あのままじゃ本当にムギが、ダメになると思った。

ムギは澪と違ってわたしに対してうるさいことを何一つ言わなかったし、大学院に進学が決まるとわたしと同じようにろくに大学に行くこともなくなった。

昼過ぎに起きて、遅い昼食を一緒に食べる。それからムギはバイトに出かける。なんのバイトかは知らない。曜日によってまちまちだったから、いくつか掛け持ちしていたのかもしれない。わたしはその間マンガや雑誌を読みながら過ごした。




ときどき、天気が良い日は散歩に出かけて買い物をする。


ある夏の日。気まぐれにスイカを丸ごと買って帰ると、ムギは目を輝かせて喜んだ。
大きなスイカを1/4にカットして、豪快にむしゃぶりつく。
窓際にふたり並んで座り、がぶりがぶりとカブりつきながら、ぷっ、ぷっ、と黒い種を吐き出して遊んだ。
種は放物線を描いて飛んでは、ベランダに散らばった。
コンクリートに落ちた種は、芽吹くことなどありえない。
”でも成長しちゃっても困るでしょ?育てられないから仕方ないよ”ムギは真顔で言った。

こうやって食べるのが夢だったの、と無邪気はしゃぐムギも、後半はかなりムリしてるのがわかった。わたしも結構キツイ。でも残すのがもったいなくてムリして食べた。そして仲良くお腹を下す。

お腹にやさしいものがいいでしょ、その晩、ムギはホットミルクを入れてくれた。
あったかい。汗をかきながら、ふたりで飲んだ。



ふたりでよく、銭湯に通った。
アパートの小さなユニットバスと違って思う存分足を伸ばせる大きな湯船。
お金を払った以上、元は取らないと、って貧乏くさく1時間も2時間も粘ってた。

お風呂上がりには瓶入りの牛乳を飲む。
ムギはコーヒー牛乳。”えへへ、コレ飲むの夢だったの。腰に手を当てて飲むんだよね?”
夜風の涼しい帰り道を、手をつないで歩く。まだ乾ききっていない濡れ髪のムギ。身体にまとったミルク石鹸の匂いが、風に吹かれて漂っていた。


ふと気が向けば料理をしてムギの帰りを待つ。

わたしが晩御飯を作ると、ムギはとても喜んだ。

りっちゃんって本当にお料理が上手よね。
出汁の取り方、お米炊き方ひとつとっても、わたし全然敵わないもん…。
ちゃんと真ん中までしっかり火の通ったハンバーグ。ムギは小さく切り分けながら、ゆっくりひと切れひと切れ味わうように食べてくれた。

夜にあんまり食べすぎると太るぞ、っていうわたしの言葉を聞かず、笑顔でたくさんおかわりをねだった。



その笑顔を見た次の日は、絶対晩御飯を作らなかった。






帰って来たムギが、ベットに寝転んだわたしを見て少し残念そうな顔をする。
そんなときわたしは眉ひとつ動かさずムギを見つめる。
何も言わない。
そんなわたしを見てムギは謝る。
変だよな、何も悪いことしてないのに。悪いのはわたしの方なのに。




そのうちムギが帰ってくる時間には家に帰らず、冬の夜空の下、公園のベンチでタバコを吸っていることが増えた。
日付が変わる頃、ムギが迎えにやってくる。

タバコの火が目印になるね、りっちゃんがここにいるってわかったよ。
そう言いながらムギが隣に腰掛けて、わたしの手を握ろうとした。

とっさに振りほどく。

『わたしの手、冷たいから』

反対の手からタバコが滑り落ちて、音もなく火は消えた。



いつだってムギは、わたしが帰るまでご飯を食べずにずっと待っていた。
わたしが帰るころには、すっかり冷えきった晩ご飯を二人で食べる。

”いっしょに食べると、なんだかとってもおいしく感じるよね。”

いつか、そんなことを言っていた。

その日はTVから流れる乾いた笑い声だけが、六畳一間のアパートに響いていた。


ムギが淹れてくれた紅茶には口をつけず、冷めた缶コーヒーばかり飲んだ。

起きがけにつくってくれる得意な焼きそばは、箸をつけることすらしなくなった。

夏には毎日一緒に通った銭湯に行くことはなくなり、冬もシャワーで済ませた。

クリスマスは、ネカフェで一晩を過ごした。


肌に触れなくなった。
キスをしなくなった。
頭を撫でなくなった。
手を繋がなくなった。
目を合わせなくなった。


会話すら、なくなった。


ムギはいつも謝ってた。
けれど涙は一度も見せなかった。




春が来て、同級生が卒業すると同時にわたしの留年が確定し、無視し続けた親からの電話に出ると、聞こえてきたのは説教と罵倒ではなくて泣き声だった。





その後しばらくしてから澪がやってきてなにか言った。
よく覚えていないけど、言われるままあのアパートを出たのは間違いない。
そうして澪のところに転がり込んだ。










それからムギがどうしたか知らない。
わたしたちが住んでたアパートの契約がどうなったのかも。
ムギもとっくに寮からは引き払ってたはずだ。どこに引っ越したのか、住所も聞いてない。

院に進学したはずだから同じキャンパスにいるはずなのに、一度も姿を見かけたことはない。

”来年もりっちゃんと同じキャンパスに通えるね”そう言ってたのに。










律「わたしなんかと一緒にいたら、ムギがダメになると思ったんだ」

紬「勝手に決めないでよ。わたしのこと勝手に決めつけないでよ」

律「ごめん」

紬「なんで今になって謝るの?あの頃は一言も謝ってくれなかったのに」

律「ごめん…」

紬「バカ……キライ。大ッキライ。りっちゃんなんか大キライ」


よかった。ようやくムギに嫌われた。
これでよかったんだ。
わたしなんか嫌われちまった方がいい。
わたしみたいな奴はムギにふさわしくないんだ。

ずっとそうなればいいと思っていたことが実現したというのに、わたしはわたしで随分傷ついてるみたいで、そんな自分に気がついて嫌気がさした。



律「……ムギ?」


泣いていた。
あんなにひどいことをしても、一度も泣いたことのないムギが。




紬「ダメ……やっぱりダメ、ムリ…」

律「ムギ……?」

紬「好きなの……あれからも一年以上経ってるのに……今でも好きなの。大好き。嫌いになんてなれない。りっちゃん好き、大好き。お願い、帰ってきて」

律「ムギ…」

紬「わたしね、ずっと待ってるんだよ。あのアパートで。ずっと、今でも」

紬「待ってるの。りっちゃんが帰ってくるの。だからね、お願い…」

耐えきれなくて、わたしはムギをギュッと抱きしめた。
昔よりちょっとやせたほそい身体。
アルコールに混じって漂う懐かしいミルクのような甘い香り。
あったかい。このあったかさはずっと覚えている。ムギはいつだってあったかい。




知らない間にわたしまで泣いていた。
散々ひどいことをしてきたのはわたしなのに。
涙を流す権利なんてこれっぽっちもありはしないのに。
それでも涙を止められなかった。
わたしの涙に気づいたのか、ムギがつよくわたしを抱き返してくれた。
ただムギの体温がうれしくて、このあったかさをずっと感じていたかった。

信号機の青い明かりが夜の闇を照らしている。
雲が月明かりを隠して、遠くの空ではゴロゴロと不穏な音を響かせていた。




律「ムギ、もう少しだけ時間をくれないか。アパートで待っててくれ。必ず行くから」

紬「うそ、そんなのうそよ。行かないで、お願い。そばにいて」

律「行くよ。ゼッタイ行く。約束する。だから待ってて」

紬「……ゼッタイ?」

律「ああゼッタイ」

紬「……約束…してくれる?」

律「ああ、約束する」

青い瞳が潤んでいる。せがむようにわたしを見つめるムギをなだめ、小指と小指を絡ませる。

指切りげんまん。

ムギから離れて、わたしは走り出した。
今度こそ、澪のところに行かなくちゃ。

途中振り返るとムギはまだこっちを見つめていた。

わたしは大きく手を振った。

ムギが小さくふり返す。

遠くの空がピカッと光った。
雨の匂いが、鼻腔をついた。


マンドリル「遅かったな。梓、元気そうだったか?」

お風呂あがりらしいマンドリルは、シャンプーのいい匂いを漂わせながら、頭にタオルを巻いてソファーにくつろいでいた。

律「聞いたよ。知ってたんだな」

マンドリル「は?なんだ突然。なんのことだよ?」



レコード会社の営業マンは言った。

…ー今のままではプロのバンドとしてやっていくのは難しいと思います。ですが…

…ーあのベースの子。彼女がもし、ソロでもやっていきたいと思っているなら話ができないでしょうか。

…。

澪に聞いてみます。

そう答えたまま、それ以来かかってきた電話に出ることは一度もなかった。

不在着信には気づいていたけれど、何度かけてきても電話に出ないわたしに見切りをつけたのだろう。年が明けてしばらくすると、もう連絡が来ることはなくなった。




律「澪。今でもベース弾いてるよな」

マンドリル「たまにちょっと触る程度だよ」

律「ちょっとじゃねーだろ。わたしがいないときに結構ちゃんと練習してるだろ。わかるんだよ。ベース触ってるときの指の動き見てりゃ」

マンドリル「…何が言いたい」

律「今からでも遅くねーよ。挑戦してみろよ」

マンドリル「いまさら何言ってんだ。もう終わったことだ」

律「澪には才能がある。今からでも遅くない」

律「知ってたんだろ。自分だけ認めてもらえたことも。わたしがそれを黙ってみんなに言わなかったことも」

マンドリル「…」

マンドリルは黙ったまま麦茶を口に含んだ。カランと氷がグラスを響かせた。
左右に首を振りながら動く扇風機の風が、時折風鈴を揺らした。そのたび涼しい音が鳴る。



マンドリル「わたしはな、律」

マンドリル「別にプロになんかならなくてもよかったんだ」

律「澪が言い出したんじゃねーか、プロ目指そうって」

マンドリル「わたしはただ…」

マンドリル「みんなと一緒にいたかっただけだ。少しでも長く、みんな一緒に音楽をしていたかっただけなんだ」

マンドリルの赤い鼻と青い頬、黄土色の瞳からは感情が読み取れない。



律「わたしだってそうだよ。だから澪だけ…一人だけプロになっちゃうなんてイヤだった」

澪が離れていくのが怖かった。
これまで5人みんな一緒にやってきたのに、澪が一人だけプロになってしまうことで、わたしたちの関係が決定的に変わってしまうようで、怖くて、わたしは嘘をついた。

マンドリル「そんなつもりなかったよ。だからあのとき律に本当のことを打ち明けられても断るつもりだった」

年明けにあの営業の人から直接電話がかかってきて、正式に断った。マンドリルはそう言った。

律「なんで言ってくれなかったんだ」

マンドリル「その言葉、そっくりそのままお前に返すよ」

梓たち、他の三人がどういう経緯でこのことを知ったかはわからない。
あの営業マンが桜高軽音部OGとつながりがあるんだから、たぶんそこから漏れたんだろう。
でもそんなこと、いまさらどうだっていい。

わたしも澪も、5人の関係を壊したくなくて、大事なことを黙っていた。
その結果がこれだ。
もしあの頃、わたしたちのどちらかが本当のことを告げていたら、なにかが変わっていただろうか。

いまさら遅い。



マンドリル「ごめん。わたしのせいだな」

律「わたしのせいだろ」

マンドリル「ちがうよ。わたしのせいだ。わたしがプロを目指そうなんて言わなきゃよかったんだ。あのままなにも変わらずに音楽を続けていれば…」

激しい音を立てて雨が降り始めた。
ムギはちゃんとあのアパートに帰っただろうか。

マンドリル「わたしのせいで律がおかしくなってくの見てるのが辛かった」

マンドリル「それでみんなバラバラになっていくのを見てるのが辛かった。律が留年したのだってわたしのせいだ。おせっかいだってわかってたけど、律を放っておけなかったんだ」

律「自分を追い詰めるなよ、澪のせいじゃない。わたしがだらしないのはわたしのせいだ」

マンドリル「でも律、苦しかったんだろ?」

律「そんなことないよ」

マンドリル「あるよ。だって律、ちっとも笑わなくなったじゃないか…」

澪、わたしに笑う資格なんてないんだよ。




わたしが澪の可能性を奪った。
いちばん大事な親友の可能性を、未来を奪った。
自分になかった才能を持った親友を妬んだ。
わたしの些細な嫉妬が、軽音部を、だいじな場所や仲間を、そして自分自身まで壊した。

マンドリル「ずっと一緒にいたかったけど、わたしが側にいたら律はずっと苦しみ続けるって思ったんだ。だからわたし…」











マンドリル「だからわたし、こんな姿になったんだ」












律「澪…おまえ………」

マンドリル「はは…醜いだろ?気持ち悪いだろ?こんな姿見てられないだろ?一緒に暮らしていたくなくなったろ……」

律「そんなことない。醜くなんてないよ。わたし澪のこと、そんな風に思ったこと、一度もない」

マンドリル「嘘はよせよ。自分がどれだけ醜いかなんて、わたし自身がいちばんよくわかってるよ」

律「…なんで…どうしてだよ………」

マンドリル「わからない。ある朝起きたらこの姿になってた。でもな、自分でも不思議なくらい落ち着いて受け入れられたよ。ああ、これは罰なんだ、ってすぐにわかったから」

マンドリル「初めは誰も気づいてなかった。律、お前も」

マンドリル「お前が気づいたのはこうなってから…一週間くらいだったかな。反応を見たらすぐわかった。律はすごいな、って思ったよ。だって同居人がマンドリルになったのに、全然動揺を見せないし、こんな姿なのにわたしだってわかってるみたいだったから」

そういえば、朝起きて隣にマンドリルが寝てるのを見たとき、なぜかすぐに澪だってわかった。
なんでだろう。付き合いの長さのせいか?
でも澪だってわかってたから、動揺したけど大丈夫だと思えたんだ。
どんな姿に変わったとしても、澪は澪だ。



マンドリル「いよいよ言わなくちゃ、って思った。決めてたんだ。律がわたしの姿に気がついたらそうするって。思ってたより受け入れてくれたのは嬉しかったけどさ、決めてたから。………お別れするって」

赤い鼻をすんすん言わせながらマンドリルは語り続けた。
表情の変化を読み取ることができない。
けれど声の震えから、澪が泣いているとわかった。



バカ。バカ澪。
苦しめてたのはやっぱりわたしのほうじゃないか。

律「戻してやるよ!わたしが澪を元の姿に戻す!」

マンドリル「はは…無理だよ。そんな顔するな。心配いらないよ。この姿に見えてるのはどうやらわたしと律だけみたいなんだ。だからこれからも普通に生活していく分にはなにも困ることはなさそうだ」

律「嫌だ!わたしは困る!」

マンドリル「わがまま言うなよ。わたしだって戻りたいのはやまやまだけど、戻っちゃだめなんだ。だってこれは罰だからさ」

律「それなら…それならわたしだって罰を受けなきゃいけないだろ!」

マンドリル「……罰って、なにをだよ?」

澪。わたしたちは一緒だった。小さいころから、今まで、ずっと。
だからお前が罰を受けるなら…一人にしておくわけにはいかない。
お前が人間に戻れないならわたしも…



律「わたしもマンドリルになってやるっ!」




雷が何度も落ちた。
目の前に激しく泣いている人がいるとかえって自分が泣けなくなっちゃうみたいに、わたしは思いの外冷静さを取り戻して夜の空を眺めていた。

取り外された風鈴が机の上に転がっている。

カーテンが大きく揺れて、網戸越しに床を濡らした。

冷房のない部屋に住むわたしにとっては、どんな雨だって恵みの雨だ。

雨音に混じってチャイムが響く。

わたしは聞こえなかったフリをする。

しばらく時間をおいてもう一度。

無視。

また鳴った。

出ない。

鳴る。

知らんぷり。


そのうちチャイムは鳴らなくなって、ドンドンと扉を叩く音に代わる。

それも無視。

ぶるぶるっとケータイが震えた。



『出先で雨に降られちゃって。ちょっと雨宿りさせてもらっていい?』


わたしは鍵を外して扉を開けた。
扉の先にいたのは、あの日のわたしみたいに雨に濡れた・・・


マンドリル2号「よかった・・・帰ってきてて。待たせてごめん」


ちがった。人間じゃない。


マンドリル2号「・・・と言うわけなんだけど」

紬「…」

目の前のテーブルに、カップがふたつ。
雨に濡れたわたしのために淹れてくれた、ホットミルクティー。
一気にしゃべり終えたわたしは、カップを手に取り渇いた喉を潤す。

ムギは終始神妙な顔つきをして、じっとわたしの瞳を見つめている。
久々の我が家は以前と変わらない風通りの悪さで、熱気と湿気が充満していた。



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最終更新:2015年08月21日 22:20