晩だった。
メールに気がついたのは電車に乗る前だったけど、この機会に唯先輩に話をつけるにはいい機会だと思って、わたしはまっすぐ帰ることにした。
でも律先輩が、わたしと唯先輩をふたりきりにするのが嫌だって思ってることがわかるのは、ちょっぴり嬉しかった。
「おかえり〜」
住むところを見つけるつもりがあるのか。それともなし崩しにここに住み続けるつもりなのか。
そもそも働く気は?
…この人、昼間に何やってるんだろう。
「今日こそシチューです!どーしても食べたくってさぁ」
「…嫌いだって、言ったじゃないですか」
「うそ。だって昔、よく作って食べたじゃん」
「だからです。思い出すからヤなんです」
「つれないなぁ。思い出の味なのにぃ」
「…そろそろはっきりさせないといけませんから言いますね。
わたし、今律先輩と…」
「ううん。いいよ、言わないで。わかってるよ、あずにゃん。
やっぱりそっか。なんとなくそうなんじゃないかな〜って思ってたんだよね」
「…気づいてたんですか」
「わたしもそこまで鈍くないよ〜。でもりっちゃんもあずにゃんもはっきり言わないし、確信は持てなかったけどね」
「…すみません唯先輩。三年半は……わたしには長過ぎました」
「謝らなきゃいけないのはこっちだよ。ごめんね。急にいなくなって。ごめんね。長い間一人にして」
「…わたしのせいです。わたしが…先輩をつなぎとめておけるほどの魅力がなかったから…」
「違うよ。そうじゃない。そうじゃないんだよ、あずにゃん」
知らない間にわたしは泣いていた。
涙を流すわたしを、唯先輩がギュッと抱きしめる。
もう涙なんて、枯れ果てたと思っていたのに。それでも泣けた。楽しかった日々。唯先輩と過ごした日々。いっつも一緒だった。
一緒に弾いたギター。あったかくておいしかったシチュー。初めてのデート。
あのとき、動物園に行く予定だったのに、雨が降ってしまって水族館に変更になった。
わたしはとても残念だったけれど、唯先輩は「楽しみが先に延びただけだよ」って笑ってた。
普段は乗らない路線バス(この街に住む学生は皆、自転車ばかりを使う)に初めて乗って出かけた水族館。ペンギンとアザラシがすっごく可愛いかった。
唯先輩は特にシロクマに夢中だった。あずにゃんみたいに可愛いってはしゃいでた。全く意味がわからなかったけど、楽しそうな唯先輩を見てるのは好きだった。
それから動物園には何回も行ったっけ。それはもう、飽きるくらい通った。
あずにゃんが好きなところに行きたいからって唯先輩は言ってた。
何度通ったところでも、隣に唯先輩がいれば楽しかったから、不満なんかなかった。
動物園に行く時も路線バス、使ったな。最近はもう、乗ってないな。
唯先輩だけを見て、唯先輩の背中を追いかけて、唯先輩の体温を感じて、唯先輩で心の中をいっぱいにして、いつだってその手は結ばれていて、ずっとずっとこのまま、二人の手が離れることはないんだって、思ってた。思ってた、のに。
「やめて…ダメです。唯先輩」
わたしは抱きしめられて思い出してしまった。唯先輩の体温を。あったかくてやさしいて、少し甘い匂いがする。なんにも変わっていない。あのころとおんなじだ。ぜんぶ。
「これからはずっと一緒にいる。約束するよ。どこにも行かない」
「…うそ」
「ホントだよ。離れてる間、ずっとあずにゃんのこと考えてた。もうずっと。わたし、あずにゃんに夢中だったんだなぁ〜って改めて気づいたよ」
「じゃあなんでもっと早く帰ってきてくれなかったんですか」
「…ごめん。こんなことできるの最初で最後ってわかってたから、後悔したくなかったから…だから思う存分、いろんなところに、自分が今ままで行ったことのないところ、会ったことのない人に会って、経験したことのないことを知りたかったんだ。そうしたらこんなに時間が経ってた」
「…長過ぎですよ」
「…ごめんね。ホントにごめん。手紙…出したんだけど、届いてなかった?」
唯先輩がいなくなってしばらくしてから、もらった小物だとかプレゼント類は全部捨てた。
踏ん切りはなかなかつかなかったけれど、一つ一つに思い出があって、見るたびに唯先輩を思い出すのがつらかったから。
ようやく決心がついて、そういうものを全部処分した頃だった。先輩を感じさせるようなものは何一つなくなったわたしの部屋に、一通の手紙が届いた。エアメールだった。
差出人は…。
わたしは手紙を読むことなく破り捨てた。
もしはっきりと別れを告げる言葉が記されていたら、恐ろしくて読むことができなかったし、なによりもう唯先輩を思わせるものを近くに置いておくことが耐えられなかった。
それから何通か手紙が届いたけれど、一度も読むことはなかった。
「…わたし、寂しかったんです。耐えられなかった。唯先輩がいなくなって…」
「大丈夫。これからはずっと側にいるから。大丈夫だよ、あずにゃん」
唯先輩はさらに力を込めてわたしを抱きしめた。
これからはわたしを離さない、離すことなんてない、そういう意思が込められてるみたいだった。
「わたし、この三年半でいろんなものを見たり、聞いたり、食べたり…経験したんだけどね。
あずにゃんが好きって気持ちは変わらなかった。本当だよ」
「…唯先輩」
「今、この時期に帰ってきたのはね、もちろん自分の中でひとつの区切りがついたってこともあるんだけど…あずにゃんの誕生日をふたりで過ごしたいなって思って。プレゼントも一応用意してあるんだよ」
ムギ先輩の言ってたのはこのことか。
ちゃんと…誕生日、覚えててくれたんだ。
「自分勝手だってわかってる。ヒドイことしたって…謝って済むことじゃないよね。
りっちゃんにも澪ちゃんにもムギちゃんにも…すっごく怒られるんだろーなーって思うけど…だけどね。
わたし、あずにゃんのことが好き。大好きだよ。昔も、今も、これからも、ずっと。
お願い。もう一度わたしと付き合ってください」
なんてズルい人なのだろう。
唯先輩はいっつもこうやってわたしの心をかき乱す。
この人は何も変わっていなかった。純粋な情熱も愛情も、何一つ変わっていない。
抱きしめられた身体から、唯先輩の体温が伝わってきて、熱くなる。
強い意思の込めれれた視線はまっすぐ、わたしの瞳を射抜いている。
それは昔のままだった。わたしの知る唯先輩と変わらない。
大好きだった唯先輩。世界中でいちばん、何よりも誰よりも好きだった唯先輩。
わたしの唯先輩。
そんなことされたら…わたし、どうしたら……。
いいや、迷うことなんてない。答えは決まってる。
わたしは唯先輩の瞳を見返して、答えを告げようとした瞬間、部屋の扉が開いた。
視線を向けると、そこにいたのは律先輩だった。
律先輩の手に持ったスーパーの買い物袋がドサっと落ちた。そしてそのままドアが閉まる。
足音が聞こえた。律先輩が走り去っていく。
それは遠い世界から聴こえてくる音のようで、今まで律先輩と過ごした日々がまるで夢だったかのように思えた。
わたしは唯先輩を振りほどいて、部屋を飛び出した。
*
アパートを出てしばらく行ったところで、トボトボと歩くしょぼくれた後ろ姿を見つけた。
「なんで止めてくれなかったんですか」
「あれ…梓?なんで?」
「なんで?じゃないでしょうが、こんの…バカァァーーー!!」
とぼけた顔しやがって!このヘタレっ!
わたしは思いっきり力一杯の正拳突きを律先輩のお腹に喰らわせた。
「◯=!|^*;!>、_」!!?」
声にならないうめき声をあげて、お腹を押さえながらへなへなとへたり込む。
「ねぇ、律先輩」
「……はい」
「わたしがなんで殴ったかわかりますか」
「……わかりません」
「…マジですか。律先輩、本当にバカだったんですね」
「ヒドイ!これでも一応先輩だぞ!それは言い過ぎだ!」
「いいえ。ここまでされて気がつかないのは律先輩が悪いです。
…まぁ本当ならさっきあそこで唯先輩の頬に一発ビンタでもしてほしいところです」
「…えーっとつまり」
「ここまで言ったらわかるでしょ」
「…だいたいは」
まだお腹を押さえて座り込んでいる。
…強くやりすぎたかな、ちょっと後悔して、手を差し出した。
「いつまで座り込んでるんですか。はい」
「いや…マジで痛かったぞ…今のは」
「わたしが心に受けたショックはこの程度じゃないです」
「…ごめん」
「ねぇ、律先輩」
「…はい」
「改めて聞きます。わたしはあなたのなんなんですか。
あなたはわたしのことどう思ってるんですか」
「…それは…だな」
「よーく考えてみたんです。そしたら気づいちゃったんですけど、
わたし、律先輩がわたしのことどう思ってるかって、ちゃんと言葉にして聞いたことなかったんですよね」
「あ、あれ?そうだったっけ??」
「とぼける、なっ」
もう一度正拳突きをお見舞いした。今度はちょっと手加減して。
「ぐへぇ!い、痛い…痛いです」
「…今度は手を抜きましたから、大したことないはずです」
また座り込んでお腹を押さえて、うつむきながら律先輩が言う。
「……いや、さ。わたし、梓にはしあわせになってもらいたいと思ってるんだ。
だから…唯がいなくなって。傷ついて寂しくて泣いてる梓を見て放っておけなかった。
わたしでよければそばにいるって。わたしのできることならなんでもするって思ったよ。
だけど…」
顔をあげてわたしの方を見上げながら続けて言った。
「唯が帰ってきたら、もうわたしの役目は終わるのかなって思ったんだ。
梓には本当に一緒にいたい相手と一緒にいてほしいと思ったからさ…
それでさっき二人の姿を見てさ。確信したんだよ。わたしのできることはもうないんだって」
「…なんですかそれ。わたしの気持ち、全部わかったフリして。勝手に身を引いたりなんかして。そういうのがかっこいいとか思ってるんですか」
「いや、そういうつもりじゃ…」
「わたしは唯先輩のことが好きでした。大好きでしたよ」
律先輩の身体が震えた。
わたしの口からはっきりと唯先輩への想いを聞いて、ショックを受けているんだろう。
「でもそれは昔の話です。
今、わたしが誰と一緒にいたいって思ってるか、知ってるんですか」
「そりゃあ…」
「言いませんよわたし。今度はもう、わたしの方から言いませんからね。
わたしは聞きたいです。律先輩の気持ち。わたしのことどう思ってるかって」
お願いだから、ちゃんと、言葉にして伝えて。
教えて欲しい。あなたの気持ち。本当の気持ち。
「…ごめん。言うよ。ちゃんと言う」
立ち上がって、わたしの肩を掴む。目と目が合わさると、律先輩の瞳の中にわたしの姿が映った。
「好きだ」
「梓、わたしは…梓のことが好きだ。大好きなんだ。
ずっとずっと。ずうっと前から!梓のことが好きだったんだ!」
「…やっと言いましたね」
「……好きだ。唯に負けないくらい。ずっと前から好きだったんだ。梓が唯といっしょにいるときもずっと梓のことだけ見てた。
梓とこういう関係になれて、夢みたいだったよ。でもその夢はもう覚めるんだと思ってた」
「…夢じゃないです。現実ですよ」
「自信がなかった。不安だったんだ。唯が帰ってきてからは余計に」
「……わたしだって不安でしたよ。律先輩が弱気だから。もっとしっかり抱きしめておいてほしかったです」
「……ごめん」
「謝らないでよ。さっきからそればっかり」
「……わるい」
「…ほら、また」
「……どうしたら、自信が持てるのか、自分でもわからないんだ。
いつだって不安なんだ。確かなものが何も、ないから」
「ちゃんと気持ちは伝えたじゃないですか。それなのに。わたしのこと、全然信用してないんですね」
「それは…」
「…目を瞑ってください」
「え」
「いいから瞑って。早く」
「はぁ…わかった」
くちづけをした。
「これで…少しは持てましたか?自信」
「えっ、えっ、あ、うん…」
「だいたい、もう一年になるっていうのになんにもしないってどういうことですか」
「それは…」
「もういいです。これまでのことは。これからのことが大切なんですから」
「…そうだな。うん。…つーかヤバいです。今すんごくヤバいです」
「え。どういうことですか」
「いやその、この勢いを失いたくないっつーか。梓さん。今日はウチに来ませんか?」
「あ、そういうことですか。え、でもそれはちょっと、心の準備がまだ…」
「いいや、弱気はもう捨てた。今日からは強気で行かせてもらいます!」
わたしの手をぎゅうっと握ると、そのままグイグイと駅まで引っ張っていった。
……わたしも、好きです。今わたしが好きなのはあなたです。律先輩。
今度は手を離さないで。ずっと側にいて。お願い。ひとりぼっちには、しないで。
最終更新:2014年11月11日 08:07