最終話【さらば青春の光】


むせ返るような血の臭いと殺気が充満する3年2組の教室。
澪と唯。お互いを隔てる距離はわずかに4mほど。
やがて、二人はどちらからとも無くファイティングポーズを取った。
澪は右手を前に出した、やや半身のサウスポースタイル。
唯は両腕を低く構え、軽やかなステップを踏んでいる。
ベタ足とフットワークの違いこそあれど、両者共に少しずつ間合いを縮めていた。
どちらかと言えば、澪の方がより大胆に距離を詰めている感がある。

澪「みんな! 早く逃げろ! 今なら大丈夫だ!」

構えを崩さず、相手から目を離さず、澪が大声を上げたのは、二人の距離が2mも無いほどに
狭まった時だった。
最初はどの生徒も、呆気にとられたような顔か、そうでなければ恐怖と懐疑に満ちた顔で
二人を見ていた。
だが、比較的、気を強く持っていた中島信代や近田春子が「逃げるよ!」と声を上げると、
皆が先を争って教室のドアへ殺到し始めた。

唯「……」

澪「……」

悲鳴と足音が入り混じる中、二人は声も無く睨み合っていた。
澪は、少しでも唯が隙を見せれば、拳を打ち込むつもりでいた。その殺気を察知しているで
あろう唯は、逃げ惑う生徒達に襲いかかる様子も無く、ステップを踏み続けている。
また、視線ひとつそらせないのは、澪も同様だった。律や紬、和が無事に逃げ出すところを
確認したい気持ちはあったが、結局は全員が逃げ去り、静寂が戻ってくるまで、対峙した
ままの姿勢から1mmも動くことは出来なかった。

唯「あーあ、みんな逃げちゃった。めんどくさいなぁ。もう」

澪「……この方が思う存分戦えるだろ」

唯「またまた強がり言っちゃってー。私が思う存分戦ったら、澪ちゃんすぐに死んじゃう
  じゃん」

澪「……」

澪はもう答えない。すでに唯の蹴りの間合いだからだ。
そして、唯のステップが止まった。顔貌は一瞬にして異形のものへと形を変える。

唯「いくよ?」

澪「……!」

ノーモーションでの右の超高速前蹴り、と見せかけて唯が放ったのは、膝で変化するハイ
キック。
澪は背中を反らせ、ギリギリでこれをかわす。
ハイキックの勢いのまま身体を回転させ、今度は左上段後ろ回し蹴りを放つ唯。
これも澪は頭を沈めてかわした。
唯の回転は止まらず、さらに右のミドルキック。
澪は腰を落とし、唯の右脚を両手でしっかと受け止める。

澪「くっ……!」

唯が残る左足で床を蹴って、跳び上がった。後方宙返りだ。

唯「よっ!」

蹴り上げられた唯の左のつま先が、澪の顎を目がけて襲いかかる。しかし、澪はすれすれで
頭を引き、唯のつま先は空を切った。
それでも唯は止まらない。間髪入れず、後方宙返りからの正面ドロップキックを放つ。
ロケット砲のような両足が澪の胸元に打ち込まれるも、彼女は寸前で両腕のガードを固め、
しっかりと蹴り足を防いだ。

澪「ふんっ!」

唯「ほっ!」

二、三歩後ろへよろめいたが、すぐに体勢を整える澪。
床に背中から着地したが、瞬時にヘッドスプリングで跳ね起きる唯。
まったくの同時である。
両者共に構えは崩さず、隙はまったく見せていない。

唯「へえ、何だか強くなったんじゃない? 澪ちゃん」

澪「お前とサイクロプスのおかげだよ」

そう答えつつも、澪は一気に間合いを詰める。

澪「今度はこっちの番だ!」

澪の閃光のごとき右ジャブ。唯はそれを平手で難無く弾いた。
さらに澪の右ジャブが一発、二発、三発。唯のパーリングによってすべて弾かれる。
三発目が弾かれた直後、澪は電光石火の左ストレートをくり出した。
だが、唯はそれに合わせて深々と前傾姿勢となり、澪の拳は空を切る。
と、同時に、唯の左足がまるでサソリの尾のごとき軌道を描いて、カウンター気味に澪の
顔面を襲った。

澪「うあっ!」

顔面を打たれた澪はややよろめくも前進を止めない。大振りな左フックを放つ。
唯は少し背を反らすだけで苦も無くかわしたが、今度は澪が唯のお株を奪うように身体を
旋回させ、回転式の右裏拳を放った。
しかし、唯はタイミングを合わせて自らも身体を回転させ、裏拳を避けつつ、左上段後ろ
回し蹴りを澪の側頭部に叩き込んだ。

澪「ぐうっ!」

ふらつき、後ろへ数歩下がる澪。二回続けての頭部へのカウンター攻撃。どちらもまともに
食らってしまっている。
意識が身体から離れかけているところを、唯が見逃す訳も無い。素早い右足刀を澪の顔面に
打ち込み、さらに後退させる。
開け放たれたままのドアから廊下へ、澪がフラフラと下がっていく。
が、その動きが急に止まった。いや、止められた、と言う方が正しい。

澪「!?」

唯が右足の甲を澪の後頭部に引っかけることで、それ以上の後退を許さなかったのだ。

唯「ほっ!」

唯は、その場で跳び上がり、ドアの上枠に掴まってぶら下がった。そして、右足の固定を
外さないまま、左足で踏みつけるように澪の胸へ蹴りを入れた。

唯「えいっ! えいっ! えいっ! えいっ! えいっ!」

蹴る蹴る蹴る蹴る蹴る。
どういう力の具合なのか、澪は逃げることも出来ずに胸を蹴られ続ける。

唯「えいやっ!」

唯は右足の固定を外し、ダメ押しとばかりに同じ右足で澪の横っ面を蹴り飛ばした。

澪「ぐあっ!」

短い悲鳴を上げて、澪が吹き飛び、廊下に倒れ、転がる。
唯は上枠から手を離し、床に降りた。そこから間を置かずに床を蹴る。見せた動作は滞空
時間の長い側方宙返り。
無論、ただの側宙ではない。遠心力と落下のエネルギーを以て澪を踏みつける為だ。

澪「うわあっ!」

寸でのところで踏みつけをかわした澪は、そのまま廊下を校舎中央の階段近くまで転がり、
唯と距離を取った。
ひどく泥臭い無様な動きではあったが、唯が勢いづくこの流れを一旦切らなければならない。
上体を起こし、片手片膝を突いて、澪が肩で大きく息をする。
唯は追撃する様子も無く、余裕の笑顔でリズム良くステップを踏んでいた。

澪(やっぱり、唯には敵わないのか…… 差はほとんど無くなったと思ってたのに……)

怒りに火がつき、精神を解き放ち、澪はようやく唯と同じステージに立てたと思っていた。
現に、昨日まではかわすことも出来ず、打たれるがままだった唯の攻撃がだいぶ見えていた
はずだ。ダメージもずっと少ない。
それなのに、やはり自分は地を這い、唯は余裕綽々で自分を見下ろしている。
どうしてだ。何故なんだ。何が足りないんだ。
湧き上がる悔しさと疑問は、戦いの最中であるにも関わらず、澪の目を下げさせてしまった。

澪(……ん?)

ふと、気づいた。
廊下に突いた手の少し先。
水色のパスケースが開きっ放しで落ちている。
よく見れば一枚の写真が入っており、そこでは真鍋和、高橋風子、桜井夏香、佐久間英子の
四人が満面の笑顔をこちらへ向けていた。
背景から場面は修学旅行ということがわかる。おそらく、この四人のうちの誰かが逃げる
際に落としていったのだろう。

澪(みんな、笑ってる…… この頃はみんなで楽しくて……)

思わずこの場にふさわしくない感傷が澪の脳裏をよぎったが、次の瞬間、唐突にある言葉が
記憶の渦から浮き上がってきた。

『笑うことだ』

それは、食事を提供してくれた老齢の店主がかけてくれた言葉。
必ず孫娘を救うと約束した、あの店主だ。

『笑えば少しは気分も楽になる。そうすりゃいくらか物事を前向きに考えられるだろう』

澪「笑う…… 笑えば……」

笑うと言っても、仮面の下の昆虫と化した異形の顔では、口角を上げることは無理だ。
そもそも口唇ではなく、大顎に変わっているのだから。
それでも、澪は笑いを声に出してみた。

澪「フフッ……」

身体から力が抜けたような、肩が軽くなったような、そんな気がする。
また、唯への怒りや力及ばぬ悔しさ、己の強さへの疑問で沸き立つ心も一緒に、少し軽く
なっていく気がした。

澪「ははっ……」

ゆっくりと立ち上がる。
痛みは確かにあった。疲労も。しかし、それらとは別に“立ち上がろうという気持ち”が、
身体のどこかから湧いてくる。
立ち上がる力、ではない。立ち上がろうという気持ち。
顔を上げて、背中を伸ばす。
目の前には唯がいた。フットワークを止めて、怪訝そうに澪を見つめている。
その唯も、先程までとは違って見える。いや、唯だけではない。校内の風景もどこか違う。
視界が広がり、世界が明るくなった。

澪「なんだ…… 私の身体、ガチガチだったんじゃないか。フフフッ、あははっ」

唯「な、なんで笑ってるの? ついにおかしくなっちゃった?」

確かに不気味ではある。劣勢は明らかなのに、笑い声を上げて立ち上がったのだから。
唯が即座に攻撃へ移れないのも無理は無い。
唯の問い掛けに、澪はまるで“友達”のように返す。

澪「気にするな。楽しくやろう」

多分に明るく軽い声。
その返答は、唯を苛立たせるには充分だった。

唯「楽しく……? 随分と余裕だねっ!」

猛烈な勢いで澪へと飛びかかる唯。右足が高く上がり、不規則かつ俊敏に動いた。
唯お得意の膝を支点にした連続蹴りだ。
次々と襲い来る蹴撃。澪はそれをスウェーバックとバックステップで軽やかに避ける。
どの蹴りも決して澪には当たっていない。と言うよりも、蹴り足が澪に届いていない。
澪は、避けるのでもかわすのでもなく、「逃げている」のだ。「相手にしていない」と言い
換えてもよい。
バックステップを駆使して、巧みに蹴りの届かない間合いを保ち続けている。
逃げに専念したフットワークと、足首の運動だけで行うすり足や跳躍。どっちが早いかは
子供でもわかるだろう。
積極的に戦う意志が無いとも取れる澪の戦法に、唯の苛立ちは増していく。

唯「んもー! ちょこまか逃げないでよ!」

澪「その蹴り技をやめて普通に戦えばいいだろ。馬鹿だな」

挑発を飛ばした澪はさらにバックステップを加速させ、3年3組、4組を通り過ぎていく。

唯「きぃいいいいいいいい! 澪ちゃんのくせにー!」

ついに唯は怒りを爆発させた。右足を下ろし、走るように澪へと迫る。
澪は3年5組のドアの前で足を止めていた。そして、唯が追いつくと同時に、ゆっくりと
後退して、教室の中に入っていく。

唯「このぉ!」

蹴り殺さんばかりの激怒を乗せて、唯がハイキックを放とうとする。
しかし、蹴り足がすぐにドアの横枠にぶつかり、それ以上は上げることが出来なかった。

唯「しまっ――」

罠にかかった獲物を見逃すほど、今の澪はお人好しではない。瞬時に突進し、隙だらけの
唯の顔面に左ストレートを打ち込む。

唯「ぶっ!」

足をもつれさせ、大きく後退する唯。澪の渾身の拳をまともに顔面へ食らったのだから、それも当然だ。
澪も追いかけ、距離を詰め続ける。蹴りの間合いにはさせないつもりである。
両者は再び廊下へと戦いの場を移した。

澪「いくぞ!」

澪が放ったのは高速の右ジャブ。唯が慌てて弾き落とす。
もう一度、澪の右ジャブ、ではない。肩と上腕の動きだけのフェイントだ。
そのフェイントからの左ストレート、でもなかった。左へ大きく軌道を反らし、唯の顔の
横で手のひらがパッと開いた。

唯「えっ!?」

唯の超人的視力は反射的にそちらを追ってしまった。
その刹那、澪の右拳が裏拳気味に唯の顔面を打った。

唯「ぐうっ!」

さらに澪は再度、右肩のフェイント、左手のひらのフェイントを連続で繰り出した。
やはり唯は目で追ってしまい、またも澪の右裏拳が炸裂する。

唯「うぐっ!」

そして、澪が次に放ったのは右のジャブ。何の変哲も無い右ジャブである。
だが、唯はこれを対処出来ず、顔面を打たれた。二重のフェイントに惑わされ続けた結果だ。

澪「はあっ!」

そこから澪の大振りな右フック。これすらも唯はまともに食らってしまう。虚実入り乱れた
拳の連撃に、思考の防衛機構が恐慌状態となっているのだ。

ついに唯は床に片膝を突き、ダウンを喫した。

唯「ど、ど、どうして…… どうして私が、澪ちゃんなんかに……」

唯の異形の顔はそこかしこが切れ、裂けて、血がしたたり落ちている。
徒手格闘によって負わされる傷。駆け巡る痛み。流れ落ちる血。
唯一無二の超人を自負する唯にとって、これ以上は無い屈辱だった。
しかも、それを与えたのは目の前に立ちはだかる澪。失敗作と揶揄してきた澪だ。
ひざまずく唯に対し、勢い澪は見下ろすような目線となる。唯にはそれが我慢ならなかった。

唯「うわああああああああ!」

焦りか。苛立ちか。それとも恐怖か。
叫びながら立ち上がると、唯はひどく大きなモーションで右のハイキックを放とうとした。
しかし、澪は素早く唯の右内腿を蹴りつけ、脚を上げさせない。

澪(雑だ……)

唯「こっ、このぉ!」

今度は左の前蹴りを放つ唯。
澪は唯の伸び切った左脚の膝裏を、いとも簡単につま先で蹴り上げる。

唯「痛ぁい!」

澪(私もこうだったんだな……)

唯「うううううううう!」

泣きべそのような声を上げる唯は、ふらつきながらも高々と跳躍し、身体を旋回させた。
アクロバティックな飛び後ろ回し蹴りである。
だが、動作が大きすぎる。
澪はただ頭を下げるだけで、襲い来る蹴りを難無くかわすと、空中にいる唯の鳩尾へ強烈な
カウンターの拳を叩き込んだ。

唯「ぐええっ!」

唯はうめき混じりの悲鳴を上げて吹き飛び、廊下奥の資料室の方まで転がっていく。
うつ伏せに倒れたまま、起き上がることが出来ずにいる。

唯「うぐっ…… こんな、こんなことって……」

苦悶の表情で倒れ伏す唯のもとへ、澪が歩みを進める。

澪「唯、もうよせ。お前は今の私に勝てないよ。たぶん、いや、絶対に……」

唯「……!」

その言葉が唯の顔を上げさせた。唯は身体を震わせて澪を睨みつけると、駄々っ子のように
両の拳を何度も床に叩きつけた。何度も何度も。

唯「私は…… 私は世界で一人だけの超人なの! 私が負けるワケないんだからぁ!!」

幾度と無く振り下ろされる拳。木製の床が音を立てて割れ、木片が辺りに散らばる。
澪は、唯の振る舞いに憐れみを禁じ得なかった。
倒すと覚悟を決めた敵とはいえ、絶対的な敗北を突きつけられ、それを受け入れられずに
いるその姿は、まるで泣いている子供そのものだ。
こんな唯をどうしたらいいのか。そんな考えが澪の頭に湧いた、その時である。

紬「りっちゃん、ダメよ! 危険すぎるわ!」

律「確かめなきゃいけないことがあるんだ! ムギは先に逃げてろ!」

背後から、とうの昔に逃げ去ったはずの、親友達の声が聞こえてきた。
振り向けば、階段付近にこちらへ向かおうとする律と、それを必死に押し止める紬の姿が
あった。
軽率すぎる。無茶すぎる。澪は怒りさえ覚えた。

澪「馬鹿ぁ! こっちへ来るな!」

二人の方を向き、怒鳴り声をあげたのと、まったく同時。
うずくまっていた唯が素早く立ち上がり、背後から澪に襲いかかった。
唯の腕が澪の首へ巻きつき、気管と頸動脈を力いっぱい絞め上げる。

唯「あははははははは! スキありだよ! 澪ちゃん!」

澪「がっ……! はぁ……!」

抵抗空しく、唯の腕は完全に澪の顎の下、喉に喰い込んでいく。掴もうと殴ろうとまったく
力は緩まない。
心配げな律と紬の顔が見えたのも束の間、澪はすぐに前のめりに崩れ落ち、膝を突いた。
それでも澪は必死に二人の方へ手を振り、「逃げろ」と促す。
唯は腕にさらなる力を入れ、勝ち誇る。

唯「あははっ。澪ちゃんらしい、カッコ悪い負け方だね。やっぱり私の方が強かったんだ。
  私がA+の超人兵士なんだ!」

澪「……っ」

徐々に動きが止まりつつある澪。
そんな彼女の耳元に顔を寄せ、唯が囁いた。

唯「死んじゃえ。中途半端な失敗作。超人になり切れなかった、化物」

澪「わ、私は……――」

意識さえも危ういかと思われた澪が、突如、己の首を絞め上げる唯の腕を両手で掴んだ。
引き剥がそうとは考えていない。逃さない為に掴んだのだ。
そうしている間にも、澪の両脚の筋肉は緊張を高め、バッタの脚のごとき変貌を遂げていく。
先程、外から教室へ飛び込んだ時と同じ。いや、それ以上。

澪「――人間だァ!!」

魂の叫びと共に、全精力を込めた力で床を蹴ると、澪は唯を背負ったままミサイルのごとく、
凄まじい速度で上方へ飛び上がった。
二人の身体は天井を突き破り、幾重にも組み立てられた木材を破壊していく。
やがて、大小様々な破片を間欠泉のように撒き散らして二人が屋上へ突き抜け、飛び出した。
澪も唯も屋上に身体を投げ出されたが、ダメージを一身に背負ってしまったのは、澪に
おぶさる形を取っていた唯の方だ。

唯「くっ…… なんてこと、するの……」

頭部や背中の痛みに悶えながら、よろよろと立ち上がる唯。
一方の澪はといえば、先んじて立ち上がり、唯に向かって駈け出すところだった。
いまだ背中を向けている唯へと疾走しながら、澪は左の拳を強く強く握り締めた。
拳にすべてを込める。
持てる力も、怒りも、思い出も。一切合切。何もかも。

すべてを――

澪「唯ぃいいいいいいいい!!」

振り向く唯。
瞬間、澪の拳が空気を切り裂いて、唯の胸へ抉るように打ち込まれた。
胸部中央にめり込んだ拳は肉を潰し、骨を砕き、心臓を破裂させた。

唯「ぐうっ!」

澪の拳の威力によって、唯の身体が大きく飛ばされた。広い屋上をほぼ水平に飛んでいき、
転落防止用の柵に打ちつけられることで、ようやくその動きは止まった。
もし、柵が無ければ、桜高の敷地からも飛び出していたかと思える程の勢いだった。鉄製の
柵は激突した部分がグニャリと曲がっている。

唯「がはあっ!」

大量の血を口から吐き出し、唯は仰向けに倒れたまま動かなくなった。

澪「勝った……」

拳に衝撃の余韻を残しつつ、澪は倒れる唯へと歩み寄った。
大の字となり、ピクリとも動かない唯。異形の顔貌は少女のものへ戻っていた。
目は虚ろで生気は感じられない。心臓を破壊されたことで一時的に血流が止まり、意識が
遮断されているのだろう。
だが、こうしている今も全身の再生は進んでいる。心臓さえ再生し、動きを取り戻せば、
また元のように動き出すはずだ。
そう。元のように、澪や桜高の生徒の命を狙う。

澪「とどめを、刺さなきゃ……」

再び左の拳を握り締める。
改造人間を殺すには脳を完全に破壊しなくてはならない。
この手で頭を叩き潰さなければいけない。

澪「やらなきゃ…… やらなきゃ、みんなの命が危ないんだ……」

倒れた唯の、薄目を開けた、呆けたような顔。
ケーキに釣られて居眠りから目を覚ました時を思い出す。
あの時の、寝ぼけ顔の唯。

澪「こいつは敵だ…… 私が倒すべき敵なんだ…… もう、唯じゃない……」

あの頃と変わらぬ愛らしい顔に狙いを定め、拳を振り上げる。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
神様が本当にいるとしたら、随分と残酷じゃないか。
どうして、私がこんなことをしなければいけないんだ。
どうして、唯がこんな目に遭わなければいけないんだ。
今さら、神様にいくら祈ったとしても、もう遅いのかな。

戻りたい。楽しかった、あの頃に。

澪「唯…… ごめんな……」

こぼれ落ちる涙など無い。
その代わりに、拳が振り下ろされた。





意識は薄ぼんやりとしていた。まるで、夢うつつ。
自分はいつから眠っていたのか。どれくらい眠っていたのか。
音や風景が少しずつ戻ってくる。
それと一緒に記憶も。
自分は何をしていたのだったか。
そうだ。自分は――

戦っていたんだ。

唯「うわあ!」

飛び起きると同時に、唯の胸に痛みが走った。
手足には痺れがあるが、何とか動かすことは出来る。
ふと違和感を覚え、唯は自分が手を突いている床へ視線を落とした。石造りの床が大きく
陥没している。まるで何かが打ち込まれたように。
それから、周囲に目を遣ると、少し離れた場所に澪が背中を向けて立っていた。

澪「……出来なかった」

唯「後悔するよ……?」

澪「かもな……」

振り向かず、背中で答える澪。
鉄柵を握り、唯がふらつきながらも立ち上がる。

唯「私はもっともっと強くなる。そして、この世界にただ一人の超人になるの。ショッカーを
  壊滅させて、実験体をすべて始末して、澪ちゃんを殺して……――」

唯に握り締められた鉄柵が徐々に変形していく。
手足の痺れがわずかずつではあるが回復しているようだ。

唯「――私は唯一の存在になる!」

いまだ変わらぬ意志と咆哮。
澪はゆっくりと唯の方へ振り向いた。

澪「唯、頼みがあるんだ」

唯「私が澪ちゃんのお願いなんて聞くと思う?」

澪「この先、誰かを殺すのなら、まず私のところに来い。私が死んだ後は、お前の好きに
  すればいい。でも、一番に殺すのは、この私にしろ」

唯「……」

唯は鉄柵にもたれかかり、一言も発しない。
澪もそれ以上は口を開かず、唯の答えを待っている。
やがて、両者の沈黙を、階段を上がる複数の足音が破った。校舎内へ続く出入口の方から
聞こえてくる。
それを耳にした唯は、不機嫌そうに口をとがらせ、答えた。

唯「……いいよ。そうしてあげる。それで貸し借り無しのおあいこ」

そう言うと、唯は鉄柵を乗り越え、校舎の端すれすれに立った。
愛嬌と邪悪さの入り混じった笑顔で、澪の方へ振り向く。

唯「澪ちゃん。私に殺されるまで、誰にも殺されちゃダメだよ」

唯はそのまま、背中から宙へ身を躍らせた。落ちていく最後の瞬間まで澪の目を見据えて。
すぐに下で大勢の人間が騒ぎ立てる声が聞こえた。
サイレンや車両の走行音が桜高からいくつか離れていく。おそらく、逃走する唯の追跡を
始めたのだろう。
戦いのダメージで弱っているとはいえ、唯ならば警察から逃げおおせるのは簡単なはずだ。
澪は唯の行方を見送ること無く、屋上の端から離れた。
すると、校舎内への出入口のドアが静かに開き、そこから律と紬がそっと顔を覗かせた。
澪は変身の解けた今度こそ、仮面の下で口角を上げてクスリと笑った。

澪「終わったよ」

安心したように、二人が屋上へと足を踏み入れる。

律「あの化物は……? 逃げたのか?」

澪「……彼女は、化物じゃない。平沢唯って言うんだ」

律「平沢、唯……」

律は不可解な面持ちで唯の名を呟く。澪の意図が伝わっていないのかもしれない。
そこへ紬がオドオドと澪へ話しかけた。

紬「あ、あの…… 私達を助けてくれて、どうもありがとうございます」

感謝の気持ちはあるのだろうが、いまだ少しの恐怖と警戒心が残っている態度である。
律のようにいかないのは仕方の無いことだ。
感謝の言葉を受け、澪は小さく首を振った。

澪「それが私の任務だから」

紬「任務……?」

澪「ああ。もし、この先…… また、みんなに危険が訪れたら、私は必ず戻ってくるよ。
  何度でも」

紬「で、でも、どうして私達の為にそこまで? あなたは誰なんですか?」

その時、律が澪にまっすぐな視線を向けて言った。

律「澪、だよな……? 秋山澪……」

澪「……!?」

驚きが隠せなかった。
最初は自分のことを思い出してくれたのか、と錯覚した澪だったが、すぐに思い直した。
そんな訳は無いのだ。

律「その革スーツと長い髪…… 憶えてるよ。あの時はごめん」

申し訳なさそうに頭に手を遣る律。
澪は仮面の下で唇を噛んだ。
今、この場で、親友の名を呼びたい。抱きしめたい。
それが出来たならば。

澪「……違う。私は澪じゃない」

律「えっ……?」

澪は踵を返し、律に背中を向けた。
そして、歩き出す。律と紬から離れ、屋上の端の方へ。

澪「私の名は、零」

紬「ゼロ……?」

澪「じゃあな……」

律「ま、待ってよ!」

澪は鉄柵に手をかけると身軽にそれを飛び越し、唯と同様、地面目がけて落下していった。
二人は慌てて後を追い、鉄柵から身を乗り出した。
見れば、大型バイクにまたがった澪が、警察を翻弄しつつ走り去ろうというところだった。
暗さが混じり始めた夕焼けの赤い光が、バイクの白いボディを悲しげに照らしている。
澪が桜高前の道路に出ると、その姿はすぐに見えなくなった。

律「仮面のライダー、零か……」

そうポツリと呟く律の耳に、バイクのエンジン音だけが届き、やがてそれも消えた。





――ショッカー・エンタープライズ本社ビルのある一室

室長「報告は以上になります」

次官「……」

大佐「……」

時間にして何分くらいのものだったろうか。
実験体の逃亡に端を発した、今回の不始末。
その報告の大部分が終わり、三人だけの室内は再び重い沈黙に包まれていた。
手汗でふやけた書類に目を通しつつ、研究室長が続ける。

室長「じ、実験体番号3-2-1及び3-2-30に関しては現在も逃走中です。また、破壊された
   B判定完成体超人兵士ですが、所属はGroup2-1であり、このグループの遺伝子操作
   カテゴリはカブトムシとなっております。個体名は――」

大佐「もういい」

室長「はっ、しかし……」

大佐「判定外の失敗作に負けたB判定の話など結構だと言っておるのだ」

猛獣のうなり声にも似た音が、大佐の喉元から発せられた。歪めた口からは異常に発達した
犬歯が見え隠れしている。
研究室長の背中にドッと冷たい汗が噴き出した。
またも毛髪の寂しい頭を、慌てて深々と下げる。

室長「は、はいっ! 失礼致しました!」

静かな怒りを見せる大佐の隣で、次官がクイと眼鏡を上げた。
大佐から発せられる人外じみた雰囲気も、さして気に留めていない様子だ。

次官「それで? A+判定の超人兵士に関してはどうなのですか?」

室長「はい。所属はこちらもGroup2-1となっております。個体名“平沢憂”、コードネームは
   “Stronger”です。現在、最終調整を完了し、睡眠待機の状態にあります」

次官「最終調整の結果は?」

室長「はい。内容は実験体番号3-2-19、3-2-20、3-2-31との一対三の実戦訓練でしたが、
   37秒で完全沈黙させております」

次官「ほう」

大佐「excellent(素晴らしい)」

最高傑作とも言える完全体超人兵士の出来栄えに、次官は小さくも感嘆の声を上げ、大佐は
ご満悦とばかりに拍手をした。
研究室長は幾分か和らいだ場の雰囲気に、内心ホッと胸を撫で下ろす。

次官「では早速起動させ、逃亡中の二体を追跡させなさい」

室長「かしこまりました」



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最終更新:2015年04月16日 08:14