第3話「サムデイ イン ザ レイン」


瞼を開けば眩しい光と共に透き通ったブルーの青空が…なんてそんなわけはなくて、
むしろさっきよりも勢いを増した雨粒が、激しく窓を打ち付けている。

天気予報では曇りと言っていなかったっけ。
町をゆく人の中には鞄から折りたたみ傘を取り出している人もいたので、
予報が外れたのではなくて、きっとわたしの勘違い。
今日はもともと雨の降る日だったのかもしれない。

わたしは行きがけのコンビニで買ったビニール傘を片手にぶらつかせ、
3ヶ月前に潰れたラーメン屋の軒先で、しばらく雨が止むのを待ち続けた。


潰れる前に一度だけ、梓ちゃんと一緒にこの店に来たことがある。

「やめておきましょうよ。ゼッタイおいしくないですよ」

「いいじゃない。マズイならマズイで話のタネになるんだし♪」

「…無駄ですよ。お金をドブに捨てるようなもんです」

文句を言う梓ちゃんを引っ張って、わたしたちは店に入った。

二次会帰りで時間は0時を回っていたせいか、ガラガラの店内。
床には油がこってりテカテカとまとわりつき、歩くだけで少し不快になる。
女の子ふたりが入ってくることなど滅多にないのだろう、
熊のようなもじゃもじゃの髭が生えた店長の、
こちらをじろじろと眺めていた黒目がちなふたつの瞳を思い出す。

黒々としたスープ。
太いんだか細いんだか、硬いんだか柔らかいんだかわからない麺。
妙にパサついたチャーシューが2枚。
モヤシだけはやたらと載っていてボリュームをごまかそうとしてるのが丸分かりだった。

一杯700円。

うーん………。

梓ちゃんは、【ご自由に】と書かれた瓶から、
これでもか、というくらいニンニクを取り出してラーメンにかけている。

「すみません。生中ひとつ」
「飲むんですか?じゃあわたしも」

こうなったらビールでごまかそう。

それから何杯、飲んだんだっけ?


そういうわけで、この店のラーメンの記憶をビールに書き換えることに成功している。
記憶の中で印象的なのは、所狭しとテーブルに並んだ、星マークの入ったビールジョッキ。
ちなみに最初文句を言っていた梓ちゃんは「意外にイケましたね。今度他のみなさんも誘ってきましょうか」なんて言っていた。

梓ちゃんに出すケーキと紅茶のグレードは、落としてもバレないな。
そう思った。

店を出て、口直しにアイスを買おうとコンビニに寄る。
ガリガリ君の梨味が、そのころのマイブームだった。
梓ちゃんが食べていたのはいちごアイス。

最後に残ったひとつを見つけた梓ちゃんは、嬉しそうに笑った。

それ以来、このラーメン屋には来ていない。

あの後梓ちゃんはふたりでお店に来たりしたのかしら。


目の前を自転車が走って行った。気がつくと雨はおさまっている。
わたしは軒先から出て歩き出した。

スーパーの閉店時間を過ぎた商店街には、人影が見当たらない。
雨が降っていたし、みんなもう、おうちに帰っているんだろう。

どこかしらからか、カレーの匂いが漂ってきた。
お腹がグゥと音を鳴らしそうなのを我慢する。

う~ん…

ラーメンよりはカレーかな。HTTにもカレーの曲はあるけど、ラーメンの曲はないし。
こんど、作ってみようかな。
チャルメラみたいになっちゃったりして。
澪ちゃん、どんな歌詞書くのかな。
ラーメンで恋の歌とか書けるのかしら……。
そもそも書いてくれるかどうかもわかんないけど。

最近、曲作ってないなぁ…。

ビニール傘をくるくる回したり、
地面にトントン打ち付けてリズムをとったり、
メロディ降ってこないかなーって空を見上げたり、
けれどぐるぐると頭の中でエンドレスで流れるチャルメラを追い出すことができなくて、
諦めたわたしはチャルメラのメロディを口ずさみながら歩いた。


雨に濡れた道路わきには店内の灯りが漏れている。

店の外に出された棚には、雨よけの透明なビニールカバー越しに音楽雑誌が並べられているのが見えた。

静かに扉を開けてお店に入る。
予想していた通り、雨の日の本屋には人が少なくて、先客は一人だけ。
ゆっくりとお店を回りながら、またあのラーメン屋のことを思い出していた。

ぼぉんぼぉんぼぉん、と古い時計が鐘を鳴らす。

わたしは昔子どものころに読んだことのある文庫本を見つけると、
棚からすっと取り出して、レジに持って行った。

「…これ。くださいな」

「ありがとうございます…って、ムギ。来てくれたんだな」


「うん。この近くでちょっと用があったから。そのついで」

「そっか。いつも悪いな」

「ううん。本読むの好きだから。澪ちゃん、バイト、何時まで?」

「うん。20時までだからもうあがり。せっかくだから一緒に帰ろう」

「うん。じゃあ、待ってるね」

店の外で澪ちゃんを待とうと扉を開けると、
道路の湿り気が増している。

「あれ。いま雨降ってる?さっきやんだと思ったのに…」

遅れてやってきた澪ちゃんが夜の闇を見て呟いた。

「もしかして澪ちゃん、傘持ってないの?」

「うん…ほら。天気予報では曇りって言ってた気がしたから…」

「あっ、あの、わたしね…」

「ゴメン。ムギ。もうちょっと待っててもらっていい?
 わたし、お客さんが忘れてった傘、借りていくことにするよ。
 お店に結構、残ってるんだ」

そう言って澪ちゃんは傘を取りにもう一度店の奥に戻って行った。
わたしは黙ったまま、半分くらい開きかけたショルダーバッグのチャックを閉じなおした。

「じゃあ、行こうか」

「うん」

澪ちゃんが持ってきたのは、可愛らしい水玉模様の傘だった。
よかった。黒くて地味な折りたたみ傘なんか出さなくて。


「かわいいね、それ」

「だろ。でもこれ、壊れてるんだけどな」

確かに骨が一本折れていて、いびつに歪んでいる。

「壊れちゃってるから、店に捨てていったんだよ。たぶん」

「捨てないの?」

「うん…だって柄がかわいいし…なんだか捨てられなくて」

「そっか…じゃあ、せっかくだから修理屋さんに出してみる?」

「そうだな…せっかくだからそうしようかな」

「あのね…じつはわたしも…」

「?」

「傘……壊れちゃってて」

買ってものの5分もしない間に、
突風に煽られて反転したビニール傘。
無理に力を入れて戻したら、骨が何本か折れちゃった。


霧雨の中、暗い夜道をふたりで帰る。
壊れた傘をさしながら。

ビニール袋越しに見上げた夜空は、半透明に濁って見えた。

「ふたりだと恥ずかしくない気がする」

「ホント?人がいないからそんなこと言えるだけじゃないの?」

「…それもそうだな」

「街中で壊れた傘差してたら、ちょっと目立つものね」

突然前が明るくなった。
後ろからきた車のヘッドライトがわたしたちを照らし、
あっという間に追い越して行った。

「…」

「…」

「…車の運転してた人には」

「…見えてただろうね」

「…急に恥ずかしくなってきた」

「…じゃあさ」


わたしは傘をたたむと澪ちゃんのそばに寄って、右腕を掴んだ。

「ム、ムギっ…//」

「相合傘したらどう?
 ふたつとも傘が壊れてたら恥ずかしいけど、
 ひとつだけなら恥ずかしさも半分よ~♪」

「あ、……うん//」

ぴたりとくっついた右腕から体温が伝わってくる。
でも、もともと霧雨だった雨は、降っているのかどうなのかもわからないくらい。
もう傘は要らないのかもしれない。差さなくたって大して濡れないのかもしれない。

「傘、わたしが持つよ。入れてもらってるし」

「あ、ありがと」

そんな雨の様子なんかちっとも気がつかないフリをして、
左手で受け取った傘を、少し左に傾ける。

「そんなに傾けたら、ムギが濡れちゃうだろ」

「大丈夫よ。だって最近、2kg痩せたのよ~」

「なにーっ!ム、ムギは仲間だと思ったのに……
 ってそうじゃなくて!」

「だいじょうぶだいじょうぶ♪
 わたし、濡れてないから」

澪ちゃんは雨の様子に気がついていないんだろうか。
少しでも雨に濡れたくないから傘を差してるんだろうか。

何かを期待してしまいそうになる自分と、
期待してそれが失望に変わるのを怖がる自分が、
入れ替わり立ち替わり現れては消えて、
「雨、やんだみたいだな」の一言を聞くのが怖くて、
わたしはとにかく何か喋り続けた気がする。
何を喋ったかはあんまり覚えていない。


寮の近くのコンビニの側まで来たときに、
店を出て行く男性客が傘を差さずそのまま走っていくのを見て、

「雨、やんだみたいだな」

って澪ちゃんは言った。

「そうだね」

とだけ答えて、わたしは掴んでいた澪ちゃんの右腕を離すと、傘を下ろしてたたむ。骨が曲がってたたみにくいけれど、今度は無理に力を入れすぎないように、気をつけて。慎重に。
そのうちに、自分の右肩がしっとりと濡れていることが気がついて、
さっきまでのことは夢じゃなかったんだ、って思った。
左腕には雨に濡れた澪ちゃんの匂いが残ってるみたいで、
鼻をすんすんとさせてみると、ああ、これインクの匂いだ、って気がついた。


「昔もこんなことがなかったっけ?」

閉じた傘を澪ちゃんに手渡して、わたしたちはまた歩き出した。

「そうだっけ?」

「ムギとふたりで雨の日に相合傘して帰ったこと。あったろ。高校の時」

「…ああそういえば。あったね。なつかしいね」

覚えててくれたんだ……。

「あのときのムギ、すっごく濡れてたよな。
 あのあと風邪…引かなかったのか?」

「…うん。大丈夫だったよ」


「そういえば、学祭ライブの前日にふたりで夜の学校を歩いたこともあったよな」

「…うん」

「あのときはさ。明日のライブがみんなと演奏する最後かも、って思ってた。
 高校を卒業したらみんなと離れ離れになっちゃうんだって思ってた」

わたしもそう思ってたよ。

「学祭ライブが終わってさ。いろいろわたしなりに考えたんだ。
 それで思ったんだ。離れたくないって。絶対離れたくないって」

「わたしたちが今こうしていられるのは澪ちゃんのおかげだね。
 ありがとう、澪ちゃん」

「…そんなことないよ。きっかけにはなったかもしれないけどさ。
 受験勉強を頑張ったのはみんな一緒だろ?」

「…うん。でもね。澪ちゃんがあのとき『みんな一緒の大学へ行きたい』って、言ってくれなかったら…わたしたちは今ここにいなかったと思うの」

わたしには言えなかった。
一緒にいたいなんて。すっごく一緒にいたいと思ってたのに。
わたしが言うと駄々っ子のワガママにしかならないような言葉も、
澪ちゃんが言えばそれはわたしたちを照らす光になった。


月も星も浮かんでいない曇り夜空の帰り道を、街灯が明るく照らしている。

でもその光は、さらにこれから先、わたしたちが進む道も照らしてくれるわけじゃない。
光が届かない道を歩かなくちゃいけないときは、もう近くまできている。

チカチカと切れかかった街灯を見て、最近めっきり調子の悪い部屋の電球のことを思いだした。

「今度こそみんな、離れ離れだね」

「…そうだな。律と唯は就職組だもんな。それにわたしたちも寮は出なくちゃいけないし。
 そんなに遠くにいくわけじゃないけど、今までのようにはいかないよな」

「でも放課後ティータイムはずっと放課後だからね」

「それ、意味わかんないから」

「うそ。なんとなくわかるでしょ」

「…まあ、そう…かも。うん。なんとなく、だけど」

反対方向から走ってきた車のヘッドライトが、澪ちゃんの笑顔を照らした。


「澪ちゃんは、将来のこととか考えてる?どんなお仕事したいとか」

「ん。まぁそれなりには」

「へぇ。どんなお仕事?」

「…あくまで希望だけど…本に関係する仕事ができればなって思ってる」

少し恥ずかしそうに、頬を赤らめて俯きながら澪ちゃんは続けた。

「自分で書いたり…自分がいいなと思う本を人に紹介できたり…たくさんの人が素敵な本に出会えるきっかけを作れるような仕事ができたらいいなっ…って」

「…ステキね」

「あっ、みんなにはナイショにしてくれよ!恥ずかしいから…」

「ウフフ。わかったわ。じゃあふたりだけの秘密♪」

「…そうだな」

本屋さんでアルバイトしてること、図書館司書課程を履修してること、たまに自作小説を文芸誌に投稿してること…はみんな知ってるんだけどね。


「…ムギは?」

「……え」

「将来のことだよ。やりたいこととか。つきたい仕事とか」

「……そうね」

「ああ、家の仕事を手伝うのか?もしかしてゆくゆくは社長に…」

「まさか、わたしは社長なんてガラじゃないよ。
 まずは親に頼らずにちゃんと自分で生活するところから始めたいな」

「でも兄弟いないんだろ?家のことはどうするんだよ」

「……そうだね。
 先のことはわからないけど、いつかは家の仕事を手伝うことになるかもね。
 でも年上の従兄弟がいて、そのひとが父の会社の手伝いをしてるから、
 絶対にわたしが継がなきゃいけないってわけでもないの」

「…ふぅん、従兄弟かぁ」

「うん」

「…どんなひとなんだ?」


「やさしいひとよ。お兄ちゃんみたいな人。5つ年上なの。昔はよく遊んでもらったわ。
 わたしの知らないこといっぱい知ってる人だった。それと…ピアノがとっても上手な人だったの。
 わたし、その人を見てピアノをやろうと思ったの。
 ……今はヨーロッパで働いてるから何年も会ってないけど」

ひさしぶりに彼のことを思い出した。ピアノは続けているだろうか。

「そっか。きっと、素敵なひとなんだろうな」

「さぁ…どうだったかな」

澪ちゃんに言われるまでもなく、家のことは気になっている。
でもまずは一人で生活できるようになりたい。
自分の足でしっかりと立って、自分で考えて進む道を決められるようになりたい。
家のことはそれから。


「引っ越し先は決まった?」

「まだ。いざとなると迷っちゃって。家賃のこともあるし」

「そうよね。わたしもまだ決まってないの。
 今度こそ自活するつもりだし。家賃も節約しなくっちゃ」

四年間、こつこつと学費を貯金してきたからね。

「エライなぁムギは。でもあんまり無理するなよ」

「うん、大丈夫」

「そっか。わたしもバイトの量、増やそうかなぁ…」

「じゃあさ…それならいっそ節約も兼ねて………」




『いっしょに住んじゃう?』




頬に冷ややかな感触、
街灯が照らす光の中に、雨粒が見えた。

澪ちゃんはゆっくりと傘を開き、右側に立つわたしのほうに傾けるように差す。

したたかに傘を打ちはじめたささやかな雨粒の音が、耳の奥に響いた。けれど、




『それも、いいかもな』




あなたが言ったひとことを最後に、音がやんだ。

まるでこの壊れかけた傘が、

雨の音も、
お互いの息遣いも、
車のクラクションも、
横断歩道の交通信号機から漏れるとおりゃんせも、
遠くから聞こえていた踏切の警報音も、

なにもかも、
外の世界の音を遮ってしまったかのように。

わたしたちふたり、無言。

ただただ頭の中にはひとつの言葉だけが響いていた。

わたしは目を閉じた。
目を閉じて、音の失われた世界で最後に聞いた言葉を繰り返し、
繰り返し、胸に刻んでいた。

ー第3話 おわりー



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最終更新:2015年01月15日 07:39