-winter side-

ひらひらと花びらみたいに落ちてくる雪が頬に触れた。

止めていた息を一挙に吐き出し、瞼を開く。
しばらく瞳を閉じていたせいか、一瞬光に眩みそうになる。
けれど、だんだんと姿を現すにつれて、空は水糊みたいに濁っていった。

雪はさっきまでと変わらずに降り止む様子はなくて、どんどんと世界を一色に塗りつぶしていく。
ここも、あそこも、そっちも、むこうも、何もかも。あれやこれやの違いは限りなく薄くなっていく。
いまさっき吐き出したわたしの息までも溶けていっちゃう。
この雪が全て溶けてしまったら、この街は海になってしまうのかもしれない。そんなことを思った。


数年ぶりに訪れた母校。
雪化粧をまとった校舎や校庭は、記憶の中のものとまったく違うもののように思える。

校舎に植えられた桜の木って、あんなに大きかったっけ。
枝に積もった雪が、満開の花のように見える。
白く白く、本物の花のように咲いていた。

雪に埋もれたグラウンドの真ん中にただひとり寝そべってみる。
そうしていると、グラウンドの内はもちろん外側にさえ誰もいない。
もう一度目を閉じる。
静かで、冷たい。まるで海の底に沈んでいくような感覚。

ぶぃーん ぶぃーん

コートのポケットからケータイを取り出して、パカッと開けた。
手早く返信すると、もう一度目を閉じて全身を大の字に広げた。


『おぉ〜い』

首だけひょいと向きを変え、声がした方を振り向く。こちらに向かって手を振りながら歩いてくる人影が見えた。わたしはむっくりと立ち上がり、全身についた雪をパンパンと振り払った。
それからわたしも同じように軽く手を挙げて、くちびるの端をあげてみる。…たぶんこの距離じゃ、表情なんてわかりはしないだろうけれど。

ぎゅっぎゅっと雪を踏みしめる音が大きくなるにつれて、お互いの顔がはっきりわかるくらい近づくと、あの子がいつものように呆れた表情をしているとわかった。

『なにやってんですか。こんなところで寒い日に雪に埋もれて寝転んでたら、風邪ひきますよっ』

『エヘヘ…いや〜桜高に来るのも、こんなに雪が降るも久しぶりだからさ。つい、ね』

『あとで風邪ひいた〜なんて言い出しても知りませんからね。ちゃんと自己管理してください。面倒見るのヤですよ、わたし』

への字に結ばれたくちびる。
いつも通りの、憎まれ口。おなじみの、憎まれ口。


『ありがとね、心配してくれて。でも大丈夫。さすがにもう寒いしやめとくよ。
 体調管理にだって気をつけてるんだよ?みかんも毎日食べてるし』

『ならいいんですけど。風邪をバカにしちゃダメですよ。こじらせたら肺炎になることもあるんですから。肺炎をこじらせたら…』

『しんじゃう?』

『…そうならないように自己管理してくださいね、もう大人なんですから。

 わかりましたか?』

『ふぇ〜い。あずにゃんの言うこと聞いて体調管理気をつけるッス!』

『ハイハイ…調子いいんだから。ホント気をつけてくださいよ』

そうこう言っている間に少しづつ雪の勢いは弱くなってきていた。
うっすらと陽の光が、校舎を照らし始めている。


『雪、止みそうですね。今のうちに急ぎましょう』

『…雪、積もってるから危なくない?山道でしょ』

『大丈夫です。気をつけて歩けば。それに山道って言ってもそんなに高くまで登るわけじゃないでしょ。
 まごまごしてたらまた降り出すかもしれませんよ』

『…』

『…どうしたんです?』

『…やっぱり行かないとダメ?』

『…』


わたしを見つめるふたつの瞳。
感情は読み取れない。怒っているようにも悲しんでいるようにもとれた。

無言の力に押されて、わたしは頷いた。
背中を向けて歩き出したあずにゃんの後ろをのそのそとついていく。

『…見晴らしのいいところみたいですよ』

わざわざこんな雪の日に山の上まで。
そんなところに足を運んでも、そこには誰もいないよ。

グラウンドにはふたりの足跡。
風が吹いて桜の木が揺れた。枝に積もった雪がどさっと落ちる。

『ふぇ…ふぇ…』



-summer side-

「へくしゅ!」

目覚めて早々の大きなくしゃみで飛び出した鼻水が、四方八方に飛び散って布団を汚した。
渇いた喉がひりひりと痛い。マスクをして寝ればよかったと、憂は後悔する。
カーテンの隙間から差し込む朝の光の中で、部屋の中のほこりがうっすらと踊っていた。
もっとゆっくり寝ていたかったけれど、我慢できないほど喉がカラカラだ。
布団から抜け出すと、部屋を出てリビングに降りた。

とんたんとんたん、音が鳴る。


「おはよう…具合、まだあんまりよくなさそうだね」

自分より早く起きて着替えも済ませている姉を見て、少し申し訳ない気持ちになる。

「………ん。大丈夫だよ。寝たら結構楽になったし。朝ごはん…つくるね」

「ダメだよ無理しちゃ」

「でも…お姉ちゃん朝ごはんは…」

「心配しないでー。自分で作って食べたから。ブイv」

テーブルには丸皿が一枚。食べかけのトースト。蓋の空いたままのジャム瓶、牛乳パック。

「ごめんね。ちゃんとしたものつくれなくて」

「憂は病人なんだから無理しちゃダメ。お熱測ろう。体温計持ってくるね。
 あっ、喉乾いてるよね?飲み物持ってくる!」

「あ、ごめん…」

「いいっていいって。すぐ持ってくるから憂はソファで横になってて」

「……ありがと」

ソファに腰を下ろすと、そのままパタンと身体を横に倒して目を閉じる。
頭の中がぐるぐると回る。憂の頬は火照って真っ赤だった。


「つらそうだね…」

唯が運んできてくれた果汁100%のオレンジジュースと、
カバに似たなんの動物かわからないキャラクターの描かれたガラスのコップ。
いつから家にあったのだろう。きっとこれを買ったのは姉だ。
小さい頃から一緒に育ってきたのだから、姉の好みはよく知っている。

唯はコップにとぽとぽジュースを注ぐ。
ぶくぶくと泡が生まれて浮かび、消えた。

よいしょ、憂は小さく声に出してなんとか身体を起こす。コップを手にとって、一気に飲み干した。
一瞬、生き返った心地になる。

「おいしい。ありがとう」

いつだったか、昔。風邪をひいて寝込んだことがあった。終始心配そうに自分を見つめていた姉。
あのときの表情、記憶の中にある姉と目の前の姉はなにも変わらなかった。
あのとき作ってくれたおかゆの、風邪ひきには少し濃すぎる味付けは今でも忘れられない。


「顔が赤いよ。今日は病院行こうね。車出すから」

「大丈夫。病院ならひとりで行けるから…」

「無理だよ、そんな様子じゃひとりで行けないよ」

「でもお姉ちゃん、今日は出かける用事があるんでしょ」

「問題ないよ。病院に寄るくらい。憂の身体の方が大事でしょ」

唯は笑いながら憂の髪を撫でた。
指と指の間を髪が流れていく。心地のよい撫で方だった。

いまこの瞬間の姉の視線。
やさしい目をしていた。
その瞳は自分だけを見つめてくれている。わたしはそれを独占していられる。
それがしあわせで、たまには風邪をひくのも悪くないなぁと憂は思う。

「…ありがと」

目を閉じて、身体を唯に預けてもたれかかる。


「お昼前にはあずにゃん来るから。そしたら一緒に出かけよう」

「…あ、そっか。梓ちゃん来るんだ」

憂は預けていた身体を起こして唯を見た。
唯の視線は窓の外に向けられていた。
外から吹き込んでくる風に、カーテンがふわりと揺れる。

「うん。ほら、あずにゃんにも一緒に部屋を見てもらいたくて」

「…わたしも付いて行こうか?」

「憂は無理しちゃダメだよ〜」

笑って首を振る唯。
それが、憂にはさっきまでと違う表情をして見えた。


唯がパカッとケータイを開き、手早くメールを打ちはじめる。
梓にメールを送っているんだろう。
絵文字や顔文字、いろいろ工夫して可愛くしようとしているうちに、うっかり途中送信してしまう。

「ありゃ?」

電子画面に映った紙飛行機がケータイ電話の奥に消えていく。
まぁいいか。どうせだいたいわかるでしょ、あずにゃんなら。唯はそう思ってあきらめた。

「もう一度寝てくる」

「あ、大丈夫?…わたし、ついていこうか?」

「…いい。大丈夫」

そういうと憂は力なく立ち上がり、よろよろと頼りない足取りでリビングを出ると、
振り返ることなく階段を上っていった。



ぶるぶる。

あずにゃんのカバンの中から、ケータイのバイブ音が響いているのが聞こえた。

『メール来てるよ、あずにゃん』

『あ、はい。ちょっと、すみません』

あずにゃんはおなじみのまっかなケータイをサッと取り出して画面をちらっとだけ見て、またすぐにカバンにしまいこんでしまった。

『大した用じゃないみたいなんで、また後で返信します』

『そう?ならいいけど』



あの後、雪はまた勢いよく降り出して、結局山の上には登れなかった。
登らなかった、かな。

『ほら、雪また降ってきたよ。止めとこうよ。滑って転んだら危ないよ』わたしがそう言うと、あずにゃんは立ち止まった。肩に雪がかかってる。そのまま振り向かずに言った。

『そうですね』

白い息といっしょに一言だけ呟いて、振り向いて反対方向に歩き出した。
どんな顔してたかは、ちょっとよく覚えてない。ついさっきのことなのに。



『雪、マシになってきましたね』

これなら登れましたね、とあずにゃんは言わなかった。

傘は持ってきていない。出発の時には雪、降ってなかったから。
ほら、傘って持って出かけると雨が降りそうな気がしない?これ、本当にそうだよ。
だからわたし達は縁起を担いで、傘を持ってこなかった。
出かけるときに空が晴れてたら、わたし達は傘を持っていかない。
天気予報なんか信じられない。

傘は持って、出かけない。


今日だって、雪は降ったけど、雨は降っていない。

わたし達は、傘を持って出かけない。
だよね?あずにゃん。



『あんな店…あったっけ』

『さぁ…どうだったでしょう』

あずにゃんの小さなくちびるから白い息が漏れて、後ろに流れていって消えた。
ところどころに見覚えない新しい店ができている。えーっと昔はなんのお店が…忘れちゃった。
でもあるいてもあるいても、町中どこも雪だらけだから、
知ってる建物だったかどうなのかもよくわからない。
ふるさとに帰ってきたというよりも、見知らぬ国に来たみたい。

『ここは、変わりませんね』

やっとわたしの方を振り向くと、あずにゃんは頬をゆるめて言った。
そっか。あずにゃんには、そう見えるんだね。


あずにゃんとは今でもよくメールする。
わたしがメールすると、いつでもすぐに返事が来る。
わたしもすぐに返事をする。返事が来る。返事、返事、返事、…。
そうやっていつまでもメールが終わらない。
どちらかが寝落ちしても、朝また返事がくる。送る。

だからわたし達は何年も前からずっとメールを返信し続けている。

あずにゃんとのメールが続いてるから、わたしはさみしいと思ったことがない。


『何鍋にしようか?』

『鍋…っていうのは決定してるんですか…』

『だって。冬は鍋じゃん。やっぱ』

『まぁたしかに。否定はしませんけど。あ、辛いのはダメです』

『キムチ鍋おいしいのにー…あずにゃんはお子様だなぁ』

『ほっとけです。ひとのこと言えないでしょ』

まあね。そうだね。

『ウイスキーは角瓶でぇー、ハイボール作る用に炭酸水も買わなきゃねー。あとオレンジジュース!』

『ハイハイ。好きにしてください』

たどり着いたスーパーの入り口に立つと、扉がうぃーんと自動で左右に開く。
わたし達が一歩足を踏み入れると、来客を知らせる軽快なチャイムが店内に響いた。

キムチ鍋以外なら、豆乳鍋にでもしようかな。
美容にもいいしね。腕によりをかけてつくっちゃうよ。
料理は得意。任せておいて。
家事なら一通りのことは、なんだってひとりでできるんだから。



ピンポーン。

チャイムの音が聞こえた。
布団から出たくない。部屋から出たくない。家から出たくない。
入ってこないで。連れて行かないで。
そんなきもちで掛け布団をかぶるが、しばらくすると暑さに負けて顔を出した。

窓際に目をやると、カーテンが風に揺れていた。でもそんなそよ風は真夏の暑さを和らげてはくれない。
ちりんちりんと涼やかなのは音だけで、風鈴は身体の熱を鎮めてはくれない。

Tシャツが肌に密着している。汗をかきすぎて気持ちがワルイ。でも汗をかいたおかげですこし熱が下がったのかもしれない。
枕元にオレンジジュースの入ったガラスのコップが置いてある。きっと唯が置いてくれたものだろう。
乾きを潤そうと、コップを手に取り一気に飲み干す。

みどり色のケータイを開いて時間を確認する。ちょっと寝すぎたかも。
着信メールが一件。差出人は梓。
ケータイを閉じて起き上がると、憂は手早く着替えを済ませてリビングに降りてきた。


「いらっしゃい、梓ちゃん」

「おはよ。おじゃましてます…憂、具合はどう?」

「うん。二度寝したらマシになったよ。もう大丈夫。病院行かなくても平気かも」

「ホントに?」

「ホントだよ。だからわたしもついて行っていい?」

「はいはい、まずはちゃんとお熱計ろうね」

まるで子供をあやすように唯が言う。
その様子が普段の自分たちとは逆みたいでなんだか変な感じだなぁと憂は思う。
でも本来の姉妹ならこれが自然なんだろう。


唯が差し出した体温計を受け取る。
細くて白くて安っぽい体温計のさきっぽ。
そのさきっぽの銀色が、紺色のポロシャツの胸元から憂の内側に侵入し、間を割って右腋にねじ込まれる。

「んっ」

ひんやりと冷たい感覚が憂の体内を走る。
じっとしていると、憂の体の熱がだんだんと体温計を温めていく。
冷たさはどこか遠くに、ふたつがひとつになっていく。

しばらくして限界を告げるように電子音が鳴り響き、腋からの侵入者は引き抜かれた。
先端の銀色は汗に濡れ、ぬめっとしたてかりを帯びている。


デジタルの表示を見た憂は微笑んだ。その頬がりんごのようにあかい。

「この体温計、壊れてるみたい」

「えっ、ちょっと見せてみて」

憂から手渡された体温計のデジタル画面を見た瞬間、梓の表情が変わる。

「ちょっと憂、全然大丈夫じゃないよ、病院行かないと!」

梓が大きな声を出した。
そんな友人の様子を全く気にしないそぶりで憂は笑う。

「大げさだなぁ。わたしが大丈夫って言ってるんだから大丈夫だよ」

「うーい。メッ!だよ。風邪のときは無理しちゃダメ」

あくまで落ち着いた声のトーンではあるけれど、唯の言葉には有無を言わさない力があった。
姉にこう言われてしまうと、憂としてもこれ以上我が儘を通すわけにもいかない。


「…わかった」

「ん、じゃあ行こうか。保険証は持った?」

「…うん」

「よーしじゃあいくよー」

「あのちょっと。唯先輩」

「なぁに、あずにゃん?」

「一応確認しておきますけど、免許証は持ってますよね」

「…」

「…忘れてたんですね」

ほんの些細なことだった。
姉の行動パターンをわかっているいつもの自分なら真っ先に気がつくことだった。
役立たずの自分がもどかしい。

風邪のせいだ。風邪なんて引いてなければ。
さっきまではたまには風邪をひくのも悪くないなんて思っていた気持ちはどこかに霧散していた。

「いやぁあずにゃんありがとねぇ」

「少しはしっかりしてくださいよ」

たぶん部屋のあそこに…そう言いながら唯はリビングから出て行く。
やれやれという顔で梓は憂の方に顔を向けた。


「ねぇ梓ちゃん。いい部屋は見つかりそう?」

苦笑いする梓に対して、憂は真顔で尋ねる。

「うーん。そうだね。唯先輩、あれで変なこだわりがあるから結構いろんなとこ回って大変だったけど…幾つかよさそうな候補は見つかってるよ。
 あんまり迷ってても仕方ないし、そろそろ決めちゃうかんじかな」

「へぇ。梓ちゃんが付き添ってくれてるとわたしも安心だよ」

「そんなこと…ないけど」

「あるよ。でも意外だったな。梓ちゃんが賛成すると思わなかった」

「え……っと」

「お姉ちゃんが一人になって、梓ちゃんは心配じゃないの?
 わたしは心配。せめて卒業までは家にいてもいいんじゃないかな、って思ってたんだけど」

「あ、うん…心配は心配だけど。でもさ、いい機会なんじゃないかな」

「それ…どういう意味?」

「ほら。ここにいたら唯先輩はいつまでも憂に頼りっぱなしのままでしょ。
 いつかは自立しなきゃいけないんだから、さ」

「わたしのせい?」

「あっ、ご、ごめん。そういう意味じゃ…なくて」


そのまま二人は黙ったまま、憂はソファにもたれて目を瞑る。
頭の中がぐるぐると巡る。
足音が聞こえる。起きなくちゃ。目を開く。
すると梓と目があった。ニコッと微笑む梓。
憂はもう一度目を閉じた。

「おまたせ〜あったよ、免許証」

唯が戻ってきて、三人は家をでて車に乗り込む。
運転席に唯、助手席に梓、後部座席に憂。

車がゆったりと発進する。
隣でわぁわぁ梓が唯に声を飛ばしている。
必死の形相で左右に視線を走らせる唯。

ガリガリ、という嫌な音が聞こえた気がしたけれど、
だんだんと意識が遠ざかっていく憂にとってみては、別世界の出来事のように思えた。


あ、いけない。寝ちゃいそうだった。
俯いた頭をあげてしっかり目を開くと、あずにゃんはじっとわたしの方を見てた。
わたしが目を覚ましたのを見て、すっと目を逸らす。

『ふぁ……』

わたしは大きく伸びをして、目をこする。
デジタル時計に視線を向けた。ゾロ目の数字が綺麗に揃ってる。

『眠いんですか』

『…ううん。大丈夫』

グラスに残っていたはずの氷はすっかり溶けてしまって、ロックのウイスキーはすっかり薄まっているようだった。


『帰らないんですか』

やけに遠くの方から、誰かの声が聞こえた。
つけっぱなしだったTVからは、ニュース番組が流されている。

『帰って、欲しいの?』

『…ひさしぶりにご両親と一緒に過ごすのも大事かと思いますが』

グラスのウイスキーをぐいっと飲み干す。
喉が焼けるような味の濃さは、もうない。

『あずにゃんと一緒の方がたのしいから、いいの』

『帰りたくない理由でもあるんですか』

画面の上の方に流れる、白い文字のテロップ。
ここからもう少し北に行ったところでは、大雪警報が出ているらしい。
外出に注意、とアナウンサーがしゃべっている。


『…ま、もう夜遅いですしね。今日は泊まっていってください』

あずにゃんは立ち上がって、空になった缶ビールを片付け始める。
わたしも手伝おうと立ち上がって空き缶を手に取った。

『そういえば明日のことなんですけど』

『あ、うん。どこか行く?』

『純と会う約束してるんですけど、大丈夫ですか』

純ちゃん。
もう何年も会っていない。
連絡もとって…ない。あずにゃんはどうなんだろう。

『うん。大丈夫だよ』

『…ほんとに?』

『だいじょうぶだってばぁ…あ、でも』

『でも?』

『いやぁわたしのこと、覚えてくれてるのかな〜って』

『覚えてるに決まってるじゃないですか』

あ、これ中身残ってる。
いくつか目の缶にはまだビールが残っていて、揺らすとちゃぶちゃぷ音がした。


『忘れるわけないでしょう』

『…そっか。そうだよね。ちょっと不安になっちゃってさ。
 だってもう随分会ってないんだよ。会わなくなった人のことは忘れちゃうじゃん。
 みんなそうでしょ?側にいない人のことは忘れちゃうじゃん。
 会えなくなった人のことは忘れちゃうじゃん。だから、さ』

『わたしは…』

わずかに残っていたビールを飲み干す。
気が抜けて生ぬるいビールが喉を通り、体内に流し込まれていった。

『あ、そういえば鍋の〆にラーメン入れるの忘れてた』

『いまさら思い出されても…もうお腹いっぱいです』

『だよね。わたしも』

人間はどうしてもいろんなことを忘れてしまうから、
大事なことは忘れてしまわないように、何度もなんども胸に刻み直す必要があると思うんだ。

『アハハ…そもそも買いすぎでしたね。失敗しました』

でも最初の最初で間違えていたら、覚えてるかどうかは関係ない、のかもね。

『テーブル拭きますね。布巾とってきます』

あずにゃんは空き缶をゴミ袋にまとめると、席を立って流しの方へ歩いて行った。
いつの間にか番組が変わっている。
リビングにはバラエティタレントの乾いた笑いが響いていた。

このゲイノウジン、誰だっけ?
ウーン、思い出せない。



2
最終更新:2015年04月14日 07:55