太陽が地平線に近づきつつある夕刻。
峠を下ると、木々や草花が減り、周囲の風景に家々や人の姿が戻ってきた。
やがて、それらは徐々に数を増し、澪とサイクロプスは市街地へと足を踏み入れていた。
周囲の車両の速度と法定速度との折り合いを付けながら、なるべく目立たぬように、なるべく
スムーズに街を走る。
警察に睨まれては厄介であるし、かといって、人の目が多い都会の中でグズグズしていては
いつショッカーに捕捉されるかわからない。

サイクロプス「この街を抜けたところに森林公園がアリマス。キャンプ場が併設されているので、
     今日はそこで休ミマショウ」

澪「うん……」

澪は浮かない顔である。
その原因は先程から腹が鳴らす細く小さな音にあった。

澪「改造人間になってもお腹は空くんだな……」

ヘルメットのシールド越しに流れていく街並み。
悲しいことに、その中でもレストランやファストフードショップばかり目で追ってしまう。
そして、ビッグ・カフナ・バーガーの店舗から前方へ視線を移した、その時――

澪「!!」

――15mほど前方の対向車線。飛行機の模型を持って車道へ飛び出す男児。そこへ迫る車。

澪「危ない!」

と叫んだ時には、澪はすでに右足でマシンのタンクを蹴り、宙空高く跳び上がっていた。
大きな放物線を描いて男児のそばに降り立った澪は男児を抱きかかえ、再び強く地面を蹴った。
すべては一瞬の出来事である。
急ブレーキをかけた車は男児のいた地点を大幅に越えて停車していた。男児を抱いたままの
澪はさらにそこから離れた場所に立っている。

澪「ボク、大丈夫!? どこも痛くない!?」

あまりの急な出来事に男児は放心したように澪を見つめていたが、すぐに喜色に満ちた
甲高い声を上げ始めた。

男児「すごーい! いま、こーんなにジャンプしたよ! おねえちゃん、テレビに出てくる
   ヒーローなの!?」

澪「い、いや…… あの……」

プロテクター付きのライダースーツ。長い黒髪がなびくヘルメット。
なるほど、子供の目には新手のヒーローに見えるのかもしれない。
では、周囲の市民にはどう映ったであろうか。
それこそヒーローが活躍するアメコミならば、皆が皆「YEAAAAAAAAAAH!!!!」と歓声を
上げそうなシーンではある。
だが、現実は違う。その場に居合わせた市民達は眉をひそめ、不審げな眼差しで澪を遠巻きに
しながら、ヒソヒソと囁き合っている。

市民達「お、おい、今の見たか……?」

市民達「ああ、10m以上は飛んでたぞ…… 人間じゃねえよ……」

市民達「なんかアイツおかしくないか……?」

この不穏な空気に気づかないほど今の澪は鈍感ではない。
ではないが、それ以前に大勢の注目を浴びるような状況は絶対に避けるべきであった。

澪「ボク、そろそろ降りようか。お母さんのところへ……」

男児「やだ! もっとだっこ! おねえちゃんだいすき!」

そういった微笑ましく見えなくもないやり取りをしているうちに、男児の母親らしき女性が
人込みをかき分けて前に出てきた。

母親「ゆうちゃん! ゆうちゃんを返して!」

ひどく血相を変えており、我が子の命を救ってくれた澪への感謝の言葉も無い。
かと言って、澪から子供を奪い返そうとする様子も無く、それ以上前に出てこようとしない。

澪「あ、あの……」

警官1「はい、ちょっとどいてください。ほら、どいて」

来た。ついに来た。現在、最も遭遇したくない人種が来てしまった。
中年と思しき二人の警官が、やはり人込みをかき分けて、澪に近づいてくる。

警官2「あなた、何をしているんですか? まず、その子を降ろしなさい」

澪「は、はい…… ほら、いい子だから降りようね」

男児「やだー!」

警官2「こっちに来なさい! さあ!」

駄々をこねる男児を警官の一人が無理矢理引きはがす。

警官1「ちょっと交番で話を聞かせてもらっていいですかね? すぐ近くなので」

警官2「あー、まずヘルメットを取りましょうか」

澪「え…… これは、その……」

躊躇するには理由があった。
男児を救出した際の興奮状態がいまだ治まらず、ヘルメットとスーツの内側はあの異形の
姿に変身しているのだ。
こんな姿をさらしてはどれほどの騒ぎになるか、わかったものではない。
しかし、苛立ち気味の警官は容赦無くヘルメットに手を伸ばした。

警官2「ほら、早く取って!」

澪「や、やめてください!」

警官2「うおっ!」

力づくでヘルメットを外させようとする警官を、澪が振り払った。
予想以上の力強い抵抗に、警官は道路に尻もちを突いた。
澪のヘルメットを抱えたまま。

警官1「おいっ! 公務執行妨害だ―― うわあああああ!! 何なんだ、お前は!!」

ヘルメットの下にあったのは、触角や大顎がヒクヒクと蠢く昆虫の顔。
警官が驚き、後ずさるのは当然だった。
そして、それは周囲の市民達も同様だ。

市民達「きゃああああああああ!!」

市民達「化物! 化物だぁ!」

市民達「うわっ! 何だよ、あの顔!」

市民達「気持ち悪っ! 本物か!? 作り物じゃないの!?」

市民達「やっぱり化物だったんだよ! さっきすげえ飛んでたもん!」

いくつもの悲鳴が上がり、多くの野次馬が澪から離れようとする。
それでも尚、大部分が逃げ去ろうとしないのは、人間の愚かな好奇心なのだろうか。
街角が騒然としていく中、二人の警官は素早く警棒を取り出し、澪に向かって身構えた。

警官1「両手を頭の後ろに回せ!! 両膝を地面に突くんだ!!」

驚きが先に立ったとはいえ、さすが職務に忠実な公僕である。
正体不明の相手ということもあり、すぐには組み伏せようとせず、幾分か距離を取っている。
一人は澪の真正面に立ち、もう一人は彼女の背後に回ろうと少しずつ立ち位置を変えていく。

澪「そんな……! 私は何もしていません! 何かするつもりもありません!」

軽く両手を上げ、害意が無いことを懸命に伝えようとする澪だったが、それで警戒を解く
ような警官は警官ではない。
また、安全と思われる位置まで後退していた市民達の中に、罵声を飛ばす者が出始めていた。

市民達「おい、警察! 早く何とかしろよ! そいつ本物の化物だぞ!」

警官1「両手を頭の後ろに回せと言っているんだ!」

警官2「本部! 応援願います! しょ、正体不明の、ええと、その、化物が!」

化物。

化物。

化物。

敵意と悪意に満ち満ちた、この言葉。
ここにいる自分以外のすべての者が口にしている、この言葉。
今の自分を最も端的に表しているかもしれない、この言葉。

この「化物」という言葉が、周りを飛び交い、耳に捻じ込まれるに至り、澪の怒りに火が
ついてしまった。

澪「私は化物じゃない!! 人間だ!!」

警官1「ひいっ!」

大顎を開いた怒りの咆哮を前に、真正面へ立っていた警官は反射的に拳銃を抜き、澪に銃口を
向けた。

澪「やめろ! 私は何もしない!」

警官1「そ、それ以上近づくなぁ!」

警官2「動くんじゃない!」

すぐにもう一人の警官も拳銃を抜き、構える。
それを見た市民達は、すわ銃撃戦か、とさらに澪や警官との距離を広げた。
しかし、その動きとは反対に澪のもとへ駆け寄ろうとする影があった。
つい先程、彼女に命を助けられた男児である。

男児「おねえちゃんをいじめないで! ぼくをたすけてくれたんだよ!」

母親「危ない! 言っちゃダメ!」

すぐに母親が彼の腕を掴み、人の群れの中へ引き戻す。
それでも、叱られ、はがい絞めにされながらも、男児は声を上げ続けた。

男児「ヒーローなんだよ! こわいおかおだけどヒーローなんだよ! うえええええん!」

市民達「とっとと撃ち殺せよ!」

市民達「何やってんだ! 警察のくせに!」

男児の叫びは市民達の怒罵悪罵に空しくかき消されていく。

警官1「いいか! 今度怪しい動きをしたら即座に発砲するぞ!」

警官は銃口を澪へ向け、人差し指を引き金にかけていた。敵意を持った正体不明の化物。
射殺もやむなし。そう判断しているのだろうか。

澪「どうしてなんだ…… やめろ…… やめてくれ……」

化物としか見てくれないことへの怒り。
何ひとつ話を聞いてくれないことへの失意。
二つが入り混じり、絶望へと変異していく。
そして、その絶望はさらに暗く醜く形を変えようとしていた。

すなわち“人間”への――

サイクロプス「マスター、お乗りクダサイ」キキッ

呼び声に我へ帰ると、目の前にはサイクロプスがいた。

サイクロプス「サア、早く」

澪「あ…… ああ!」

澪がまたがると同時に、サイクロプスは急発進し、野次馬をかすめるように歩道を走り出す。

市民達「きゃあっ!」

市民達「危ねっ!」

市民達「て、ていうかさ、あのバイク、さっき誰も乗ってないのに……」

警官1「逃げる気か! 撃つぞ!」

澪らへ向けて構えた警官の拳銃を、とっさにもう一人の警官が押し下げた。

警官2「よせ! 民間人に当たる! 撃つんじゃない!」

サイクロプスの走行は歩行者と接触しないよう計算し尽くされたものだった。逃走として
有効なギリギリまで速度を落とし、歩行者や設置物を寸前でかわしていく。
それは無論、警官の発砲を妨げる為である。
やがて、拳銃の射程距離から外れたのか、サイクロプスは車道に戻り、他の車両の間を縫う
ようにして走る。
その間、澪はマシンのボディに突っ伏し続けていた。
ヘルメットを拾う余裕などありはしなかった。気持ちの高ぶりが落ち着くまでは顔を上げる
ことが出来ない。
もっとも、そうでなくとも顔を上げる気分にはなれなかっただろう。

兵士の精神が、弱い人間の心を駆逐してくれるまでは――





[続]



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最終更新:2015年04月16日 08:12