‐0‐
「わたしの初恋は、和ちゃんだったんだ」
‐4‐
上から聞こえるやかましい音が、わたしの意識を現実世界に引き戻す。
ガチャガチャ言ってる目覚まし時計の頭を思いきり叩く。
鳴りやんだ時計の短針は「8」を指していた。
枕元に置いてあるスマホを確認する。
11月26日の予定、特になし。会社は休み。
これならもう一眠りできると思い、布団の中に潜り込んでみる。
しかし、頭の隅でなにかが引っかかっていて、それが睡眠をしつこく妨げていた。
わずらわしい。
原因はよくわかっていた。先程まで見ていた夢だろう。
それについては、今更なにを見せてくれたのやらと呆れる反面、
結局今でも確認できていないことを、まざまざと教えられているわけで、
どうにも気持ちよく横になることはできない。
この日付も原因だ。
仕方ない。今日はもう起きてしまおう。
ささっと用意したトーストとバターと目玉焼きとをテーブルに並べ、
軽く朝ご飯を済ませる。窓の外は明るい。おでかけ日和だ。
なにも予定はなかったけれど、せっかくなので作ってしまおうかと考えた。
壁に掛けられたコルクボードをぼんやり眺める。
沢山の写真が、隙間なく留められていた。
昔通っていた学校、車窓から見えた山、大きな時計塔、夜のビル群。
懐かしい笑顔の人たち。
でもその笑顔は、わたしからそっぽを向いているように見えていた。
‐5‐
適当に映画鑑賞でもしようかと、電車を乗り継いで町に出る。
スーツを着込んだ仕事真っ最中の人たちとすれ違いながら、
ぶらぶらと道を歩いていく。
「あれ、和さん?」
声をかけられた。振り向くと、同じ会社で働く後輩が立っていた。
後輩も休みのため、ラフな格好をしている。
「こんなところで会うなんて偶然ですね」
「そうね。あなたは、なにか用事?」
「いえいえ暇つぶしです。どうしよーもないくらい暇だったんで」
せっかくなので、わたしたちは行動を共にすることにした。
この後輩は、わたしの一年後に入社してきた。
非常に人懐っこい性格で、同期は勿論のこと、
一通りの先輩とも入社一年目から仲良くなってしまった強者だ。
仕事については、やる気はあるが、どうも空回りしがち。
しかし人間関係は上手く構築できているため、
よく周りから手を貸してもらうことができている。
わたしも幾度となく彼女の手助けをしてきて、その度に懐かれてきた。
「そういえば先輩の私服って初めて見ます」
少しどきっとした。
「わたしも、あなたに同じこと思ってたわ」
「まあ、休日会うような機会もなかったですしねー。
じゃあ今日は記念日ですね?」
「そこまでのものじゃないわよ」
わたしは肩を竦めて、くすりと笑った。
後輩の顔にはそれ以上の笑顔が浮かんでいた。
「じゃあじゃあ、適当に服見ていきましょうよ」
「お金あるの?」
「無いので見るだけです!」
こういった潔いところも、後輩の長所。
少し遠慮が足りないといえるかもしれないけれど、
これといって嫌悪感を持つことはなかった。――
‐2‐
――二十歳という区切りを越えたわたしは、バスに揺られながら、
市内の多目的ホールに向かっていた。
鞄の中に入っているのは、成人式の招待状。
車内には同じ目的地なのだろうなと思しき人がちらほら見られる。
スーツに身を包んだ若い男性に、華やかな振袖の女性。
一方でわたしは黒い、パンツスタイルのスーツを着ていた。
せっかくの機会だから振袖を着てみないかと両親には言われたものの、
自分はこのスタイルが一番しっくりくる上に、
振袖は色々手間がかかるということで、今の服装になった。
若いうちにやっておかなくちゃ後悔するかもしれないと、
誰かが言っていたかもしれないけれど、
やりたくないことをやって後悔することだってある。
前の女性が歩きにくそうにしながらも、なんとかバスから降りた。
その後ろについて行って、さっと降車する。
後ろはまた振袖を着た女性が降りようとしていた。
ホール前は市内の二十歳で溢れていて、そこかしこから歓声が上がっていた。
久しぶりの再会だ、嬉しくないわけがない。
ホールの入り口に向かって歩いていると、
わたしもすぐ同じ体験をすることになった。
「おっ、和!」
走り寄ってくる女性。
その姿は、多少違う点が見られるものの、概ね変化がない。
時を重ねてもイメージ通りの彼女が目の前に現れて、
わたしは何故だか急に吹き出してしまった。
「ふふっ」
「なんで笑う!?」
「ごめんごめん、あまりに律のままだったから」
「くっそー、わたしだって成長してんだぞー!」
律は案の定スーツ姿だったけれど、
カチューシャを外し、髪は下ろされていた。
「律がいるってことは、澪も一緒に来てるでしょ?」
「ああ。ほら、あそこに」
指された方向を見ると、華やかな振袖によく似合う、
落ち着いた雰囲気をもった澪が、わたしの知らない人となにか話している。
中学時代の友人だと、律は話した。
成人式は自分の住所を基準にして会場を振り分けられる。
つまり、高校時代の友人とはあまり会うことがなく、
小中学校の友人との再会が自然と多くなる。
小中学校の友人は、高校に入ってめっきり会わなくなった人も多く、
懐かしさもひとしおだろう。
一方で律や澪とは高校で会った友人のため、懐かしさはそう大きくない。
大学に入っても一緒のお互いにとっては、尚更のことだと思う。
そして、わたしにも恐らく大きな懐かしさは感じないだろう友人が、
ここに来ていることも推測できていた。
「あぁ! 和ちゃんにりっちゃん!」
ほら来た。抱き付かれる直前に、頭を押さえて制止させた。
「はいはい、せっかくの晴れ着が崩れるでしょう」
「ぐむむむ……」
「はは、この扱い方も変わってないな。そういえば和は留学したんだって?」
「ええ、半年だけね」
「酷いんだよー、わたしに相談の一つもなしに行っちゃうんだもんー」
この子の家を訪れた、あの日を思い出す。
留学をするか決断しきれず、心の中を右往左往していた時期だった。
そんな時、ふとしたことでこの子のお母さんに家へ呼ばれ、
この子に久しぶりに会って、勇気づけられた。
本人に自覚はないみたいだけれど、本当に助けられたと思ってる。
ただ、その悩みがとても大きかったことと、
まさかこの子と二人きりで対面することになるなんて思わなかったこととで、
あの時のことを聞き出すことは出来なかったのだ。
口を尖らせているこの子――唯を見る。
今、唯は隣にいる。
いつも通りの唯が。――
‐6‐
――服以外にも色々見ていこうと、デパートに入る。
お金がないと言ったばかりのはずだったこの後輩は、
遠慮一つしないでそこかしこを次々と見て回る。
見たことのあるような英語の文字列を視界の隅に捉えながら、
ここ割とお値段高めのブランドよね、などとモヤモヤ考えていた。
「いつかこんなの来て、街中を歩いてみたいですー!」
「したり顔してるあなたの顔が思い浮かぶわ」
「あ、わかります」
「本人が言ってどうするの」
後輩は照れ笑いを浮かべ、頭の後ろを掻いた。
「あ、これ和さんに似合ってるかも」
「……そうかしら」
「普段の和さんとはイメージ変わりますけど、似合いますよー。
もう少し髪伸ばしたら、さらに似合うと思いますけど」
わたしは肩にも届かない自分の髪に指を通した。
無抵抗に指が髪の間を通り、そしてすぐにするりと抜けた。
少しずれてしまった眼鏡の位置を直した。
「髪は伸ばさないんですか?」
「そうね。この長さだと楽だし、それに」
「それに?」
「ずっと昔からこういう髪型だったから」
なら、余計に変えてみるのもいいと思います。
後輩はわたしと、その服とを並べてまじまじ見ながら、そう言った。
‐7‐
特に理由もなくインテリアショップに入っていった。
入るや否や商品に手を伸ばす後輩は、
こんな柔らかいソファがあれば、ベッドがあれば、
もう贅沢は言わないからクッションでもあれば、
すぐに暮らしは変わるんだと、しきりに熱弁していた。
買えばいいのに、と言うとお金がないと言う。
わたしの部屋には座椅子が一つある。
実家から持ってきたもので、それだけ長い年数使っているのだから、
当然のようにオンボロである。
「買い替えればいいじゃないですか」
「物は大切にするものよ。使えるうちは使っておくの」
「これはこれ、それはそれです。変えた方が結果的に経済的だった、なんてこともありますし」
「それ実体験?」
「……つい一ヶ月前に修理に出した掃除機が、再び故障しました」
「なるほどね」
買い替えの時期を見極める。それは少し苦手かもしれない。
後輩が、なら小さなものから新しくするのはどうでしょう、と言ってきたので、
小物売り場を見ることにした。
部屋の中に緑を増やす模造の草花。
適当なものをしまうのに丁度いい小柄で可愛らしいカゴ。
落ち着きのある橙色を含んだランプ。
心安らぐ香りのアロマオイルと、ディフューザー。
「へえ……」
意外なことに、初めは小さなことから始めようと思っていたそれは、
いつの間にやら部屋全体の雰囲気を変えようという段階まで進んでいた。
「ノリノリになってきましたね?」
「見るだけだから」
そうは言っても、頭の中の想像を止めることは出来ない。
本当に実行してしまおうかしら、と考えるぐらいには進んでいた。
お金に余裕が出来たら、あるいは実現できるかもしれない、
そんなことを思っていたところに、あるものがわたしの目を引きつけた。
「でも、そうね。これ買おうかしら」
「コルクボードですか?」
「家にあるのは一杯になっちゃったから」
「ははあ、なるほど……で、その家にあるものには、
どんな写真を貼ってあるんです?」
「学生時代の写真がほとんどね。風景とか、友達との写真とか」
「えー、彼氏とかの写真じゃないんですかー?」
「いないわよ、そんなの。できたこともないし」
会話が途切れる。首を回すと、後輩は目を丸くしていた。
「い、意外です。和さんって、こんなに綺麗で、仕事もできるのに」
「ありがと」
「これだけ揃っていると、高嶺の花ってことで手を出しにくいとか……?」
「勝手に想像膨らまされると困るんだけど」
「あ、和さんって女子高だったんですよね。
あれですか、和さんってボーイッシュでしたし、モテました?」
「モテちゃいないわ。友達に、そういうのが一人いたけれど」
「うはぁ~、やっぱいるとこにはいるんですね~。
でもその人がいなければ、和さんがそのポジションだったのかもしれませんね!」
わたしは苦笑いをすることしかできなかった。
つくづく遠慮のない子ね、と心の中で呟いた。――
‐3‐
――唯たちの大学では今日、学園祭が行われている。
大学の学園祭は、高校までのものとは比べ物にならないほどの規模で、
一つ一つの質も非常に高い。
三年生となったわたしや唯たちは、来年就職活動であくせくすることになる。
となれば今年に一番力が入っているわけで、わたしはそんな唯たちの演奏が聴きたく、
本人たちには伝えずここに来たのだった。
演奏までの時間はまだ少しある。
しばらく他の催し物を見て回ろうと思ったが、その矢先のことだった。
唯の姿を見つけた。
唯は誰かと一緒に歩いていた。
ショートカットで、後ろ姿は男性に見えなくもないが、
ちらりと見えた整った綺麗な顔立ちから、女性だとわかる。
その女性の腕に、唯が自分の腕を絡めた。
女性は迷惑そうに振り払おうとするものの、唯もなかなかしぶとい。
大学でも、唯は誰かに懐いていた。
わたしは、唯たちの圧倒的な演奏を客席から聴いて、それから、帰宅した。
唯がお父さんと同じような、海外出張の多い仕事に就いたと知ったのは、
もう唯が日本から出て行ったあとのことだった。――
‐8‐
――ウィンドウショッピングもそこそこに、
デパート近くにあったレストランへ足を運ぶ。
周りを見ると家族連れの人も多く、値段設定もやさしいお店だった。
向かい側の席では、後輩がメニューを広げて唸っている。
「目玉焼きとハンバーグの組み合わせって半端ないと思うんですよ。
誰なんでしょう、この組み合わせを考案した天才は……」
「そう。じゃあわたしペペロンチーノにするね」
後輩はハンバーグにすることまで決めたものの、
上にチーズを乗せるか目玉焼きを乗せるかで逡巡していた。
そういえば今朝の目玉焼き、トーストに乗せて食べるのも良かったかもしれない。
後輩は首をあっちへ捻り、こっちへ捻りを繰り返し、
また随分と時間をかけてから、メニューの一ヶ所を勢いよく指さした。
「決めました、目玉焼きにします!」
「店員呼ぶわね」
注文を店員に伝えてから、新しいお冷も一緒に頼む。
既にグラスの水は半分以下になっていた。
「和さんはそのコルクボードに、なに貼るんですか?」
「そうね……これから写真を撮る機会があれば、それを貼るでしょうね」
「じゃあここで一枚撮っときます?」
「そんな程度のことで貼ってたら、あっという間に埋まっちゃうわよ」
「地味にキツイこと言いますよね、和さんって……」
自覚はないのだけれど。
「それにしてもここから始まるんですね」
「なにが?」
「和さんの部屋、劇的ビフォーアフターがですよ」
頭の中で、例の曲が流れ始める。
「そこまでのものじゃないけれど、そうね。ちょっとずつ変えなくちゃね」
「和さんって、髪型はそうですけど、私服もあんまり変えない人ですか?」
「さすがに高校時代のものは着ていないけれど、趣味はそう変わってないわ」
「ほうほう。眼鏡も変わってないですしねー」
「一応いくつか持ってるのよ。これをメインで使ってるだけで」
「失礼いたします」
そこにピッチャーを持った店員が現れた。わたしのグラスに水が注がれる。
まだ半分以上残っていた後輩のグラスにも、同じように水が満たされる。
グラスを傾ける。中の氷がかちゃりと鳴いた。
冬本番間近とはいえ、ぬるい水よりは冷たい水がおいしい。
静かにそれを口に近づけ、喉を潤した。
喉をすっと通り抜ける冷たさが心地よい。
頭もじわりと冷えていくようだ。
その頭で、ふと先程の会話を思い出す。
「……待って。あなた、わたしの高校時代をどうして知ってるの?」
「あっ」
「眼鏡のことは一つも話してないはずだけど?」
「……あちゃー」
後輩は頭を掻きながら、困ったような笑みを作っていた。
私服のこと、髪型のことは言ったものの、眼鏡のことは一つも言っていない。
「いやまあ最後まで隠すつもりはなかったんですよ。
ほんと、どこまでバレないかなーって遊んでたっていうか」
「あなたも桜高の生徒だったってこと?」
「はい。和さんの、一つ下の学年でした」
初耳のことだった。
「今まで知らないフリをずっとしてたのね……」
「いえでも、私服とかは知りませんよ。
あと、会社に入りたての頃は全然気づきませんでしたし」
しばらく一緒に働いていて、わたしが桜高に通っていたことを知り、
最後はこの眼鏡と髪型で気がついたのだという。
「まあ、だからどうってわけじゃないけど。
よく今まで隠し通せたものね」
「ですねえ。まあわたしも、なんかの式とかで、前に立っていた和さんを見たぐらいです。
気づかれなくても無理はないですね」
しばらくして、それぞれ注文した料理がテーブルに運ばれる。
後輩はこういう性格をしていながらも、
意外とナイフとフォークを器用に扱い、ハンバーグを切っていた。
「そういえば和さんって、軽音部のあの方と仲がいいんですか?」
「軽音部の子たちとは友達だったけど、誰のこと?」
「ほら、演奏の合間のトークで無茶ぶりしまくってた人ですよ」
唯のことだ。
「ああ……そうね、結構仲良かったわよ」
「ですよね。なんか、たまにあの人が和さんに引っ付いてるとこ見ましたもん」
「あの子は誰にでも引っ付く子よ」
「なるほど。わたしもよく引っ付いてた人だったんですよー」
「あなたが?」
「特定の先輩だけでしたけど」
一口大に切ったハンバーグを、
とろっと流れ出ている目玉焼きの黄身につけて、口に運ぶ。
後輩は目を瞑り、しきりに頷いた。
「やはりエッグハンバーグにして正解でした」
「それで、その先輩とは今も会ってるの?」
「あ、はい。今でも仲良くしてもらってます。
初めは随分と迷惑がられましたが、先輩が三年生のときの学祭で、
思い切って気持ちを全部ぶつけてみたんです」
「それで上手くいった、ってことね」
「そういうことですね」
この子は上手くいった。でも、わたしはわからない。
不意にそんな言葉がわたしの脳裏に浮かび、ぐるぐると渦を巻き始めた。
わたしはわからない、とはなんだ。
上手くいかないかもしれない、ということだ。
なにが上手くいかない、というのか。
それは、あの日を境に知ろうとしたことだ。
機会なら何度もあった。それが全て流れてしまった。
だからわたしはあの日のままでいながら、
実は少しだけでも変わってしまったソレに接しながら、
そのズレに長い年月悩まされていた。
悩みは年月で薄くなり、溶けてなくなる。
しかし不意の出来事でまた凝固し、こうして眼前に表出する。
目の前の後輩を見る。珍しく、ちょっと自己嫌悪の感情を覚えた。
「でもね、唯はもう日本にいないの」
「あ、唯っていうんですか、あの人。ライブの紹介で言ってましたっけ。
でも日本にいないっていうのは、どういう……?」
「海外出張の多い仕事に就いたみたいでね。
あの子、親もそうだったから、影響されたのかしら」
「へえ。なんだかカッコいいですね。できる大人、ってやつでしょうか!」
胸の奥が、軋む音が聞こえる。
少しのズレは、もう、決定的なズレだった。――
最終更新:2014年11月28日 08:14