律「頑張ってるんだな」

梓「まぁ、それなりに」

大したもんだと思う。
梓のバンドは音楽専門誌に取り上げられることもあるみたいだし、地方へライブツアーみたいなこともしてるらしい。今日のライブの盛り上がりも中々なものだった。わたしたちの演奏で客席があんなに沸いたことは…あっただろうか。

梓「言っとくけどフル単だったんですからね?律先輩とは違いますから。わたしは自ら退路を断ったんです」

律「わかってるよ」

梓が店員さんを呼び止めて、ハイボールのおかわりを頼んでいる。
わたしもさっきの注文がちゃんと通っていたのか確認する。あ、通ってるのね。よかった、じゃ、よろしく。
”しっかしカルーアミルクって・・・律先輩って相変わらず女子っぽいの好きなんですね”って言われたから一発頭を小突いてやった。



梓「ほんとは律先輩たちとステージに立っていたかったんですよっ わかってますかっ」

律「酔ってる酔ってる」

梓「酔ってないっ ちゃんと聞いてるんですかっ」

律「きーてるきーてる」

梓「きーてないっ ちゃんと聞けっ」

前言撤回。やっぱり梓は酒に強くない。わたし一応センパイだよ?忘れてないよな。

梓「そんなんだから澪先輩もマンドリルになっちゃうんですよっ」

律「いやいや…それとこれとは関係ないだろ」

梓「ありますよっ。大体あのときだって律先輩が黙ったまま何にも言ってくれないから…。わたしたち待ってたんですよ。律先輩が決めてくれるの」

梓「律先輩がまだ諦めない、って言ってくれてたらきっと、澪先輩も納得してくれてましたよ。律先輩が潔く諦めるぞ、って言ってくれたら…わたしだって…」

ハイボールの大ジョッキとカルーアミルクがいっぺんにやってきた。
すると梓は何を思ったかわたしのカルーアミルクを掴み取って一気に飲み干した。



律「おいそれわたしの…!」

梓「うるさいっ」

ドンッ。
勢いよく叩きつける音が響いて、通りすがりの店員が振り返った。
グラスは割れていない。軽く頭を下げたわたしを見て、店員は去っていった。

梓「いい機会だから聞きます。なんで黙ってたんですか。あのときの律先輩、サイテーでした。ズルいです。卑怯です。大ッキライです」

なんで2年ぶりに会う後輩にここまでなじられにゃならんのだろう…。
いや、わたしはなじられたって仕方ない。

梓「正直に言っちゃえばよかったんですよ。ヘンに隠すからおかしくなるんです。本当のことを言ってくれたらよかったんです。どうせ隠してなんておけないんだから」

律「…梓。お前、何を知ってる?」

梓「律先輩のことはお見通しです。嘘が下手なんだから」

律「だから何を知ってるってんだよ!」



梓「澪先輩一人だけがスカウトされてたってことですよ!澪先輩本人も、唯先輩もムギ先輩もみんな知ってますよ!」



わたしは財布からありったけの現金を掴み取るとテーブルに叩きつけ、一滴のアルコールも飲まずにそのまま外に飛び出した。


紬「……りっちゃん」

律「……ムギ。こんなとこで何してんだ」

マンションの自動扉が開くと同時にセミが飛び出した。なにかのタイミングで入り込んでしまっていたんだろう。
点滅を繰り返す蛍光灯の下には、ムギがしゃがみこんでいた。

紬「どうしたの?息を切らして」

律「…別に。ムギこそどうしたんだよ」

紬「…行くってメールしたんだけど……見てない?」

律「……あ、ああ…ちょっとバタバタしてから。澪、帰ってない?」

紬「……さっき帰ってきてた」

律「声かけなかったのかよ」

蛍光灯の周りに蛾が二匹たかっている。
今夜は風がない。嫌な湿気が身体にまとわりつく。

律「さっさと部屋に行こうぜ」

紬「いい。りっちゃんと二人で話したいから」

律「澪がいたらマズイのか」

紬「言わせないで」

そのままマンションを離れて歩き出した。



紬「誤解を解いておきたかったの」

ガチャン、と大きな音を立てて発泡酒の缶が転げ落ちた。

紬「これ、自分でつねって作っただけだから」

そう言ってムギは首をつねって見せた。
自販機のおぼろげな光が首筋を白く照らしている。

わたしは発泡酒をポイっと投げて渡す。
ムギは真顔で受け取った。

紬「もうちょっとショック受けてくれると思ったのに」

律「十分ショックだったよ。だから安心した」

紬「うそ」

律「うそじゃないって。なんかムギが誰とでもそういうことするの…ヤだから」

紬「うそ」

律「うそじゃねーって」

ムギは右手に缶を握ったまま、プルトップに手をかけていない。
なんだかわたしも飲む気が起こらない。



紬「誰とでもってわけじゃないけど。何人か、かっこいい男の子とはしてみたよ」

わたしは思わず立ち止まる。

紬「あれ?傷ついた?」

先を行くムギも歩みを止めた。ゆっくりとこっちを振り向く。




紬「う・そ♪」




紬「ふふ…でもうれしい。ちょっとはわたしのこと、考えてくれてるんだ」

夜の大通りの信号機。中心の黄色がパカパカと点滅している。

律「あんまり人をからかうなよ。怒るぞ」

紬「からかってるのはりっちゃんじゃない」

ムギが歩行者用信号機のボタンを押した。点滅していた信号機が赤色に変わる。

紬「なんでそんな、わたしのことちょっと気にしてみたりするわけ?今は澪ちゃんがいるのに」

律「なに言ってたんだ…一体なんのことだよ」

紬「…澪ちゃんに何もしてない、ってうそついてる」

律「ああ…そのことか。ほんとだよ。何度も言うけど、わたしと澪はそんなんじゃない」

紬「じゃあわたしとりっちゃんは?」

律「……」

紬「ねぇどうなの?」

律「……友達だよ。だいじな友達。だからムギには自分を大事にしてほしい」

紬「だいっっっきらい!」

ムギが大声で叫んで手に持った缶をしゃかしゃか振り出すと、わたしの方にむけて一気にプルトップを引き上げた。

プシュウッ!と勢い良く飛び出したアルコールがわたしの顔に降りかかる。



律「うわっバカっ!なにすんだよっ!」

紬「バカはりっちゃんじゃないっ」

紬「わたしの気持ち、知ってるくせにっ!なんでそんなこと言うの!」

紬「嫌いって言ってよ!顔も見たくないって言ってよ!


  ……さいってい」


そうしてムギはそのまま座り込んでしまった。

信号が青に変わった。

きょうは何回最低って言われるんだろう。事実だからしょうがないか。
わたしはムギに声をかけられないまま、発泡酒まみれの顔も拭わずに立ち尽くしていた。


紬『りっちゃん起きた?』

うだるような暑さに目を覚ます。
ブラインド越しに降り注ぐ真昼の日差しをムギが遮って、長い影が伸びている。
TVからはおなじみお昼の情報番組のOP曲が流れている。

律『まーたやきそばー?』

紬『だって、食べたかったんだもん。りっちゃん、やきそば嫌い?』

律『ううん。好き。ムギが作るやきそば、おいしーから好き』

紬『えへへ…』

じゅうじゅうとフライパンの音が鳴る。
髪をアップにまとめたムギの白いうなじには、玉のような汗がいっぱい。
首筋には一点の赤。虫刺されのような痕。

わたしは冷蔵庫から発泡酒を取り出すと、ムギの首筋にピタッとくっつけた。



紬『わっ!』

律『へへっ、気持ちいいだろ?』

紬『だめよ。お料理中なんだから…』

律『だって暑そうだったからさ』

プルタブを引き上げて、ひと口。
渇いた喉に、冷えたアルコールが流れ込んでくるのがきもちいい。

紬『夏だもん。仕方ないよ』

律『やきそば作るからだろ』

紬『りっちゃん、わたしのやきそば、好きって言った』

律『好きだよ?やきそば。ムギがつくってくれるものはなんだって』

紬『……もぅ、りっちゃんたら。でもあっついね』

律『クーラーのない、わたしの部屋に泊まるからだよ』

紬『好きなんだもん、仕方ないよ』

律『暑いのが?それともわたしのことが?』

答えを聞く前に、わたしはムギにキスをした。
ミルクみたいな甘い匂いに混じって、汗の匂い。それと、ちょっと焦げ臭い匂い。
やきそば、焦げたな。

くちびるが離れると、ムギはちいさな声でりょうほう…って真っ直ぐ目を見て呟いた。
わたしは笑ってムギから離れると、首振りで動いてた扇風機をムギの方に向けて固定する。

風の流れが変わった。

大学四回生、夏。
寮を出たわたしは、ムギと一緒に暮らしてた。


律『ムギってもう就職決まったんだっけ』

扇風機が首を振りながらぬるい空気をかきまわしている。
タンクトップ姿で缶ビールを飲みながら、文庫本を読んでいたムギがこっちを向いた。

紬『ううん、まだ。珍しいね、りっちゃんがそういうこと気にするの』

律『あ、うん。いやさ、最近リクルートスーツ着てるとこみないから。あれ、就職決まったんだったかなーって』

紬『うーん実はね、就職しないかも』

…ん?
自分の親の会社に勤めるという最終手段があるとはいえ、ムギはそういうことを嫌がるタイプだったから、割と熱心に就活してたはずなのに。


紬『大学院に行こうと思って』

律『へぇ…好きなんだなぁ、勉強。わたしにはムリだー』

紬『違うよ。好きなのは勉強じゃなくて…その、りっちゃんと一緒の時間、増えるでしょ?』

律『そーゆー決め方ってよくないと思うんですけど』

紬『むっ。留年確定してるりっちゃんには言われたくありません!』

律『…ま、そーね』

わたしに他人のことをどうこういう資格なんて、1ミリもない。


紬『わたしはりっちゃんの側にいられたら、他にな〜〜んにもいらないから』

そう言いながら文庫を放り投げると、わたしのほうにしな垂れかかり、両腕を首に回してくる。
そのまま体重をこちらに預けてくるままに任せてふたり、汗にまみれてベットに倒れこむ。
ムギの舌がわたしの耳の中に入り込んでくる。耐え切れず、吐息を漏らす。ムギが笑う。今度は耳をまるごと食べるように口の中に含んだ。

その間わたしはずっと、ムギの髪を撫で続けていた。

ムギがうらやましい。
どうしてそんなに素直に自分の気持ちを口にできるんだろう。素直に行動できるんだろう。


年が明けてしばらくして、わたしは寮を出た。
それ以来、大学には一度も行っていない。だから講義には全く出ていない。

軽音部にも一切顔を出していない。
ドラムにも触っていない。
音楽も全く聴いていない。

そもそも外に出ることがない。

たまに唯や澪やムギが様子を見にやってきても、大抵しらんぷり。気が向いたら時々招き入れた。
メールや電話には時々返事を返す。大学には行けたら行く、と適当に答えた。

4回生になった。最終学年になると講義がなくても就活や院試やゼミやらで忙しいらしく、3人もあまり軽音部には顔を出していないようだった。

梓からは一切連絡がなかった。






梅雨に入ったある日。
いつものように昼過ぎに目を覚ますと、外は雨模様だった。
午後から澪がやってくると、前日に連絡があったことを思い出す。この雨の中ご苦労なことだと思う。滅多に外に出かけないわたしにとって、外の天気がどうであろうと大した意味はない。


点滅に気がついてケータイを開く。ムギからのメールだ。着信もある。1時間ほど前。寝ていて気づかなかった。


”出先で雨に降られちゃって。ちょっと雨宿りさせてもらっていい?”


澪が来る予定の時間まで、まだ少し余裕があった。
雨に濡れた友人を放っておくほど人間腐っちゃいなかった。
わたしは気楽に返事を返すと、すぐにドアをノックする音が聞こえた。

紬『えへへ…実はもう来ちゃってたりして』

ドアを開けた先には、ずぶ濡れのムギが立っていた。



律『わるい、全然気がつかなくて』

紬『ううん、こっちこそごめんね。急に家に押しかけたりして』

濡れた髪は頬に張り付いて、雨に打たれた白のポロシャツは身体に密着してボディラインを明らかにしていた。うっすら下着が透けているのが見えて思わず目を逸らす。

律『とにかくあがって。タオルと着替え、とってくる』

紬『ありがとう』

真正面から見ていられなくて、わたしは中に引っ込んだ。



律『コーヒーでいい?紅茶、ないから』

紬『ありがとう。あ、わたし自分でやるよ』

律『じゃあお願いしちゃっていいかな。インスタントしかないけど。冷蔵庫の上に置いてあるから。わたし、洗濯機回してくるよ』

紬『ごめんね、りっちゃん。なにからなにまで』

律『いいよいいよ。雨はまだ止みそうにないし。服が乾くまでウチにいなって』

ムギにとってはサイズの小さめなわたしのTシャツ。

ちょっと刺激が強い。
…何考えてんだ。友達相手に。馬鹿だな、わたし。



紬『りっちゃん、今日は何してた?』

律『…寝てた』

紬『ふぅん。昨日は?』

律『寝てた』

紬『一昨日』

律『寝てた』

紬『じゃあ明日は?』

律『明日もほとんど寝てるだろうなぁ…』

紬『明後日も』

律『絶対寝てるわ』

紬『じゃあわたしも今日はりっちゃんと寝ようかなぁ…』

律『ダメダメ。わたしと同じ生活してたら人間ダメになっちゃうぞ』

ムギをわたしみたいに、したくない。

紬『そうかしら?でもりっちゃんと一緒なら寝てるだけでもたのしそう』

律『たのしくねーって。だって寝てるだけだぞ。1日平均12時間は寝てるんだから』

紬『うーん。そんなに寝てるならたのしく有意義な寝方しないともったいないね』

律『そんなもんねぇよ。わたしは時間をドブに捨ててるだけなの。若者らしくない不健康なことしてるだけなの』

紬『りっちゃん』

急に真面目な顔になってムギが言う。



紬『眠るのって実は体力がいるらしいの。ほら、おばあちゃんになるほど早起きでしょ?
  だからね、りっちゃんってきっととっても健康なのよ。よかったね』

相変わらず反応に困る微妙なボケだ。

つっこまないのもかわいそうだし、一応やっておくか。
かるく握った拳をあげた瞬間、雷が鳴った。



ドォン!



驚いた拍子にゴミ袋に足を取られてつんのめる。
前のめりに倒そうになるわたしをムギが助けようとして体勢を崩し、そのままふたり一緒に倒れこんだ。



律『いたた…ごめんムギ、大丈夫だっ……』

瞳が、わたしをまっすぐに見つめていた。

紬『りっちゃん』

きっと外国の血が混じってるのだろうその青い瞳。

紬『ねぇ、りっちゃん』

暗い部屋の中でも、不思議に輝いて見える青い瞳。

紬『わたし…愉しい寝方知ってるよ』

熱を帯びた青い瞳はわたしの視線を引き付けて離してくれない。

紬『わたし…りっちゃんと一緒に寝てみるの、夢だったの』

ムギはそのまましがみつくようにわたしの首に手を回した。

紬『りっちゃんは?わたしとじゃ……いや?』

ふたりの頬と頬が触れ合い、ムギは耳元で囁くように言った。

紬『わたしと……寝てみる?』



もう一度、雷が鳴った。
雨は変わらず降り続けている。
パチン、と音を立てて電気ケトルが沸騰を告げた。

全部、どこか遠く、別の世界の音みたいに思えた。

身体が熱い。息が苦しい。

遠くでチャイムの音が聞こえたような気がしたけれど、
そのときのわたしたち二人の世界を邪魔できるものなんて、なにもありはしなかった。


空き缶が2つ、夜の歩道に転がっている。

紬「澪ちゃんに追い出されるって聞いて、いい気味だと思ったわ。これでりっちゃんも捨てられる方の気持ちがわかったでしょ」

かけられた発泡酒はとっくに乾いていた。
よく見たらムギの顔が赤い。随分飲んでからここに来たのか。




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最終更新:2015年08月21日 22:20