季節外れの肌寒さに震えて目を覚ますと、隣にけむくじゃらの塊があった。

























夢か。
だよな。
二度寝するかな。



それにしても寒い。喉もカラカラだ。
それもそのはず、扇風機のおやすみタイマーをうっかり忘れたせいで、わたしの身体に風が当たりっぱなしだった。

スイッチを切って時計を見ると、長針が10のところを指していた。早朝6時前。澪の目覚ましが鳴り出す少し前の時間。
朝早くからセミの鳴き声がやかましい。

ああ、もう起きないと。朝ごはん作らなきゃ。二度寝してる時間はない。身体を起こしてカーディガンを羽織る。

ベットから出る前にもう一度眠い目をこすって隣を見た。けむくじゃらの塊はさっきと変わらず塊のままだ。

しばらく凝視していると、塊が寝返りを打ってこちらを向いた。

マンドリル「おはよ」

正真正銘のマンドリルだった。


昨晩用意しておいた味噌汁を温めなおしていると、マンドリルがリビングにやってきた。

既に着替えを済ませている。
そうしていつも通り鏡台の前に座り、化粧を始める。

青白い頬に挟まれた長くてデカイ真っ赤な鼻。
ぴょんぴょん伸びた細いヒゲ。
ド派手な顔。

化粧いらねーだろ。
これ以上何か手を加える必要ねえよ。

鏡をみても自分の変化に気がつかないのか?
それとも気づいてるけどなんとも思ってないだけなのか?
念入りに鏡とにらみあい、丁寧に化粧をしてたようだけど、わたしの目には何も変わってないようにしか見えない。



箸の使い方も見事なもんだった。
左手で箸を持ち、ぬか漬けをつかんで口へ運ぶ。
長皿に乗せられた焼き魚の身と骨の部分を丁寧により分けていく。
咀嚼のたびに上顎に生えている2本の鋭い歯が見え隠れしてギョッとする。

几帳面に三角食べをする様子は澪そのものだ。
今日のぬか漬けの浸かり方は絶妙だな、なんて、バアさんみたいなことを言う。

お米一粒も残さず朝ごはんを食べ終え、愛用の湯のみで麦茶を飲み干す。
手と手を合わせて、ごちそうさま、とマンドリルは言った。おそまつさま、とわたしは答えた。



マンドリル「…律。今ちょっといいか?」

コップに注いだ牛乳を飲もうとする手を止めて、マンドリルを見た。

律「ん?なに?わたしはいいけど。そろそろ家でる時間じゃ、」

、と言ってから気がつく。
このまま送り出したらマズイんじゃないか。
こんなケモノを野に放っていいものか。とんでもないトラブルになるんじゃ…。

律「なぁ、澪。今日は会社休んでもいいんじゃね?」

マンドリル「は?バカ言うな。そんな無責任な真似できるわけないだろ」

律「そ、そうか…」

黄土色したマンドリルの四白眼がわたしを睨んだ。
怖すぎて、それ以上何も言い返せない。

マンドリル「まだちょっと時間あるから話すぞ。夜は疲れてゆっくり話せないから」

澪が帰ってくるの大抵23時過ぎ。かるく夜食をとってお風呂入ったらすぐ寝ちゃう。
休日も仕事に出かけることが少なくない。

律「なんだよ。あらたまって」

わたしは食べ終えた二人分の食器をシンクへ運びながら答えた。



マンドリル「来月でこのマンションの契約が切れる。これからは別々に暮らそう」



乾いた笑い声がTVから響く、空調の効き過ぎた室内。
ひやりと冷たい風が首筋に当たり、わたしの体温を奪っていった。


唯「病院行こっか」

店内には落ち着いたジャズ風の音楽がゆるやかに流れている。
氷のいっぱい入ったアイスティーを、ストローでカラカラ回しながら唯が言った。

律「行かねーよ。おかしいこと言ってるってのは自分でもわかってんだよ」

唯「いやー…しかし、2年も留年してる時点で頭よくないって、わかってたけど…」

唯「ほんもののばかだったんだね、りっちゃん」

律「うるせー!」

唯「久しぶりにふたりっきりで会いたい、って言うからたのしみしてたらこれだもんなー。澪ちゃんの話ばっかりなんだもん。さみしいよ…」

律「誤解されるような言い方するなっ。こっちは真剣に悩んでるんだ」

唯「悩んでるっていうはどっちのこと?澪ちゃんがマンドリルになっちゃったこと?澪ちゃんに捨てられそうなこと?」

律「そりゃ両方だけど…どっちかっつーとマンドリルの方が深刻だな。あと捨てられるわけじゃないから」

唯「まぁ確かにね。わたしはりっちゃんの頭が心配だね」

うるさいよ。でも確かにわたしも自分の頭が心配だ。
これは悪い夢だと決めつけてあの後二度寝を決め込んだけれど、帰って来た澪もやっぱりマンドリルだった。



あの日、いつものように遅く帰って来た澪にわたしは聞いた。

律『きょうはどうだった?』

マンドリル『どうだったって…なにが?』

律『いやその…会社のひとの様子とか…おかしくなかった?』

マンドリル『は?……いつもどおりだけど。むしろ今のお前の様子がヘンだ』

職場に突然マンドリルが現れるんだぞ。
マンドリルがタイムカード押して入って来るんだぞ。
マンドリルがパワポで企画書作ってプレゼンするんだぞ。
マンドリルが営業回りしてるんだぞ…。

みんな無視かよ…。



休みの日に近所のスーパーへ買い物出かけた時も、わたしはまわりの視線が気になって仕方がなかった。だけど、周囲は全くマンドリルに気を留めない。

マンドリル『おい、どうしたんだよ?キョロキョロして…』

律『あ、いや。別に』

マンドリルがバナナを品定めしてる様子を見ている時は腹筋つらかったな。
なんだかいつも以上に選定に時間をかけてたように思えた。
めちゃくちゃ面白い絵面だっていうのに、まわりのおばちゃんたちは全く目もくれない。
中高生やサラリーマンの兄ちゃんおじさんたちがこっちをチラチラみてくるのはいつも通りだった。(澪は美人だから)



どうやら澪がマンドリルに見えているのはわたしだけらしい。

こんなわけのわからないことを相談できる奴は限られている。

唯「そんなこと相談されてもね…なんて言っていいかわかんないじゃん」

律「まぁそうだよなー」

唯「ムギちゃんには相談してみたの?」

律「………いや」

唯「…最近会ってるの?」

律「………いや」

唯「メールとか電話とか」

わたしは黙って首を横に振る。



唯「同じ学校行ってるんだから毎日会えばいいのに。ムギちゃん、会いたがってると思うよ」

同じ学校、つっても留年学部生と大学院生じゃ立場がぜんぜん違うんだよ。

律「どーだかね…」

唯「そんなに避けなくてもいいのに。なに?もしかしてまだケンカしてるの?」

律「なぁ唯、この店ちょっとクーラー効きすぎじゃね?」

唯「そういえばりっちゃんが頼んだミルクティーのホット、まだ来てないね。あ、わたし追加でチョコパフェた〜べよっ!りっちゃんゴチになりまーす☆ …で、どうなの?」

話題を反らすのに失敗し、かつ財布が少しさみしくなった。



律「…忙しくて会うことも連絡とることもできないだけだよ」

唯「りっちゃんヒマじゃん」

律「ムギは忙しいんだよ」

唯「あー………、わかった!」

唯「りっちゃんがムギちゃんに一方的に嫌われてるんだ。それで同じ大学なのに避けられてるんだ。それならナットクだよ」

律「そうそう。そーゆーこと」

案外簡単に引き下がった唯は、勝手に想像を膨らませて勝手に一人で納得して、コクコクと頷いている。



律「…それよりせっかく相談してるんだ。お前も友達ならなんかアドバイスくらいないのかよ?」

唯「アドバイスねぇ…じゃあ澪ちゃんに追い出されたらわたしと住む?」

律「いや……そういうことじゃなくて……」

本格的に家なしになったらたぶん頼るけど…。

唯「りっちゃんと同棲したら毎日楽しそうだし、おいしいごはん作ってくれそうだし、わたしはぜんぜん構わないよー」

律「そうじゃなくて澪の怒りを鎮めるにはどうしたらいいか、だよ」

唯「澪ちゃん怒ってるんだっけ?」

律「怒ってなかったら出てけなんて言わないだろ」

唯「出てけ、じゃなくて別々に暮らそう、でしょ」

律「おんなじ意味だろ」

唯「そうかな?でもわたしたちもう大人じゃん。一人暮らしなんて普通のことでしょ」

唯のくせに正論を言う。



律「ま、まぁ…だけどそれにしたって唐突だ。何か怒らせたのかもしれんだろ」

唯「えー、澪ちゃんのことはりっちゃんがいちばんよく知ってるじゃん。りっちゃんがわかんないなら、わたしにわかるわけないよ」

律「それはほら…ちょっと離れた立場の人間だからわかることってのもあるじゃんか」

唯「うーんそうだなぁ……あ、りっちゃん。もしかして澪ちゃんになにか隠し事とかしてない?」

話の合間に通りかかった店員を呼び止めた唯は、メニュー表の中でもいちばん大きくていちばん高くていちばんカロリーの高そうなパフェを注文した。
チョコパフェじゃねーのかよっ。



唯「ほら…言わなきゃいけないことなのに黙ってることとか」

律「…………ない」

唯「ほんとに?澪ちゃんのお気に入りのCDこっそり割っちゃった!とか、ないの?」

律「それはない、断言できる」

唯「そっかーそれなら…」

唯は胸の前で両腕を組みつつうんうん言いながら首を左右にひねる。
…こんなに一生懸命考えてもらうと、それはそれで申し訳ない気持ちになるなぁ…。

唯「今年も卒業できそうにない。あーんど、まともに就職できそうもない」

律「ああ、その辺は大丈夫なんだよ。単位取れてるし」

唯「就職は?」

律「一応一個内定もらってる……つまりそーゆーわかりやすい理由で思い当たる節がないから悩んでるんだ」

唯はわざとらしくため息をついた後、突然笑い出した。



律「なんだよぉ……!」

唯「ごめんごめん。正直ね、わたしも卒業とか就職とか、そんなことが原因じゃないと思う」

律「どういうことだ?」

唯「だってりっちゃんがこういう人間だ、ってこと、澪ちゃんが知らないわけないじゃん。だからまた留年したりとか卒業しても就職浪人したりとか…仮にそういうダメダメだったとしても…まぁ大事なことだとは思うけど…そんなことで澪ちゃんがりっちゃんに愛想尽かすとは思えないんだよね」

律「じゃあなんだってんだよ…」

唯「うーんわかんない。…あ、そういえば思い出した、こんなときお悩みを解決するとっておきの必殺技があったのです!」

律「なんだよそれ!そんなのあるならさっさと教えろよ!」

唯「………りっちゃん。それが人にものを教わる態度?」

律「すみません。教えて下さい、お願いします」

唯「ははっ、わかったよそこまで言うなら……えーっとねぇ………」

ちょっとだけ残ったアイスティーを一気に吸い上げると唯は顔を上げた。
両手をテーブルにつけて身を乗り出し、顔をわたしに近づける。

クーラーの風に前髪が揺れた。
もう、昔みたいに髪留めはつけていない。
一瞬、隠れていた額が露わになる。
栗色がかった瞳に視線を合わせると、目をそらすことができなくなった。



唯「チューしてみたら、いーんじゃない?」


そう言って唯は笑った。
桜色の唇から白い歯がこぼれた。


律「………あ」

唯「あれ?なになに?なーにりっちゃん、まさかドキドキしちゃった?」

律「そ、そんなんじゃねーし…」

唯「あはは、そんなだから澪ちゃんに捨てられちゃうんだよ」

律「まだ捨てられてねーし!それにわたしと澪は……そういうのじゃないから」

唯「・・・そっか」

唯はTシャルの上にカーディガンを羽織って、そのVネックの襟元から鎖骨が見えている。
昔、増えも減りもしないと言っていた体重は、少し落ちたように見えた。



唯「マンドリルの方だけど」

律「ん?あ、ああ…」

唯「話聞いてる?マンドリルのことだけどさ。わたし自身澪ちゃんに会ってみないことにはなんとも言えないと思うんだ。わたしにもマンドリルに見えるかもしれないし、見えないかもしれないし」

律「まぁそうだな」

唯「でさ。卒業してからは…あ、りっちゃんはまだしてないけどそれはさておいて…最近みんなと会ってないじゃん。だからいい機会だし、みんなで集まらない?」

律「それはいいと思うけど…梓とか無理じゃね?アイツがいちばん忙しそうだろ」

唯「無理なら仕方ないけどさ。声かけるだけかけてみようよ。スケジュールは澪ちゃんとりっちゃんに合わせるからさ。ま、りっちゃんはいっつも暇だと思うけど」

一言多いよ。これでもバイトもしてるし、授業にも出てるし、家事だってやってんだ。

律「わかった。じゃあ澪にはわたしから伝えとく。ムギには……唯から頼むよ」

唯「りっちゃんから連絡してよ。部長だしリーダーだしお姉ちゃんでしょ」

律「いまのわたしは部長でもリーダーでもない、お姉ちゃんではあるが、元々お前らは妹じゃない。したがって連絡は唯隊員、お前に任せる」

唯「…」

ちょっとふざけてみたのに、唯の反応は思いも寄らないものだった。
黙ったまま小さく笑って頷くだけだった。



律「…そうだ。集まる、ってどこにする?どっか行きたいとこあるか?」

唯「えへへ〜、あるんだな、それが」

律「ふーん、どこだよ?」

唯「どうぶつえん!マンドリルといっしょに動物園、っな〜んておもしろそうじゃない?」

こいつふざけてやがる。

唯「ほら、マンドリルとマンドリルを会わせたらなにか起こるかもしれないでしょ?この際なんでもやってみなくちゃわかんないよ」

律「…それもそうか」

唯「そうそう」

唯はたのしそうに笑う。どこまで真剣なのかはわからない。いや、澪がマンドリルになったと言ってるわたしの話を真剣に聞くやつなんていないかもしれない。

店内の音楽がそれまでのジャズ風からアイドルっぽい曲に変わった。

律「ところで唯、ギター、今でも触ってるか?」

お手洗い行ってくるね。唯はやさしい声でそう言うと、席を立った。
ホットミルクティーは、まだやってこない。


紬「わぁっ、あれ見て!レッサーパンダが立ってる!」

マンドリル「えっ、ほんとうかっ」

ふたりは駆け出す。
四つ足で駆けるマンドリルとムギ。うーん美女と野獣。

マンドリルが園内をうろうろしてたらパニックになって捕まえられて檻に入れられちゃうんじゃないかって思ったけどそんな事態は起こらず、わたしたちはのんびり歩きながら動物園を堪能していた。



律「なぁ…レッサーパンダはもういいだろ?次行かないか?」

紬「あ、そうだね。じゃあ次は…」

律「…マンドリルでも、見に行かないか?」

マンドリル「え?マンドリル?」

律「あ、ああ…」

紬「い、いいんじゃないかしら〜…わ、わたしもみた〜い……」

マンドリル「えー…マンドリルかぁ…」

紬「澪ちゃんは…マンドリル嫌い?」

マンドリル「そういうわけじゃないけど…でもマンドリルって顔こわくないか?少なくともかわいいとは思えないし」

お前が言うな、って言葉がすぐそこまで出かかって、必死で食い止めた。

律「まぁちょっとだけでもいいからさ。珍しい動物だし。せっかくだから見てみたいんだよ」

自分で言ってて思う。全然珍しくなんてない。だって毎日見てるから。一緒に暮らしてるから。つーか今わたしの目の前にいるから。

しぶしぶ、といった調子でマンドリルはレッサーパンダから離れて、わたしたちはマンドリルの檻へ向かうことになった。



檻を通してマンドリルとマンドリルが見つめ合う構図はなんとも言えない味わいがある。

マンドリル「…」

紬「…」

律「…」

マンドリルをマンドリルに会わせたら何か反応があるんじゃないかって思ったのだけど、特別なにかが起こることもない。マンドリルと同じくマンドリルも特に反応を示すわけでもなかった。

マンドリル「…律。わたし、ちょっとお手洗い行ってくる」

律「え、あ、うん。わかった。ここで待ってる」

マンドリル「いや…もうマンドリルはいいだろ。わたし、カピバラ見たいから。そっちで落ち合おう。先に行っててくれる?」

律「…ああ、わかった」

紬「行ってらっしゃい」

檻の中のマンドリルは、見慣れたウチのマンドリルに比べて、汚いし、獣くさい。顔つきも荒々しくて、品がない。知性も感じられない。
…と、動物の顔を見分けられるようになってる自分に気がついて首を振った。そもそも比べるのが間違ってるんだ。片方は澪だぞ?大事な親友、幼なじみ、同居人。それに……。

紬「…りっちゃん?」

隣のムギが心配そうにわたしを覗き込む。

律「ごめん。大丈夫」

ムギが笑いながら差し出した日傘を、わたしは笑って拒絶した。



律「どう?なにか変わったように見えた?」

紬「ごめんりっちゃん。わたしには前とおんなじ澪ちゃんにしか見えないわ」

律「そっか」

紬「…ごめんね、力になれなくて」

律「いや…こっちこそごめん。おかしなことに巻き込んじゃって」

紬「ううん。わたしは楽しいから。久しぶりにりっちゃんに会えて。唯ちゃんと梓ちゃんが来れなかったのはとっても残念だけど」

言い出しっぺのくせに唯はこなかった。客商売は不定休だからそれは仕方がない。
忙しくしてる梓もやっぱり来れなかった。
唯からのメール。『これを機会に仲直りしてね!!』余計なことしやがって。



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最終更新:2015年08月21日 22:22