第4話「幸福な結末」


大きく息を吸い込んで、
ゆっくりと吐き出していく。

目の前にある空気は、吸っても吐いても何も変わらないように思えるけれど、
吸う息よりも吐く息には二酸化炭素が多くて、酸素が少ない。

でもそのほとんどは窒素だから、大して変わらないといえば大して変わらない。

それでも全く同じではないのよね。
同じように見えてもちょっとづつ中身が変わっている。

たたんたたん、と走り出した電車の音が響く。

目を開き、夜空を見上げた。そうして、

星を見た。
満天の星の群れが、さまざまな色に輝いている。

その中に一つ、赤や緑に光を変えながら、東から西へ走る星があった。

飛行機かしら。
それはわたしの知らない世界へと飛んでいく。


「寒くないか」

「ううん平気」

夜の街はきらきらとかがやいている。
そのひとつひとつの光の中に、人間の営みがある。
見たことも会ったこともない、これからの人生で自分とは袖をすり合わせることすらないかもしれない人たちがこの世界に大勢存在していて、
何かを思い、考え、生活している。
それだけたくさん人間がいるのだから、ひとりくらい今のわたしみたいな気持ちの人がいたっておかしくないのかもね、と想像した。


金曜の夜の駅前を行き交う人はいつもより賑やかで、
見ているとほんのりしあわせな気持になる。
お酒に酔って大きな声で笑いながら歩くおじさんたち。
腕を組んであたたかそうにくっついていてあるく恋人たち。
ギターをかき鳴らして歌う、大学生くらいの男の子。

「おっ、なかなかうまいな」

「…上から目線?」

「ちょ、そんなんじゃない」

「…フフ。ごめん」

人の流れに背を向ける。

繋いだ手と手が離れて、澪ちゃんは右手をポケットに入れた。
わたしは歩道橋の手すりに両肘を乗せて、道路を見下す。

左側に立つ澪ちゃんも同じ方向を向いて、わたしの方を見ずに言った。


「聞いてもらいたいことがあるんだ」

「うん」

道幅の広い道路を、いくつもの車が走り抜けていく。

「引っ越し、来週末に決まったから」

「そう」

「荷物はすぐにまとめる。できるだけ早く」

「そう」

澪ちゃんは顔だけこちらに向けた。

「ごめん。言うのが遅くなって」

「謝ることじゃないよ。
 だっていつまでも一緒に住んでるわけにはいかないでしょ。わたしたちもう…」

わたしも顔だけ澪ちゃんの方に向けた。

目と目が合った。
大きく、キリッと力強く、意志のこもった瞳。
すこし潤いを秘めているところにやさしさを感じた。
あの音楽室で、はじめて逢ったときと何も変わってないような瞳。


「…子供じゃないわ。いい大人だもの。青春ごっこはこれで終わり」

わたしがそう言うと、澪ちゃんはすこし怒ったように、顔を背けた。

「…何年になるんだっけ」

「…5年。もうすぐで5年」

「そんなになるのかぁ…」

緩やかな風が長い黒髪を揺らした。

伏した瞳の長い睫毛。
真白い肌。
艶やかかな赤い唇。

唇から漏れる白い息。
澪ちゃんの吐く息のそのほとんども、わたしと同じように窒素なんだろうか。

「わたしも聞いてもらいたいことがあって」

「なに」




「結婚するの」






「……」

「…聞いてる?」

「……聞いてるよ」

「…そう」

「突然…だな」

「そうでもないよ。最近時々実家に帰ってたのはその話のせい」

「…どんな人、なんだ」

「…従兄弟のお兄ちゃん」

「ヨーロッパにいるっていう…」

「去年、帰ってきてたの。それでそんな話になって」

「……」

「返事、ずっと待ってもらってて…迷ってたんだけど……」

「……」

「おあいこね」

わたしは体ごと澪ちゃんの方に向き直して、
精一杯の笑顔をつくってみせた。


高架橋の上を走る電車が、吸い込まれるように駅に走ってきては、
吐き出されるように去っていく。

その繰り返し。

高架下にはおでんの屋台が出ていて、
時々ふたりで飲みに行った。
いろんなおじさんたちと知り合いになって、おごってもらったこともある。
人見知りの澪ちゃんもアルコールのおかげでちょっとだけ解放的になって、
たのしそうに笑ってた。

「なぁ、ムギ。ムギはさ…」

澪ちゃんは夜空の遠くむこうの方を見るように言う。

「本当のことって、ひとつしかないと思う?」


よくわからないけれど、生きていれば否応もなく選ばなきゃいけない瞬間というものがあるんだと思う。
T字路にぶつかったとき、右に行くのか左に行くのか。

後戻りもできない。前へも進めない。

右?
左?

「わたしは、ひとつじゃ………ないかもしれないって思うんだ」

ああ…その場に立ち止まり続けるというのもひとつの選択肢だ。

「…でもそれじゃ」

振り返った後ろの景色はとても鮮やかで美しく彩られているけれど、
透明な壁に阻まれて、もう後戻りはできない。


「両方ともウソなのかもしれないよ」

「ちがう」

「なにが違うの?」

「…ちがう…ちがうんだ」

「ウソつき」

「ウソなんてついてない」

「ついてたよ。わたしにはわかってた。澪ちゃんはずっとウソついてた」

「なんのことだよ」

「本当のことなんて、話してくれたことなかったじゃない」

「…言いたいことがあるなら、はっきり言えよ」

「本当の…ことはね」


澪ちゃんの言う通り、もしかしたら本当のことはひとつじゃないのかもしれない。
けれど、選ばれなかった方は選ばれなかったことをもって本当のことじゃなくなってしまう。

もっと怖いのは、何も選ぶことができず、曖昧な態度を取り続けているうちに、
そのまま全部がウソになってしまうこと。

「今、澪ちゃんがが選ぼうとしてるのが本当のことよ。
 選ばなかった方は本当じゃない。ニセモノなの。
 本当のことはひとつだけなの。

 澪ちゃん、迷っちゃダメよ」

引き止めることで、すべてをウソにしてしまいたくなかった。

時刻は真夜中の真ん中。
星は変わらずに輝いているというのに、
今日が明日に、昨日が今日に、変わった。


眠り込んだ女の子を背におぶって、
白い息を吐きながら駅に向かう男の子。

ドタン、という音ともに男女のちいさな悲鳴が聞こえて振り返る。

わたしたちを追い越す手前で女の子の目が覚めてしまったせいか、
そのままふたり、ひっくり返って転んでいた。

転んだ拍子にこちらの方まで飛んできたのか、
わたしの足元に落ちているケータイを拾い、手渡した。

かわいらしいいちごのストラップがついていた。

ふたりはわたしたちを見て、恥ずかしそうに笑った。
わたしは笑顔をつくって声をかけた。「大丈夫ですか?頭打ったりしてませんか?」。

大丈夫、大丈夫、とリアクションをとると、ふたりはそそくさと駅へ歩いて行った。


「終電、か」

右手につけた時計を見ながら、澪ちゃんが言う。

「いいよ、タクシーで帰るから」

「節約しなくていいのか」

「もう必要ないから」

「…そっか」

星はさっきまでとは何も変わらずに同じ場所で輝いている。
わたしたちが生まれるずっと前から、
わたしたちが死んでもずっと先まで、
星は同じように輝き続ける。

けれども天空は、ひとの目にはわからないくらい少しずつ動き続けていて、
季節の移ろいと共にその姿を変える。

覚えた冬の星座は、春になれば全て変わってしまう。

そして永遠に思える星の命も、いつかは潰える。




澪ちゃんは「じゃあな」と言って左手を上げた。
わたしも「じゃあね」と言って左手を上げた。

わたしは駅に向かって歩き出した澪ちゃんの方を見ずに、
ただ夜空を見上げていた。

遠ざかっていく足音さえも愛おしくて、
だからこそ余計に耳に入れたくなくて、わたしは耳を塞いだ。




「ムギ」

「あれ?どうしたの?電車、間に合わなくなるよ」

「まだ大丈夫だ。あのさ、言い忘れた」

「なぁに」

「えっと………」

「…………」

「…………ごめん。やっぱなんでもない」

「あ、そうだ」

「なに?」

「ジュリエットに…よろしくね」


さみしいなんて呟いて、
あなたに重荷を背負わせたくないわ。

…ちがう。ただ重い女だ、って思われたくないだけのいい子ぶりっ子してるだけ。

本音を隠してやせ我慢して。

そうしてさみしくないフリをして笑顔をつくっているうちに、
荷物は肩の上で重さを増していって、
そしてわたしはつぶされる。

「……ジュリエット、か。うん、言っておく。じゃあ…また」

「さよなら。お元気で、ね」

振り返ってくれないかもしれないことが怖くて、
わたしは澪ちゃんの後ろ姿を見ないようにした。


ロミオはジュリエットの元へ、駆けてゆく。

ああ、ロミオ。
あなたはどうしてロミオなの?

どうしてわたしはジュリエットじゃないの?


目を瞑って、ものがたりを思い描く。

そう、わたしは脚本家。
台本を書かなくちゃ。
もちろん、筋書きはアレンジするわ。
ふたりがちゃんと、しあわせになれるように。
どんな脚本にしようかな。
ステキな演出も考えなくっちゃ。
本番は舞台の袖で、ふたりのこと、見守ってるよ。

……見守ってるよ。

そうしてずっと、
ロミオとジュリエットの幸福な結末に思いを巡らせた。

ー第4話 おわりー



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