第五話【生きる】
澪「ここは…… どこだ……?」
生い茂る草の青。木々の葉が彩る緑。
澪は森林の真ん中に、一人立っていた。
澪「ああ、そっか。私、キャンプ場に……」
大きく息を吸い込む。
清浄な空気が肺に染み渡り、心も身体も洗われるようだ。
浮き浮きとした気分で澪が歩き出す。
澪「フフッ。ハイキングなんて、いつ以来だろ」
少し歩くと何者かが話す声が聞こえてきた。
最初は気のせいかと思ったものの、ひどくか細い声だが、確かに聞こえるのだ。
澪は声がする方へと進路を変えた。
草や枝葉をかき分け、奥へ奥へと進むと、大きな蜘蛛の巣が張られているのを見つけた。
声はそこから聞こえる。
澪「んん……?」
粘つく糸で作られた巣には一匹のバッタが引っ掛かっていた。
六本の脚を動かして必死にもがくバッタ。
だが、その頭部は――
澪「な、何だよ、これ……!」
――なんと澪のものだった。
胴も脚も羽もバッタに違いないが、頭だけは人間のものであり、しかもそれが澪本人なのだ。
『助けてっ! 助けてくれえええええ!』
声の主はこのバッタだった。
顔だけが人間のバッタが助けを求めて喚いていた。
澪「こんな…… こんなことって……」
そのうちに木の枝を伝い、巣の端へ蜘蛛がやってきた。
蜘蛛はバッタを見つけ、一目散に近づいていく。
『わぁあああああ! 早くっ! 早く助けてええええええええ!!』
恐怖に駆られた澪は、足元に転がっていたラグビーボールほどの大きさの石を両手で抱えて、
高く振り上げた。
『よせ! やめろぉ! やめ――』
悲鳴は半ばで途切れ、バッタは蜘蛛の巣ごと石に潰された。
澪は身体を震わせて後ずさると、踵を返して駈け出した。
澪「嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘だ!」
走る。ただ一心不乱に走る。
やがて、木々が終わり、開けた場所に出た。
そこにあるのは透明な水をたたえた池。
澪はフラフラと池のほとりまで進み、力尽きたようにへたり込んだ。
全力で走ったせいか、喉は乾き切っていた。
水を飲まなきゃ。そう思い、水面を覗き込む。
澪「……ひいっ!」
水面に映し出されたのは、頭部だけがバッタの自分。
グロテスクな眼でこちらを睨み、大顎を動かして、こう言っている。
『 ヒ ト ゴ ロ シ 』
澪「きゃああああああああああ!!」
甲高い悲鳴を上げて、澪が飛び起きた。
顔も身体も汗でグッショリと濡れている。
起きたばかりだというのに息は乱れ、鼓動は心臓が破れんばかりに速かった。
サイクロプス「どうされました? マスター」
澪「ゆ、夢か……」
目覚めてから、わずかに十五分ほど後。
澪とサイクロプスはキャンプ場を出て、林道をひた走っていた。
目的地などは無く、敵の目から逃れる為、ただ走り続ける。
無表情でハンドルを握る澪。彼女の頭蓋の中では昨日の出来事がグルグルと回り続けている。
追跡してきた超人兵士との戦い。この手で殺した。桜高の生徒を。この手で。
すると、すぐに今朝見た悪夢が甦る。
「人殺し」と罵る化物の自分。
澪「違う。あれは人間じゃない。敵だ。改造人間だ。やらなきゃ、私がやられてたんだ……」
そう声に出して言ってみても、自分が手をかけた、という事実は消えない。それに「自分は
まだ人間だ」という意志を自ら否定することになる。
目をつむり、顔をしかめ、頭を左右に振る。この後悔と罪悪感を振り払いたかった。
だが、今度は代わりに唯の顔が浮かぶ。
大好きな友達だったのに。大切な仲間だったのに。唯が唯じゃなくなって襲いかかってくる。
唯のことも殺さなければいけないのか? 唯のことを殺せるのか?
代わる代わる、次から次へと、血にまみれた自分の手と唯の顔が浮かんでは消えていく。
頭がどうにかなりそうだった。
せめて涙のひとつでも流せれば――
澪「サイクロプス、聞きたいことがあるんだ」
サイクロプス「ハイ。何デショウ、マスター」
気づけば、またがる相棒に話しかけていた。
黙っているよりも気がまぎれるかもしれない。
澪「昨日、唯と戦ったけど…… 正直、私の方がずっと弱いと思う。でも、それはどうして
だろう。唯が言うようにA+とBの力の差なのかな。お前なりに分析してほしいんだ」
戦うことに集中していれば、少しはマシなのだろうか。
そんな思いが、澪に兵士としての自分を追い求めようとさせた。
弱い自分から顔をそむけても、戦う相手は変わらない。それもわかっている。
サイクロプス「了解シマシタ。デスガ、
平沢唯が話した判定の件に関しては、分析材料から除外
シマス。情報のソースが曖昧であり、あまりにも不確定な要素だからデス」
澪「そんなものなのか?」
サイクロプス「ハイ。正確に分析をするのであれば、平沢唯との比較すら不要デス。マスターの
これまでの思考、行動、戦闘履歴だけで充分デス」
澪「そ、そうか。なんか怖いな」
サイクロプス「マズ……―― 例を挙げるならば、実験体の限界性能として『垂直跳び25m』、
または『ウェイトリフティング4000kg』というデータがアリマス。マスターは、
ご自身がこの記録に到達出来ると思イマスカ?」
澪「む、無理に決まってるだろ、そんなの。出来っこないよ」
サイクロプス「ハイ。確かに今のマスターでは無理デショウ。セイゼイ、この半分から三分の一が
いいところデス」
澪「なんかお前、口悪くなってきてないか……?」
サイクロプス「シカシ、それはマスターの肉体的限界ではアリマセン。謂わば“競技のルールを
守っている”状態デス」
澪「競技のルール? 何だよ、それ」
サイクロプス「マスターの身体機能や運動能力、格闘技術は超人兵士となる以前の常識に依る面が
多く見ラレマス。自らが『ここまでしか出来ない』と定めたルールを律義に守り、
有する機能や能力の限界をわざわざ狭めているのデス。そのルールに抵触しそうに
なると『無理に決まっている。出来っこない』と無意識にご自身へ言イ聞カセル。
それが、マスターがご自身を弱いと思われる、最も大きな要因デス」
澪「……」
胸を突き刺すがごとき核心を突く言葉だった。思わず澪は黙り込む。
こうなる以前、普通の女子高生だった頃の体育の成績が頭をよぎったが、事はそんな問題
ではない。
これまでの人生を振り返っても、そういった場面は数多くあったのではないか。
「無理無理! 私には無理だよ!」と涙目で首を振るような場面が。
サイクロプス「ルールなのだから破ることも無視することも出来マス。むしろ『ルールなど無い』と
言った方が正しいかもシレマセン」
澪「……それがお前の言った『自分の強さを知る』ってことなのか」
サイクロプス「ハイ。その第一段階デス」
澪「ルールなんて無い、か…… ありがとう。何となく伝わったよ」
サイクロプス「ドウイタシマシテ」
その返答に、澪は思わず吹き出してしまった。優秀なるマシンも随分とくだけてきたものだ。
澪「それにしてもさ。お前って結構、人間みたいな言い回しが出来るんだな。私の弱さを
競技のルールに例えるとことか。ちょっとびっくりしたよ」
サイクロプス「思考及び表出に関しては、マスターの影響デショウ。私には学習programが搭載
サレテイマス」
澪「じゃあ、これからもどんどん学習していけば、もっと人間に近づける、ってこと?」
サイクロプス「理論上は可能デス」
澪「そっか……」
自然と澪の顔がほころぶ。
何とは無しにだが、サイクロプスへの親しみが増したような気がしていた。
いくら人間的な思考や話し方が出来たとしても、所詮は感情の無いマシンなのかもしれない。
それは嫌と言うほどわかっている。
しかし、すぐそばに少しでも人間味のある相手がいて、何でも話し合えるということは実に
心強かった。
すべてを失った自分に残された、たったひとつ、いや、たった一人の仲間。
走りに走り続けた午前11時頃。
林道を出て、トンネルを抜け、また人の暮らしを感じさせる風景が戻っていた。
小さな田舎町といったところだが、遠目にはショッピングモールが見え、走る道の脇にも
いくつかの店が並んでいる。
文明の匂いに触れた為か、澪を昨日から悩ませている問題がたちまち頭をもたげ始めた。
澪「はぁ…… 喉渇いた…… お腹空いた……」
サイクロプス「深刻なレベルには達してイマセンガ、現在のマスターは栄養不良状態デス。また、
水分も不足シテイマス」
澪「昨日、研究所を逃げ出してからずっと飲まず食わずだからな……」
口からは溜息、腹からはか細い音が漏れ続ける。
そのうち、少し前方に小さな看板が見えた。
看板には読みやすい書体で『定食屋アミーゴ』と書かれている。
澪「食堂か。お水一杯だけでも…… サイクロプス、ちょっと停めて」
サイクロプス「ハイ、マスター」
店の前にサイクロプスが停車した。
車通りはほとんど無い。わずかな時間ならば駐車していても大丈夫なように見える。
澪「ここで待っててくれ。お水飲ませてもらってくるから」
サイクロプス「了解シマシタ」
一応、周囲に目を配ってから、食堂の引き戸をガラリと開ける。
店主「らっしゃーい」
店内はいかにも一般的な大衆食堂といった装いだった。少し古めかしい、と付け加えても
いいかもしれない。
古びたテレビ。雑誌や漫画が差された本棚。四つほどのテーブル席。
カウンター席の向こう側にある厨房では、店主と思しき老齢の男性が洗い物をしていた。
客はテーブル席に若い男性が一人だけである。
澪はカウンター席に近づくと、店主に向かってオドオドと話しかけた。
澪「あの…… お、お水を一杯頂けますか……?」
店主はチラリと澪へ目を遣ると、カウンター端の水差しとコップを指し、事も無げに言った。
店主「水かい? 水ならそこだよ。好きなだけ飲みな」
澪「あ、ありがとうございます……」
嫌な顔ひとつされないというのも、かえって恐縮してしまうものだ。
礼を言い、身体を小さくしながら、コップへ水を注ぐ澪。
そうしている間に、たった一人いた客も、箸を置いて立ち上がった。
客「ごちそうさーん。お金、ここ置いとくよ。おやっさん」
店主「へーい、毎度ぉ」
明るい声を返すと、店主は手を拭き、再び澪の方へと目を遣った。
澪は立ったまま、一息にコップの水を飲み干しているところだ。
店主は少し笑って、澪に話しかけた。
店主「水くらい座ってゆっくり飲んだらどうだい」
澪「あ…… は、はい。じゃあ、もう一杯……」
ペコペコと頭を下げ、澪がテーブル席に座る。
そんな澪をチラチラと見遣りつつも、店主は冷蔵庫から材料を出し、調理に取りかかった。
帽子から覗く髪は真っ白で、顔にも長い人生を表すしわがいくつも刻まれているが、実に
手際良く、流れるように調理を進めていく。
澪は水を口に運びながらも、しばし店主の手元を眺め続けていた。
店主「嬢ちゃん、学校はどうしたんだ? 見たとこ、まだ高校生くらいだろ」
不意に店主が話しかけた。
彼の手元を眺めていた澪は、彼の顔へ視線を移し、すぐに目をそらしてしまった。
だが、せっかく親切に接してもらっているのだ。きちんと答えなければ、と思い直す。
澪「えっ……? あっ、あの、その…… が、学校は行ってないんです。行けなくなった
んです……」
店主「行けなくなった、か…… その上、そんなボロボロの身なりで、今日び水一杯に
困ってるとは穏やかじゃないな」
澪「……」
澪が黙り込んでしまうと、店主は調理の終わった品々を盆の上に乗せ、厨房からこちらへ
やってきた。
店主「食べな」
澪「ええっ!? で、でも……!」
店主「色々詮索しちまってすまなかったな。ワシにもあんたと同じくらいの歳の孫がいる
もんで、ついね…… これはワシの気持ちだ」
澪「あの…… ありがとうございます、おじさん。いただきます」
飯と味噌汁、それに二皿のおかず。
よくある定食ではあるが、澪の目にはこれまで見たことも無いご馳走に映っていた。
澪は両手を合わせて頭を下げると、行儀が悪く見えない程度に急いで箸を取り、料理を口に
運び始めた。
澪「この野沢菜、おいしい……」
店主は煙草に火をつけ、眉尻を下げて澪が食べる様子を見守っていた。
店主「嬢ちゃんに何があったかはわからないし、聞くつもりもないが……」
澪から少し離れたカウンター席に腰を下ろし、灰皿を引き寄せる。
店主「人間、生きていりゃ色々ある。楽しいことばかりじゃない。辛い時や苦しい時だって
ある。そんな時は……――」
言葉を切り、白い帽子を外すと、店主は煙草を持つ手で額の端を掻いた。
また帽子をかぶり直し、煙草を一吸い。
それは少し照れ臭そうな様子にも見える。
店主「――メシを食えばいい。腹ん中が空っぽじゃ気分だって落ち込んじまう。メシを
食って、あとは…… 笑うことだ」
澪「笑う……?」
店主「そうさ。腹がいっぱいになりゃ笑える。笑えば少しは気分も楽になる。そうすりゃ
いくらか物事を前向きに考えられるだろう」
澪「……はい」
知らず知らずのうちに澪の顔には笑顔が浮かんでいた。
自分を捨てた、この世界。
誰とも繋がりを断たれたこの世界で、まさかこんな暖かみに出会えるとは。
普段の澪であればここで感極まるというところなのだろうが、悔しくも涙は出ない。
それでも、涙の代わりに、心に溢れてくるものは確かにあったのだ。
店主「うん。いい笑顔だ」
負けないくらいの笑顔で店主が二度、三度とうなずいた、その時――
アナウンサー『番組の途中ですが、ここで臨時ニュースをお知らせ致します』
画質の悪いブラウン管の中で、アナウンサーが切迫した声を発し始めた。
アナウンサー『たった今、入った情報です。私立桜が丘女子高等学校で立てこもり事件が発生した
模様です。現場の方はどうなっているでしょうか?』
リポーター『はい、こちら現場です。本日10時頃、ここ桜が丘女子高校に不審者が侵入し、教室に
立てこもっているという状況です。現在確認出来ているだけでも、これまで二名の
教師が犠牲となっており――』
澪「な、何だと!? まさか……!」
澪が箸を取り落として立ち上がる。
それとほぼ同時に、店主が血相を変えてテレビへ駆け寄った。
店主「桜が丘!? 孫が通ってる高校じゃないか!」
澪「ええっ!?」
店主「なんてこった……」
力無く両膝を床に突き、顔を歪める店主。
テレビからはリポーターの状況を伝える声が流れてくる。
リポーター『あっ! ご覧ください! 犯人が窓から顔を出しています! 犯人は女性です!』
校舎二階の窓から黒いライダースーツに身を包んだ女が顔を覗かせ、テレビカメラの方へ
向かってにこやかに手を振っていた。
それは、やはり唯だった。
唯『澪ちゃーん!! 早くおいでよ!! 待ってるよー!!』
とんでもない大声である。
マイクを通していないのに、一言一句も漏らさずはっきりと澪の耳へ届けられたほどに。
唯『早く来ないとみんな死んじゃうよー!? あははははは!! あははははははは!!』
澪「唯…… 唯ぃいいい……!」
身体をワナワナと震わせ、澪が怒りを露わにする。
今の澪が最も許せない行為を平然とやってのける唯への怒りだ。
加えて、自分への怒り。こうなることが防げなかった愚かな自分への怒り。
昨日の戦いの恨みを抱く唯ならば、まず自分に対する報復を優先するだろうと思っていた。
桜高の生徒は後回しにするだろうとたかをくくっていたのだ。
抑え切れぬ感情の瀑布は、澪の顔を醜く蠢かせる。
澪は店主に背中を向け、言った。
澪「お、おじさん…… 私、ご飯の代金は払えないけど…… でも……」
早くも顔面の半分以上が異形のものへと変貌している。
もう店主の方を向いて話すことは出来ない。
だが、これだけは言っておかなくては。
澪「おじさんのお孫さんは私が助ける! 絶対に!!」
店主「お、おい、嬢ちゃん……」
澪「ありがとう! ごちそうさま!」
背中で礼を言い、澪は店を飛び出る。
すでにサイクロプスのエンジンはかかっていた。
急いでトランクからバッタの仮面を取り出し、醜い顔を覆い隠すようにかぶる。
サイクロプス「平沢唯が私立桜が丘女子高等学校に出現シマシタ」
澪「わかってる! 行くぞ!」
サイクロプス「目的地への最適経路はすでに検索済みデス。発進シマス」
澪がシートにまたがると、サイクロプスは一度前輪をウィリーさせ、凄まじいスピードで
走り出した。
サイクロプス「警察無線及びマスコミのテレビカメラ、携帯電話からの情報を傍受、分析した結果、
平沢唯の現在位置は3年2組の教室と判明シマシタ」
澪「やっぱりな……! みんなは無事なのか!?」
サイクロプス「現在までの情報では生徒に犠牲者は出てイマセンガ、詳細は不明デス」
澪「先生は!? テレビでは『教師が二名犠牲に』って言ってたぞ!」
猛スピードで他の車両を追い抜いていく中、苛立つ澪がサイクロプスに食ってかかる。
サイクロプス「少々お待ちを。殺害された教職員の氏名は――」
続いてスピーカーから発せられた二つの名前は、どちらも澪の学年を受け持つ教師のもの
ではなかった。
澪は複雑な思いで胸を撫で下ろす。
澪「そうか、よかった…… さわ子先生は無事か……」
サイクロプス「シカシ、マスター。同校の教職員はすべてショッカー・エンタープライズの構成員
デス。
山中さわ子もマスターにとっては敵対関係にある者デスガ」
澪「それでも…… それでも、さわ子先生には死んでほしくないんだ」
サイクロプス「山中さわ子は恩師として深い繋がりがあった為、敵対関係となった現在でも憎悪を
向けることは困難であり、矛盾した精神状況にある、という認識で正しいデスカ?」
澪「そうだ。その通りだよ。だいぶ学習出来たな」
サイクロプス「ドウモ。シカシ、酷似したケースである平沢唯に関してはどう対処サレマスカ?」
質問には答えず、澪は前方を見据えた。
桜高からはだいぶ遠ざかってしまった。サイクロプスのスピードと運転技術を以てしても、
あとどれだけかかるのか。
澪「……急げ、サイクロプス」
サイクロプス「了解シマシタ」
臨時ニュースによる第一報から数時間後。
夕日に赤く染め上げられた桜が丘女子高等学校の校舎。
その敷地内には警察官と警察車両が展開され、校門から外側にはマスコミと野次馬で人垣が
出来ている。
そして、物々しく騒々しいとは正反対に、3年2組の教室内は沈黙と静寂に支配されていた。
いや、よく聞けば、すすり泣く声とうめき声が聞こえる。
すすり泣く声は人質として教室に閉じ込められた生徒達のものである。
では、うめき声は――
唯「およ? まだ生きてる人がいたんだ。しぶといなぁ」
腰に手を当てた唯の足元には、血にまみれた機動隊員が倒れていた。口からはうめき声が
漏れているも、動きはほとんど見られない。
倒れている機動隊員は彼だけではなかった。他にも六人。いずれも手足がおかしな方向に
曲がったり、頭や胴が潰れたりして、事切れている。
夕日に負けぬほどの赤さが教室内の床や壁、果ては数人の生徒を染め上げていた。
唯「さーてと、お掃除お掃除」
そう言うと、唯は機動隊員の死体をひとつ片手で掴み上げ、まるで紙屑を投げ捨てるように
窓の方へ放り投げた。
次から次へと、リズミカルに死体が宙に舞い、階下へ落ちていく。
機動隊員「う…… うう…… た、助けて……」
唯「あ、そうだ。この人、生きてたんだ。んー…… まあ、いいや。ぽいっちょ」
おそらく生徒達を救うべく突入してきたのであろう機動隊員は、全員窓からご退散という
形になってしまった。
ご機嫌な笑顔でポンポンと手を打つ唯。
それとは対照的に、教室の黒板側で固まって座っている生徒達の顔には、恐怖と不安の色が
ありありと浮かんでいた。
ある者は顔を塞いですすり泣き、ある者は唯と目を合わせないよう顔を伏せている。
やがて、唯は何の気無しに生徒達の方へ視線を移した。
見ているのは律や紬、和が固まっている辺りだ。
唯「……」
律「何見てんだよ。ビビらせてるつもりか? お前なんか怖くも何ともないぞ」
要らぬ強がりと言うべきか。律はあらん限りの勇気を振り絞って、唯を睨み返した。
和「律! 相手を刺激しちゃダメ!」
ゆっくりと律の方へ、唯が歩き始めた。
紬と和以外の生徒達が、一斉に律から離れる。
唯「りっちゃん、本当に忘れちゃったんだね……」
唯は律の目の前に立つと、すかさず片手で彼女の喉を掴み、その身体を吊り上げた。
律「うぐぅ!」
ジタバタと動く律の両足が、床から数十cm上へと離れていった。
唯「よかった。実験体候補って言っても友達を殺すのはちょっとやだもんね」
喉を掴む手に力が込められていく。ジワリ、ジワリと。
唯「友達じゃなくなっててホントによかった」
律「がっ…… かはっ……」
宙を掻くような両脚の動きが次第に弱まっていく。意識も混濁してきたのか、律の目は徐々に
虚ろなものへと変わっていった。
すると、少し離れた場所に座っていた
立花姫子が突然立ち上がり、転がっている椅子を手に
取ると唯の背後へ駆け寄った。
姫子「このォ!」
手にした椅子で彼女の背中を力いっぱい殴りつける。
律の窮地を見ていられなくなった末の行動なのだろうが、悲しいことに唯の方はまったく
ダメージを受けておらず、ひるむ様子すら見られない。
姫子はより一層の力を込めて椅子を握り直し、何度も何度も唯を殴りつけた。
散々頭部や背中を打たれた後、ようやく唯が後方へ振り返る。
唯「ん?」
姫子「律を離せ! 私が相手だ!」
手にした椅子を前へ掲げて構えるも、恐怖で膝がガクガクと震えている。
それでも一歩も引かない姫子の瞳に、唯は憎き待ち人と同じ光を見た。
唯「姫子ちゃん……」
無造作に律の身体が投げ捨てられ、床を転がった。
律「げほっ! ごほっ!」
すぐに紬と和が律のもとへ寄り添う。かろうじて意識を保たれているようだ。
唯はもう三人に関心を示さず、首をかしげて姫子を見つめている。
唯「愛してるねー。彼氏みたーい。お幸せにー」
まるで印刷された文章を棒読みするような、感情も抑揚も無い言葉。
何の感慨も無く、目の前の人物と記憶に残っている言葉を繋ぎ合わせただけだ。
しばらくそのまま右へ左へ首をかしげつつ考え込む。
ひとしきり考えた後、唯は口をとがらせたふくれっ面で呟いた。
唯「やっぱりわかんないや。澪ちゃんの気持ちなんて」
おもむろに姫子へ手を伸ばす唯。
対する姫子は恐怖に顔をひきつらせながら身体を固くした。
和「やめなさい! これ以上、みんなに手出ししないで!」
そう叫んで唯にしがみついたのは和だった。
力を込めて唯を姫子から遠ざけようとするがビクともしない。腕力云々の問題ではなく、
とんでもない重さを持った物体か、床に根を下ろした大木を相手にしているようだ。
唯「さすが生徒会長だね。和ちゃん」
和へ微笑みかけると、唯はいとも簡単に彼女を引きはがし、姫子に向かってその身体を
投げつけた。
和「きゃあ!」
姫子「うぐっ!」
二人とも短い悲鳴を上げ、床に倒れた。
失神こそしていないものの、すぐに起き上がれるような状態ではない。
唯「はぁ…… 澪ちゃんも来ないし、もうこのクラスから片付けちゃおっかなぁ」
和と姫子を見下ろし、退屈そうな溜息を漏らした次の瞬間、ある音が唯の耳に届いた。
それは大型バイク特有の重々しいエンジン音。かなりのスピードで近づいてくるのがわかる。
唯は歓喜の声を上げながら、急いで窓へと駆け寄った。
唯「来た! 来た来た! 来た来た来た!!」
唯が飛び降りんばかりの勢いで窓から身を乗り出したのと、ほぼ同じタイミング。
猛スピードで桜高へ近づいていた白の大型バイクが高々と跳び上がり、報道陣や野次馬の
はるか頭上を越えて、敷地内に着地した。
車体を旋回させて、タイヤの跡を地面に刻み、バイクが停車する。
またがっているのは、奇妙な格好に身を包んだ女性と思しき人物。
深緑のライダースーツ、バッタを模した仮面、そしてそこからなびく長い黒髪。
唯「澪ちゃん、やっと来たね」
笑みを浮かべ、
秋山澪を見下ろす平沢唯。
表情は仮面で隠し、平沢唯を見上げる秋山澪。
澪「唯……!」
周囲にいる警官や機動隊員は、この正体不明の闖入者を遠巻きに囲んでいるだけだった。
異様な風貌と、得体の知れない迫力。これまで見たことも無い形状のバイク。
さらに、少し前、不用意な突入で人員と人命を失ったばかりだ。
制圧に二の足を踏むのも無理は無い。
距離を縮めること無く警戒するだけの警察に対し、澪は顔だけをそちらへ向けて言った。
澪「私は立てこもり犯から生徒を開放する為に来ました。生徒やあなた達に危害を加える
つもりはありません」
そして、校舎の方へ向き直り、こう付け加えた。
澪「手助けは必要ありませんが、邪魔もしないでください」
ゆっくりと校舎の方へ歩みを進める。それと共に包囲の輪も縮まるが、澪は気にしない。
3年2組に当たる教室の窓際には誰の姿も見えなかった。
どうやら唯は教室の中へ引っ込んだようだ。
唯が待っている。私達の教室で。私を待っている。
今、行くぞ。
逸る澪の背中にサイクロプスが声をかける。
サイクロプス「マスター、お気をツケテ」
澪「うん。ありがとう」
足を止め、わずかにサイクロプスの方を向き、また教室の窓を見上げる。
澪「ルールなんて無い……」
誰にも聞こえぬ声でポツリと呟くと、澪は両膝を曲げ、背中を丸くし、しゃがみ込むように
身を縮めた。
大腿にもふくらはぎにも強い緊張が走り、澪の両脚は見る見るうちに太さを増していく。
それは、まるでバッタの――
澪「うおおおおおおおお!!」
異形の両脚が大地を蹴り、澪は宙空高く飛び上がった。
一瞬にして3年2組の窓まで到達し、その勢いのまま、中へ飛び込む。
跳躍前と同じ姿勢で教室の床に着地する澪。
真正面には、腰に手を当てて胸を張る唯が傲然と立っていた。
澪もまたすっくと立ち上がる。
唯「お帰り、澪ちゃん。会いたかったよ」
対峙する二人の改造人間。
同じクラス、同じ部活、同じ時期、同じ改造。
表裏とも言うべき存在が、始まりの場所であるこの学校を、戦斗決斗が終わる場とするのだ。
澪「言ったはずだ。みんなに手を出したら許さない、って」
唯「私も言ったよね。実験体候補は全部片付ける、って」
澪が目の端で周囲を窺った。
皆が突如現れた第二の不審者を恐怖の眼差しで見つめていた。
教室中に机や椅子、生徒達の持ち物が散乱している。
さらに、血が床どころか壁や天井にも飛び散っているものの、それが隅で震える生徒達から
流れた様子は無い。
しかし、澪は見つけてしまった。
身を寄せ合った生徒達の中、首を真っ赤に変色させた律が紬に介抱されている。和と姫子も
似たような姿である。
澪「律を傷つけたな…… 和と姫子も…… 私の友達だぞ……!」
唯「ショッカーに作られた、でしょ?」
怒りが生み出す灼熱の炎が、澪の心を燃やしていく。
唯との出会いを。楽しかったティータイムを。夏の合宿を。修学旅行を。学園祭ライブを。
それと、五体を縛るルールブックを。
燃える。燃える。みんな、燃えていく。
澪「……大きな、間違いだ!」
唯「来なよ。失敗作」
両の拳を握り締め、身体を震わす澪。
不敵な笑みを浮かべ、指先で手招く唯。
捻じれ歪んで止まった二人の時間が、この教室で再び流れ出した。
[続]
最終更新:2015年04月16日 08:13