「I am not an animal! I am a human being! I am a man!」
(僕は化物じゃない! 僕は人間だ! 人間なんだ!)

『エレファント・マン』より





第一話【大脱走】


白衣の男は生きた心地がしないまま、立ち尽くすしかなかった。
禿げ上がり気味の額には玉の汗が浮かび、喉元へ胃酸が断続的に込み上げ、比喩表現ではなく
文字通り震えが止まらない。
その震えに合わせ、「SHOCKER ENTERPRISE 開発部 第一研究室 室長」と書かれた名札が
リズミカルに小さく揺れている。
自身の犯した失態。上層部からの厳しい叱責。これで立身出世の道も研究者としての道も
閉ざされたに違いないのだ。
そして現在、本社ビルのとある一室にて、彼の目の前に座る二人の人物。
どちらも五十がらみの貫録と迫力に満ち満ちた初老男性だ。
一人は、濃いグレーの三つ揃いに身を包み、ポマードで髪を撫でつけた、目つきの鋭い眼鏡の男。
もう一人は、こちらは外国人、白人男性だった。しかも軍服とベレー帽を身に着けた軍人
である。襟元の階級章を見るに、どうやら大佐のようだ。
無言のままこちらを睨みつけるだけの二人。
空気に耐えられなくなったのか、白衣の男は裏返った声を上げながら、深々と頭を下げた。

室長「じ、次官、大佐…… こ、こっ、この度は私の監督不行届で、た、大変なことを……
   まことに申し訳無く存じます……!」

次官「……」

大佐「……」

謝罪の言葉が発された後も、やはり沈黙。二人とも無感情な表情を崩さず、その両目は
白衣の男の顔を捉えて離さない。それが白衣の男には怖くてたまらない。
やがて、“次官”と呼ばれたスーツの男が、鼻で溜息を吐きつつ、口を開いた。

次官「……まったく、とんでもないことをしてくれたものですね。超人兵士計画もやっと
   軌道に乗った矢先だったというのに」

見た目に似合わない高めの声。物静かな話しぶり。丁寧な言葉。しかし、眼光は針のように
鋭い光を放っている。
次官に続き、隣に座る軍人も研究室長に問い掛けた。

大佐「研究開発にかけた時間と予算。我々、合衆国陸軍の援助。そのすべてが無駄になった
   という訳か」

室長「い、いえ…… 幸いもう一体は無事ですので、まったくの無駄では――」

次官「室長」

揚げ足取りとも聞こえかねない弁明を、氷のように冷たい声が遮った。

室長「は、はい!」

次官「言葉にはくれぐれも気をつけてください。今度余計な口を挟んだら、事はあなたの
   進退問題だけでは済まなくなりますよ」

室長「し、失礼致しました!」

毛髪の寂しい頭が深々と下げられ、その身体はまるで旧式携帯電話のように折りたたまれた。
鼻の頭から汗が一滴、二滴と落ちたが、それに注意を向けるほどの余裕など研究室長には
あるはずもない。
しかし、大佐は気分を害した様子も無く、話を続けた。

大佐「失われたのはB判定の超人兵士か。A+ではないだけ、まだ幸運だったというところだな」

次官「しかし大佐、その二体に至るまでの年月や予算、人員を考えると、防衛省としては
   気が狂わんばかりの損失です。失敗に失敗を重ねて、ようやく実用段階に達した、
   たった二体の貴重な完全体超人兵士ですよ。そもそも桜が丘女子高等学校の維持
   だけでも莫大な――」

大佐「まあまあ。落ち着きたまえ、次官。ひとまずは彼の報告を聞いてみようではないか」

あくまで大佐は鷹揚である。次官の甲高く早口な不満の声を軽く受け流して、話の流れを
研究室長へと戻す。
不覚にも表れ出てしまった己の苛立ちを恥じ入るかのように、次官は声のトーンを落とし、
クイと眼鏡を上げた。

次官「……失礼致しました。 ――室長、事の顛末をすべて報告してください。大小漏らさず、
   すべての事実をです。わかりましたね」

研究室長は滝のような汗をハンケチで拭いながら、慌てて手にしていたファイルのページを
繰り始めた。
その泥臭い動作を眺める軽蔑を含んだ二つの視線には気づいていない。

室長「は、はい。かしこまりました。ええと、最初は…… 医務班による実験体番号3-2-1
   への手違いから始まりました――」





澪「ん……」

秋山澪が目を開けた時、最初に飛び込んできたのは“白”だった。
白い天井。白い蛍光灯。首を捻って視線を移しても、目に入るのは白い壁、白いベッド柵、
そして白い掛け布団だ。

澪「ここは……?」

いまだはっきりとしない意識のまま、身体を起こす。
やたらと広い部屋の中央に置かれたベッド。その上に澪はいた。ベッドの他に目立つ物は
何も無い。ひどく簡素で無機質な白い部屋だった。

澪「病院、かな……? でも私、どこも調子悪くは無かったし…… ていうか、いつ病院に
  運ばれたんだろ。何だか記憶が―― え!? あれっ!?」

澪はそこで初めて自身の姿恰好に気づいた。身体に不自然なくらいの解放感があったが、
その原因は布の面積がひどく少ない病衣にあった。しかも、下着は上も下も付けていない。

澪「ななななんでこんな恰好!? これじゃ部屋から出られないよお……」

他に人がいないとはいえ、我が身のあまりの恥ずかしさに、澪は頭から掛け布団を被って
うずくまってしまった。
しかし、このまま誰も来ないというのも困りものだ。この病衣で過ごすのは、たとえ自分
一人だけでも耐え難いものがある。
早く看護師でも来ないものか、と気をもみながらうずくまる澪であったが、そこへ足音と
共に何者かが話す声が部屋の外から聞こえてきた。

澪「よかったぁ。やっと誰か来てくれ―― って、ええええ……」

待ち望んだはずの他者の来訪だというのに、澪はますます身体を縮める。何故ならば声の
主は複数の男性だったからだ。
やがて、ノックも無しに部屋のドアが開いた。ズカズカと中に入ってきたのは白衣を着た
二人の男。カートを押しながら、だらけた会話を交わしている。

男1「今日もここの不味いメシかよ。たまにはさ――」

男2「お、おい! あれ……!」

男1「げっ! な、なんで目を覚ましてんだよ!」

二人ともひどい驚きよう、慌てようである。ベッドの上にいるのは、掛け布団から顔だけを
覗かせて座っているただの女性だというのに。
澪は澪で、自身が置かれたわからないことだらけの状況を少しでも解明しようと、オドオドと
男達に話しかける。

澪「あ、あの…… ここは何ていう病院なんですか? 私、どこか悪いところでも……」

男2「室長、大変です! 3-2-1が目を覚ましています! こんな状況、想定にありません!
   し、指示をお願いします!」

男達は澪の話などまるで聞いていない。
一人は血相を変えて内線電話に向かってまくし立て、もう一人は震え上がった様子で電話と
澪を交互に見ているだけだ。
澪もよほど緊張しているのか、男達の異常な態度を不審に思うことも無く、ただただ懸命に
コミュニケーションを取り続ける。

澪「えっと、すみません…… か、看護師さんはいらっしゃいますか? ちょっとこの服
  だと恥ずかしいっていうか……」

そのうちに内線電話は切られ、二人は澪の方へ目を向けると小声で話し始めた。

男1「室長は何て?」

男2「『おそらく今ならそう危険は無いはずだからケタミン筋注で眠らせろ』だとよ」

男1「『おそらく』とか『はず』とか、あのハゲほんっと使えねえ……」

男2「筋注は俺がやってみるから、お前は念の為、麻酔銃取って来い。急いでな」

男1「わ、わかった。頼むぞ」

一人がドアに身体をぶつけながら焦りも露わに部屋を出ていく。
ここに至り、ようやく澪は二人の不自然な様子に疑問を覚えつつあった。

澪「あの……?」

残された男はこれまでの態度から一転、口元だけで笑いつつフレンドリーに話し始めた。

男2「いや、失礼しました。えー、あー…… ああ、秋山さんでしたね。秋山さんが意外に
   早く目を覚まされたので驚いちゃいましてね。いやあ、でも回復が早くて何より」

澪「はぁ……」

男2「今、先生に指示を頂いたので…… お注射を一本打ちましょうね」

そう言いながら、男はカートから注射器を取り上げ、手慣れた様子でアンプルに針を刺して
液体を吸い上げる。
液体で満たされた注射器。針から落ちる滴。こちらを向く笑顔の男。その光景は何故か澪に
ひどい恐怖心を与えた。

澪「い、嫌です…… 注射はしたくありません……」

男2「ありゃりゃ、小さい子みたいなこと言っちゃって。まいったなあ、こりゃ。でもね、
   先生の指示ですし、これを打たないと早く良くなりませんよ。また学校に戻りたい
   でしょう?」

ここで澪は気づいた。
違う。怖いのではない。恐怖心とは似て非なるものだ。これは恐怖心ではなく警戒心だ。
直感的に、本能的に、目の前の注射は危険だと己の心が警報を鳴らしている。
しかし、何故?

澪「でも…… でも、その注射は何だか嫌なんです……」

澪の拒否的な態度に、男は徐々に苛立ちを募らせる。
男の目には、今の澪はどこからどう見ても“注射に怯える、気の弱そうな女の子”としか
映らなかった。それが男に安心と余裕を与え、先程までの澪への警戒心を緩ませたのだろう。
男は澪が被っていた布団をめくると、彼女の右手首を乱暴に掴んだ。

男2「大丈夫。すぐ済むから」

瞬間、殺意に近い怒りが澪の心で燃え上がった。
その感情が澪の左手を男の胸に向かって突き出させた。

澪「嫌だって言ってるだろ!」

男2「うわあっ!」

澪の細腕、しかも片手で突き飛ばされた男は、なんと後方へ数mも吹っ飛び、激しく壁に
叩きつけられた。
壁には若干のへこみすら生じている。

男2「うぅ……」

男は床に倒れ込み、くぐもった声を漏らすとそのまま気絶してしまった。
驚いているのは澪である。本気の怒りだったとはいえ、女性である自分が大の男をまるで
アクション映画並みに吹っ飛ばすなどあり得ることではない。

澪「な、何……? 何なの? この力……」

自身の異常な腕力に驚き、恐怖している間に、もうひとつの異常が彼女を襲った。

澪「それに、身体が…… お、おかしい……」

顔を始めとして、身体中を妙な違和感が駆け巡っている。まるで皮膚の下で虫がうごめいて
いるような。
加えて、それとは別に感じる熱さ。肉体が物理的に燃え上がっているかのような熱さにも
思えるし、興奮に近い精神構造的な熱さにも思える。

澪「逃げなきゃ…… ここから逃げなきゃ……!」

先程の心の警報が強さを増していた。警報が“現状のすべてが危険だ”と澪に教えている。
澪はベッドを下りると、様々な異常に包まれた我が身を抱えながら、ドアへと向かった。
そして、震える手でドアを開け、ふらつく身体を廊下に躍らせた、その時。
ライフルのような銃を抱えて戻ってきた、もう一人の男と鉢合わせてしまった。

澪「しまった! 見つかっ――」

男1「うわああああああああ!!」

澪の顔を目にした男は絶叫とも言える悲鳴を上げた。表情も、先程部屋に入って来た時とは
比べ物にならない恐怖に歪んでいる。

男1「そっ、そ、そんな! もう変身が始まって……!」

澪「変身……?」

腰も抜かさんばかりの男であったが、ようやく己の手の内にある武器のことを思い出した。
そもそも、それを取りに行ったというのに。
男は慌ててライフル型の麻酔銃を構え、銃口を澪へと向けた。

男1「くっそぉ!」

指が引き金を引き、ダート状の麻酔弾が発射される。
そのすべてが、澪には見えていた。
それだけではない。唸りを上げてこちらへ飛んでくる弾すらも見える。

澪「……っ!」

こんなゆっくりなら避けられるかもしれない。それがコンマ何秒の世界で澪の頭をよぎった
思考だった。
事実、胸に着弾する寸前、澪は身体を反らして麻酔弾を避けてしまった。

男1「避けやがった…… ば、化物……」

澪「発射された弾が見えた。ハッキリと…… そ、それに、避けちゃった……」

澪の人間離れした反応に、男も澪自身も驚愕のあまり呆然としている。
しかし、男の意識の方がいち早く現実世界へ戻ってきた。目の前にいる化物じみた身体能力を
持つ女を鎮圧しなければいけない、という世界に。

男1「たっ、弾を、弾を装填しなきゃ!」

男は装填するべき次弾を探すべく、白衣のポケットに手を突っ込む。
その動作を見るや、弾かれたように澪が男へ飛びついた。

澪「や、やめろぉ!」

麻酔銃を奪い取ろうと両手で銃身を掴み、渾身の力を込めて男を振り払う。
その動作だけで、男はいとも簡単に麻酔銃を奪われた。それどころか、澪の腕力によって
大きく身体を飛ばされ、頭部を壁に強打する羽目になってしまった。

男1「ぐえっ!」

短い悲鳴を残して、この男もまた気絶してしまった。
澪の両手に残されたのは彼が持っていた麻酔銃。だが、鉄製の銃身はまるで飴細工のように
グニャリとひん曲がっていた。
驚きのあまり、澪は麻酔銃を放り出してしまった。

澪「ひいっ!」

確かに力いっぱい握ったし、全力で奪い取ろうとしたが、人間の、しかも女性の力で銃が
ここまで変形するものであろうか。

澪「まただ…… 一体、私の身体、どうなって……――」

先程から続く己の人間離れした腕力が巻き起こした事態、理解を越えた現象に、思わず澪は
両の手のひらを見た。
そして、澪の目に映ったものは。

澪「え……?」

これが自分の手なのか。これが人間の手なのか。
外骨格を思わせる硬質の皮膚は深緑に光り、そこかしこから触れれば突き刺さりそうな棘が
伸び、節くれ立った十本の指は古い竹を思わせ、指先はまるで鉤爪のように尖っている。
これではまるで、これではまるで昆虫の足だ。

澪「何……!? 何これ!?」

あまりの驚愕と恐怖に足がもつれ、身体がふらつき、肩がドアに当たってしまった。
ドアにはめられたガラスに人影が映り、澪はビクリとそちらへ向く。無論、映っているのは
澪自身のはずであった。だが、その姿かたちは澪のものではなかった。
澪が目にした己の顔は、異形の怪物。一言で表すならば、やはり昆虫のそれだった。
元の何倍もの大きさのレンズを思わせるような目。
鼻は影も形も無くなり、口は顎から縦に割れて、唇の代わりにあるのはトラバサミのような
大きな牙。
額からは短めの触角が伸び、ヒクヒクとうごめいている。
まるでバッタかハチの顔がそのまま人間の頭部に貼りついたかのようだ。
わずかにでも人間らしさを残しているとすれば、唯一残された長く美しい黒髪くらいのものか。

澪「きゃああああああああ!!」

ドアの前から飛びのき、両の手で顔をまさぐる。
人肌の柔らかさとは無縁の硬さ。ゴツゴツとした感触。
間違いない。見間違いや映像などではない。ましてや夢でもない。
現実に自分の顔が昆虫の化物となっていたのだ。

澪「そんな…… 私の顔が…… どうして!?」

ショックを受ける間もあれば、天井が一定間隔で小さく割れ、中からは赤いパトランプが
出てきた。パトランプはすぐに目を刺す赤い光と共に回転を始め、同時に耳障りなサイレンが
廊下中に鳴り響いた。

『コードレッド発令。実験体の暴走を確認。守衛職員はただちに武装し、対処に当たれ。
 繰り返す。コードレッド発令――』

今度は心の警報ではない。本物の警報だ。しかも、おそらくこの警報が騒ぎ立てる脅威とは
澪のことなのであろう。

澪「逃げなきゃ…… すぐに、ここから逃げなきゃ……!」

自身の変貌へのショックは驚くほどあっけなく影を潜め、代わって最大限の警戒心が思考の
大半を占めていく。まるでスイッチを切り替えるかのように。

守衛1「いたぞ!」

その声に澪が振り返ると、通路の角から数人の男達が姿を現したところであった。全員が
シールド付きのヘルメットを被り、分厚い防具を身につけ、マシンガンを手にしている。

守衛2「発砲許可は出ている! 撃て!」

合図と共に男達のマシンガンが一斉に火を噴いた。

澪「きゃあっ!」

可愛らしい悲鳴に反して、その動きは男達全員が目を疑うものであった。撃ち殺した、と
思った時には澪はもうそこにおらず、遠く離れた通路のはるか先を走っていた。
廊下を蹴り、壁を蹴り、天井を蹴り、目にも止まらぬ速度で攻撃の回避と逃走を同時に
やってのけたのだ。

守衛1「なっ……」

守衛2「お、追えっ! 早く追うんだあ!」

澪は凄まじい速度で廊下を走り、階段を駆け下りてはまた廊下を走った。
武装した守衛職員などとうの昔に振り切っている。走る澪を目撃した職員が通報しようと
した時には、その姿はもう影も形も見当たらない。
それほどまでに一心不乱に飛ぶが如く駆け続けた。
やがて、澪は薄暗く人気の無い区画へと迷い込んでいた。

澪「ここは……」

ここはどこか。この建物から出るにはどこへ行けばいいのか。そもそもこの建物はどれ程の
規模なのか。
澪は何もわからない。何の当ても無く走り続けていたのだから当然とも言えるが。

澪「出口…… 出口はどこだ……」

今この瞬間、最も最優先すべきは出口の発見。それに全精力を注ぐ澪の目に細い光が見えた。
この通路の奥にあるドアが薄く開き、そこから光が漏れ出ていたのだ。
澪は吸い寄せられるように、その光へと足を運ぶ。

澪「この部屋……」

ドアの向こうは何らかの開発室といった趣だ。機械、器具、パソコンが所狭しと置かれた
散らかり気味の部屋である。
そして、部屋の中央にあったものは――

澪「オートバイだ……」

――白いボディがきらめくバイクだった。
それも1000ccか、もしくはそれ以上の排気量と思われる大型バイクが一段高いステージの
ような場所に鎮座している。
普段、街中で見るようなバイクと違い、タイヤはやたらと太く、ゴツゴツしている。
何よりも特徴的なのは車体前面に取り付けられたライト。一つ目の怪物を連想させる大きな
ヘッドライトである。
澪はおっかなびっくりバイクに近寄り、そっとボディに触れた。

澪「……そうだ、これに乗って逃げられないかな」

そう思い立つと、澪はバイクやその周辺を丹念に調べ始めた。
キーは刺さっておらず、周りにも見当たらないが、ハンドル辺りからケーブルが伸びており、
それは近くのデスクトップPCに続いていた。

澪「こっちのコンピュータに繋がってるの? どうやったら……」

一応、同年代の女子高生より少しはパソコンに慣れ親しんでいる方だと自負しているが、
さすがに研究用と思しきコンピュータの扱いはわからない。
電源が入っていることを確認し、キーボードをそれらしく叩いてみる。
そんな動作を繰り返しているうち、不意に後方から澪へ声が掛けられた。

?「AI: Cyclops起動シマシタ。訓練フェイズを開始出来マス」

澪「誰っ!?」

慌てて振り返るが誰もいない。いまだ正体不明な研ぎ澄まされた感覚を以てしても気配すら
感じられない。

?「AI: Cyclops起動シマシタ。訓練フェイズを開始出来マス」

周囲を警戒する澪にもう一度声が掛けられた。なんと、バイクからである。

澪「ええっ!? オ、オートバイがしゃべった……」

驚きのあまり、本来の目的である逃走手段の確保すら忘れて立ち尽くす澪。
バイクはそんな彼女に構わず、続けて言った。

?「Program SUPER SOLDIERの訓練フェイズを開始する場合はDNA登録が必要とナリマス」

訳のわからぬ単語が並べ立てられたが、ともかくこのバイクを動かすにはDNA登録とやらを
しなければならないようだ。
バイクとの会話という何とも非現実な状況ではあったが、澪はバイクに聞き返す。

澪「DNA登録? ど、どうやればいいの?」

?「お手元のリーダーデバイスに手のひらを当ててクダサイ」

見ればPCの横にまさに手のひら大のセンサーのようなものがある。
澪はぎこちなくそれに手を当てた。異形と化した己の手などあえて見たくはなかったが。

澪「こう、かな……?」

少しの間を置き、バイクが反応した。

?「DNAの読み取りが完了シマシタ。Program SUPER SOLDIER実験体番号3-2-1を確認。
  マシンオーナー名を実験体番号3-2-1にて登録シマス」

澪「ちょ、ちょっと待ってよ! 私は実験体なんかじゃないし、3-2-1なんて名前でもない!
 新しい名前に出来ないの?」

?「可能デス。新規マシンオーナー名を口頭でドウゾ」

澪「秋山澪だよ。あ・き・や・ま・み・お。姓が秋山、名が澪」

?「すべての登録作業が完了シマシタ。私の名は“サイクロプス”。マスター・ミオ、今後とも
  よろしくお願いシマス」

バイク、すなわち機械であるというのに随分と流暢かつ饒舌である。
本来の人見知りな性格が出てきてしまいそうな錯覚に陥りつつ、澪は挨拶を返す。

澪「よ、よろしく。それじゃ早速お前に乗ってこの建物から脱出したいんだけど……――
  ああっ! しまった!」

サイクロプス「問題が発生シマシタカ?」

問題どころではない。大問題だ。何故、これに乗って逃げようと思い立った時に、この問題に
ついて考えようとしなかったのか。
澪は決まり悪そうに答える。

澪「私、オートバイなんて乗ったこと無い…… 免許も持ってない……」

そんな簡単なことに思いを巡らせなかった自分が恥ずかしい、とばかりに自己嫌悪する。
相手が人間並みにコミュニケーションを取れるバイクだけにそれはなおさらだ。

澪「どうしよう……」

しかし、このサイクロプスと名乗るバイクは事も無げに澪へこう言った。

サイクロプス「では、オートドライブモードに移行シマス。これで問題は解決サレマシタ。その他
     問題点はアリマスカ?」

澪「すごい! 自動で運転してくれるんだ! ――ああ、もう問題は無いよ。この建物から
  脱出しよう!」

サイクロプス「マスターの現在の服装は私への乗車に適してオリマセン。左手奥に保管されている
     ユニフォームを着用してクダサイ」

澪「え? ……あっ! そうだった!」

サイクロプスにまたがろうとした澪であったが、彼の注意を受けて思い出した。自分が露出の
多い病衣しか着ていないことを。
指示に従い、澪がロッカーを開けると、そこには一揃いのユニフォームが入っていた。
上下に分かれたレザーのライダースーツだ。肩や肘、膝、すね等の各部分にはプロテクターが
施されており、上下共に色はダークグリーンで、サイドには黒いラインが入っている。それと
やはりダークグリーンのフルフェイスヘルメット。

澪「こ、これ? なんか不良とか暴走族とかみたいだな。まあ、でも……」

普段は絶対に着ることが無いであろうし、着ようとも思わない服装だが、病衣よりははるかに
マシだ。それにこれならば今の自分の醜い身体をすべて覆い隠してくれる。

澪「うう、下着無しで服を着るのかぁ……」

ライダースーツに身を包み、ブーツを履き、グローブは引き絞るようにして両手へ。
近未来物のアクション映画にでも出てきそうなキャラクターの出来上がりだ。頭部はSF映画の
異星人を思わせる昆虫のものではあるが。

澪「着たけど…… これでいい?」

サイクロプス「結構デス。乗車して目的地を入力してクダサイ」

澪「そんなのわからないよ! とにかくここから出たいんだ! なるべく早く!」

サイクロプス「了解シマシタ。最短距離でSHOCKER ENTERPRISE LABORATORYの外へ
     移動シマス」

守衛1「発見したぞ! 動くな!」

突然の声に澪が振り返ると、マシンガンを構えた三人の男達がドアの付近に立っていた。

澪「まずい! 見つかった! 早く早く!」

巨大なボディを震わせ、サイクロプスのエンジンがかかった。澪はすぐさまヘルメットを被り、
シートへまたがる。

守衛2「大変だ! サイクロプスが!」

守衛3「こちらA班、3-2-1発見! 至急応援を! 奴はサイクロプスまで起動させています!」

コンピュータに繋がる各種配線を引きちぎりつつ、サイクロプスが急発進した。
澪は振り落とされぬよう両手足に力を込め、頭を低くするのが精一杯だったが、自動運転中の
サイクロプスはそれに構わず守衛職員に向かって突進していく。

守衛3「危ない!」

守衛1「ぐおっ!」

守衛2「うわあっ!」

守衛職員を蹴散らして室外に出ると、澪らはそのまま通路を走り出した。

澪「ひ、轢いちゃった! あの人達、大丈夫かな……」

サイクロプス「接触による衝撃から計算すると重大な後遺症は残らないデショウ」

澪「いや、そうだろうけど、そうじゃなくて……―― うわわっ!」

勢いよく角を曲がり、すぐに先の階段を上る。連続する激しく急な動きに澪はシートから
振り落とされそうになった。
走行中に気を抜いて会話をする澪が悪いのだが、彼女はマスターだ。サイクロプスが責める
訳も無い。

サイクロプス「マスターのドライバーレベルを考慮し、固定ベルトを装着シマス」

シート周辺からベルトが伸び、澪の太腿が固定された。

澪「あ、ありがとう! すごい……!」

気配りの出来る忠実なるマシンと驚くばかりのマスターは、いくつかの曲がり角と階段を経て、
やがて長い直線の通路に出た。

守衛4「3-2-1だ! 全員撃て!」

振り返ればはるか後方に守衛職員の部隊がいた。澪らを発見するや、即座に発砲を開始する。

澪「きゃあああっ! な、何とかしてよ!」

弾丸が脇をかすめる中、サイクロプスが急に速度を上げた。一般的な道路の法定速度を大幅に
超えるスピードだ。
通路の果てにある行き止まりの壁が見る見るこちらへ迫ってくる。

澪「スピードを落とせよ! 前は壁だぞ! ぶつかる!」

サイクロプス「何も問題はアリマセン」

応答と同時に、ヘッドライトの両脇から大口径の機銃が二つ、ニュッと突き出た。

サイクロプス「12.7mm徹甲榴弾、発射」

凄まじい射撃音を轟かせながら、機銃から連続して銃弾が発射された。

澪「うわわわわわ!」

徹甲弾を雨あられと撃ち込まれた壁は、大小様々な破片を飛び散らせながら、あっという間に
鉄製の骨組を露わにさせていく。
ひとしきり銃弾がばら撒かれた後、機銃はボディの中へと引っ込み、続いてヘッドライトの
下から一門の砲身が姿を現した。

サイクロプス「110mm対戦車ロケット擲弾、発射」

サイクロプスから発射されたロケット弾は唸りを上げて壁へと飛んでいき、着弾と同時に
大爆発を巻き起こした。

澪「もうムチャクチャだよぉ!」

前方は爆発による黒煙が立ち込めているが、その中からわずかに数条の光が漏れ差していた。
壁を破壊し、脱出口とすることに成功したのである。
澪らは、スピードはそのままに黒煙へと突っ込み、建物の外へと飛び出した。

サイクロプス「高速降下走行、及び着地の衝撃に備えてクダサイ」

澪「降下……? 着地……? え、何?」

すぐに黒煙を突き抜け、視界が戻った。
建物から脱出し、この万能バイクを走らせて彼方遠くへバイバイ。そのはずだった。
しかし、走るべき地面が足元に無い。

サイクロプス「我々は現在、地上22階にイマス」

澪「ぎゃああああああああ!!」

澪の悲鳴と共に自由落下が始まった。為すすべも無く澪らは落ちていく。
その時、サイクロプスのボディからワイヤー付きの鉤爪が二本射出された。鉤爪はビルの
壁面にしっかりと突き刺さる。次の瞬間にはワイヤーが猛スピードで巻き戻され、マシンの
タイヤが壁面に接地した。さらにはそれと同時に両輪のホイール側面からノコギリ状の刃が
飛び出し、壁面へと食い込む。
まさに高速降下走行の文字通り、サイクロプスは地面へ向けてビルの壁面を走り下りていく。

澪「いやああああああああ!!」

落下に近いスピードの中、ぐんぐんと地面が近づいてくる。
すると、サイクロプスが突如として前輪を浮かせ、車体を垂直に近い角度でウィリーさせた。
つまり地面と平行となる角度である。
その直後、轟音を響かせてマシンは着地した。アスファルトで舗装された地面が陥没する程の
衝撃と共に。
目を回した澪がバッタリとサイクロプスのボディへ倒れ込む。

澪「あ、ああ…… し、し、し、死ぬかと、思った……」

サイクロプスは何の問題も無く作動し続けており、乗車していた澪も死ぬかと「思った」
程度で少しのダメージも見られていない。
突っ伏したままの澪を乗せて、サイクロプスは速やかに走り出した。
これだけ派手な脱出劇を演じたからには一刻も早くこの敷地を、否、この街を離れる方が
賢明という判断なのだろう。

サイクロプス「最速、最短で建物の外へ。マスターの命令を出来得る限り忠実な形で実行シマシタ」

澪「でも、もうこんな無茶はしないで…… お願い……」

サイクロプス「それにマスターの物理耐久性も計算に入れてオリマスノデ、安全性には何の問題も
     アリマセン」

澪「物理耐久性? そ、それってどういう――」

澪の問いを遮るように、サイクロプスが急停車した。

サイクロプス「マスター、次の命令をドウゾ。目的地を入力してクダサイ」

目的地。次の目的地。
澪は苦しげにヘルメットを取った。出てきたのは切れ長の大きな目が印象的な美貌。
いつの間にか、澪の顔は人間のものへと戻っていた。
そのせいなのだろうか、異常な警戒心も熱さを伴う精神的昂揚も今は消え失せている。
代わりに胸に残ったのは、ひどい寂しさ。パパとママに会いたい。律に会いたい。軽音部の
みんなに会いたい。クラスのみんなに会いたい。
澪はうなだれ、小さい声でぼそりと呟いた。

澪「家に…… 家に帰りたい……」

マスターの苦しげな心情の吐露を受け、サイクロプスはしばし黙り込んだが、やがて明瞭
かつ無機質な音声が答えを返した。

サイクロプス「……『秋山澪』の住所検索を完了。目的地へ向カイマス。走行時間は1時間15分を
     予定してオリマス」





[続]



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最終更新:2015年04月16日 08:11