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「さて、今日の世界情勢は、と」
11月11日、午前6時。
TVからは朝のニュースが流れている。
今日も世界は大きく動いているのかもしれないけれど、昨晩は、わたしたち二人にとっても、世界が変わっちゃうくらい大きな出来事があったのだ。
わたしは台所で朝ごはんの準備をする律先輩の背中に抱きついた。
「包丁持ってるときは危ないからやめようなー」
「…そんなこと言って。嬉しいくせに」
「嬉しい…嬉しいけど、危ないから今はダメ」
「だって…ギュってしたかったんだもん」
「…続きは夜にしませんか?梓さん」
「…うん」
「それと誕生日おめでと」
「…ありがと」
新しい朝、新しい光が窓から差し込んでいる。
あー、もー、仕事いきたくないー。ここに引っ越してきちゃおうかなー。
律先輩の料理は相変わらずおいしい。
出汁の取り方にこだわってるからだって言ったけど、もっぱらだしの素だかり使うわたしにはよくわからない。
「あの。今日なんですけど」
「うん。今日はとびきりのご馳走を作るつもりだから楽しみにしとけよ!
なんてたってこの日のために有給とっちゃったからね!」
「あ、ありがとうございます…でも今日は帰らないと」
「あーそっか。唯のことほかりっぱなしだったな」
「ええ」
「わたしも行くよ」
「いえ。わたしひとりで行きます。決着…つけてきます」
「…ひとりで大丈夫か?」
「大丈夫です。信じてください。ちゃんと…ここに帰ってきます」
「信じてるよ。当たり前だろ。…待ってるから」
約束、げんまん。
その晩、仕事を終えて一日ぶりに我が家に帰宅した。
「あ、おかえり〜」
昨日のことなんて何もなかったかのように平然と、唯先輩はまだそこにいた。
「唯先輩…昨日はその…」
「あ、うん。急に出て行っちゃったからさー。わたしも家を空けたらマズイなっと思ってあずにゃんが帰ってくるの待ってたんだ」
「あの、唯先輩。昨日のことですが…」
「うん。みなまで言わなくてもわかってるよ」
「いいえ、はっきり言います。
…ごめんなさい唯先輩。わたし…今、好きな人がいるんです。
だから…唯先輩とは付き合えません」
「…そっか。昨日も話に出たけど、それってりっちゃんのことだよね」
「…はい」
「もうわたしとじゃダメ?」
「…はい」
「どうしてもダメ?」
「…はい」
「わかった。わたしも覚悟してたから。じゃあもう、いくね」
「えっ、出て行くんですか」
「あれ?出て行って欲しくなかった?」
「い、いえ…そりゃずっと居座られたら困りますけど…アテはあるんですか?」
「とりあえず和ちゃんのところに行くつもり。それからバイトしてお金貯めて住むとこ見つけたら、ちゃんとした仕事も探そっかな〜って」
「…行き当たりばったりですね」
「なんとかなるよ。きっと」
そう言った唯先輩の笑顔はやっぱり昔のままだった。
変わったのはわたしの方だったんだ。
「唯先輩」
「なぁに?あずにゃん」
「また、会えますよね。5人で、昔みたいに」
「もちろん。別れてもわたしはあずにゃんのことが大好きだよ!」
「…ありがとうございます」
「ねぇあずにゃん。最期にお願いがあるんだけど」
「なんですか」
「お別れの記念にもう一回だけチューしてもいい?」
「……そ、それは…ダメです」
「じゃあぎゅってしていい?」
「……それもダメです」
「えぇ〜…あ〜あ、昨日どさくさに紛れてチューしとけばよかったなぁ」
「なんてこというんですか!もぅ!」
たぶん、昨日のあのときだったら拒めなかっただろうな…。律先輩が来なかったらどうなっていたかわからない。
そう、わたしはスキンシップに弱いんだ。そして雰囲気に流されやすい。われながら情けない…。
別れが惜しくなるから見送りはいらないよ、唯先輩はそう言ったけれど、ここでお別れはあんまりだと思って駅まで見送ることにした。
唯先輩はぶらぶらとゆっくりと歩いた。さっさと歩いてくださいよ、電車乗り過ごしますよ、って言ったけど、「あずにゃんとこうしてふたりきりで歩くの、もう最期かもしれないし、せっかくだからゆっくり歩こうよ」そう言った。
もうすぐ駅、というところで、唯先輩がわたしの手を引いて、急に細い路地に入った。
「ちょっと、何するんですか」
「いいじゃんいいじゃん〜。ねぇあずにゃん、目ぇ瞑ってくれる?」
「…そんな手にひっかかるわけないでしょう」
引っかかったアホを約一名知ってるけれど。
「ちぇっ。うまくいかなかったかぁ…」
「最期の最期までおかしなこt…」
不意打ちだった。
唯先輩の唇が、わたしの唇に触れた。
そしてわたしをぎゅうっと抱きしめる。
唇の感触もあのときのままだった。なにも変わらない。
わたしの身体がいちばん覚えている。
記憶が、身体が、一気に三年半前まで駆け上る。
全身が一気に熱くなる。
唯先輩はわたしを離そうとしない。
唇と唇がつながったまま、ちっとも離してくれない。
頭の中が霞んで真っ白になってゆく。
もう時間の感覚がわからなくなるくらいの頃になってようやく口から息を吸った。
そうして唯先輩はわたしの耳元で囁いた。
「好きだよ、あずにゃん。愛してる」
そうしてまた、わたしにくちづけをした。
ちっとも抵抗はできなかった。
ふたりのつながりあった部分から、唯先輩の迸り(唯先輩的に言えば『唯先輩分』)が流れ込んでくる。わたしはそれを受け入れてしまう。
そして反対に、わたしをわたしとして成り立たせているもの(唯先輩的に言えば『あずにゃん分』)がどんどん唯先輩に吸い取られていくのがわかった。
わたしがわたしじゃなくなっていくのと同時に、所謂唯先輩分を流し込まれて、わたしの全身が唯先輩で満ちていく。
知らない間にわたしの方も強く唯先輩を抱きしめ返していた。
唯先輩は、三年半の間にエンプティになっていた、あずにゃん分を貪るかのように強く強く唇を吸う。
同じようにわたしの中でもすっかり空に近くなっていたはずの唯先輩分を貪るため、唯先輩の唇を受け入れた。
互いが互いの構成要素で満ちていく。
わたしが唯先輩で、唯先輩がわたしで。
ふたりでひとり。ふたりでひとつのものになっていく。
いいや、戻っていく。三年半前へ。あるべき形へ。
「好きだよ。大好きだよ。あずにゃん」
わたしと唯先輩に時間の壁なんてなかった。
そんなもの飛び越えて、この人はわたしのところに戻ってきてくれた。
どんなに時間が経っていても、どんなに距離が離れていても、逢えば一瞬にしてあの頃に戻ってしまえる。そんな関係なのだ。わたしたちは。
何度も何度も。飽きることなく唇を重ねた。
もう唯先輩の方だけじゃない。わたしの方からも。
「唯先輩…唯先輩…」
「あずにゃん…好きだよ。あずにゃん」
わたしの頭の中が唯先輩でいっぱいになったのを見計らって唯先輩が言う。
「ねぇ。あずにゃん…このままふたりで逃げちゃおうよ」
…世界の果てまで、このままふたり。何もかも捨てて逃げてしまおうか。
それもいいかもしれない。誰にも理解されなくたって、全てを失ってしまったって、大切な人を傷つけたって…地位も名誉もお金だっていらない。唯先輩が一緒なら。
そんなが考えが頭をよぎった。
けど。
わたしは唯先輩の身体を突き放した。
「あず…にゃん?」
唯先輩はあっけにとられたみたいな顔をしている。
「もう…帰ります。帰らなきゃいけないんです。約束…してるんです」
「…」
「さ、駅はすぐそこですよ。行きましょう」
唯先輩は黙ったままついてきた。いつもニコニコしてるこの人が真顔で黙っていると、もうそれだけで気味が悪い。切符を買い、改札口の手前まで来て、ようやく口を開いた。
「なんでそんな平気な顔してるの。さっきまでわたしとあんなことしてたくせに」
「…言ったでしょう。約束があるんです。帰らなきゃいけないんです」
本当は全然平気じゃなかった。グラグラになってほとんど崩れかけていた。
でもわたしはちょっぴり自信が持てた。あそこまで押し切られそうになっても自分はまだ、踏みとどまることができたって。
そのことがなんとかわたしに平静さを保たさせてくれていた。
わたしに残ったひとかけらの理性(敢えて『律先輩分』とでも言おうか)が唯先輩を拒絶した。
それは唯先輩分で満ち満ちていたわたしの身体に残っていた、まさしく最期の光。
「あずにゃんはきっと、一生わたしのこと忘れるなんてできないよ。
だからわたしから離れることなんてできっこない」
「…そうですね。そうかもしれません。
わたしね。自分で思ってた以上に唯先輩のこと好きだったみたいです。思い知らされました」
「そのわりに余裕な表情だね」
「ええ。だって、最期の最期で押し留まったってことは、その程度の気持ちだったってことですよ」
「…でも浮気じゃん。りっちゃんに悪いと思わないの」
「その言葉そっくりそのままお返しします。
友達の恋人に手を出すなんて、ロクデナシのやることです」
「だって。元はと言えば、わたしのあずにゃんに手を出したのりっちゃんじゃん」
「唯先輩がわたしをほったらかしにするからですよ」
「…むぅ。でもさ。あずにゃんはずっと待ってくれてたんだよね。あの部屋で」
「え?」
「わたしのこと待ってくれてたからずっとあそこに住んでたんでしょ。違うの」
「…待ってましたよ。2年ちょっとの間は。
唯先輩が帰ってきて、扉をノックするのを待ってました。コンコンコンって三回」
「あずにゃんが一人暮らし始めたときに決めた合図だったね。
わたしが来たってすぐわかるように、って決めたんだよね」
「そうでしたね。懐かしいですね。…昔の話です。もう最近はノックの音のことなんて忘れてましたよ」
「うそ。そんなわけない。忘れるわけない。覚えてたんだよ、あずにゃんは。
だからりっちゃんのことが好きになってからも、引っ越さなかったんでしょ」
「…」
「わたしもね。大好きだよ、あの部屋が。すごく好き。
あそこにはわたしたちふたりの思い出がいっぱいいっぱい詰まってるもん」
「…そうですね。いっぱい詰まってますね。思い出が」
「そうだよ。その部屋に住んでるんだからあずにゃんはまだわたしのことが好きなんだよ」
「完全に否定はしません。でも今のわたしにとって、唯先輩より律先輩の方が大切な存在です」
「…さっき浮気したくせに」
「さっきのことは秘密にしておきますから…」
「バレたら困るのあずにゃんもでしょ!」
「わたしは困りません。それと5人で集まるときならともかく、ふたりきりで逢うのはこれで最期にしましょうか」
「うぅ〜…あずにゃんのいけずぅ…」
「あ、電車来ますよ。急いで」
「ホントだ電車来ちゃう!…あずにゃん!わたしは諦めないからね!じゃあまた!」
そう言って唯先輩は駆けて行った。
わたしは後ろ姿を見送ることなく、振り返りもせずに駅を後にした。
*
マンションの前まで来ると、入り口のところに律先輩が立っていた。
「…寒いのに何してんです」
「あ、ああ…だってなかなか帰ってこないから。不安になって」
「…すみませんでした」
「いいよ、こうして帰ってきてくれたんだから。さ、ここは寒いし、部屋に行こう」
エレベーターに乗って、律先輩の部屋がある3階まで上がった。
その間、二人とも全く言葉を交わすことはなかった。
扉を開けて先輩の家に入る。
丁寧に、十分過ぎるくらい暖房が効いていた。
「ごめん、もしかして暑い?今日は冷えるって聞いてたから…」
「…大丈夫です」
こういうところが好きなんだけど、今はかえってそのやさしさがつらい。
マフラーと外してコート脱いで、わたしたちはコタツに入った。
「唯は?どうした?」
「…和先輩のところに行くって言ってました。それで駅まで見送って…そこで」
「うん」
「キスされました」
「…な」
「それから、このままふたりで逃げちゃおうって誘われました」
「なんだよそれ!」
「その誘惑に打ち勝って今わたしはここにいる。そういうわけです」
「そういうわけです、じゃねーよ!」
「…ごめんなさい。本当にごめんなさい」
わたしはコタツから出て、ひたすらに頭をさげて謝った。
「謝って済むと思ってるのかよ!」
「ごめんなさいごめんなさい…簡単に許されるとは思ってません。
でもそんなつもり全くなかったんです。だけど拒みきれなくて…」
「…唯のことが好きなのか」
「…違います」
「…じゃあなんでそんなことするんだよ!」
「…ごめんなさい」
「…謝ってばっかりじゃわかんねーよ。そんなことして欲しくなかった…したとしてもそんな話聞きたくなかった…なんでわたしに言うんだよ…普通言うか?…わかんねーよ…昨日のことはなんだったんだよ…今日の朝のことは…なんだったんだよ…教えてくれよ…梓が何考えてるのか…わたしには全然わかんねーよ…」
「……好きだから」
「…やっぱり唯が好きなのか」
「バカァ!違うよ!わたしは律先輩が好きなの!律先輩のことが!」
わたしは顔を上げた。そして立ち上がって叫んだ。
叫んだ拍子に涙と鼻水が一気に噴き出して、顔がぐしゃぐしゃになった。
「好きなの!律先輩が!めちゃくちゃ!大好きなの!だから今日ここに来たの!」
「わたしも好きだよ!梓のことが!めちゃくちゃ好きだよ!だからこんな話聞きたくなかった!」
「隠し事したくなかったの!
……だから、ちゃんとあったこと全部言わなきゃと思って……もし本当のことを言って嫌われちゃうなら…わたしが悪いんだし…。騙すようなこと、したくなかったんです…」
律先輩がわたしを抱きしめた。
唯先輩とは違う、あったかさと柔らかさ。まだ不慣れで、少しぎこちないけれど、その不器用さがかえって今のわたしを安心させてくれた。
「ヒドイことしたってわかってるんです。裏切り行為だって。
ごめんなさい。もう二度としません。約束します。だから…許してください」
「……約束だぞ」
「……はい」
「わたしも悪かった。梓がまだ不安定なのにふたりきりで唯と逢わせたのはよくなかったよ。
これからはゼッタイそんなことしない。梓はわたしのもんだ。離したりなんかしない。ずっと梓のそばにいる。離れたりなんかしない。……だから泣くのはやめにしよう」
「……はい」グズッ
「ほら、可愛い顔が台無しだ。…ま、鼻水吹いてる梓もかわいいけどな」
「…バカ」
わたしは軽く腕振って律先輩のおなかを殴った。
律先輩はふざけて痛がるフリをした。
「さぁさぁ。今日は楽しい誕生日だろ。腕によりをかけたりっちゃんの手料理、とくとご賞味あれ!」
もう迷ったりなんかしない。
わたしはずっとこの人のそばにいる。この人といっしょに歩いて行くんだ。
そう、心に誓った。
最終更新:2014年11月11日 08:08