暗闇と豪雨の中、横断歩道の信号機が、黄色の灯りを点滅させている様子だけがぼんやりと見えた。

激しい雨が頬を打って、流れて流れてとまらない。
歩き慣れた道路が川のようになっている。
雨に濡れたジーパンが重い。
逆方向へ身体を押し返そうとする風にも負けず、憂は走った。

「おねえちゃん!しっかり掴まってて!」

返事はない。

弱々しい吐息だけが耳元に当たる。
レインコートやらなんやらで何重にもくるめられた唯が、両手を頼りなく憂の首元に絡ませている。

台風による山崩れや交通事故の影響で、救急車は出払ってしまっていた。
タクシーを呼ぼうにも、ストップしてしまった公共交通機関の代わりに使うお客が多いせいか、家まで来るのにどれだけかかるかわからない状況だという。

タクシーを待つ?

それとも。

呼びかけても唯は返事をしない。
息が荒く、身体が冷たい。

事態は一刻を争うように思えた。


タクシーはいつやってくるか、わからない。
そんなものはあてにできない。

近くの町医者までなら、歩いても10分もかからない。
雨風の中、唯を背負っていても全力で走ればもっと早く着く。


しまってあった冬物の上着やレインコートを何重にも唯に着せこみ背中に乗せると、役に立たないケータイを投げ捨てて、強風と豪雨の中、憂は飛び出していった。

ひたすらと走った。走り続けた。
走るというより泳ぐようだった。

吹き荒れる雨と風が、世界の音をかき消す中、
憂の耳元に吐息が触れる。
吐息の中に混じる、音にならないほどかすかな声。
憂にしかきこえない声。
唯の声。

憂の名前を呼ぶ声。


次の停車駅を告げるアナウンスが車内中に響いた。

『ああ、起きましたか』

『ん……ここ、どこぉ?』

『もうあとちょっとで着きますよ…』

目をこすりなながらまわりを見回す。ふたりきりの車内に差し込む光が眩しい。目をしぱしぱさせながらあかるい方に振り向いた。

『あおい…』

車窓から見える空は目に入る限りの青色で、空の下にはもっともっと深い青色(群青色、っていうんだろうか)をした海が広く広くどこまでも広がってる。
海の上には宝石が散らばったみたいにきらきらきらきら。きらきら。

『なんでこんなに海はきれいなんだろうね』

『さぁ…なんででしょう』

『わたし達はあそこにいけないのかな』

『もうすぐ行けますよ。あとちょっとですから』

『ダメだよ…』

『…え』

背筋に冷たさを覚えた。指先が震えだす。
ケータイを開こうと手にとったけれど、震えを抑えられずに滑り落ちた。
かしゃん、という音を立てて、ピンク色のケータイが転がった。


『ど、どうしたんですか?!』

『ダメ…ダメ…』

寒い、冷たい、苦しい、息ができない、震えが止まらない。

『…こわい……こわいよ…』

『大丈夫ですから…大丈夫ですから…』

『う……うぅぅ』

あずにゃんがわたしの右手をぎゅっと握った。
わたしもぎゅっと握り返す。それからあずにゃんの腰にぴったり身体をあてて巻きつくように抱きついた。

急に目の前が真っ暗になった。
目の前の真っ暗闇の中でわたし達が入ってる場所が大きく揺れる。
外側から誰かがなんどもなんどもしつこいくらい壁を叩きつけて、
ぐらぐらぐらぐら上に下にと揺らす。
だからもう、内側はひっちゃかめっちゃかだ。

『大丈夫…大丈夫です…』

揺れはどんどん激しさを増していく。
濁流が内側までなだれ込んできてわたし達を飲み込んで、どこかに連れて行こうとする。
わたしはぜったいに離すもんかと、ぎゅっと力強く手を握って、名前を呼ぼうとした。


声が出ない。


泣きたかったのに、叫びたかったのに、声が出ない。
それでもわたしは泣き叫ぼうとした。
ただ泣きたかった。泣いて泣いて泣いて泣いて…たらたらと流れ落ちた涙でこの場所がいっぱいになって息ができなくなってどんどん息がくるしくなって、もう泣くことも叫ぶこともできなくなるまで。

涙の海の中、ぶくぶくとした泡はいつの間にか消えて無くなって、何の音も聞こえなくなって、内と外を隔ててたはずの壁さえも溶けてなくなって、


さいごはなんにもなくなった。



ないよ なんにもない。なにも なぁんにも。そこにあったはずのものぜんぶ。

そんな現実は信じたくなかった。

あずにゃんだって、そうでしょ?

だからわたしは考えた。

現実を、世界をくるっとひっくりかえしちゃう方法、
まるで魔法みたいに。

おかげで全部がもとどおり。
もとどおりだよね?あずにゃん?

世の中のひと達は笑って言う。”魔法なんてない。あるわけない。”

おとうさんもおかあさんも、ともだちもせんせいも。みんなみんな。そう言う。
なんて可哀想なひと達。

魔法は、あるんだよ?
信じたひとだけを救ってくれるの。

でもね。それはタダじゃない。等価交換、ってのが必要なんだ。
しかたないよね。世界を救うためなんだから。そう、これは世界を救うための魔法。
世界を救うためなら、わたしなんてどうなったっていい。
あずにゃんもちからをかして。いっしょに世界を救おうよ。

こうして世界はふたたび、かがやきをとりもどす。

だからおねがい、この手を離さないで。

魔法が解けちゃいそうでこわいから。
魔法が解けてしまったら、せかいがおわってしまうから。


手のひらから伝わってる温かい感触に気がついて瞼を開くと、憂の目の前には真っ白な天井が広がっていた。

「…憂?」

「…ん……あずさ…ちゃん?」

ゆっくり頭を横に倒すと、ベッドの隣で梓が梨を剥いていた。
花瓶には綺麗な白い花。
誰かが手を握ってくれていたような気がしたのは気のせいだったのだろうか。
憂の目が覚めたことに気がつくと、梓は手を止めて体の向きを変える。

「おねえちゃんは…」

「大丈夫。よく寝てるよ」

「そっか」

「姉妹揃って入院、なんて仲がいいにもほどがあるね」

冗談を言う梓の様子からすると、どうやら姉の容体もさほど悪くはないらしい。

「大したことがないみたいで安心したよ。2、3日で退院できるって」

唯を背負って町医者に飛び込んだ夜、憂は激しい雨に打たれたせいで風邪をぶり返し、
病院に着くやいなや倒れこんだ。
そのまま姉妹揃ってベッドに寝かされ治療を受け、入院することになった。

幸いなことにふたりともただの夏風邪だった。
こじらせて肺炎にでもなったりしたら…。

「しんじゃう?」

「そんなに簡単にひとはしなないよ」

梓は笑って言った。

「憂は家にいると働きすぎるんだよ。
 たまにはゆっくり休んだらいいよ」

「わたしは動いてる方が楽だから」

「でも風邪ひいたでしょ。神様が休め、って言ってるんだよ」

「…だって、あとちょっとだもん。お姉ちゃんと暮らせるの。
 だからできるだけいつも通りにできることはしておきたいの」

梓は答えなかった。


病院の大部屋には他に患者もおらず、入院しているのは唯と憂のふたりだけだった。
窓の外はギラギラと夏らしい光に満ちている。
空調がほどよく効いていて心地よい病室とはまるで別世界だ。

部屋の外では、忙しそうに廊下を行き来する足音が絶えない。

「ねぇ、梓ちゃん。この前の答え、聞いてなかったんだけど」

隣のベッドで唯がごろりと寝返りを打った。

切られた梨の大きさはまちまちで、いびつな形のものもある。
梓はその中でも比較的きれいな形のものを選んで爪楊枝で刺すと、憂に手渡そうとした。
憂は笑わずに首を振る。

「好きなんでしょ」

行き場の失った梨を、梓は自分の口に運ぶ。
しゃくっ、と小気味良い音を立てて梨が弾けた。
ほどよい酸味と甘みが口の中に広がる。

「わたしは好きだよ。お姉ちゃんのことが好き」

しゃりしゃり。
梨を咀嚼する。
ちょっと酸味が勝っているだろうか。もう少し熟成した方が甘くなるんだろうか。

唯はどんな味の梨が好きなんだろう。

品種は?
産地は?
サイズは?
甘いの?
すっぱいの?
ほどよいの?
梨ならなんでも?

知らないことはいっぱいある。
それはこれから知っていけることかもしれない。
知っていけばいいかもしれない。

でも今、この瞬間、唯が喜ぶ選択はなんなのか。
最善を選ぶことができるという確信が、梓の中にはなかった。

すぅすぅと気持ちよさそうな寝息の合間に、ごくんと唾を飲み込む音が聞こえた。

憂は続ける。

「家族って…姉妹って、残酷だよ。
 生まれたときからずっと一緒だったのに、いつかは離れ離れになっちゃうんだよ。
 それが当たり前、ってことになってるんだよ。
 すきなのに。だいすきなのに。ずっと一緒にいたいのに。
 お姉ちゃんの気持ちとかわたしの気持ちとか全然関係なくて、みんなそれが当たり前だって思ってる。
 お母さんもお父さんも。 

 梓ちゃんもでしょ?」

「………ごめん」

「謝らないでよ。そんな言葉が聞きたいわけじゃないよ」

「ごめん…」

ツクツクボウシが鳴き出した。
梓の指先が冷たくなっている。
ちょっと空調効きすぎかも。
枕元に置かれた花瓶には白い花。なんていう花なんだろう。
梓には名前がわからない。

鼻をすする音とともに憂の瞳が潤んで、雫が頬を伝って流れていった。


「梓ちゃん、ごめん。謝らないといけないのはわたしの方。
 わがままばっかり言って困らせてごめんね。わかってる。わがままだってわかってるんだ。

 でも…でもね。いつか離れ離れになっちゃうってわかってるから、
 あとちょっと…あとちょっとだけでいいからお姉ちゃんと一緒にいたいの。
 お願い、ダメかな?」

憂が右手で目元を拭う。
梓は首を縦にも横にも動かすことはなく、ただその手をやさしく握った。


しばらくして隣でゴソゴソと音がすると、唯がむっくり起き上がった。
左目をこすりながらぼやけた表情で笑う。

「ういー、あずにゃん、おはよー」

もう太陽が傾き始める時間になっていた。
間の抜けた唯の顔を見て、憂と梓は顔を合わせて笑いあう。
それを見て、唯も微笑む。

病室にくすくすと小さな笑い声。

照りつける太陽の向こうには黒い雲の影が見え隠れして、
縦に横に稲光が走っている。



雨粒がいくつもいくつもとめどなく、激しく窓ガラスを打ちつけている音が聞こえる。

『ん……』

『気がつきましたか』

『ここ…どこ』

『ビジネスホテルです。ホントは別に宿を取ってたんですけど…駅からいちばん近いところに変えました』

部屋は必要最低限、といったサイズ。
寝て起きて出掛ける、それだけのためならこの程度で十分。
わたしたちの世界の広さなんて、広いように思えてこんなものかもね。
これで十分、たのしく生きていけちゃったり。


ケータイを開いてメールの受信欄を確認する。
差出人は、ずらっと並んだ”あずにゃん”の五文字。

『ごめん…』

『いいですよ。わたしにも責任ありますから』

あずにゃんは小さな声で言った。

立ち上がって窓際まで進む。カーテンを開くとその先には何も見えなかった。

『建物の陰に隠れてますからね。見えませんよ』

『そう』

あずにゃんも立ち上がってわたしのそばにやってくると、
何にも見えない窓の向こうをしばらく見つめてから、カーテンを閉めた。


『近いんですけどね』

『そう』

『明日は朝一番の電車で帰りましょう』

『…』

『駅からは微妙に距離あるんですよ。だからそこまでの道からは見えません』

秒針の音が部屋中にかしましく響き渡っている。
雨は…

『ねぇあずにゃん。いま、なんじ?』

『えっと…一時ですね。昼の』

うそ。

『…すみませんうそです。夜の一時です』

そりゃ、夜でしょ。

『なんでそんな、つまんないうそついたの?』

『理由なくうそついちゃ、ダメですか』

『理由があってもうそは…』

…。

『うそは…?』

…。

『ダメですよね…』

…うそじゃないもん。

『…』

…あずにゃんはもう、信じてないの?

…。

『外、行ってみません?』

…雨。

『…降ってませんよ』

うそ。

『うそじゃないですって。ほら』

あずにゃんがさっき閉じたばかりのカーテンを開いた。
相変わらず窓の向こうは静かで真っ暗で、なんにも見えやしない。
雨は…。


『降ってないでしょ』

見えない。なんにも見えないよ。
真っ暗な闇の中に、雨さえも吸い込まれてしまったみたいに、もう全部が真っ暗だ。

『こう真っ暗だと降ってるかどうかもわかりにくいですけどね。やんでます』

もしかしたらまだ降ってるかも。

『でもいつかはやみますよ。そうじゃなきゃ世界は海に沈んじゃいます』

いいんじゃない、それも。てゆーかとっくに沈んでるし。

『…行かないんですか』

…。

『わかりました。無理にとは言いません。わたし、ちょっと出かけてきますから。寝ててください。朝までには戻ります』

うそ。このまま帰ってこないつもりでしょ。

『帰ってきますって』

うそだ。

『うそじゃないです』

うそだよ。

『うそじゃないです。必ず帰ります。わたしは必ず帰ってきます』

…うそ。

…。

…。

『わたしも行く』

わたしはケータイを掴んでジーパンのポケットに突っ込むと、あずにゃんの方に手を差し出した。

あずにゃんは頷きもせず、笑いもせず、泣きも怒りもせずにただわたしの手をぎゅっと握った。

あずにゃんの手のひらはひんやりしてた。

ずっとずっと世界中で一番深いところをさまよって泳ぎ続けている魚は、
きっとこんなかんじなのかなって、そう思った。

魚はいったいどこに、帰るんだろう。


今日の昼前には帰るって言ったじゃないですかっ、
両眉を八の字に寄せ上げて、梓が言う。

「なんていうかそのさぁ…ここで寝るのも今日が最後、って思うとぐっすり寝れちゃって…」

「…いやそんな思い入れが生まれるほど長くいたわけじゃないでしょ」

「なに話してるの?」

花瓶の水を入れ替えに行った憂が部屋に戻ってくるなりふたりに聞いた。
すっかり風邪の治った憂は動いていないと落ち着かないのか、
花の手入れをしたり梨をむいたり、何かと動き回って看護師に注意されていた。

「憂もなんで起こさなk……まぁいいか。準備は明日にしますか」

予定通りに事が運ばないのは今に始まったわけじゃない。
梓は小さくため息をつく。

「あ、旅行のこと?大丈夫だよ、準備ならわたしもてつd……ううん。
 お姉ちゃん、準備頑張ってね」

「えっ?憂、手伝ってくれないの?」

「なに言ってるんですか!自分が旅行に行くんだから自分で準備するくらい当たり前です!」

「で、でもわたしが一人で準備すると忘れ物しそうだし…」

「お姉ちゃん、もうすぐ一人暮らしするんだからその練習だと思って…」

「そうですよ。これを機に唯先輩は自立すべきです!」

「そんなぁ〜…」

憂がベッドのすぐそばに花瓶を置く。
ピンク色の鮮やかなガーベラの花だった。


「風邪、治ったっていっても病み上がりなんだから、旅先でははしゃぎすぎないでくださいよ」

「旅行に行って旅先ではしゃがなかったら、どこではしゃぐのさ…」

「なにか言いましたか?」

「…なにも」ブゥ

昔からそのままの、肩にかかるくらいのセミロングが寝癖でぼっさりしている。
多分この人はずっとこういう感じなんだろうなぁと、梓は思う。

もっとしっかりしてほしい。でもこのままでいてもほしい。

「傘と薬は特に忘れないように気をつけてくださいね」

「かさぁ〜?いらないよぉ」

「雨降ったらどうするんです」

「買えばいいじゃん。あっちで」

「勿体ないじゃないですか」

「なんていうかさー。かえって傘を持っていくと雨が降りそうな気がするじゃん」

「だから雨が降りそうな気がするから万が一のために持っていくんじゃないですか」

「荷物になるし」

「折りたたみなら嵩張らないよ、お姉ちゃん」

「まぁそうだけど…あずにゃんと憂がそんなに言うなら持って行こう…かなぁ」

そう言って唯は上半身をベッドに倒した。瞳は宙を泳ぐ。


「ねぇ…あずにゃぁん」

甘えた声で唯が梓を呼んだ。

梨を剥き始めた憂の手が一瞬止まる。目線は梨を見つめたまま。
梨は、憂に言われて梓が買ってきたものだ。
品種、価格、サイズ、手触り、色目、どういうものがおいしいか、丁寧に伝えて。

「はい、なんでしょう」

梓が答える。

憂は鼻から吸った息を口からほそくながく吐いて、また梨を剥き出す。
慣れた手つきで手際よく。スピーディーに。

「やっぱりあずにゃん来れないの?」

「…すみません。どうしても無理なんです」

「あれ?梓ちゃんは行かないの?」

憂がもう一度手を止め、今度は顔を上げた。

「うん…ゼミ旅行の日程が急に変わって旅行とかぶっちゃって…どうしても無理になっちゃった…」

「どうしても?」

「どうしてもです。すみません…」

「あぅ〜…ひさしぶりにあずにゃんの水着姿を拝めるはずだったのにぃぃ…


 ピンクのやつ」

「何バカ言ってんですか…!」

「だってぇ…たのしみも半減だよぅ…」

頭のむきをくるりと反転させると、唯は枕に顔をうずめてかぶりを振った。
自分がいないだけで他の先輩たちはみんないるというのに。
いっしょに旅行に行けないのはすごく残念だったけれど、
自分がいないことを寂しがる唯の姿が、梓にはうれしかった。

頭まですっぽりと布団をかぶりながら、ちょろっとだけあらわになった瞳が拗ねて見えて、せつなかった。

「ホントすみません…みなさんで楽しんできてください」

「ちぇっ」


窓のすぐそばには樹齢何年になるのかわからないくらい立派な欅が立っている。
濃厚な緑の茂る大きく広げられた枝が、風に吹かれてゆったりと揺れた。

「あ、そうだ。
 ういー。あの本っていつまでに返せばいいんだっけ?こないだ図書館で借りた…」

「え…っとたしか、2週間くらいは大丈夫だったと思うよ」

「だいたいあんな長い小説、読む時間あるんですか?
 週末には旅行だっていうのに。あっという間に返却日来ちゃいますよ」

「…旅行にも持ってくし。読みきれなかったら帰ってから読むし」

「旅先で無くさないでくださいよ。
 それに帰ってきたら引越しの準備もあるんですからね。そんな時間ないでしょう」

「あー…そのことなんだけど」

「はい、梨むけたよー」

梨に反応した唯が上体を起こした。

ほぼ均等に、丁寧に切られた梨。
憂はそのひとつをぷすりと爪楊枝にさし、唯の口元に持っていく。
唯はがぶりとかぶりついた。

「どうかしました?」

「ふぃっくぉふぃ…モグモグ…ふぁふぇひょーかモグ…とおもょって…」

膨んだり萎んだりする桃色の唯の頬が果実のように見えた。

「…あー食べ終わってからでいいです。なに言ってるかまったくわかりません」

「梓ちゃんもはい。食べてねー」

「あ、ありがと」

差し出した梨を受け取り、口に入れる。

しゃりっ。

熟れた梨の甘みが口の中いっぱいに広がる。
梓はゆっくりと咀嚼を繰り返し、果実の甘みを覚えるようにかみしめた。






「引越し、やめようとおもって」



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最終更新:2015年04月14日 07:58