第5話「銀世界旅行」


開いた瞼を、思わずすぐに閉じる。
あまりにも夕日が眩しかったから。

太陽がたった今、赤い雲を残して落ちていこうとしている。
空を紫色に染めながら、きらきらとひかる海の中に落ちていく。

「…綺麗だな」

そういえば、夕日を見るのはいつ以来だろう。
見ようと思えば毎日だって見られるはずなのに。

こんなに美しいものを、見過ごしていたなんて。
宝物は隠されているわけでもなく、身近にあったのに。
案外ちっとも気がつかない。


列車がトンネルに入った。

澪ちゃんがなにか言いかけたように思ったけれど、
列車の走行音がトンネル内に反響し合ってコォォとうるさく鳴り響くせいで、
お互いの声をうまく聞き取れない。

車内の電気が一瞬消えて真っ暗になり、すぐにまた明るくなった。

澪ちゃんが笑っている。

謝罪の車内アナウンスが流れる。

別に謝るようなことでもないのに。

しばらくするとトンネルを抜けた。
トンネルの先、左手に見える海は変わらずにきらきらと輝き、水平線は曖昧なパープルに染まっている。

右手の山には雪が積もっていた。
ふだん滅多に見かけることのないような雪の多さだった。

温泉………かぁ。




「よ、」

改札の前で待っていた澪ちゃんは、それまでと何の変わりもなく顔をほころばせながら、左手を上げた。
何十年も前から待ち合わせしていたみたいに、
あまりにも自然でなんの違和感もなく、そこに立っていた。

「迎えにきた」

わたしたちが暮らしたあの部屋には、もうなにも残っていない。
引き払う前に掃除をしにきただけ。それが終わってわたしは帰る。

あの部屋じゃない、ところに。

「………あたらしい部屋、探さないといけないな」

………。

わたしは答えずに、改札を通り抜けた。
澪ちゃんがそれに続く。

「きょうは寒いなぁ…そうだ、カイロ持ってるんだけど、使うか?」

…いらない。

「お菓子買ってくるけど、何がいい?ポッキーかな…あ、何味がいいかな。今は種類が多いから」

…なんでも、いいよ。

「やっぱりオーソドックスなやつかな?いや、イチゴ味のほうがいいな」

…澪ちゃんの食べたいのにしたら。

「飲み物は?ビールはやめとけよ。…ああミルクティーにしよう。あったかいの」

…。

「ちょっと、これ、聴いてみて。最近見つけたバンド。すごくいいんだ」

…。

澪ちゃんの右手からイヤホンをうけとって、左耳に入れる。
軽快でここちよいミュージックがわたしの身体に流れ込んだ。

けれど、鳴り出した警報機の音にかき消されて曲の良し悪しはあんまりよくわからない。


電車の到着を知らせるアナウンスは、不必要に大きく、怒鳴り散らすように響く。
ゆっくりとしたスピードでホームに進入してくる電車。
電車を待つひとの群れも妙にべっとりとスローモーな動き。
まるで周囲の空気が粘り気を帯びているかのようで、
すべてのものはドロドロとした粘液をかき分けながら動いていた。

ピロンパロンと間の抜けた電子音と共に扉が開く。
澪ちゃんはわたしの肩を抱くようにして、一歩を踏み出した。

軽やかな一歩だった。

昼の電車内は中途半端な混み方をしていた。
「座りなよ」「座っていいよ」…と言うこともなく、わたしたちは壁にもたれて音楽を聴いている。

「…いいだろ。このバンド」

今度はよく、音が聴こえる。
わたしは少しだけ表情を緩めて、こくんと肯いた。

電車から見上げた空は灰色がかっいて、薄白い月が浮かんでいるの見えた。
昼の空にも月は存在する。
ほとんどの人が気がつかないだけで。
ほとんどの人が必要としていないだけで。
昼間の月も光を放っている。

「お、着いた」

10曲目の音楽が終わるタイミングで電車の扉が開いた。
わたしの右側に立っている澪ちゃんが左手でわたしをつかんだ。

「さ、降りよう」

グイ、と。
有無を言わさない強さだ。
電車を降りて呆然とするわたしに、澪ちゃんはチケットを二枚見せた。

「今からの時間ちょうどの特急があるから。
 温泉に行くぞ」




それから、
いくつも、いくつものトンネルを抜けて、
列車は走って行った。
トンネルを抜けるたびに、雪の量が増えていく。
電車の扉の隙間から漏れてくるしんと冷えた空気に、北国を感じた。
雪は光に照らされてきらきらと輝いている。

夕日はもうほとんど沈んでしまっていて、
世界の境界線を、夜でも昼でもない曖昧な色に染めながらわたしたちを照らした。

右も左も見たことのない景色だった。

右側に座る澪ちゃんが、左手でぎゅっとわたしの手を握った。
ほんのりと伝わってきた熱は、カイロのせいじゃ、なかったはずだ。

わたしは右手で澪ちゃんのウォークマンを掴むと、
音楽のボリュームを、ちょっとあげた。
ロッケンロールは鳴り止まない。
エンドレスリピート。


気がつけば月が輝きを増している。

窓ガラスがぼんやりとわたしたちの姿を映している。
暗闇の向こう側の澪ちゃんと目が合った。

はぁ~っとガラスに息を吹きかけると、そこだけが白く白く濁った。
その白く濁ったところに文字を書いて、わたしは振り向いた。

澪ちゃんは答えた。




『わたしもだよ。同じ気持ちだ』






特急列車は、
距離も時間も時空も越えて、わたしたちを運ぶ。


窓の外は、無限に広がる宇宙。

ああ、夜がはじまる。

もうすぐすれば、真っ暗な空に白くて大きな月が上って、
月明かりに照らされた夜の海には、白い道ができる。

ふたり、手をつないで夜道を歩いていく。

広く大きな星の上、わたしはどこまでゆけるだろう。
遥か大きな空の下、わたしにできることはなんだろう。


わたしたちが、
ずっとずっと遠くに、今、ここからどんなに離れた場所に行ったって、
どこまでも月は追いかけてきて、わたしたちを照らす。




曇りガラスに書かれた文字は、とっくに消えている。
なにが書かれていたのかは、ふたりだけの秘密。

特急列車は、浮き沈みを繰り返しながら走っていった。

ー第5話 おわりー



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