梓の口の動きが止まった。
「…延期する、ってこと?」
口の前まで運んだ梨を止めて憂が尋ねる。
「ううん。一人暮らし自体やめようかなって。卒業までは家にいようかなって」
「…おねえちゃん。…お部屋決まったんでしょ?」
「…うん。でもね。もうちょっとだけ憂と一緒にいたいな、って思ったの。
なんだか急にさみしくなってきちゃって…。
あのさ、今までずっと一緒だったから離れることが想像できなかったの。
でも。改めて考えてみたら、ね。我慢、できなくなっちゃった…ごめん」
憂は黙ったままきゅっとくちびるを結び、
溢れ出そうになる感情をせき止めていた。
「ごめんねあずにゃん。さんざん部屋探しに付き合ってもらったのに。わがまま言ってゴメン。
わたし、今日これから不動産屋さんのところ行って謝ってくる」
梓の方に向き直った唯がぺこりと頭を下げた。
梓は大きく息を吐きながら応える。
「…。
ま、よく考えたら今のままの唯先輩じゃ、一人暮らしなんてできっこないですものね。
憂に教えてもらって卒業までには一通り家事ができるようになってくださいよ」
「あずにゃん…」
「梓ちゃん…ごめんね」
「なんで憂が謝るのさ。悪いのは急に気が変わった唯先輩でしょ。
あ、言っときますけど、不動産屋さんに謝りに行くのには付き合いませんからね。
一人で怒られてきてください」
「えぇ〜…いっしょにきてよぉ〜…」
「ダメです。憂もついてっちゃダメだからね」
「うん。わかったよ」
「そ、そんなぁ〜…」
そのままベッドに突っ伏した唯を見ながら、ふたりは顔を見合わせて笑いあった。
病室に降り注ぐ木漏れ日。
窓の外に立つ大きな欅の緑が天然のカーテンになり、真夏の光線を和らげてくれている。
欅に集まった大勢のセミたち。
一様に羽根を震わせ、声を大にして夏を歌う。
欅の先には溢れるほどの太陽が輝いていて、
これから病院を出て帰ることを考えるのが憂鬱になるような、夏の日だった。
とても暑い日だった。
この日はその夏一番の暑さで、
立っているだけで目眩がしそうな、
そんな暑い日だった。
眩しすぎて直視できない。
真っ白なひかりの先になにがあるのかなんて、きっと誰にもわからない。
*
瞳に映るその暗闇は、次第に目が慣れるにつれて一色だけじゃないってわかってきた。
闇の中にも濃淡があるし、明暗もあるし、鮮やかな黒もあればぼやけた黒もある。
風に揺られて隣の黒い束がふたつ、なびくのがわかった。
『あれ以来、初めてなんですよ、海。
あんまり久しぶりだったから不思議なかんじがします。
海ってこんなでしたっけ?記憶の中の海とは随分違う気がして』
足元を蹴り上げると、雨に濡れた砂の重さがじっとり右足の甲にのしかかった。
傘は持ってきていない。
『夜、だからじゃない』
『ま。そうですよね』
月も星も見えないし、電灯は道路を挟んで遠く向こう側にあるだけ。
遥か先にくるくると灯台の光が回っているけれど、とてもじゃないけれどわたし達のところまで届きそうにない。
『灯台なんて意味あるのかな』
『あるんじゃないですか…でも肝心なときに役立たずでしたね』
波は行ったり来たりを繰り返しながら、果たしてどこへ行くんだろう。
満ち潮かな?引き潮かな?
わかんない。
月のない夜に、潮の満ち引きがあるのが不思議に思えた。
姿が見えなくたって、月は世界に影響を与えて続けている。
『最近、笑うことが増えたんです』
ほんの少し、強い波がやってきて、靴の先っぽが水に濡れた。
同じように靴が濡れているあずにゃんは、気づいているのかいないのか、
避けることもせずに、独り言のように喋り続けた。
『夜も結構寝れちゃうんですよ』
わたしも波を避けようとせず、濡れるままに任せた。
もし満ち潮なら、潮に任せてふたり、海の向こうにさらわれるのもいいかもね。
『気がついたら一日に一度も思い出さなかった、なんて日もあるくらいなんです』
けれども波は少しずつ引いていっているみたいで、ちょっと残念に思えた。
空は未だに真っ暗だったけれど、少しは目が慣れたせいか、ぼんやりとだけ浮かび上がり始めた砂浜を眺めた。
どこかに手紙の入ったガラスのビンが落ちてたりしないかな。ボトルメール…っていうんだっけ。
『あの頃とは大違いですね…』
わたしはあずにゃんから離れて一人歩き始めた。
波打ち際はどこまで続いているのかなぁ。行けるところまで行ってみよう。
『きっとこれからも、』
どこかにボトルメールが落ちてるかもしれない。
未来から?過去から?ここじゃないどっか別の世界からやってくる、なにか。
『大事だったはずのいろんなこと、ちょっとづつちょっとづつ忘れていっちゃうと思うんです。
沈めていっちゃうと…思います』
わたし達がいまいるとこが既に海底じゃん。なに言ってるの?これ以上奥底があるっていうの?
わたしにつれて、あずにゃんがうしろをついてくる。
ガラスの瓶なんて落ちているわけなくて、引いては寄せる波と砂浜だけがそこにあった。
『つめたいな、って自分でも思います。
でも…そうしなかったらわたし…、』
もしも月が出ていたら、きいろい明かりに照らされて、海の上にはひとすじの道。
月の光に導かれて、ふたりで月に渡ろうか。
『………………ごめんなさい』
ただゆらゆらと海面が揺れてるだけだった。
きっと月明かりが差していたとしても、海の底までは届かないだろうな。
『…けじめ、つけようと思ってあの街に帰ってきたんです』
わたしはポケットからケータイを取り出すと、ぱかっと広げて夜空にかざした。
月の明かりにはとても及ばないケータイの明かり。
せいぜい半径10センチメートルを明るく照らす程度の明かり。
『それなのに無理だった。だから海に来よう、って思ったんです』
わたしは灯台のマネをしようと、明かりを手に持ってくるくる回ってみた。
『本当は海なんて来たくなかった。死ぬまで一生。大嫌いだから』
みて、あずにゃん。明るいでしょ。月が無くたって。
『あの街だって嫌い。何もかも、たのしかった頃のままだから。
いちばんしあわせだった頃のこと、嫌でも思い出すから』
小さな光が世界を照らした。
わたしが救った世界。
『でもこのままじゃダメなんですよ、わたしたち。きっと。
わかってくれてたから、一緒に来てくれたんでしょ?違いますか?』
魔法がかかっている間はまだ、世界は救われてるんだよ。大丈夫だよ、あずにゃん。
でもその小さな光は、あまりにも弱すぎてあずにゃんのところまで届かない。
あずにゃんの顔が見えない。あずにゃんの姿が見えない。
『 』
あずにゃんがわたしの名前を呼んだ気がした。
でもなぜだろう。なんにも音が、聞こえない。
なにも見えない。見えないよ。
見上げると空がゆらりと揺れて見えた。
さっきまで真っ暗だと思い込んでいた空はところどころ白く煌めいていて、
きいろい明かりは縦に横に大きさを変えながらうごめいている。
『わたし達、変わらないとダメだよ。だからさ』
ケータイの明かりが消えた。
ニセモノの、ツクリモノの明かりが消えた。
『…だから憂、帰ってきて。お願い』
*
「あと一周したら、帰ろうか」
最初に口を開いたのは憂の方だった。
それまでふたりは、ずっと無言だった。
わずかに軋む音だけがせまい空間に響いて、
前後左右に空間が揺れる。
椅子が固くてお尻が痛い。
長く座っているのは辛いな、と梓は思う。
窓の外の風景がだんだんと変わっていく。
ゆっくりと、目をつむれば気がつかないくらいのスピードで、
観覧車は上へ上へと登っていく。
「あっちの方かなぁ?」
憂が顔を横に向けて言った。
「どっち?」
「あっち」
太陽を背にした憂が左の方を見て、指を差す。
右手に持ったオレンジジュースのペットボトルは、半分以上残ったままだ。
「見えないね、海」
「さすがにここからじゃね、遠いよ」
「いちばん上まで行ったら見えるかな?」
「うーん、どうだろ」
「見たくもないけどね」
観覧車はゆっくりゆっくり動く。
ぶぃーん ぶぃーん
梓の赤いケータイが震えた。
ぱかっ
「………」
「…どうしたの?」
「…………なんでもない」
ぶぃーん ぶぃーん
「メールだよ」
「知ってる」
ぱかっ
「…………」
「…」
「…………」
「…」
「…………」
「…誰から?」
「…………」
「…おねえちゃんから、だったりして」
梓は大きく目を開いて、憂を見た。
「…なんて?」
「…『観覧車、今度は一緒に乗ろうね』って…」
「…」
「なんだろ、これ。メールサーバーに溜まってたのかな。でも…それにしたって…」
「…」ププッ
「え?」
「…ごめん梓ちゃん。それ、わたし」
憂がカバンの中からピンク色のケータイを取り出した。
「…………」
「あ、怒った?お姉ちゃん、ケータイ忘れていっちゃったから」
「……やっていいこととわるいことがあるでしょ」
「いいじゃん、本当にお姉ちゃんからメールきたみたいでしょ」
「……。人のケータイ勝手に触っちゃ…」
「受信メールは読んでないよ。”あずにゃん”宛にメール送っただけ」
「その呼び方やめてよ…」
「えへへ…お姉ちゃん以外のひとからそう呼ばれるの、イヤ?」
「唯先輩は……その、慣れちゃっただけだから」
梓は顔を背けながら言った。
観覧車はもうすぐ頂点に届こうとしている。
「本当は”すきだよ”って送ってみようと思ったんだけど、
さすがにそれはやめといたほうがいいかなって」
「本気で怒るよ」
「ごめんごめん。だってロマンチックじゃない?観覧車のてっぺんで告白、なんて」
「冗談でも言っていいこととわるいことがあるんだからねっ」
「でも…」
さっきまでニコニコとしていた憂の表情が急に真顔に戻って、
梓をじっと見つめて言う。
「もし…」
「もし?」
「もし本当にお姉ちゃんにそう言われたら、梓ちゃんはどうするの」
「あるわけないじゃん。もうありえないんだよ。そんなこと」
「あるよ。そんなこと」
「ないって。ありえない」
「じゃああったと仮定して考えてみて」
「…想像もできない」
「仮定でいいの」
「……」
「シミュレーションしてみよっか。わたしをお姉ちゃんだと思って」
「無理だよ」
「いくよ…」
憂はリボンに手をかけて結び目をするするとほどく。
髪の毛がパサっと広がり、肩にかかった。
背中の向こうにはオレンジ色の光。
逆光の夕日が憂を照らしてシルエットだけが浮かび上がり、
輪郭が光をまとってきらきらと輝いた。
「すきだよ、あずにゃん。だいすき。」
観覧車がぐらりと揺れた。
憂が身体ごと梓の方によりかかって、顔が間近に、息がかかるほど近くに迫っている。
「すき。」
よく似てる。この姉妹は本当によく似てる。昔からずっと、今、この瞬間も。
そういえば高校生の頃、唯のフリをしてギターを弾く憂にちっとも気がつかなかったことを思い出した。
今ならどうだろう。
よく似てはいるけれど、憂は憂だし、唯先輩は唯先輩。
えっといま、わたしの目の前にいるのは……。
憂が、右手で梓の瞳を隠した。
目の前が暗くなる。
何も見えない。
少し荒い呼吸の音、香る汗の匂い。栗色の髪が頬にさらりと触れる。
あ、
最初は撫でるように。
しだいに押し付けるように。
すこし甘い。
これは薄められたオレンジジュース。
人口甘味料の味。
ガタン ゴトン
ガタ
どれだけ時間が経っただろう。
ごとん。
観覧車がもう一度おおきく揺れた。
いつの間にかつむっていた目を開いて、
梓は大きく息を吐いた。
反対の席に、もたれかかるようにして彼女が座っている。
目と目が合うと、彼女はニコッと笑った。
どこの誰とも知らない顔だった。
その顔は、長年の付き合いがある友人の笑顔には見えない。
目の前にいるのは本当に憂なんだろうか。
目をつむっている間に、誰か別の人間に入れ替わったんじゃないか。
梓にはそんな風に思える。
「あずにゃんって…」
「その呼び方やめて」
「浮気っぽいんだね」
「…」
「浮気はダメだよ〜あずにゃん」
「…」
「…あ、でもいまのわたしはお姉ちゃんだから」
「………」
「浮気じゃ、ないのかな」
梓は否定も肯定も、しなかった。
彼女が席を立って、梓の隣に腰掛ける。
観覧車がまた、おおきく揺れた。
片方の座席に密着して、二人。
「あずにゃんもさ。わたしのこと”唯先輩”って呼んでみてよ」
「…無理だよ」
「いいじゃん。ちょっとくらい。いいじゃん。呼んでみてよ」
「悪ふざけはやめて。憂」
「わたし、唯だよ。憂じゃないよ。何言ってるの?まちがえちゃヤダよ、あずにゃん」
「……やめて」
「ねぇあずにゃん。わたしのこと、すき?」
「……」
「わたしはすきだよ、あずにゃんのこと。だいすき」
「……」
「憂よりわたしの方が、すき、でしょ?」
「やめて……」
「憂よりもわたしといっしょにいたいでしょ?」
「やめて……そんなこと」
「そんなこと?
わたしがあずにゃんの立場なら、きっとそう思うよ。
だから…ちっともおかしいことじゃ、ないんだよ」
あたたかい身体が梓を包む。
逆らえない。
「わたしたちずっと、いっしょだよ。」
そう言ってもう一度、彼女は梓にキスをした。
最終更新:2015年04月14日 08:00