-高校三年生、梅雨。-


黒板を叩く白いチョークの音に混じって、雨粒が窓ガラスを上で跳ねている。

みんな、この世界を支配しているらしい物理学の法則(この先生は口癖のようにこう言う)よりも台風の行き先が気にかかるのか、教室に漂うのはいつもと違う浮き足立った空気だ。

授業がひとつ終わるたびに風の音は強さを増し、休み時間のたびにムギは鏡と睨み合い、ヘアースタイルと悪戦苦闘していた。


来週、桜ヶ丘に台風、来るってさ。


おい、律。親戚の従兄弟が遊びにくる…みたいな言い方するなよ。不謹慎じゃないか。
それに台風なんて、逸れたり小さくなったりするからどうなるかわかんないぞ。

ところが予報を上回るスピードで北上した台風は、その勢いを弱めることなく桜ヶ丘にやってきたのだった。

明日暴風警報が出れば学校が休みになる…なんて律と唯は不謹慎なことを言って騒いでいたけれど、いつもなら一緒になってはしゃぐムギは、珍しく輪に入っていなかった。

だってわたし、学校が好きだから。

ムギの祈りが届いたのかどうなのか、どうやら朝のうちに暴風警報は出なかったらしい。
電車も通常通り運行していたようだし、やや強めの雨風に煽られつつも、みんな無事に登校した。

ところが午後の授業が始まる頃、雷が落ちた。

ドォン!という大きな音に驚いて、クラスがざわつきはじめる。
唯は朗読中だった伊勢物語を放り出して窓の外を眺めていた。

古典の授業中はこの後二回雷が落ちた。
その度にクラスはざわついて、堀込先生が注意する。授業はちっとも進まなかった。
今日も終わらなかった伊勢物語。いつからこの話、やってるんだっけ。




何度も落ちた雷のせいだろう。放課後、みなは早々に校舎を後にした。
これから夜に向けて天気は崩れる一方だろうから、確かにこんな日はさっさと帰ったほうがいいかもしれない。だけど最近いつにも増してちっとも練習できてないことが、頭に引っかかっていた。

「他の部は早めに帰ってるとこが多いみたいですね。わたしたちも帰らなくて大丈夫でしょうか…」

「大丈夫だよあずにゃん!わたしがあずにゃんを守るっ!」

「唯先輩では頼りになりません」

「あずにゃんしどい……」

唯が梓に抱きついて、梓が頬を赤らめる。いつもと変わらぬじゃれつきを、少し離れたところにいるムギが遠巻きに微笑ましい笑顔で見守っている。

「大丈夫じゃないかー?だって暴風警報、まだ出てないみたいだし?それよりケーキ食べよっぜ~」

「いや、出てからじゃ危なくて帰れなくなっちゃうだろ。風もきついし雷も鳴ってたし。今日は一回だけでいいから音合わせして、それでおわりにしよう」

「澪ちゅわんはこわがりでしゅからね~。そういえば小学生のときも雷がこわくて…」

「なっ…!昔の話はやめろっ!」

「なになに~♪、りっちゃんと澪ちゃんの昔話、聞きたい聞きたい~~☆」ウキウキ

「お、おいムギ…やめないか?そんな昔の話聞いてもまったく面白くないぞ??」

「え~、ふたりの小さい頃の話いっつも面白いじゃない。
 わたし大好きなの!もっといっぱい聞かせて聞かせて~♪」

「よ~し、じゃあ話すぞー!あのときはたしか・・・」

「やめろぉりつっ!」


…そんないつもの調子でだらだらとお茶にお菓子におしゃべりを続け、ようやくひと段落してさてそろそろ練習を……というタイミングで、

「あら?あなたたち、まだ残ってたの?」

扉が開いて、現れたのはさわ子先生だった。

「大丈夫ですよ。先生の分のケーキ、ちゃんと残してありますから」

ムギがそう言うと先生は少し微笑んで、でもすぐに真剣な表情に変わった。

「あら、ありがとう。…でもそれどころじゃないわ。
 今さっき、暴風警報が出たのよ。それで今校舎に残ってる生徒がどれぐらいいるか確認しに回っててるところ」

「えっ、じゃあいますぐ帰らなきゃいけないんですか?」

「ううん。この嵐の中を帰すのは危ないから、できればおうちの人に連絡して迎えに来てもらって。
 どうしても連絡つかなくて迎えのない生徒は先生たちで送っていくから」

今日も練習できない……でもこんな緊急事態じゃ仕方ないか。
あきらめてケータイを取り出し、電話をかけようとすると…


”圏外”


「うそ」

「台風のせい?」

「そうとしか考えようが…」

「おかしいわね……さっきまでそんなことなかったのに」

「仕方ないじゃーん。じゃあみんなさわちゃんの車でかえろうぜー!」

「一度にみんなが乗れるほどわたしの車は大きくないの!それに…」

先生は渋々といった調子でため息をついて言う。

「他に校舎に残っている生徒もいるから。あなた達はその後。しばらくここで待ってなさい」

それまで待機。


やることのなくなったわたし達はお茶を再開した。
天候は荒れ狂い、雨風は猛威を振るっているというのに、いつだって平常運転なわたし達ってなんなのだろう。
飽きもせずにだらだらとお茶を飲み、ケーキを食べ、しゃべり続ける。

その間も雨は勢いよく窓を叩き、風は激しく校舎を揺らし続けた。

「さわ子先生、なかなか来ませんね」

「もう結構時間経ったと思うんだけど……」

「ケータイも繋がんないしなー……」

「事故にあっていなければいいんだけど……」

「りっちゃん隊長!緊急事態です!どうしましょうか!」

そういう唯の口からはちっとも緊急事態の緊迫感は伝わってこない。
律はそれらしく腕を組んでしかめっ面をしているが、きっとコイツもこの事態を大したことだと思ってやしないんだろう。それくらい付き合いの長さでわかる。ふざけている感がびんびん伝わってくる。

「うん……唯隊員、こうなったらな……」

「こうなったら……」

「学校に泊まっちゃうかぁ!」

「学校に………お泊まり!?おもしろそうです!隊長!!」

「うわぁ~、みんなで学校にお泊まりなんて楽しそう!」

はじまった……悪ノリ以外の何物でもない。
けれど外の様子を荒れ狂う天気を見ていれば、それも確かにやむを得ない…。

隣では唯に抱きつかれた梓が唸り声をあげていた。
ムギはいつも通り、少し離れたところでニコニコ微笑み続けている。


  ◆  ◆  ◆ 

「わっくわくするね~」

「そんなこと言ってる場合じゃないだろ…とにかくまずは食べ物と寝るところを…」

「運動部が合宿に使ってる宿泊施設に布団があるだろ。食べ物は…」

食堂にいくらか残っているのものを調理させてもらおう。

嵐はひどいけれど停電になることもなく、廊下は電灯に照らされている。
このところ雨続きで昼の間も一日中太陽は隠れている。
だから、昼も夜も大して代わり映えしなかった。
おかげであまりこわくない。こわくないのは唯と律が騒いでるせいもあるかもしれない。

その日はみんなでカレーを作って食べた。

「おいしい!わたしこんなにおいしいカレー食べるのはじめて!」

「大げさだなぁ~ムギは。でもカレーってどこで食べるかでおいしさ変わるよな」

「言えてますね。キャンプでつくるカレーってやたらおいしく感じますし」

「ええ!キャンプのカレーってそんなにおいしいの!?」

「ああ、そりゃもう…この世のものとは思えないくらい…だな!」

「だね!」

「盛りすぎだ」

「澪だってカレー好きじゃん。中学のときキャンプ行って、わたしの作ったカレー三杯もおかわりしてたじゃん」

「あ、あれはまぁ……たしかにおいしかった…けど」

「キャンプのカレー……」ウットリ

「夏休みになったらみんなでキャンプでもいくかっ」

「行こう行こう~!」

「何言ってんだ。わたし達受験生だぞ。そんなことしてる暇は……」

「そうですよ、ちょっとは現実をみてください」

作りすぎて残ったカレーはタッパーに移し替えて冷蔵庫に入れた。

お風呂は運動部が合宿につかう宿泊施設に備え付きの浴場を借りた。
湯船はちょっとした銭湯みたいなサイズでみんなでバカみたいにはしゃいだ。
スポーツ強豪校でもないのに、ここまで優遇された設備があったなんて。

もうそこで寝てしまってもいいくらいなんだけど、部室で寝るほうが面白そうじゃないかって話になって、わざわざ校舎の三階まで布団を運んだ。

布団に入ってもなんだかんだおしゃべりは続く。
激しく吹きつける雨風の中、校舎の三階の一室だけが煌々と灯りを放っていた。

  ◆  ◆  ◆ 

はるか先まで続いているような廊下の端に、かたつむり。
いつの間にどこから入り込んでしまったのだろう。

角を伸ばしたり縮めたりしながら、ゆっくりゆっくりと進んで行く。
この子がここから廊下の反対側の端まで行くのにどれくらい時間がかかるのかな。

誰かに踏まれてしまわないように、殻を掴んでひょいと持ち上げると窓のサッシのところまで持ち上げた。

「…あら。やさしいのね」

「…気まぐれだよ。
 あ、そうだムギ。律知らない?」

「りっちゃん?なにか用事?」

「いや別に。特に用があるわけでもないけど・・・」

ムギは窓際に肘をかけて、かたつむりの甲羅をつんとつつく。それから視線を窓の外に向けた。
その先は群青色に塗りつぶされている。

「りっちゃん、プールに行ったよ」

「またか。よく飽きないな」

「流れるプールとかウォータースライダーとかあるしね。波も出てるのよ。ザパーン!…って」

それ、波のマネ?ムギがバタフライみたいな振り付けで説明してくれる。

「しっかし、いつの間にできたんだっけ?屋外プールしかなかったような気がするんだけど…
 学校のプールらしくないよなぁ。いいのかなぁ。学校にそんなものつくったりして」

「さぁ…でもいいんじゃない?たのしいし」

「たのしいけどさ…でも飽きずに遊べるのもすごいよな」

「飽きないよ。なんだかこういうの。ロビンソンクルーソーみたいでたのしいじゃない?」

「ロビンソンクルーソー…かぁ」

漂流しちゃったようなもんか。


廊下の窓から眺める景色はいつもと何も代わり映えしない。
校舎内はいつでも薄暗い。目が覚めたときも、朝なのか夕方なのかわからない。

ケータイの電池はとっくに切れた。
台風で電話線が切断されたのか、学校の電話は使い物にならない。




「本当に大変な事態なんだったら、とっくに助けがきてるさ」

へらへらと気楽に律は言う。
そう言って日がな、屋内プールで泳ぎ回っている。

「食べ物はたくさんあるんだし、大丈夫だよ」モグモグ

食堂には十分すぎるほどの備蓄があり、デザートも含めて不足はない。
冷蔵庫には誰が収納したのか、尽きることがないほどのアイス。発注ミスか?
唯が食べても食べても減ることがない。

「心配ではありますけど……学校からは出られそうにありませんし」

視聴覚室になぜか大量に保存されていたロックミュージシャンたちのライブDVDや古いレコード。
すっかりそこの住人と化した梓。

電気は通っているのにネット回線は繋がらず、TVやラジオの放送も受信できない。
雨風の勢いは、毎日何も変わることはなく続いている。
年季の入った校舎が壊れやしないかと心配もするけれど、そこまでではないみたい。


「澪ちゃんは今日、何する予定?」

「わたしは・・・そうだなぁ…」

「今日も読書?」

「うーん、図書館の本もあらかた読んじゃったし……」

「じゃあ卓球でもしない?それともテニス?バドミントン?バスケでもいいよ?」

「スポーツ、って気分でもないな」

「あのねあのね。こないだ倉庫でボーリングのピンを見つけたの。久しぶりにどう?」

「ん……ごめん。いいよ」

「そうだ、講堂で映画が観られるみたいなんだけど……」

「………ごめん」

「………そっか」


校庭の桜の木はどれだけ激しく雨に打たれても葉を落とすことがないのか、
前後に揺れている緑色がぼんやりと見えた。

「やっぱりわたしもプールに行こうかな」

「…」

「…どうした?」

「ううん。わたしとじゃ退屈なのかなぁ…って」

「え、いやそういうわけじゃ…」

「ごめんごめん、ちょっと羨ましかっただけ」

「羨ましい…?」

「ほら。澪ちゃんってりっちゃんと一緒のときが一番たのしそうだから。
 幼なじみっていいな、って思って。わたしにはそういう友達、いないから」

「…ただの腐れ縁だよ」

「そこがいいのよ」

「わかんないな」

「澪ちゃんにとっては当たり前すぎて価値がわからないのよ」

「そういうもんかな」

「そういうものよ」


悪戯めいて笑う。
わたしはムギに背を向けて歩き出した。

「プール?そっちじゃないよ?」

「知ってる」

「じゃあ、どこに行くの?」

「外」

「プールじゃないの?外って…危ないよ」

「気が変わった。ここに居続けるだけじゃ、何も変わらないだろ」

「…いいじゃない。変わらなくて。変わらなくても、いいじゃない」

「心配するだろ、おうちのひと」

「大丈夫よ。それにたのしいじゃない。毎日が夏休みみたいで。わたし、今がとってもたのしい。
 澪ちゃんと…みんなと一緒に学校でお泊まりするの、夢だったもの」

「夏休みは梅雨が明けた先だ。それに夏休みだからって遊んでばっかりいられないよ」

「……いいじゃない。ちょっとくらい。だって高校最後の夏休みだよ。
 みんなで過ごすの、これで最後だよ。たのしく過ごしたいもの」

「最後って…そりゃそうだけど。大げさだな、ムギは」

「大げさじゃないよ。だって本当だもの。卒業したらみんなバラバラ、でしょ?
 澪ちゃんとこうして二人になることだって…」


潤んだ瞳がきゅっと細くなった。

「……一生会えなくなるわけじゃない」

「……そうだと、いいね」

雨風が止んだ気がした。
変わらずに降り続けているのかもしれないけれど、何も音が聞こえなくなった、そんな風に感じた。

「……そうだよ」

「……行っちゃうの?」

「……行くよ」

「じゃあわたしも行く」

ムギがわたしを追い越して、前を歩いていく。
長い髪がふわりと揺れた。

シャンプーの香り。
いつかどこかで、嗅いだことのあるような。


このままずっとここに居続けたら、わたし達もずっとこのままでいられるんだろうか。
それはいいことなのかわるいことなのか。

わたしはそれを望んでいるのか、いないのか。

ムギの背中についていく。

  ◆  ◆  ◆ 

今まで何度だって、外に出ようとしたことはあったんだ。
けど、ごうごうと風にあおられた扉を見るたび、こりゃ外に出られそうにないな、と諦めた。
それが今日はどうだろう。

昇降口はしんと静まり返ってふたりの足音だけが響いている。

いくつか残った傘のうち、ムギは赤色の傘を手に取った。

「あれ?それ、ムギの傘だっけ?」

わたしも適当に目についた傘を手にとる。

「いいじゃない。あとで返せば」

鍵を外して扉を開く。
雨…は降ってない?
でも全面に霧が広がっていて、数メートル先も見通せない。

なんにも見えない。影も形も色さえない。白い闇のような、モノクロームの世界。

傘を広げたムギは、少しの躊躇もみせずその中を歩きだした。

モノクロームの中に一点の赤。

わたしはムギの背中が見えなくなってしまわないよう、赤を目印に小走りで追いかけた。

どこまで歩いても霧は晴れる様子がない。
時々ぱしゃっと音が鳴り、水たまりに踏み入れたとわかる。
右肩がしっとりと濡れて冷たくなってきた。

赤い傘は等距離を保ちながら前に進む。
わたしの歩く速さを知っているように。

学校を出てからずっと、ムギは一言も喋らなかった。
わたしはただ黙って後ろをついていく。

赤い傘が止まる。
くるっと傘が回転し、雨粒が飛沫となってちらばった。
ムギがこちらを振り向いて、傘を折りたたんだ。

「雨宿り」

彼女が見上げた先を視線を向けると、広葉樹が大きく枝を広げていた。
霧の中に曖昧に濁った色合いの葉がすっぽりとふたりを包んでいる。



「ねぇ。覚えてる?」







夏の日。夕立にあった。

降水確率は10%。
ふたりは傘を持っていなくて、突然の雨に慌てて駆け込んだ。

「あの日とおんなじね」

急いで走ったせいなのか、買ったばかりの靴のサイズが合っていなかったせいもあって、わたしは転んで膝を擦りむいた。

雷が鳴った。

怯えたわたしはもう、立ち上がることさえできなかった。
すると彼女は黙って背を屈めてわたしを背負うと、そのまま走りだした。

雨に濡れた彼女の髪に散らばった水滴。

白い肌に髪をひと筋張り付けたまま。
びっくりした!、降ると思ってなかったよね~…、って、
そのままおしゃべりしていたら、いつの間にか雨がやんでいた。
雷なんか、ちっとも怖くなくなってた。

「覚えてないの?」

しょうがないね、子供の頃の話だもの。

彼女はそう言って笑うと、また赤い傘を広げた。
顔を隠すようにしながらくるくると傘を回し、自分も一緒に一回転してみせる。
スカートがふわっと翻り、わたしに背を向けるとまた、歩き出した。

  ◆  ◆  ◆ 

降り続ける雨がより一層勢いを増して、まるで世界を洗い流すようなスコールになった。

豪雨に押しつぶされてしまないよう、必死に傘の柄の部分を両手でギュっと掴んで、重さに耐える。

ああ、もうダメかも…そう思って目を瞑った瞬間、全ての音が止んで、両手が軽くなった。
恐る恐る瞼を開く。





すると周囲は全て水に囲まれた世界に変わっていた。

側面から天井にかけて、ドーム状になった水のかたまりがわたし達を見下ろしている。
しばらくして水槽だと気がついた。
下を向くとガラス張りになった地面から透けて、大小様々な種類の魚たちがいくつも泳いでいくのが見えた。
頭上の水槽のそのさらに上からはわずかな光が降り注ぎ、照らされた水面はゆらゆらと揺れていた。

悠然と泳いでいく名前の知らない大きな魚。身体のサイズの割りに目がやたらと小さくてちょっとおかしい。
その横側を、わずかに発色してぴかぴか光るクラゲがぷかぷかと浮かんで上を目指し上っていく。


「ねぇ覚えてる?

 はじめてふたりで水族館に行った日のこと」

全面を水で覆われた空間は本当に水の底みたいで、降り注ぐ光はさまざまに屈折していてどこともなく光を放っている。
どっちが上なのか下なのか。左なのか右なのか。

「本当はわたし達、遊園地に行きたかったんだけど、雨が降っちゃって。
 すっごく楽しみにしてたのにいけなくなっちゃって」

ただ彼女が進む方向だけが前なんだろうな、って信じてついていく。
もしかしたら彼女は逆方向に進んでいるかもしれないのだけど。

「落ち込んですっかり出かける気をなくしてたあなたをわたしが、引っ張るようにして連れて行ったんだったね。
 ”今日は絶好の水族館日和よ!”なんて」

水の底には色がない。
わずかな光を受けた魚たちは、ぼんやりと曖昧な色を乗せて泳いでいる。

「でも考えることはみんな一緒で…すっごく混んでたね。
 魚を見に来たのか人を見に来たのかわかんなくなりそうだったけど、
 わたし達ずっと手をつないでたおかげではぐれずに済んで、よかった」

その中で唯一、一匹だけ真っ赤な魚がいた。
赤い色のおかげで、彼女だけはどこにいてもその姿を捉えることができた。

「わたし、実はちょっと気にしてたの。無理に連れて来ちゃったけど、あなたはたのしんでるのかな…って。
 でもあなた、目をキラキラさせて水槽を眺めてたから、わたし安心しちゃった」

彼女はどこを泳いでいてもわずかに他の魚から距離をとっている。
離れた場所から群れを眺めているようだった。

「あの頃まだ小さかったのに、あなたは色んな魚の名前を知ってて、ひとつひとつわたしに教えくれたよね。
 わたしがあなたを連れてきたはずだったのに、あなたがわたしを連れてきたみたいになっちゃって……たのしかったね」


泡が。
どこからともなく生まれては弾け、細かくなって浮かんでは消えた。

「あれ見て。あの魚」

わたしとは反対方向を向いていた彼女が指を指す。
深い群青の中の鮮血。

「かわいそう」

なにが。

「かわいそうよ」

きれいな魚だと、思うよ。

「きれいとかそういうんじゃないよ。あなたにはわからないのね」


山椒魚がいる。

足元にまるで岩のように動かない山椒魚がいる。
彼女は山椒魚をまたいで、進んでいった。

  ◆  ◆  ◆ 

また霧が立ち込めてきて、彼女は赤い傘を広げた。わたしもそれに続く。
真っ白い霧はだんだんと濁ってゆき、あたりを暗闇が包み始める。
鮮やかな赤は真っ暗な空間にぽっかりと浮かび上がりながら進んでいく。

その赤が消えた。

彼女は立ち止まって傘をたたんだ。


「もういいよ。ここまできたら、だいじょうぶ」

言われてわたしも傘をたたむ。
始終身体にまとわりついていたはずの湿り気がなくなっている。

「ほら、見て見て!星がきれい!」

頭上を見上げると満天の星空が広がっている。
ふたりを照らす、まばゆいばかりの星の輝き。

「あれ見て。あれ!」

彼女が指をさす先に、赤い星があった。
夜空に輝く赤い星。

「きれいね…。あー、寝っ転がって空を見てみたいわ」

気持ち良さそうだな。
でも、背中濡れちゃうよ。

「そうね、それはちょっと困るね。子供の頃だったらそんなこと気にしたりしなかったのにな」

はは…そうだな。


「ねぇ覚えてる?

 夏休みの宿題で星座の観察したときのこと。あの日も星がきれいだったね。
 それで”ちょっとでも空に近いところのほうが、きっともっと星がきれい見えるよ”って、
 わたしがワガママ言って…無理にあなたを引っ張って学校の裏山に登ったんだったね」

夜空を大きく横断する天の川。
その近くに、大きくS字を描くように光るのがさそり座。

「山の上は空気が澄んでたね。
 あの日はとくに天気がよくて晴れていたから、天の川がとってもきれいだったわ。
 あんまりきれいだったからふたりで寝転んで、ずっと見てたよね。
 それでずっと寝転んでいたからいつの間にか寝ちゃってて…」

さそり座の星たちの中に赤く光る星がひとつある。
赤い星の名前はアンタレス。
遠くわずかに明滅を繰り返しているように見える。

「気がついたら随分夜遅い時間になってて。しかも懐中電灯の電池が切れちゃって。真っ暗な帰り道がすっごく怖くて…
 わたしもう、今にも泣きだしちゃいそうだったわ。
 でもね。泣いちゃダメ、泣いちゃダメ、って、必死に泣くの我慢してたの」

アンタレスから少し離れたところにもう一つ赤く光る星がある。
それが火星。

「だって、普段とっても怖がりで泣き虫のあなたが泣いていなかったんだもの。
 わたし、きっとひとりじゃ帰れなかった。
 あなたがいてくれたおかげ。ぎゅっと手を握ってわたしを引っ張っていってくれたおかげ。

 ありがとう。わたしね、あの夜のこと、ふたりで手をつないで帰った夜のこと、

 一生忘れないと思う」


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最終更新:2015年07月02日 07:58