第三話【激突】


澪を乗せたサイクロプスは交通量の多い市街地の道路を疾走していた。
もはや法定速度の遵守などは欠片も見当たらない。ただこの街からの逃走だけを優先した
走行である。
他の車両を次々と追い抜いていく自動運転のサイクロプス。そのボディに突っ伏していた
澪がようやく顔を上げた。
心は落ち着きを取り戻し、異形の顔貌は元の少女のものへと変わっている。
それを待ったかのように、サイクロプスが澪に話しかけた。

サイクロプス「マスター、何故あのような行動を取ったのデスカ?」

勿論、非を責める意図は無い。機械であるが故に理解出来ない疑問を解消したいのであろう。
明瞭かつ無感情な問いに対し、澪は少しの間を空け、低く暗い声で答えた。

澪「……あの男の子が車に轢かれそうになってたからだ」

サイクロプス「シカシ、それによってマスターの身が危険にさらされマシタ。マスターの行動は
     非合理的であり、自己防衛面に問題がアリマス」

その言葉に澪は再び怒りを覚えた。空虚さを伴った乾いた怒りではあったが。

澪「それは私が人間だからだ! たとえ自分が危険な目に遭ったとしても誰かを助けたいと
  思うのが人間なんだ!」

サイクロプス「ニンゲン……」

自分は今でも秋山澪。自分は今でも人間。彼女はそう信じている。信じていたいのだ。
たとえ姿形は醜いバッタの化物だったとしても。
何もかもを奪われた今、澪に残っているのは人間としての矜持と友への想いだけなのだから。
澪の思いのたけをぶつけられたサイクロプスはといえば、それきり黙ったままである。
ただし、走行速度はどんどん上がり、三ケタに達しようとしていた。信号すらも完全に無視
している。
車両と車両の間を縫うように通り抜け、横切る車両を絶妙のタイミングでかわし、川を泳ぐ
魚のごとく進んでいく。
しかし、それでもと言うべきか、当然と言うべきか、澪らが通り過ぎた後には、他の車両が
大混乱に陥っていた。

澪「お、おい、スピード上げ過ぎだし、運転が荒いよ。もしかして怒った……?」

サイクロプス「イイエ、私には怒りを含む一切の感情はアリマセン」

そう言っている途中にも、車体を大きく傾け、凄まじい速度のまま、十字路を右へと曲がる。

サイクロプス「SHOCKER ENTERPRISEは警察無線や街頭監視カメラを常時傍受シテイマス。
     先程の騒ぎによって高確率でマスターの正確な位置が捕捉されているデショウ」

澪「何だって!? じゃあ、追っ手が……」

サイクロプス「ハイ、追跡者がこちらに向かっている可能性が高いデス。一刻も早く、この場を
     離れなければナリマセン」

澪「ご、ごめん……」

相手は思考と計算をするだけのAIであり、人格や感情を持った人間ではない。
にもかかわらず、すまなさを覚え、謝罪してしまうのは澪本来の性格か。それとも、つい
数時間前にも桜高で似たようなことをしてしまったせいか。

澪「私、自分のことばかりで…… これからはもっと気をつけて――」

サイクロプス「7時の方向800mに、低空で高速移動中の飛翔体を確認。追跡者デス」

澪「えっ……!?」

突然の報告によって、落ち込み気味の気分が兵士の精神へと一気に塗り替えられた。
首をひねって振り返り、両眼に意識を集中する。

――見えた。自分と同じ異形の者が空の上で透明な羽を素早くはばたかせている。

澪「と、飛んでる…… 人が飛んでるぞ……!」

サイクロプス「データにはアリマセンガ、超人兵士と推測サレマス」

澪「す、すごい勢いでこっちに……! サイクロプス! もっとスピードを出すんだ!」

無理な命令である。交通量の多い公道に適した速度はとうの昔に超えているのだ。
いくら完璧な運転を誇るサイクロプスといえども、これ以上の加速は事故を起こしかねない。

サイクロプス「最高速度、最適経路で走行していても、最短であと3分50秒以内に追いつかれる
     計算デス。停車、迎撃をお勧めシマス」

澪「迎撃って…… 戦うってことか!? 私が!?」

サイクロプス「ハイ」

澪「む、無理だよ! 格闘技どころかケンカもしたこと無いのに!」

サイクロプス「実験体の脳には戦闘教練programがインストール済みデス。自覚が無いだけであり、
     マスターはすでに達人クラスの格闘技術を有してオリマス」

澪「そんなこと言われても……!」

怖いのだ。
戦う、という行為自体が怖くてたまらないのだ。
サイクロプスは嘘を言っていないのだろうし、強靭な肉体は自覚しているが、怖いものは怖い。
しかし、そんな澪の心中を無視するように、サイクロプスは大きく減速し始めた。

サイクロプス「停車シマス。戦闘態勢を整えてクダサイ」

その言葉と同時に、サイクロプスがある場所に停車した。
頭上高くには屋根。左右には店舗。歩行者だけが行き交う広い道。
澪らが立っていたのは、アーケードの商店街だった。
無論、通行人もいる。平日の夕方近くとはいえ、その数は少なくない。
道行く人々は皆一様に、突如現れて道のど真ん中に陣取る大型バイクと女性ライダーへ、
さも迷惑そうな視線を送っている。

澪「こ、こんなとこで戦うのか!? お店もあるし、人もいるんだぞ!」

サイクロプス「現段階で予測出来る範囲として、飛行状態からの第一撃のダメージを軽減するには
     最適の地形デス。マタ、建物や民間人が障害物となり、着陸後の敵の動作効率を
     減少サセラレマス」

澪「障害物!? お前って奴は…… そんなことが出来るか!」

サイクロプス「12時の方向、200mデス。戦闘態勢を整えてクダサイ」

慌ててサイクロプスから降りた澪は、あらん限りの大声で周囲に叫んだ。

澪「皆さん! 早く逃げてください! ここは危険です! 早く逃げて!」

反応は寂しいものだった。
足を止める者もいなければ、足早に去ろうとする者もいない。
怪訝な顔で澪を見るか、そうでなければチラリと彼女の方へ眼を遣り、また何事も無かった
ように向き直るくらいだ。女子高生のグループに至ってはゲラゲラと嘲笑する始末である。
そうしているうちにも空を飛ぶ追跡者はどんどんこちらへ近づいてきていた。このままでは
ここにいる皆が巻き込まれてしまう。
ついに、通行人への苛立ちと否応無しの敵襲来に焦る心が、澪の肉体を縛る鎖を断ち切った。

――もう、こうなったら。

澪「うううううううう……!」

少女の凛々しく美しい顔立ちが、おぞましく蠢き、一瞬にして異形の姿へと変貌を遂げる。
そして、まるで拡声器でも通したかのような荒々しい大音声が、醜悪な造形の大顎から
発せられた。

澪「早く逃げろって言ってるんだぁあああああ!!」

市民達「ひいいっ!?」

市民達「きゃああああああああ!!」

市民達「ばっ、化物だぁあああ!!」

通行人は蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げ去り、両脇の店舗で働く者達も腰を抜かし
ながら慌てて奥へと引っ込んだ。
だが、全員の避難を確認する余裕などありはしない。

サイクロプス「あと5秒で接触シマス」

前方からは超低空を飛行する黒い人影が凄まじい速度で突っ込んでくる。減速する様子は
まったく無いようだ。
一方の澪は。
戦闘態勢というものはどうやったらいいのか? 接触ということはぶつかってくるのか?
やむなく覚悟は決めたものの、何をすればいいのか、まるでわからない。

澪「え、ええっと…… どうすれば……」

サイクロプス「イケマセン、マスター。そのままでは攻――」

瞬間、これまで経験したことの無い激しい衝撃が澪を襲った。視界はめちゃくちゃに乱れ、
自分がどんな体勢でいるのかもわからない。

澪「ぐうっ!」

頭から地面に叩きつけられて初めて自分が宙を舞っていたことに気づいた。砲弾のごとく
飛んできた追跡者に吹き飛ばされたのだ。
激しい痛みが全身を襲い、四肢は思うように動かない。

澪「う、うぅ……」

それでも渾身の力を込めて、頭と上体を起こし、状況を探る。
見れば、サイクロプスが4、5mほど離れた場所で横倒しになっている。
そして、かなりの距離に渡ってタイル張りの歩道がえぐられ、土煙が巻き上がる中、追跡者が
こちらに向かって歩いてくるのが見えた。
初めて遭遇する自分以外の改造人間。一言で表すならば“人の姿をしたカブトムシ”だ。
漆黒の甲殻が全身を覆い、身長は澪より幾分か低いものの、胸板や二の腕、大腿は一回りも
二回りも太く厚い。
顔はやはり昆虫のそれであり、額からは特徴的な角が伸びている。
さらに、元は人間であったことを、桜高の生徒であったことを証明するように、頭部から
長い黒髪をなびかせていた。
“彼女”は地面に這いつくばる澪を視認すると、やや歩調を速めて言った。

追跡者「実験体番号3-2-1を確認。消去を開始します」

力強く接近してくる追跡者を前に、澪はいまだフラフラと立ち上がりかけているところだ。

澪「戦う…… 私が戦う……?」

先制攻撃による大ダメージ。未経験の戦闘行為。屈強な敵。
どれも澪の気後れに拍車をかける。
それと――

澪「ダメだ……! わ、私が、戦うなんて……」

“戦い”そのものへの恐怖。
元々闘争などというものとは無縁の女子高生であり、風貌や言葉遣いからは想像も出来ない
ほどの小心な性格の澪なのだ。
戦いへの拒絶反応が、強い恐怖となって彼女の身体を拘束していた。
しかし、無情にも追跡者はわずか数m手前にまで迫っている。

澪「こ、こっ、こ、こ、怖、怖……――」

追跡者が大きく一歩を踏み出し、拳を振り上げた、その時、澪は気づいた。

澪「――……くない」

恐怖という拘束は瞬時にして消え失せた。
とっさに澪が背中を反らせ、顎を引くと、目の前を黒い硬質の拳が通り過ぎていった。
追跡者が繰り出した大振り気味の右フックが空を切ったのである。

澪「何でだろう…… 怖くない…… 全然、怖くない……!」

自身の変化に戸惑いを隠せない澪。
それに構わず、追跡者はさらに大胆に間合いを詰める。今度はフォームを小さくし、まるで
機関銃のように細かく連続した拳を打ち出した。
澪はすべての意識を両眼に集中する。
見える。麻酔銃の弾丸が迫ってきた、あの時のように。

澪(左の拳がまっすぐ…… 一、二、三発…… 身体を反らせばかわせる……)

澪(すぐに右の拳…… 鋭い…… でも、頭を右に振ってかわせる……)

澪(横から左の拳、じゃない。止まった。フェイントだ…… 下から右の拳……)

後方へステップを刻み、追跡者のアッパーから逃れる。
スウェーバック、ヘッドスリップ、バックステップ。流水のごとき動きで、飛来するコンビ
ネーションのすべてを回避してしまった。
まるで、網膜に映し出された映像が電流となり、直接全身の筋肉へ指令を与えるように。

澪「み、見える…… 動ける…… 戦える……!?」

恐怖の消失。敵の攻撃を捉える鋭敏な感覚。さらに、人間離れした速度の動作。
何もかもが改造人間としての賜物なのであろう。
そして、それは澪に驚きだけではなく、これまでにない精神の高揚をもたらしていた。

――つまり、楽しさ。戦う楽しさだ。

澪「よ、よし! かかってこい!!」

気合いを入れ、自らを鼓舞する澪。
対する追跡者はやや距離を開けて、澪を見つめている。

追跡者「攻撃命中率不良。対3-2-1戦闘プログラムを修正します」

そう呟くと、追跡者は腕を低めに構え、体を左前の半身にし、すり足でジリジリと前進を
始めた。
ボクサースタイルで構える澪は、その場から動かずに呼吸と整え、小さく身体を揺らせて
リズムを取っている。
少しずつ、少しずつ、両者の間合いが縮まっていく。

澪(とりあえず奴の攻撃は全部かわす。かわせるはずだ。で、奴に隙が出来たら攻撃する、
  って感じでいいのかな……)

追跡者はいまだゆっくりと間合いを詰めるだけ。澪も動かない。
身長やリーチで劣る追跡者はすでに澪の制空圏に入っている。
それでも澪は動かない。いや、動けない。

澪(こ、来い……! 早く来い!)

澪の高揚感に焦燥感が混じりかけた、その時――

追跡者が素早く左ジャブを放った。

澪(かわす、までもない……)

速度重視のただの牽制。澪はよく見て動かない。
追跡者は続けて二発目、三発目を放つも、やはりただの牽制目的。

澪(よし。速さとタイミングはわかったぞ。次は当てる気があっても無くても、こっちから
  いってやる!)

後退せず、さらなる攻撃を誘う澪。
それに乗るかのように、またもや追跡者の左手が動いた。

澪(今! ――って、えっ!?)

ジャブではなかった。左へ大きく軌道を反らし、澪の顔の横で手のひらがパッと開いた。
そして、澪の超人的視力は反射的にそちらを追ってしまった。
その刹那、追跡者の右拳が裏拳気味に澪の顔面を打った。

澪「ぐっ!」

思わずよろめくも、ダメージはそれほどでもない。
しかし、その隙を突いて追跡者の左手が澪の右手首を掴んだ。

澪「しまっ―― うぐぇ!」

慌てる間もあればこそ、強力な右のボディブローが澪の鳩尾にめり込んだ。
腹に穴が開いたかと思うほどの衝撃。猛烈な吐き気。あまりの威力に澪の身体がくの字に
折れ曲がる。右手は捕らえられたままである。
さらに追跡者は右手で澪の髪を掴むと、顔面へ膝蹴りを一発、二発、三発と、立て続けに
打ち込んだ。
頭部と右手を捕らえられて動きをコントロールされているのだ。回避も抵抗もあったもの
ではない。
最後はダメ押しとばかりに、背負い投げで澪を地面へ力強く叩きつけた。
澪の身体が大きくバウンドする。タイル張りの固い地面の上だというのに。

澪「かはっ……!」

痛み。脳の揺れ。呼吸困難。あらゆる痛苦が澪の身体へ一斉に襲いかかる。
いや、それだけではない。追跡者の足裏が目前に迫っている。

澪「ま、まずいっ!」

必死に首をひねり、追跡者の踏みつけを避ける。澪の顔のすぐ横でタイルが割れ、地面が
足の形に陥没した。
全身を使って跳ね起き、無様に転げ回りながらも懸命に距離を取る澪。
ダメージは深いが休んでいる暇は無い。追跡者が悠々と歩くように間合いを詰めてくる。

澪「このォ!」

闘争本能のままに放ったのは右のハイキック。狙うは構えも取らず無防備な追跡者の頭部。
だが、追跡者は左腕一本で易々と澪の蹴撃を防いだ。
伝わってきた感触は岩を思わせる固さ。いや、金属か。
プロテクターと改造人間の肉体を以てしても尚、すねに痛みが走る。

澪「でやァ!」

今度は鳩尾を狙ったボディブロー。
だのに追跡者は防御すらしない。
無機質な鈍い激突音の後にやってきたのは、拳の痛みと骨のきしみだった。
それもそのはずである。
澪のパンチは追跡者の胸や腹を全面に渡って覆う甲殻に阻まれたのだ。

――攻撃が通用しない。

澪「う、うおおおおおおおおおお!!」

闘志か、虚勢か。空気を震わす咆哮と共に、澪は再度追跡者へ突進した。
さながら吹き荒れる暴風のように、連続して両の手足を打ち出す。
それはコンビネーションというよりも乱打に近かった。
にも関わらず。にも関わらずである。追跡者は悠然たるものだった。
最小限の防御動作と、あとは全身を覆う漆黒の鎧が、追跡者に何のダメージも通していない。
むしろ澪の方が疲労と拳や膝、すねの痛みを蓄積させている。

追跡者「動体視力と瞬発力はデータを上回っている。しかし、攻撃技術は稚拙極まりない」

澪「うりゃあああああ!」

甲殻を貫かんと渾身の力を込めた澪の右ストレート。
追跡者は素早い反応で軽く前傾姿勢を取り、額の角を前に突き出す。
激しい音を立てて拳と角がぶつかり合った結果、澪の動きが止まった。

澪「て、手が……」

震えて拳も握れない右手を、またもや追跡者が掴んだ。
抵抗を、と思う間も無く、澪の身体が宙を舞う。

澪「うわあっ!」

追跡者は高々と右手を上げている。澪の手首を握ったまま。
54kgの澪がまるでタオルのように軽々と片手で振り上げられていたのだ。
そして、その手が思いきり振り下ろされた瞬間、アーケード街にダァンという乾いた音が
響き渡った。
大小様々な石くれが激しく飛び散り、周囲の店舗のガラスが粉々に砕け散る。
見れば、地面には浅く小さなクレーターが形成され、その中心で澪が血の泡を吹きながら
大の字となっていた。

澪「う…… うぅ……」

身体が動かない。呼吸をしようにも喉の奥から鉄臭い液体が溢れてくる。
意識にはもやがかかり、視界も音もすべてが遠い彼方のものになっていた。
だが、追跡者は無慈悲にも澪の胸倉を掴む。
立たせる、のではない。
持ち上げる、のでもない。
流れるように、実にスムーズな動きで、澪を“振りかぶった”。

追跡者「筋力、耐久力では私をはるかに下回る」

それだけ言うと、追跡者は投げ技というよりもピッチングに近いフォームで、澪を前方の
薬局へ投げつけた。
凄まじいスピードで地面と水平に飛んでいく澪。
店内のいくつもの棚をなぎ倒し、店の奥の壁に叩きつけられることで、ようやくその身体は
止まった。

澪「う、ぐっ…… がはっ……!」

やはり手も足も動かせない。
やっとの思いでゴロリと寝返りを打つも、五体に刻まれたダメージは深く、重い。

澪「な、なんか…… げほっ、は、話が、違うぞ……」

先程の話では、自分は格闘技の達人なみに強いはずなのに。
出す技はほとんど通じず、「稚拙」とまで言われ、いいようにやられてばかり。
自分は本当に強いのか? それとも敵が強すぎるのか?
そんな逃避にも似た疑念に駆られ始めた澪の耳に、ある声が聞こえてきた。

サイクロプス「私のデータに間違いはアリマセン。マスターの脳には確かに戦闘教練programが
     インストール済みデス」

薬局の外で横倒しになったままのサイクロプスが語りかけているのだ。
おそらく澪の呟きを拾っての回答なのだろう。

サイクロプス「アトハ秋山澪としての意識を、いかに超人兵士のものへ書き換えるか、と言エマス。
     有する格闘技術を真に発揮出来るか否かはマスター次第デス」

澪「わ、私…… 次第…… ごほっ……」

サイクロプス「『考える』のではアリマセン。『知る』のデス。自分は強いのだ、と」

不意に、グシャリとガラスの潰れる音が響いた。
澪が音の方へ顔を向けると、床に散らばった商品を踏みつけつつ、追跡者がこちらへ接近
してくるところであった。
サイクロプスとの問答もここまでだ。

澪(戦わなきゃ…… そうだ、戦うんだ……)

諦めない。戦わなければ桜高の皆は救えない。ここで斃れては皆がすべてを奪われる。
立ち上がろうと、身体を返し、床へ両腕を突く澪。
その手元に、転がるものがひとつ。

澪「……!」

澪がそれを拾うと同時に、追跡者が立ちはだかった。

追跡者「お前を消去する」

そう言い放ち、澪の両肩を掴む。
そして、その身体を無理矢理引き起こした次の瞬間、強烈な刺激が追跡者の両眼と口内を
突き刺した。

追跡者「ぐああああああああ!!」

顔を押さえて苦しみ悶える追跡者。
澪の手に握られていたのはスプレー式の殺虫剤。そこから噴霧された薬液が追跡者の顔面を
直撃したのだ。
殺虫剤を投げ捨て、澪がゆっくりと立ち上がる。ゆっくりと。
そう、立ち上がることさえ容易ではない。
死を予感させるほどの大ダメージに削られた体力では、次の反撃が最後のものとなるだろう。
澪は肩で息をするだけで、その場から動かない。数歩のフットワークさえも惜しい。
やがて、明後日の方向を向いて苦しむ追跡者が、フラフラとこちらを向いた。

――好機到来。

澪「装甲に覆われていないのは…… ここと!」

追跡者の左膝を正面から蹴り抜く。
バキリと嫌な音を立てて、膝関節が本来の方向とは逆に折れ曲がった。
大きくバランスを崩す追跡者。
次なる照準は――

澪「ここだぁあああああ!!」

全精力を込めた拳が追跡者の顔面に炸裂した。
頭部の芯を捉えた感触。顔面の体組織をことごとく潰した感触。すべての力が拳の向こうへ
伝わっていく感触。
あらゆる言葉で例えられるクリーンヒットの感触を澪の拳に残し、追跡者は薬局の外まで
大きく吹っ飛んだ。
澪もまた、己の放った拳の勢いに負け、身体を泳がせて、その場に膝を突いてしまったが。

澪「も、もう無理…… これ以上は…… 限界……」

追跡者は道の真ん中でノックダウンし、ピクリとも動いていない。
澪の拳が息の根を止めたのだろうか。
勝負の行方を確かめるべく、澪は立ち上がり、追跡者へと近づいた。
異形の顔貌の為、意識の有無を確認するのは難しいが、いまだ起き上がる気配は無い。

澪「や、やったか……?」

死んだのか。死んではいないにしろ、すぐに行動は出来ないのではないだろうか。
それであればすぐにこの場を離れ、ショッカー・エンタープライズの目を晦まさなくては。
少しの安堵と共に、澪がそのようなことを考えながら、さらに追跡者に近づくと――

澪「!?」

――突如として視界が遮られた。
だが、すぐに状況は把握出来た。追跡者の右の掌が澪の顔を鷲掴みにしたのだ。
追跡者はそのまま力強く立ち上がり、澪の身体を高く吊り上げる。破壊したはずの左膝は
まったくの無傷である。

追跡者「予想外の攻撃だった」

澪「ど、どうして……! 膝関節を折ったのに……! うああああああああ!」

こめかみを締めつける力はどんどん強くなっていく。万力どころではない。まるで重機の
ごときパワーだった。
澪も殴る蹴るして必死に抵抗しているのだが、その力はまったく弱まらない。

追跡者「超人兵士の肉体はリジェネレーション細胞で構成されている。脳を破壊されない限り、
    どんな傷も一定時間で再生する。私もお前も」

もがく澪を無感情に観察しつつ、追跡者は右手へさらに力を込める。

追跡者「このように脳を破壊されない限り」

澪「ぎゃああああああああ!!」

頭蓋骨がミシミシと音立てているのがわかる。左右のこめかみから血が噴き出していくのも。
視界全体がぼんやりとした乳白色に染まっていき、手足が自分の意思とは無関係に細かく
震え出した。

澪(も、もうダメだ…… 殺される…… 死ぬ……)

徐々に意識が遠のいていく。苦痛も少しずつ薄まっていく。
何故か「悪くない」という気分が頭をもたげる中、澪は自分の使命が中途で終わることに
罪悪感を覚えていた。

澪(律、唯、ムギ、梓…… みんな…… ごめん……)

ふと、気づいた。
追跡者の指の間から見える光景。
次第に薄暗さを増していく乳白色の世界。
そこにひとつの人影が小さく映った。追跡者の背後だ。
人影はこちらに近づいてくるようだった。誰も彼もが逃げ去っているというのに。
澪が曖昧な意識で、こっちへ来ちゃいけない、と思う間にも人影が大きくなっていく。
やはり近づいてきている。それも尋常でないスピードで。
やがて、その人影、いや何者かは激しく地を蹴ると、宙空高く跳び上がった。

?「きぃいいいいいいいいっく!!」

やけに能天気な奇声と共に放たれた飛び足刀が、追跡者の後頸部を痛打した。

追跡者「ぐっ!」

喉を詰まらせたような声を漏らして、追跡者が前方へ大きく弾き飛ばされた。勿論、澪も一緒に。
地面に投げ出された後もゴロゴロと派手に転がっていた二人だが、すぐに何かにぶつかり、
動きが止まった。それは横倒しになったままのサイクロプスだった。
澪が頭を振りながら、上体を起こす。

澪「た、助かった、のか……?」

追跡者「け、頸髄を損傷…… 上下肢体幹に、う、運動機能障害が発生……」

澪のすぐかたわらには追跡者が倒れていた。
まだ生きている。意識もある。
その姿を見た途端、澪の心に戦いの高揚感が甦った。
意識が書き換えられていくのがわかる。秋山澪ではなくなっていくのがわかる。
強烈な殺意が燃え上がっていくのがわかる。

殺す。殺してやる。とどめを刺してやる。始末してやる。

消去してやる!

澪「脳を破壊すれば、いいんだな……!」

追跡者の長い黒髪をしっかと掴み、澪が叫ぶ。

澪「サイクロプス! エンジンをかけろ! タイヤを回せ!」

サイクロプス「了解シマシタ」

エンジンは轟音を響かせ、マシンの後輪が猛烈なスピードで回り出した。
力が込められる。獲物を掴む指に。そこへ続く腕に。それを支える肩に。

澪「死ねぇえええええ!!」

澪は弓を引くように大きく振りかぶると、勢いをつけて追跡者の顔面を回転するタイヤへ
押しつけた。

追跡者「ぶぎゃ!!」

悲鳴はすぐにくぐもった声に変わった。口に当たる部分が一瞬で消えて無くなったからだ。
溝が刻まれた大型タイヤはまるで卸し金だった。
押しつけられた追跡者の顔面を休むこと無く、擦り取り、削り取り、抉り取る。
それでも澪は腕に込めた力を少しも弱めない。むしろ更なる力を加えて、掴む頭を押し込んだ。
サイクロプスの後方に大量の血飛沫が飛び散り、ミンチとなった肉片が撒き散らされていく。
追跡者はただ弱々しく手足をバタつかせるだけである。
それは意思のある動作というよりも、声や意識を無くしても尚、生にすがりつこうとする
肉体が上げる悲鳴のように見える。
時間にすれば一分、いや、三十秒ほどが経過したであろうか。澪がタイヤから追跡者の頭を
グイと引き離した。
顔面の大部分は深く抉り取られ、真っ赤な肉塊と化している。首に近い辺りで気泡が出ては
消えているのは、おそらくそこから気道に続いているからではないか。

澪「ああああああああああ!!」

獣じみた咆哮をひとつ轟かせると、澪は握り締めた拳を陥没した顔面の中へアッパー気味に
かち上げた。
グチャリ、と拳に感触が伝わる。何か弾力のある柔らかいものが潰れた感触だ。

澪「殺ったぞ……!」

追跡者の身体を放り捨て、疲労困憊の態で地面に座り込む澪。
しばし肩で息をする。無惨な屍となった化物を見つめて。
猛るがままだった兵士の精神は徐々に落ち着きを取り戻し、秋山澪らしきものへと意識が
上書きされていく。

澪「殺した……」

高揚感は消え失せ、虚脱感と少しの快感に包まれていく。
澪は呆けたように、倒れ伏した改造人間をただジッと見つめていた。
すると、澪の脳裏へ唐突に去来するものがあった。
今の今まで忘れ去っていた、ある事実が。

澪「殺しちゃった…… 私が……」

そう、この手で殺したのだ。
圧倒的かつ明確な殺意の下に。同じ桜高に通う生徒を。救うべき仲間を。
わかっていたはずなのに。知っていたはずなのに。
後悔と罪悪感が堰を切ったように激しく流れ出す。

澪「私…… どうして…… どうしよう……」

気づけば祈っていた。
せめて軽音部のみんなじゃありませんように。
せめて私のクラスの子じゃありませんように。
せめて私が知っている子じゃありませんように。
身勝手で、酷薄で、最低な、およそ人間らしくない祈り。

押し潰されそうな罪の意識に我が身を抱える澪。
そこへ一人の人物が近づいてきた。
殺される寸前の澪を救った、あの人物だ。

?「大丈夫?」

澪「……!」

呼びかける声に振り向くなり、澪は驚愕した。
目の前に立つ人物の姿恰好にあまりにも見覚えがあったからだ。
上下に分かれたレザーのライダースーツ。肩や肘、膝、すね等に施されたプロテクター。
自分が身に着けているものと同タイプのものなのだ。
違いと言えば、カラーリングが反対となっており、黒のスーツにダークグリーンのサイド
ラインが入っているくらいか。
それと、顔を覆い隠しているものはフルフェイスヘルメットではなく、バッタの顔を模した
奇妙な全頭型の仮面。

澪「わ、私と、同じ……?」

?「もう少しでやられちゃうとこだったね。間に合ってよかった。澪ちゃん」

この声。この喋り方。
姿恰好など問題にならぬほど聞き覚えがある。いや、聞き馴染みがあると言ってもよい。
早鐘を打つように心臓の鼓動が高鳴る。
まさか。こんなの嫌だ。嘘であってくれ。夢であってくれ。
澪の願いも空しく、彼女はいそいそと仮面を外す。

そして、仮面を外したその下から現れた顔は――

澪「そ、そんな……!」

――平沢唯だった。





[続]



5
最終更新:2015年04月16日 08:12