「アハハハハ!」

TVの前に陣取った身体の大きな男性の笑っている声が院内に響き渡る。

「なーに観てるのかねぇ?」

「さぁ、吉本新喜劇でも観てるんじゃないですか」

梓はさして興味もないように言う。
ふぅん、と気の無いように思える返事をしたものの、唯の意識は明らかにあちらの方を向いていた。

病院であんな大声をあげていいものなのか、
そもそも大笑いするほど夢中でTVを見ていたら、呼び出されても気がつかないんじゃないか、
姉ならきっと気がつかないだろうな、などと憂は考えていた。

「ちょ〜っとだけ近くで見てくる」

てへへ、と笑いながら唯は立ち上がってTVの方へ歩いて行った。


病院は人で溢れている。
身体のどこかしらを悪くしている人がこんなにいるんだ、と他人事のように思う。


「ねぇ梓ちゃん、わたししんじゃうのかなぁ」

「え?なにバカなこと言ってるの。病院で言っていい冗談じゃないよ」

「大したことないただの風邪だ、って高を括っていたら、どんどん悪くなって肺炎になっちゃって…」

「そうならないようにちゃんとお医者さんに診てもらうんでしょ。
 それで薬もらったら飲んで寝る。それが一番。風邪はひきはじめが肝心なんだから」

「ひきはじめじゃないよ。ホントは2、3日前からしんどかったの。もう遅いよ」

そう言いながらも憂はよく喋った。俯く彼女の鬢がほつれている。
梓はあきれたようにため息をついた。
普段はしっかりしている憂。この子は万能に見えて案外脆いのかもしれない。
いろいろと疲れが溜まっているのかもしれない。

梓は憂の手をぎゅっと握った。

「だいじょうぶ。人間は簡単にしんだりなんかしないよ。だいじょうぶ」


「…ねぇ」

「…なに?」

「梓ちゃんは、お姉ちゃんのこと好きなの?」

「…え」

突然の問いに、梓はどう答えていいかわからない。
向こうから聞こえて来る笑い声に、聞き覚えのある声が混じっている。
唯はTVにかぶりつきになっているようだった。


「ねぇ、どうなの」

「意味わかんないんだけど」

「そのままの意味だよ」

「…そりゃあ。好きだよ、先輩として。お世話になってるし」

自分が世話をしていることも多いんだけど、梓は思う。
けれど自分の知らないところで梓を慮ってくれていることもたくさん知っている。


「そんなことが聞きたいんじゃないの」

「憂、落ち着いて。ヘンだよ」

「落ち着いてるよ。だってわたし、もうすぐしんじゃうかもしれないし。
 だから今聞いておきたいの」

「しぬなんて簡単に言わないで」

「ちょっとちょっと!二人ともどうしたの!」


いつの間にか戻ってきていた唯が二人の間に割って入る。
憂の瞳は血走っていて尋常じゃない色をしていた。
空調の効いた院内のはずなのに、梓は背中に嫌な汗をかいていることに気がついた。

「…なんでもないよ、お姉ちゃん。受付も済んだし、あとはもう大丈夫だから」

憂は唯の方を見上げて、不自然に笑いながらちいさな声で言う。

「え、でもせめて憂が呼ばれるまでは…」

「あの…唯先輩、確かにそろそろ」

腕時計を見ながら梓が答える。デジタル画面にゾロ目が揃っていた。

「え、もうそんな時間?」

「ほら。これから不動産屋さんとこ行く約束してるんでしょ。遅れちゃうよ。
 わたしなら大丈夫だから」


唯と梓が同時に立ち上がった。

「…う、うん、わかった。じゃあ、憂。終わったらメールして。迎えにくるから。ぜったいだよ」

「いいよ。帰りはタクシーで帰るから」

「でも…」

「大丈夫だよ。そうだ、梓ちゃん。せっかくだから帰りにふたりで映画でも観に行って来たら?
 お姉ちゃんも観たいって言ってたアレ…なんだっけ?確かもう公開されてるよ」

「行かないよ。憂を放って映画なんて観に行けるわけないじゃん。
 だから診察終わったらちゃんとメールして。唯先輩にだけでもいいから」

「…わかった。一応メールする」

憂は梓の方を向かずに言葉を返す。

「あっそうだ、ういー。何か欲しいものある?
 果汁ひゃくぱーのジュースとかゼリーとか果物とか、風邪によさそうなもの買ってこようと思って」

「…えっと」

なんでもよかった。
別に欲しいものなんてなかったし。憂は唯の方を向き、笑う。

「そうだ。マンゴー買ってくるよ!」

「それ、唯先輩が食べたいだけでしょ。贅沢ですねぇ…マンゴーって風邪にいいのかな…ま、いいか」




病院の出口で振り返ると、待受のソファにもたれる憂の後ろ姿が見えた。
向こうを見つめる唯と梓の視線には気づくわけもなく、振り向きもしない。
けれど唯は心配そうになんどもなんども振り返って、憂の方を見ていた。

自動扉が開く。むわっとした熱気に触れて梓は思わず顔を顰める。
唯がもう一度後ろを振り向いた。どうしても憂のことが気になるようだった。

それだけ愛されている妹を、梓は羨ましく思う。
今後、自分と唯や憂とどれだけ距離を縮めることができたとしても、血の繋がりを持つことはできない。

梓は後ろを振り向かなかった。

不意にさきほどの憂の問いが頭をよぎる。
梓は唯の横顔に視線を向けた。

梓の視線に気がついた唯がこちらを振り向く。
そしていつものようにニコッと笑って、梓の手を優しく握った。
梓も同じように握り返す。
あたたかい手のひらだった。

蝉しぐれがかしましい。

激しすぎるほど光の溢れる日差しの中、
ひかりがまぶしすぎて、まえがみえなかった。


なつかしいテーブルの上には柔らかい光が降り注いでいて、季節を忘れそうなほどあったかくって、それだけでもう大満足。

『うーん…変わらないね、ここは』

『そうですね、変わりませんよ、ここは』

窓から見える景色は以前とはちょっぴり変わって見えたけれど、
腰を下ろしたときお尻に伝わってくる椅子の堅さに、胸の奥からこみ上げてくるものがある。
なんでもないファーストフードのお店の2階の端のこの席が、まるでタイムマシンみたいだなって思った。

『食品偽装だのなんだのあったけど、潰れなくてよかったよね』

『梓の言い方には夢がないんだよ、夢が』

『うるさいな』

憎まれ口を叩きながらもあずにゃんはどこかたのしそうだけど。
それを見てにしし、と笑う純ちゃん。


高校時代、毎日…とまではいかなくても部室の次に溜まり場にしていたMAXバーガーは、今もなお絶賛営業中。
ところどころ席を陣取っている女子高生たちは、みんな同じようにケータイをいじりながらもお互いたのしく笑いあっている。
あの頃のわたし達もたぶんああいうかんじだったんだろうなぁ。

『久しぶりなのに梓は変わらないねぇ。とくに髪型』

『慣れてるしラクでいいの、この方が。むしろストパーあててる純の方がヘン』

今日のあずにゃんはツインテールの左右を色のちがうシュシュで可愛らしく結んでいる。レモン色とメロン色。

『妬かないの。あんまりわたしがキレイになってるからびっくりしちゃったんでしょ』

『そんなわけありませんー』

そう言ってあずにゃんは両手に持ったストロベリーバニラシェイクをずずーっとすすった。

『あーその両手に持つ飲み方、むかしのまんまだ。つーかそんな甘いもんよく飲むね』

『いいの。今日はお腹空いてるんだから』

理由になってないんじゃないかなー、あずにゃん。

ひさびさの純ちゃんはちっともモコモコしてなくて、向こうがニコニコ笑って声をかけてきても、わたし達は最初純ちゃんだって全然気がつかなかった。

だって目の前に現れたのはさらさらと流れるようなヘアースタイルの、大人っぽい女の人だったんだもん。



いつもはきちんと時間通りに目を覚ますあずにゃんが、今日は珍しくわたしが起きた時にはまだすやすやと眠っていた。
昨日はなんども寝返りを打ってたし、なかなか寝付けなかったせいなんだろう。
待ち合わせは昼過ぎだったし、そのまま寝かせてあげることにした。

あずにゃんの家には相変わらずたくさんのレコードが所狭しと並んでいた。
たぶん名盤と呼ばれるものもたくさんあるのだろうけれど、わたしにはよくわからない。
レコードの方が音がいい。いい音を聴かないといい音は出せない、ってあずにゃんはよく言っていた。

そうなんだろうなぁ。

でも一番は生で聴くことだって。

そうなんだろうなぁ。

生歌には勝てないよね。そりゃあ。

そのうち起きてきたあずにゃんと朝ごはんを食べて、少し早くに家を出た。
雪はまだ残っていて、街は白いまま。
待ち合わせ場所のMAXバーガーにはちょっと早く着いたから、二人でストロベリーバニラシェイクを注文して待つことにした。

約束の時間が少し過ぎても純ちゃんは、どこにも現れない。

あずにゃんが、左手で頬のちょっと下の方をぽりぽりとかきはじめた。
あーこれ、イライラし始めたときのやつだ。たぶんあずにゃん、気付いてないだろうけど。

あずにゃんイライラしてるし、そろそろ純ちゃんに電話しておくか。
そう思ってぱかっとピンク色のケータイを開いて気がついた。

しまった。こっちのケータイには純ちゃんの連絡先が入ってない。

とかなんとかやってるうちに、左手にスマホを持った純ちゃんが階段をあがってやってくるのが見えた。




『でも?いいの?純』

『何がよ』

『唯一の特徴だったくせ毛がなくなったら、キャラが弱くなるよ?』

『わたしの個性そこだけなの!?』

『うん』

『久しぶりに会ってそれかー!』

『アハハ』

昔の友達、って不思議なもので、会えなかった時間は決して短いものじゃなかったはずなのに、会えばたちまちあの頃に戻っちゃうみたい。高校時代のあの頃に。忘れられてなかったし、忘れてたこともすぐに思い出せる。

『…こうして3人で集まるの、久しぶりだよねー』

純ちゃんはブラックコーヒーをすすりながら遠い目をして言った。

『純、さっきから”久しぶり久しぶり”っておばあさんみたいだよ』

『そんな気分にもなるよ。だって卒業以来3人で集まるのは初めてじゃん』

『まぁ、そっか…連絡は取ってたけど会ってなかったもんね』

『ずっと、心配してたんだからね。2人とも思ったより元気そうでなりよりだよ』

『…ありがと』

『…で、これから何か予定あるの?』


純ちゃんはやたらとおっきなハンバーガーをもぐもぐとさせながら聞く。
それ、新商品?わたしの知らないやつだ。

『てか食べるか喋るかどっちかにしなよ…予定、ね。うん。どうしようかな、って今考えてるとこ』

二番目に安かったチーズバーガーは、間に挟まれたハンバーグがやたらとうすっぺらで、お肉を食べている気分にならない。本物の肉じゃないのかな、これ。口の中がぱさぱさする。

『せっかく長期休暇とれたなら海外にでも行けばよかったのに。気晴らしに』

あずにゃんはチキンナゲットとアップルパイ。
それにストロベリーシェイク。おかしな組み合わせだって、純ちゃんは笑ってた。

『梓たちが海外行くっていうなら、オススメのツアー教えてあげたのになー』

純ちゃんは今や旅行代理店の敏腕(自称)OLだ。
仕事はサボらず、無遅刻無欠勤。なんだって。
普通といえば普通だけど、立派といえば立派。

『…ありがと。気持ちだけ受け取っておくね』

力なく、下を向いて答えた。
このところ、あずにゃんはずっと疲れてるように見える。
どこか遠い、ここからずっと離れた、誰も知ってる人もいないようなところに行く気力なんて、なかったんだと思う。


『でもこうして帰ってきてくれて久しぶりに顔が見られてホントによかったよ
 ホントに』

『ん、まぁ…ね』

お店に入って1時間くらい経っただろうか。
常連客が多いせいか、席を立つ人が少なく、お客の入れ替わりがない。

『そうだ。明日とくに予定ないなら…海とか、どうよ。行ってみたら?』

『…遠いよ。ここからじゃ』

『特急に乗ればあっという間だよ』

『冬だから泳げないし。つまんないよ、やることないし』

『泳ぐのが目的じゃないでしょ』

『考えとく』

あずにゃんはチキンナゲットを食べる手を止めて、窓の外を見ながら言った。


『わたしはあずにゃんと一緒ならどこだってたのしいよ』

『”あずにゃん”、かぁ…』

純ちゃんは、ため息を吐くように言った。

『な、なによ…』

『いやー、懐かしいなと思ってね。いつまで続くのかな、その呼び方』

『あずにゃんは昔も今もこれからもあずにゃんだよ〜』

『……梓はいいの?これからも”あずにゃん”って呼ばれるの』

『…』


あずにゃんは黙ったままだ。
確かにわたしたち、もう高校生じゃないし、いい歳だけどさ…あずにゃんはいくつになってもあずにゃんじゃん。
できればこの呼び方は変えたくない。
もし変えてしまったら、きっとわたし達の間にあるものが壊れてしまう。決定的に。
そう思えて、こわい。

『慣れちゃってるから。別にいいの。
 それにみんなにそう呼ばれてるわけじゃないし。ひとりだけだし』


ほっ。
あずにゃんはずっとあずにゃんだもんね。

『ひとりだけ、ね。
 でも、ずっとそのあだ名で呼ばれ続けるのはキツイんじゃない?
 精神的に、さ』

純ちゃんは冗談めかして言ったけど、あずにゃんはさっきとは違って怒ったりしなかった。
黙ったまま、もうほとんど残ってないストロベリーバニラシェイクをすすってた。
ずずっ、ずずっ、と音がした。

純ちゃんがわたしの方をチラッと見て、またあずにゃんの方に視線を移す。

『けじめをつけるために帰ってきたんでしょ。違うの?』

あずにゃんは俯いたまま答えなかった。
純ちゃんもそこから何もしゃべらずに、あずにゃんをじっと見てた。
あずにゃんはそろそろと視線をあげていって、ようやく純ちゃんと瞳を合わせると、
こくんと頷いた。

それを見た純ちゃんはおもむろに立ち上がって、ストロベリーシェイクを持つあずにゃんの両手をガシッと掴んでニッと笑った。
あずにゃんは突然のことにびっくりして呆気にとられていたけれど、しばらくすると泣きそうな顔してニッと笑った。


それから純ちゃんはわたしの方に顔を向けて、おんなじようにニッと笑った。
わたしは意味もわからずにニッと笑った。


そのままなんとなく会話が途切れて、三人でぼんやり。

ずずっという音とともに、最後に残ったストロベリーバニラシェイクが、あずにゃんのくちびるに吸い込まれていく。

『ちょっとこれ、甘すぎましたね』

『そお?わたしは好きだけどなー』

向こうのほうの席から、女子高生の子たちのたのしそうな声が聞こえてきた。
それは時間を超えて聞こえてくる、自分たちの声みたいに思えた。



ディズニーのオルゴール曲が静かに流れる空間から窓ひとつ隔てて、外の世界からはアブラゼミの鳴く声が聞こえてくる。

大きな窓から差し込んだ光が、一つの筋になってきらきらと溢れている。
光りの筋をたどった先、そこだけはほんの少し他よりも明るく、まるで秘密の本の隠し場所を教えてくれているみたいだと、憂は思った。

「憂、本当に出歩いて大丈夫なの…?」

「大丈夫だよ。熱下がったんだもん。梓ちゃんにも見せたでしょ」

声のボリュームを幾分と下げ、ひそひそと二人は喋る。

「確かに見たけど…写メだったし」

ありえない単純なウソにはひっかりやすいのに、ヘンなところで疑り深い。
憂が嘘をつくわけがないと思っているけれど、珍しく梓が食い下がる。

そんな梓と憂のやりとりを、半歩後ろの唯が楽しそうに笑いながら見ている。

「あずにゃんや。憂の熱が下がってるのは本当だよ。わたしも確認したし。
 昨日の夜、ちゃーんとお薬飲んだのも知ってるし」

「でも唯先輩だし…ほんとにちゃんと見てたんですか?」

「あ、あずにゃんが信じてくれない…………しどい」グスン

「本当に大丈夫だって、変な梓ちゃん」

そう言って憂が笑う。梓は憂の目を見つめようとした。
ブラインドが降りた窓からまだらに光が漏れている。
珍しく下ろされた髪が肩にかかっている。
梓の側からは憂が逆光気味に暗く映り、表情がよく見えない。


「でも治りかけが肝心だから、今日は家でゆっくりしようねって」

「出かけてるじゃないですか」

「いやだから家で読むための本を借りにね、探してる本もあったし」

「憂じゃなくて自分が読みたいだけじゃないですか。ところでわたし、付き合う必要あります?」

「今日もこの後不動産屋さんに行くんでしょ」

光を背負った憂は棚に視線を向け、本の背表紙を見つめながら言った。

「…ついでといえばついでですが」

憂は視線を動かさず、小さくため息をついた。

駅まで5分、1LDK、駐車場付き、月7万円共益費込み。

「早くしないと他の誰かに取られちゃうよ」

憂が一冊の本を手に取り、パラパラとページをめくる。

「うん、だから今日決めるつもり」

唯はさっきから本棚をぼけっと見ているばかり。

「一人暮らしならワンルームでも十分な気がしますけど」

行き先が図書館だとも知らず連れてこられた梓は、ハナから何かを借りるつもりもない。

「”一人暮らし”ならね」

手に取った本はさして興味を引かなかったのか、憂は本を棚に戻した。


「ほら、”大は小を兼ねる”って」

やっと一冊の本を抜き出した唯は表紙だけ見てすぐに元の場所に戻す。

「唯先輩は広かったらその分汚しそうです」

著者順に並んだ棚の中に、順番の違う著者名の作品を見つけ、梓はあるべき場所に戻そうと抜き出した。

「じゃああずにゃんに掃除してもーらお」

つんつん、と指をさして、あるべき場所を教える唯。

「わたしが掃除に行くよ、お姉ちゃん」

憂はしゃがみ込んで下の棚を見ている。

「それじゃダメでしょ。唯先輩が自分でやってください」

順番通りに並んだ本を見て、梓は満足そうに笑みを浮かべた。

「ぶぅ。あずにゃんのいけずぅ〜」

おなじみのやりとりに唯は少し不満げに口を尖らせた。
唇はぷっくりとして瑞々しく、ピンク色がきらめて見える。


「お姉ちゃん、お料理のレパートリーももうちょっと増やさないとね」

しゃがんでいた憂が立ち上がる。

「あずにゃんも一緒に教えてもらおっか」

…。

わ、わたしは料理できますから…。

ふーん、じゃあわたしが梓ちゃんに教えてもらおっかな。

…。

お姉ちゃん、お料理作りに行ってもいいよね?

もっちろん!待ってるよういー!

……そうやって憂が先輩を甘やかすから。

別にそんなつもりはないけどなぁ。わたしが好きでやってるだけだし。

その気はなくても結果的に…。

わたしはいい後輩と妹を持って実にしあわせものだよ…。

「…はいはい。じゃあさっさと選んで帰りましょう。唯先輩冷房苦手なんでしょ。また具合悪くなりますよ」


冷房対策に、と梓でさえ薄手のカーディガンを一枚羽織っているというのに、唯ときたら半袖のポロシャツを一枚着ているだけだ。自己防衛ができてないとしか思えない。

「心配性だなぁあずにゃんは」

少しサイズが合わないのか、タイトな白いポロシャツは唯の身体に密着気味で、ボディラインをくっきりと露わにしている。
高校時代から比べると、随分大人っぽくなったんだなぁ、中身は全然大人っぽくないのに、梓は思う。
短めの袖からははちきれそうなほど健康的な二の腕がのぞいている。
夏の日差しを浴びていないわけないのに、そんなことを微塵も感じさせない少女のように張りのある輝きを帯びていた。
でも、きっと。露出してるんだからそのうち寒いって言い出すに決まってる。

「唯先輩、わたしのこれ、着てください」

後で貸すくらいなら、今のうちに渡したほうがいい。わたしならなんとかなりそうだし。

「待って、梓ちゃん。わたし持ってきてるから。はい、おねえちゃん」

カーディガンを脱ごうとした梓を制止して、憂はカバンから薄手のパーカーを取り出すと、唯に手渡した。

「ふたりとも心配しすぎたよ。ちょっと寒くなったらこうすればほら。防寒になります」

と言って唯はポロシャツの襟を立てて見せた。
今日は珍しく頭の上で一本に髪を結んだ唯の、うなじから後れ毛が何本かほつれている。


「本気で言ってるとしたらどうかと思いますし、」

「冗談だとしたら面白くないよ、お姉ちゃん」

「ういもあずにゃんもきびしいっす…」

「真面目な話、防寒の役割も果たさないでしょ。ふざけてたら風邪ひきますよ」

「さ、おねえちゃん」

憂がパーカーを手渡す。
唯を心配するくせ、肝心の憂は上着を羽織っていない。

「憂は大丈夫なの?寒くない?風邪ぶりかえしちゃうよ」

「わたしは冷房平気だから。寒いのに強いんだ、わたし」

「…ならいいんだけど」

「ほら、お姉ちゃん」

「でも…」

「大丈夫だよ、心配してくれてありがと」

妹の笑顔を見て、唯は安心する。
受け取ったパーカーの袖はするすると唯の腕を通り、綺麗な二の腕はすっかり見えなくなってしまった。

「じゃあさっさと本を選んでください」

「そんなに急かさないでよ。大丈夫だよ、借りる本は決まってるんだから」

「何の本を借りるつもりなの?」

「それは見てのおたのしみ…憂もあずにゃんもついといで」

可愛らしい顔を歪めながらぐふふ…と笑う。
ろくでもないこと考えてるな、と思いながらもとにかくさっさと本を選んでもらおう、そうしよう、と憂と梓は顔を見合わせて頷き、無言の会話を交わした。

「で、それですか」

「うん、これ」

「お姉ちゃん、これ、どんな本か知ってるの?」

「よく知らないけど、すんごい長い本なんでしょ。時間つぶしにもってこいじゃん」

「時間つぶしっていうか。そんな片手間で読める本じゃないです。きっといつまで経っても読み終えられやしませんよ」

「だいじょーぶだよー。学生は時間がたっぷりあるのが特権だからね」

時間だけはたっぷり、か。
時間がたっぷりあってもそれなりに読書家じゃないと、この長い作品を全て読み通すなんてできないと思うけど。どうせ読み切れずに返却することになるに決まってる、と梓はため息をついた。
でも仮に挫折したって、そんな経験は今しかできないことかもしれない。少なくとも働き始めて毎日毎日仕事に追われるような環境になってしまえば、手に取ることすら難しくなる作品だろう。

「よし。じゃあ本も選びましたし。行きましょうか」

「あれっ、憂とあずにゃんはなにか借りていかないの?」

「わたしは先週買った本をまだ読んでるところだから…」

「わたしは別にいま本を読みたい気分じゃないんで」

「せっかくだから借りていけばいいのに〜…」

「いーですって。さ、行きますよ」

梓は唯の腕を取ると、ちょっと強引に引っ張っていく。
憂はその後ろをついて、ゆっくりと歩いていった。



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最終更新:2015年04月14日 07:56