第1話「見知らぬ天井」
ゆっくりと目を開いた先には見覚えのない景色が広がっていた。
ああ、そうだ。今日は部室に泊まったんだった、と気がつくまで10秒くらい時間がかかった。
すぅすぅと気持ち良さそうな寝息が聞こえてくる。
時折吹く外の風が、窓をカタカタと鳴らした。
おかしな時間に目が覚めてしまったせいか、ヘンに目が冴えて寝付けない。
だんだんと暗闇に目が慣れてきて、わたしはむくりと起き上がった。
ちょっとだけ散歩でもしようかしら。夜の学校を歩くなんてなかなかできることじゃないし。どうせ寝られないんだから、探検気分で。
寝袋から抜け出して立ち上がろうとしたときだった。
「…ムギ?起きてるのか?」
「……みおちゃん?」
振り向くと澪ちゃんが寝袋ごと上半身だけ起き上がってこっちを見ている。
「ごめん、起こしちゃった?」
「ううん。わたしもちょっと前から目が覚めちゃってたんだ。
どっか行くのか?」
「アテがあるわけじゃないんだけど…眠れなくて。ちょっと散歩でもしようかなって」
「それならちょっとお願いがあるんだけど…
………ト、トイレに付き合ってほしいんだけど…い、いいかな……」
いいよ、わたしは笑って頷いた。暗闇で笑顔が届いたかどうかわからないけれど。
みんなを起こさないようにそろりそろりと、抜き足差し足、ドロボウのように歩みを進めてようやく扉までたどり着いた。
すぅすぅと気持ちよさそうな寝息が聞こえる。みんな変わらず気持ちよさそうに寝てる。
ゆっくり、じっくりと、ノブをひねって扉を開く。
うーん、と唯ちゃんが唸って寝返りを打った。
澪ちゃんがビクッとしてわたしのジャージの裾を引っ張る。
一瞬わたしたちは動きを止めた。
しばらくそのまま止まったまま様子を伺った。
どうやら唯ちゃんが起きた様子はない。また寝息だけが聞こえてくる。
澪ちゃんと目を合わせてお互いにこくんと頷く。
それから開きかけの扉をもう一度引いてふたりが通り抜けられるだけのスペース分だけ開けてから、するっと部室を抜け出した。
ガ
チャ
ン
。
部室の扉を開けたり閉めたりするのに、こんなに気をつかったのなんてはじめて。
ハァ~~~とふたりでため息をついて、顔を見合わせた。
思わず吹き出しそうになるけれど、グッと堪える。
大分暗闇に目が慣れて、相手の表情もきちんとわかる。
澪ちゃんは、たのしそうに笑っていた。
たぶん、わたしの笑顔も、今は伝わってる。はず。
部室を出たからって大きい音を出していいわけじゃない。
声を殺してふたり、笑いあった。
目が慣れたといっても暗い校内。
階段の踊り場には月の光が差し込んでいるけれど、足元はおぼつかない。
わたしはケータイを取り出して懐中電灯代わりにフォトライトをつけた。
「…わぁ」
わたしたちの行く道を照らすちいさなひかり。
澪ちゃんが嬉しさの混じった声を上げた。
光が照らす先を、階段を踏み外さないように気をつけて一段、一段と降りていく。
「なぁ…ムギ」
「なぁに」
「あの…さ。お願いがあるんだけど」
「いいわよ。どうしたの?」
「………手、繋いでもらってもいいか」
「………うん。いいよ」
左側を歩く澪ちゃんの右手を、左手でそっと掴んだ。
澪ちゃんがきゅっとわたしの左手を握り返した。
澪ちゃんの手はいつもみたいにちょっとだけ冷たい。
この手が、すこしでもあったかくなるように、気持ちを込めて手を握る。
澪ちゃんが痛くならないように、でも、
思いだけはいっぱいに。
音楽室のあるのは校舎の3階。トイレがあるのは1階。
怖がりの澪ちゃんじゃなくたって、真っ暗な夜の学校を歩いてそこまでいくのは怖いと思う。
歩くたびにギィギィと音を鳴らす古い校舎の床。
風に揺れる窓の音。
遠くで聞こえる犬の鳴き声。
夜の校舎では普段気にならない些細な音も耳に入る。
なんでもない音のはずなのに、どうしてだろう。
なぜかそれが恐怖を煽る。
澪ちゃんが左手でわたしのジャージの裾を捕まえた。
今までこの子とこんなに密着したことなんて、たぶんなかった。
身体の震えが伝わって来る。
わたしの鼓動は、どうだろうか。
「澪ちゃん」
「…な、なに」
「今日の舞台、よかったよ」
「えっ」
「すっごくかっこよかった。澪ちゃんのロミオ」
「そんなことないよ…」
「そんなことあるよ」
「…ありがと。でもみんなが支えてくれたおかげだから」
「…そうね。クラスみんなで頑張ったもんね」
「…ムギも。ありがとな」
「え?」
「ほら。バイトで特訓してくれたしさ。それにロミジュリの脚本はムギだろ。
舞台が好評だったとしたら、それは脚本がよかったってことじゃないのか」
「…そんなことないよ。わたしなんて大したことしてないから」
「そんなことあるよ」
「…ありがと」
そう言って澪ちゃんは笑った。ちょっとは恐怖が紛れたかな。わたしは安心した。
「まぁ…とにかくうまくいってよかったよ。最初はどうなることかと思ったし」
澪ちゃんは心から安堵したように大きくため息をついてしみじみと言った。
「そうね~。最初は全然ダメだったものね。澪ちゃんもりっちゃんも」
「それは言わない約束だろぉ…」
「ごめんごめん。からかいたかったわけじゃないの。
でも終わってみて思うけど、澪ちゃんとりっちゃんじゃないとあんなにいいお芝居にはならなかったと思うわ」
「そ、そうかな」
「うん、そうそう。ふたりだからこそのロミジュリよ♪」
「まぁ、でも確かに律は意外だったかも。
まさかあんなにジュリエット役をうまくやれるとは思わなかったよ」
「そうかしら。わたしはりっちゃんのジュリエット、ぴったりだと思ってたよ」
「えー…ホントか?」
りっちゃんの話になると途端に声が元気になった。
りっちゃんすごいなぁ。この場にいなくても澪ちゃんのこと、元気にしちゃうんだから。
「ほら、りっちゃんって女の子っぽくてかわいいし」
「ん~、まぁそれはそういうところがないわけじゃないけど…」
「じゃあ澪ちゃんは、りっちゃん以外にジュリエット役が似合う子が他にいたと思うの?」
「う~ん……そうだなぁ…」
「いちごちゃん、なんてどうかな?お姫様みたいだし」
「若王子さんかぁ…若王子さんも似合いそうだけど…」
澪ちゃんはそう言って考え始めた。
もう階段を1階まで降りきっていた。職員室を向かって右に折れる。
「そうだな…やっぱり一人しかいないな」
ようやく口を開いた澪ちゃんは、自分の考えを確認するようにうんうんと頷いて言った。
「わたしたちのクラスなら…」
わたしたちのクラスなら…?
「ムギかな」
…わたし?…わたし?
「うん。だって本物のお嬢様だし。美人だし、上品だし。お姫様みたいで。
ぴったりだと思うぞ」
「…そっか」
「律もそう言ってたろ。きっとみんなそう思ってたよ。
脚本担当じゃなかったら、ムギがジュリエットだったよ」
「…そうかな」
「うん。そうだよ。ゼッタイ」
澪ちゃんは自信満々に頷いた。
「トイレ、着いたよ」
「あ、なんだか早かったな」
「うん…そうだね。わたしここで待ってるから」
「あ、あのさっ…悪いんだけど……」
「ごめんごめん意地悪して。ちゃんと扉の前に立ってるから」
「…あ、ありがと」
…ジュリエット。わたしが、ジュリエット。
「ムギ…どうかした?」
水が流れる音も、扉が開く音も、何一つ聞こえていなかった。
わたしは暗いトイレの天井をじっと見つめたままだったらしい。
声をかけられてようやく気がついた。
「ううん。なんでもない。さ、戻ろっか」
「…うん。ありがと、ムギ」
帰り道は行きよりも怖さが薄れた気がする。
きっと一度通った道だからだ。
「ねぇ澪ちゃん」
「なに」
「ごめん。わたしさっき、嘘ついてたの」
澪ちゃんは黙ったまま、わたしの方を見つめている。
わたしは澪ちゃんを見ないまま喋り続けた。
「本当はね。澪ちゃんとりっちゃんにはロミオとジュリエット、似合わないと思ってたの」
「どうして」
「…ほら。ロミオとジュリエットって、不幸な話でしょ。
澪ちゃんとりっちゃんにはそんな話似合わないよ。
わたし、ふたりが主演になるって決まったとき、台本大幅に変更しなきゃって言ったじゃない。
あれは本当なの。ハッピーエンドにしたかったの」
「それじゃあロミオとジュリエットにならないじゃないか」
「…そうだね。だからふたりにはこの話が似合わないよ。だから…」
「だから…?」
わたしは大きく息を吸い込んだ。
心臓の鼓動が階段を上るテンポを追い越してリズムを刻んでいる。
「わたしがジュリエット役のほうがよかったかも…って」
澪ちゃんが足を止めた。
わたしも慌てて足を止めて、振り向く。
強い目をして澪ちゃんがわたしを見ている。思わずひるんで一歩後ずさってしまう。
「わたしと律が不幸になるのはおかしくて…
わたしとムギなら不幸になってもいいなんて…
そんなバカな話あるわけないだろ」
カタカタカタ…風が吹いて校舎の窓を揺らした。
非常灯が赤く光を放っている。
何も言えないわたしを追い越して、ギィギィと音を鳴らしながら澪ちゃんはひとりで階段を上っていく。
ケータイの光はわたしの足元を照らしていて、
先を行く澪ちゃんがそのまま暗闇に溶けていく。
「待って!」
たまらずに大きな声をあげてしまった。
そうして…二歩三歩前に進んで追いつくと、
さっきまでとは逆に、今度はわたしが左手で澪ちゃんの袖を掴んだ。
「…ゴメン。そんなつもりじゃなかったの。
本当はね。わたしも…舞台に立ちたかったの。あっ、脚本担当に不満があったわけじゃないのよ!そういうわけじゃないんだけど…」
澪ちゃんが振り向いて、袖を掴むわたしの左手を握った。
それから一段、二段と階段を降りてきてわたしの隣に並ぶ。
窓から差し込む月の明かりが明るく照らし出すその姿は、
まるで本物のロミオが演劇の舞台から抜け出してきたみたいで、
もしかして今、わたしは寝ぼけて夢でも見てるんじゃないかと頬をつねりたい気持ちに駆られた。
澪ちゃんはちょっとびっくりするくらいの強い力で、わたしの左手をぎゅっと握った。いつもとは反対に、澪ちゃんの手のひらの熱気が伝わってくる。
「…ムギの手。つめたい」
「…ごめん」
「…あやまることじゃ、ないだろ」
「…澪ちゃんのロミオ見てたら…ジュリエットのりっちゃんがうらやましくて…
澪ちゃん、かっこよかったから。すっごくステキだったから」
「…そんなことないよ」
「そんなこと、あるよ」
澪ちゃんがの唇の端がすこし上がったのがわかって、わたしも同じ顔をつくった。
…よかった。
そうしてふたり、また階段を上っていく。いっしょに。
「明日のライブで…ああもう今日だけど…最後だね」
「最後…だな」
「頑張ろうね」
「頑張ろうな」
「最後…」
「うん。最後」
昨日と同じ今日が、今日と同じ明日が、ずっと続くと思ってた。
ずっと続けばいいと思ってた。
でもそうはいかないんだよね。
「卒業…したら。ムギは前に言ってた女子大に行くんだよな」
「澪ちゃんは推薦入試なんだよね」
「…」
「…」
「来年の今頃…わたしたちはどこでなにしているんだろ」
「そうね。どこでなにしてるんだろうね」
隣にいたいと思った。
今こうしてるみたいに。
昨日も今日も明日も明後日もそのまた次の日も。
来年も、その次の年も、そのまた次の年も。
ずっと、ずっと。
でもそのために何をどうしたらいいかなんてわたしにはちっともわからなかった。
せめて離れ離れになっちゃう前に、伝えなきゃいけない言葉があるような気がしたけれど、
それさえもちゃんとした形になっていなくて、もやもやと胸の中を渦巻いている。
それに…。
それに…?
言葉に出した途端に全てが壊れてしまうのが怖かった。
もし…。
もしこれがお芝居だったら。
わたしは台本のセリフに乗せて、想いを伝えることができただろうか。
そんなセリフ書けるかしら?脚本担当だけど、自信…ないなぁ。
でも、これはお芝居じゃない。現実だ。
それにお芝居だとしてもわたしはジュリエットじゃない。
……ううん舞台にすら上がれなかった。
舞台の袖から…スポットライトを浴びて輝くふたりをそっと見守るだけ。
ようやく部室の前まで戻ってきた。
「ムギ…ありがとな。助かったよ。ホントに」
「ううん。わたしの方こそ。散歩に付き合ってくれてたのしかったよ」
「じゃあ…もう寝ようか。明日も早いし」
「………そうね」
握り合った手と手が、すっと離れて、澪ちゃんは左手でノブを掴んだ。
ケータイのフォトライトを消して、
ゆっくりと静かに扉を開けて部室に入る。
みんな、さっきまでと変わらずに気持ちよさそうに寝息を立てていた。
梓ちゃんにぴったりと寄り添うようにくっついて、唯ちゃんが眠っている。
自分で自分の気持ちをきちんとわかっていること。
それをちゃんと形に出せること。
それは誰にでも簡単にできることじゃない。
わたしたちは「おやすみなさい」を小声で交わし合い、寝袋に入った。
もしできることなら。
10年とか20年とかたくさん時間が流れてしまっても、
いろんなことがあってふたりが変わってしまっても、
今夜の出来事だけはずっとずっと変わらずに、
ふたりだけの秘密の思い出として、
あなたと語り合えたなら。
それはどんなにしあわせなことだろう。
ううん。
たぶんこの先ずっと、わたしはきっと今日のことを忘れないんだろうな。
あなたが今日のことを忘れてしまっても。
あなたが隣にいなくても。
目を瞑る。
夢の中では……
夢の中では……
わたしはジュリエット。
そう、わたしはジュリエット。
あなたの瞳に、わたしが映る。
情熱を持ったあなたの視線が、わたしを射抜く。
でも。
夢の中でさえ、わたしたちは結ばれることがない。
だって、わたしはジュリエット。
あなたはロミオ。
わたしはジュリエット。
そう、わたしはジュリエット。
…ロミオとジュリエット……だから。
でも、それでもいい。
もう一度目を開くと、夜が少しづつ白み始めていることに気がついた。
もうすぐ、太陽が昇る。
そうなればもう、フォトライトは用済みだ。
ああ、もう寝なくちゃ。
寝ちゃお寝ちゃお…そう、寝ちゃお。
冷たくなっている右手をぎゅっと握りなおす。
そうしてまた、瞳を閉じた。
ー第1話 おわりー
最終更新:2015年01月15日 07:38