すっかり忘れたと思っててもさ。
からだが覚えたことって、一生忘れないと思うんだ。
-高校一年生、夏。-
右、左、右、左…と二つの太ももが交互に回転するたび、ぴりぴりと刺激が走り、重だるさが蓄積していって、動きが鈍くなっていく。
体重をかけるために腰をあげて全身姿勢をとった。
回転が少しだけ加速する。
上がった顎をクッと引きなおす。
額から頬を伝って顎まで、汗の雫が流れていくのがわかった。
頭がくらくらする。
大きく吸い込んだ息が肺いっぱいにたまり、直ちに吐き出される。
はじめ、足のリズムに合わせて繰り返していた呼吸は、次第に乱れてめちゃくちゃになった。
生ぬるい風が伸び気味の前髪を揺らした。
視界を遮られる。
軽く首を振って前髪をかき分けると、開いたその隙間から夕日が射し込んだ。
夕方といっても真夏の日射しは厳しい。
”明日の関西地区一帯は、最高気温が軒並み35度を超えるでしょう”。
昨日の夜、NHKのアナウンサーがそう言っていたっけ・・・。
日が沈み始めても鳴き止むことのない蝉の声が、耳の奥まで響いてなおのこと暑さを強調していた。
「ムギ・・・だ、大丈夫か…?変わろうか?」
「…だい じょう ぶ! あと・・・もう ちょっとだから…大丈夫!頑張る!」
背中にたくさんの汗をかいているのがきもちわるいし、みっともなくて恥ずかしい。
でも今更そんなことを気にしたところでどうしようもなかったし、
とにかくあと少し…あと少し残ったこの坂を上りきろう!
「よ いしょ! よいしょ!」
「頑張れ!あとちょっとだ!」
「…ゴール」
地面に足をつける。
倒れそうになるのを我慢して、硬いサドルに腰掛けながら肩で息をする。
そのまま後ろを振り返ると、太陽が山の向こうに沈もうとしていた。
坂の頂上から、街の全景が広がっている。
赤く染まった街。
ふたりの伸びた影。
「…すごい」
「…だろ」
「汗かいた甲斐、あったね」
「お疲れ。なんか…悪いな。ごめん。結局無理させちゃって」
「ううん。楽しかったから!全然大丈夫!」
「……ならよかった」
真っ赤な夕日が汗でべた付いた自転車のハンドルを照らしていた。
高校ではじめた軽音部。
そこでできた友達と、休みの日に二人きりで会うのはこれが初めてだった。
…そもそも休みの日に友達とふたりで遊んだことなんて、今までに数えるほどもなかった。
学校が休みのときほど習い事や家の用事で自由にできる時間はなかったし、
夏休みや冬休み、長期休暇はその大半を遠く離れた海外で過ごしていた。
今年も来週からフィンランド。
その前に、買い物を済ませておこうと出かけた商店街。
わたしをあだ名で呼ぶ声に驚いて振り向くと、澪ちゃんが自転車を引いて歩いていた。
「偶然だな。ムギも買い物?」
「うん。ちょっとね。澪ちゃんも?」
「あ、うん」
わたしは右手に持った日傘を左手に持ち替えた。
わたし達は自転車を挟んで歩き始める。
自転車のカゴに乗せられた鞄の口から、可愛らしいリボンのついた綺麗な包装紙がちらっと見えた。
「それ、かわいいね。もしかして贈り物?」
「ああ、これ?うん、律に」
「りっちゃんに?」
「アイツ、もうすぐ誕生日なんだ。それで…」
「そうなんだ!わたしも何かプレゼント用意しなくっちゃ…澪ちゃんはプレゼント、何を買ったの?」
「”ザ・フー”って知ってる?律が好きなロックバンドなんだけど…そのDVD。アイツが欲しがってたから」
そういえばこの間、部室でふたりがそのロックバンドについて話していたような気がする。
流行りの音楽も、外国のロックバンドも、わたしは全然詳しくない。
話題のアイドルも、有名なお笑い芸人も、わたしはちっとも知らない。
熱心に話しながら時々笑い転げるふたり。
そうだ、紅茶のおかわりを淹れようかしら。
わたしは席を立った。
「…で、すっごくいいんだよ。ムギもよかったら聴いてみて欲しいんだ」
アーケードを抜けると鋭い日射しが目に入って、一瞬顔をしかめる。
日傘を広げる。影になって隠れてしまっても、熱量を帯びた彼女の目の輝きは隠せていなかった。
このバンド、よっぽど好きなのね。
「うん。わかった。一度聴いてみるね」
そうすれば、少しは二人の会話に入れるようになれるかしら。
そうなれるといいな。
「ムギ、帰りは電車?」
「うん、そうだけど」
「乗りなよ、送ってく」
「いいの?重いよ、わたし」
「体重のことは言いっこなし」
「ふふ…ありがと。じゃあ遠慮なく」
自転車の荷台に腰掛けた。
”しっかりつかまってろよ、落ちると危ないから”、
そう言われたけれど、あんまり強く抱きつくのも馴れ馴れしい気がして、
ちょっと遠慮気味に腰に手を回して澪ちゃんの服の裾を掴んだ。
「よし、いくぞ」
自転車は走り出す。風を切って走っていく。
風になびく澪ちゃんの長い黒髪が顔にかかって、ちょっぴりこそばゆい。
ふと、勢い良く回転する前輪に視線を向けると、キーホルダーがゆらゆらと揺れているのが見えた。
「かわいいね」
「…?なにが?」
「自転車の鍵?キーホルダー」
「鍵?ああ」
赤信号に立ち止まると、澪ちゃんは一旦自転車を降りて鍵をかけてキーホルダーを手に取った。
「ほら、うどん」
「ほんと、うどんね。かわいい。こんなのどこで売ってるの?」
小さいけれど作り込まれたキーホルダーのうどんには、まんまるの卵が落とされている。
「昔、香川を旅行したことがあったんだ。そのときに」
「へぇ~。さすがうどん県ね…」
「他にも素うどん、きつねうどん、てんぷらうどん、肉うどん、ざるうどん、釜玉うどん…いろいろあるんだぞ」
「わぁ~そうなんだ。いいなぁわたしもうどん欲しいなぁ…」
友達とお揃い。ちっちゃなキーホルダーが繋いでくれる何かを想像する。
「律はてんぷらうどん持ってるよ」
「りっちゃんも…?」
「うん。一緒に旅行、行ったから」
真夏の街の中は、どこにいっても蝉の声が響いている。
近年大阪ではクマゼミが増えて、アブラゼミが減ったらしいと、家庭教師から聞いた話を思い出した。
この街でもそうなのかな。そう言われると、あまり見かけない気もする。
信号はまだ赤いまま。
荷台に乗ったまま、背中越しに澪ちゃんの旅行話を聞いている。
本場のさぬきうどんはとってもおいしかったんだって。
こっちでいつも食べてるうどんと全然ちがったんだって。
欲張りのりっちゃんはてんぷらをたくさんとりすぎて、結局食べきれなかったんだって。
わたしが”食べたいことない”って言ったら、いつかいっしょに行けるといいなって。
遠いよ、うどん県。
ううん。チェーン店なら近くにもあるぞ。
…それじゃ本場にならないよ。
やっぱり行くなら、本場がいいな。みんなと…澪ちゃんと一緒に行けるといいな。
信号の色は、変わる素振りを見せていない。
そのまま視線を横に向けると、街路樹の太い枝にアブラゼミがとまっているのが見えた。
なぁんだ。いるじゃない。アブラゼミ。
二匹並んだクマゼミの横にアブラゼミはとまっていた。
クマゼミのように透き通っていない羽。褐色が妙に醜く思えて目を逸らした。
「ムギ、まだ時間ある?」
「え、あ、うん。大丈夫だけど…」
「それならちょっと、寄り道していいかな」
とおりゃんせが鳴り始めた。
澪ちゃんは立ち漕ぎでスタートを切った。
しばらく澪ちゃんの背中で揺られ続けて、坂の手前で攻守交代(正しい表現なのかしら?)。
この坂を登るのは無理だよ。
律のやつ、いっつもチャレンジするけど、決まって最後まで上り切らずにバテちゃうんだから。
澪ちゃんのひとことがわたしの闘志に火をつけた。
後ろから走って坂を上ってきた小学生がわたし達を追い越していく。
振り向いた彼らのうちのひとりが、わたし達の方を見てぎょっとして表情を変えた。
…そんな、鬼を見たような顔しなくったっていいじゃない。
よっぽと酷い顔、してたのかな。
頂上に着いてから思いかえしてみれば、それも頷ける。
確かにそんな顔をしていそうなくらい、必死だった。余裕なんてひとかけらもなかった。
坂の後半はもう、歩く方が早いようなスピードだったんじゃないかしら。
それでもなお、一度も地面に足をつけることなくこの坂を上りきることで頭の中はいっぱいだった。
わたしって、こんな負けず嫌いの意地っ張りだったかしら?
坂を上りきることができれば、わたし達の中に確かな何かが生まれる気がしてたのかもしれない。
日が沈んでしまう前に間に合って、わたしは胸を撫で下ろした。
「ムギ、汗すごい」
澪ちゃんが差し出したハンカチを断って、自分のもので汗を拭う。
「…わたし、汗臭くない……?」
「ううん。ちっとも。むしろなんかいい匂いがしたよ。制汗剤?シャンプー?どっちだろ」
「……たぶん、シャンプー・・・かな?」
たどり着いた坂の頂上から見た夕焼け。
何層も折り重なって複雑にグラデーションがかかった色合いの空。
この瞬間を写メで撮ろうかと思ったけれど、やっぱりやめた。
空の色は一瞬の暇もなく少しずつ少しずつ変化していって、
きれいだなぁって思ったら次の瞬間にはまたちがう色を見せているんだもの。
一秒も見逃すのが惜しいわ。
そう思って、じっと目を凝らして見てた。
こんな風景が自分の住む街で毎日のように繰り返されていたなんて。
わたしが知らなかった、気が付かなかっただけだったんだ。
それを澪ちゃんが教えてくれた。
でも昨日のおとといもその前も、明日も明後日も明々後日も、この夕焼けを見られたのかな?見られるのかな?
だって、こんな………信じられない。
今日、いま、この瞬間だけ特別にきれいなんじゃないかしら。
きっと、そう。
夕焼けは、地球が生まれた日からずっと、
今日という日まで数えきれないくらいなんども繰り返された当たり前の現象かもしれないけれど、
今わたしの目の前で起きているこの出来事は間違いなくぜったい特別なものだって、・・・。
「ここさ。中学生のとき、律が教えてくれたんだ」
…そう。
ねぇ澪ちゃん。
この坂の上ではじめて夕焼けを見たとき、どんなきもちになった?
やっぱり今のわたしとおなんじ気持ちになったのかしら。
澪ちゃんにとって今日の夕焼けはどう見えているのかしら。
特別に・・・いつもと違う夕焼けに見えているのかしら。
瞼にかかる前髪をかき上げて額の汗を拭う。
「前髪、けっこう伸びてるな」
「そうなの。そろそろ切ろうかしら?それとも…」
「それとも?」
「カチューシャ、しようかな。りっちゃんみたいに」
逆光のせいか、澪ちゃんの表情は見えなかった。
坂を上り下りして行き交う人たち、道沿いに立ち並ぶ商店、駅の方に見える京都タワー、街をぐるっと取り囲む遠く連なる山の峰、みんな黒く染まって表情が見えない。
律といっしょかーそれはどうだろうなー…って真っ黒に染まった澪ちゃんが軽く乾いたように笑う。
その声だけが坂の上に響いた。
「わたしね、ふたり乗りしたのはじめてなの」
「そっか」
「うしろに乗せてもらったのも、前で漕ぐのも」
「そっか」
「こんなにきれいな夕焼けを見るのも」
「そっか」
「軽音部の友達とふたりきりで学校の外で会うのもはじめて」
「はじめて尽くしだな」
「そうね。全部澪ちゃんのおかげ」
そんなことないよ、って。澪ちゃんはちょっと照れてるみたいだった。
影はどこまでも細く長く伸びてゆく。
燃えるような世界の中、夕焼けの色が身体に染み込んでいって、
影はどこまでも伸びていきそうに思えた。
夕日が山の端に消えてしまう前に帰ろう。
下り坂もわたしが自転車の前だった。
上りは淀んで生ぬるく感じられた風がきもちいい。
前じゃないと味わえないから、澪ちゃんはそう言って特等席を譲ってくれた。
風が吹く。前髪がなびいて額があらわになる。
視界良好。自転車はぐんぐんスピードを上げていく。
プール帰りの小学生。野球のユニホームを着た中学生。買い物帰りのおばさんに、忙しそうにケータイを片手に汗を拭くサラリーマンのおにいさん。
その全てを追い越していく。
スピードが上がるにつれて、わたしの腰を掴む澪ちゃんの腕の力が強くなっていった。
真っ赤に染まる夕焼けの中で、頬を切る風と背中に伝わるやわらかい体温が、
世界の全てに思えた。
「電車、間に合いそう?」
駅前のコンビニで買ったカルピスソーダを飲みながら、澪ちゃんが聞く。
「うん。大丈夫。今日はありがとう。とっても楽しかった」
わたしも同じ、カルピスソーダ。滅多に飲まない炭酸飲料。
喉をしゅわしゅわさせながら通り抜けていく新鮮な冷たさが、
乾いた身体には吸い込まれていく。
「わたしの方こそ楽しかったよ、ありがとう。
…あ、そうだ。ムギにひとつ聞きたいことがあるんだけど、」
「なぁに?」
「ムギの誕生日って、いつなの?ちゃんとお祝いしたいから」
踏切の警報機がかしましく鳴り始めた。
幸い反対方向の電車みたい。あわてなくても大丈夫。
「7月なの。7月の2日」
「あっ」
ゴォ、と勢い良く電車が走り抜けていく。
風に煽られて揺れた前髪が目にかかる。やっぱり前髪、伸び過ぎね。
「・・・ごめん。知らなくて」
「いいの!謝らないで、わたしもその…自分で言いだすのもあの…おかしいかなって…」
「…あっ、ちょっと待って」
澪ちゃんは唐突にカバンの中をごそごそあさり始めると、鍵を取り出した。
それからそこについたキーホルダーを外して、わたしに差し出す。
「うどん・・・」
種類の違う月見うどん。
もうひとつ、持ってたんだ。
「い、いらなかったかな…ごめん、さっき欲しそうにしてたから・・・。
せめて今できることってこれくらいだから…もしかしたら喜んでくれるかな、って…」
「…」
「…ごめん、なんかとってつけたみたいだったよな。今更だし汚いし……」
古びて汚れた月見うどん。
器の端が欠けていて、麺はちょっと黒ずんでいる。
ごめん、なかったことにして!また今度ちゃんとプレゼント渡すから!
そう言って引っ込めようとした澪ちゃんの左手を掴んで、わたしはうどんを受け取った。
「ううん。そんなことない!とってもうれしい!わたし、高校の友達に誕生日プレゼントもらうの…」
言いかけて、不意に軽やかなメロディが鳴り出した。澪ちゃんのケータイだ。
ちょっと、ごめん。そう言って澪ちゃんは二三歩離れてから電話に出る。
りっちゃん…かな。
同時に警報機が鳴り始めた。
澪ちゃんはわたしに背を向けて大きな声で何か話している。
カンカンカンカン…と鳴り響く音に消されて、何を言っているかわたしにはわからない。
言えなかった一言を伝えたくて、電話が終わるのを待ったけれど、それより前に電車が駅に滑り込んでくるのが見えた。
わたしは周囲を構わず、最後の一言を叫んだ。
それは電車にかき消されてしまって届かなかったかもしれない。
でもわたしが何か声を出したことだけは伝わったのか、澪ちゃんは振り向いてくれた。
それから左手を大きく上げてひらひらと振った。
手首に赤く、蚊に刺された痕を見つけた。
わたしもそれに応えるように胸のあたりに小さく上げた右手を左右に振った。
よく見ると、わたしの右手の甲も蚊に刺されていた。
走って改札を抜け、閉まる間際の電車に飛び込む。
猛ダッシュのせいか、心臓がばくばくと脈を打っている。
息を切らして飛び乗ってきたわたしを、車内の乗客の人たちは迷惑そうに見ていたけど、そんなことちっとも気にならない。
大きく息を吸って、吐き出す。深呼吸を繰り返す。
それでも鼓動の激しさはやむことがない。
鮮やかな赤に染められた電車が、わたしを運んでいく。
電車が終着駅に着く頃、ようやく心臓が落ち着いて、握りっぱなしだった左手を開いた。
汗にまみれた月見うどんが、そこにあった。
再び激しさを思い出した胸の鼓動が教えてくれたのは、
わたしにとってもう一つの”はじめて”。
改札を抜けるともうとっくに暗闇が街を包んでいる。
見上げた夜空。そこにも月が、ぷっかりと浮かんでいた。
最終更新:2015年07月02日 07:58