梓「でも、勝手に教えていい事だとも思いません。お医者さんの先生の許可が出れば、教えます」

唯「………」


ちょっと考えて、私は答えた。


唯「……教えてほしいな」

梓「わかりました、聞いてきますね。ちょっと待っててください」

唯「うん」


……実を言うと、少しだけ予想がついている。
確証はないけれど、皆が私に隠す事といえば。隠すというか、私を遠ざけている事といえば。
……それはきっと、『魔物』に関係する事じゃないかな、って思う。
記憶の無い私だから他の可能性が見えてないだけかもしれない。けど、そうやって一度予想してしまうと答えが気になってしょうがなかった。
梓ちゃんにわざわざ許可を取りに行かせる申し訳なさよりも、そういう、好奇心のような感情のほうを優先してしまった。
ごめんね、梓ちゃん。


梓「すいません、お待たせしました」

唯「あれ、早かったね」

梓「そうですか? まあ、先生かムギ先輩から話が通ってたのかそれこそ監視カメラで様子でも見てたのか、許可自体はすぐに出ましたけど」

唯「…ということは、他に何かあったの?」

梓「ええ、まあそちらは後で。とりあえず唯先輩の知りたがってた事のほうですけど」

唯「うんうん」

梓「……先輩達は、『魔物』を探しに行っています」


……当たった。
でも、「やったー当たったー!」なんて言っていいことじゃないよね。こうしてる間にも皆が危険を犯しているんだから。


梓「……唯先輩が襲われたのが、丁度今くらいの時間なので」

唯「………」


梓ちゃんが行きたがらなかったのは、そのせいなのかな。
誰よりも悔いているから、思い出したくないから、なのかな。
もっとも、澪さん達先輩からすれば後輩を危険から遠ざけるのは当然なんだろうけど。


唯「……みんな、大丈夫かな」

梓「大丈夫ですよ。危ない事はしないって約束ですし。先生も間接的に協力してくれてますし」


なるほど、さっきのさわ子先生は「貴女達次第」って、どこか当事者っぽくない言い方をしてたけど、そういうことか。
……でも、あんなにいい先生なら生徒だけを危険な目に遭わせる事にいい顔はしないはず、じゃないのかな…?


唯「…ね、梓ちゃん。みんなはどういう風に探しに行ってるの?」

梓「え? どういう風、とは?」

唯「ほら、『魔物』なんて怖いものを相手にするわけでしょ? 警察に手伝ってもらうとか、そういうことは勿論してるんだよね?」

梓「……いえ、してません。『魔物』だなんて、世間に知れたら大混乱になるじゃないですか」

唯「え……じゃ、じゃあ事情を知ってるみんなだけで探してるの? さわ子先生も直接協力はしてないんでしょ?」

梓「ああ、その、えっと、私達なら大丈夫なんですよ。対処する術があるんです。ですから、そういうのを持たない先生とかはむしろ一緒にいたら危険といいますか」

唯「対処する術って……どんなの?」

梓「それは…教えられません」

唯「………」

梓「……えっと……」

唯「じー……」

梓「う、嘘じゃないですよ? ただ、いくら唯先輩とはいえ教えていい事なのかわからないというだけで…」

唯「じー…………」

梓「せ、先輩達の許可がないと言っていいかわからないんです!」

唯「えへへ、冗談冗談。大丈夫、許可とってこいなんて言わないよ。今日二回目になっちゃうしね」

梓「そ、そうですか……?」

唯「うん。記憶が戻ればわかる事かもしれないし……今大事なのはその『対処する術』自体より、みんなに危険がないかどうかのほうだから」

梓「そこは大丈夫です! 絶対大丈夫ですから、唯先輩は何も心配しないでください!」

唯「……うん、信じるよ、梓ちゃん」

梓「……はい。だから、唯先輩は自分の事だけ考えてればいいんです……」

唯「……うん」


……そうだよね。
結局、私が何を言おうとも、一番大事なものを失ったままの私じゃ、それは余計なお世話にしかならないんだよね。
だから……私が優先すべきは、やっぱり自分のこと。記憶を取り戻すこと。
それさえ叶えば、きっと皆と同じ場所に立てるようになるよね。


梓「…あ、そうだ。話は変わりますが、さっき私が遅くなった理由ですけど」

唯「そうだったね、何かあったの?」

梓「……和先輩の件ですけど、少し早いですが許可が下りました。都合が合えば明日にでも、だそうです」


和さん。昨日、澪さんが私に会わせたがっていた、幼馴染。
そう聞いて、両親の方を見る。二人とも、視線が合っても何も言わずただ頷くだけだった。


梓「今日一日、唯先輩はいろいろなものを見て、先生にも会い、多くの事を知ったはずです」

唯「……うん。そのくせ何も思い出せなかったけどね……」

梓「そうじゃないです。それだけ多くの情報を得ても身体に悪影響が何も見られないから、予定を繰り上げても大丈夫って言ってもらえたんです」

唯「……そっか。実を言うと、覚えておくべき事ばっかりで既に頭がいっぱいいっぱいなんだけどね……」


思い出せないなら、せめて言われた事は覚えておくべき。そう思って詰め込もうとしてるのは事実。
だから演出として、冗談交じりに頭を抱える仕草をつけてみたんだけど、生憎それは冗談とは受け取ってもらえなかった。
冷静に考えれば、私の事をあんなに心配してる梓ちゃんなんだから当然だ。


梓「だ、大丈夫なんですか? やっぱりやめておきますか?」

唯「あ、ううん、頭が痛いとかそういうのはないから大丈夫。それに、幼馴染っていうなら…会いたいよ。会っておきたいよ」


記憶が戻るかはわからない。自信なんてあるわけない。
思い出せない事によって相手を傷つけるかもしれない。私自身も焦ってしまうかもしれない。
でも、幼馴染なんていう大切な存在なんだ。会いたい。会わない理由なんてない。はず。


梓「……わかりました。先輩達には私から伝えておきますね」

唯「ありがとう、梓ちゃん」

梓「いえ。では、私もそろそろ帰りますね」

唯「あれ、早いね? っていうか今日は帰るんだね」

梓「……明日に備えて、もう休んでください。私がいたらゆっくり休めないでしょうし」

唯「……梓ちゃん?」

梓「……深い意味はないですよ。澪先輩も言ったとおり、和先輩と会ってもらってからが本番なんですから。しっかり休んでくださいね、ってことです、本当に」

唯「う、うん……」



流されるように返事しちゃったけど、不安だ。
タイミングからして、私のさっきの行動を梓ちゃんが重く受け止めてしまった可能性があるから。
でも、梓ちゃんの口ぶりには取り付く島も無い。こういう時、黙っておくべきなのか、多少でも強引に行動したほうがいいのか……記憶の無い私には、わからなかった。


梓「それでは、失礼します。唯先輩、また明日です」

唯「ぁ……」


私は、手を伸ばそうとして、口を開こうとして、どちらも中途半端なまま固まっていた。
そんな私を尻目に動いたのは、ずっとなるべく私達の邪魔をしないように、静かに様子を見守っていてくれた人。


父「……梓ちゃん、家まで送るよ」

梓「え……そんな、大丈夫ですよ?」

父「唯ももう起きた事だし、ずっとついてなくても大丈夫だろうから。それに車だからすぐ着くよ」

梓「えっと……」

父「唯も、梓ちゃんを一人で帰らせるのは不安だろ?」


私を振り返ったお父さんの顔は、どこか得意気な笑みに満ちていて、「任せておけ」と言ってるかのよう。
その顔に、私はすぐに何度も首を縦に振っていた。


唯「うん、うん! 女の子の一人歩きは危険だからね! 梓ちゃん可愛いしね! よろしくね、お父さん!」

父「よろしくされるよ。さ、行こうか」

梓「は、はい……それじゃ、よろしくお願いします……」


先輩の親と二人きりというシチュエーションは緊張するかもしれないけど……ごめんね、梓ちゃん。やっぱり気になるよ。
自分で何とかできないのは情けない限りだけど……お願いね、お父さん。


唯「あ、お父さん!」

父「ん?」

唯「『魔物』に気をつけてね」

父「……ああ……そうだね」


◇◇


父「――すまないね、梓ちゃん。あの子も悪気があったわけじゃないんだ」

梓「……どちらにしろ、私を責めるような事を言う人じゃないです。それはわかってるつもりです」

父「……唯は、君にはどう映ってる?」

梓「……失礼かもしれませんけど、唯先輩は思ったままを口に出す人だと思います。それこそ、さっきみたいに」

父「嬉しかったかい?」

梓「……そうですね、そうとも取れますね。そう取っておけばよかったんですね……」

父「ふふっ。……そうだ、梓ちゃん、明日の事について一つ提案があるんだけど――」


◇◇


母「……ほら、唯。せっかくだから横になっておきなさい」

唯「はぁい……」


お母さんに言われ、しぶしぶ――と見えるように――横になる。
実際、寝転がって今日学んだ事を復習するのもいいかと思ってたところだったりする。
ご飯を食べて、もう一回復習してたらきっとすぐに消灯時間になるだろう。その前に寝ちゃうかもしれないけど。


母「疲れたでしょ? 梓ちゃんじゃないけど、ゆっくり休むのも大切なんだから」

唯「………」


疲れた、だなんて意地でも言ってやるもんか。今日の全部は私が私を取り戻すために必要な事だったんだから。
でも、明日の全部も私の為に必要な事になるのは間違いない。だから、休む時にはちゃんと休むべきなんだと思う。
というわけで、お母さんの言う事にもちゃんと従います。目を瞑って身体を休めて、今日の出来事を思い返して――


母「あっ、そうだ唯、トランプでもしない?」

唯「……お母さん、今自分で「休みなさい」って言わなかった?」

母「そ、そうだけど……ほら、お母さんと遊ぶことで何か思い出すかもよ?」

唯「……暇なの?」

母「うん」

唯「無駄に素直だね」

母「素直なのはいいことよ?」

唯「……じゃあ、なにする?」


よっこいせ、と身体を起こす。
仕方がないなぁ、とは思うけど、正直嫌じゃない。


母「じゃあババ抜きしましょうか」

唯「……二人で?」




……二人それぞれ黙々と、ペアの出来たカードを手札から捨てていく。
ババ抜きのルールは覚えてるんだなぁ、とかどうでもいい事を思いつつも……この、時間を無駄にしている感じがすごく……なんともいえない。


母「……唯も」

唯「ん?」

母「唯も、自分からやってみたい事とか言ってみればいいのよ」

唯「……梓ちゃん達に?」

母「そ」

唯「……迷惑じゃないかな?」


皆は、私のお世話をすることは――記憶を取り戻す手伝いをすることは、嫌じゃないと言ってくれた。自分達も望んでいるから、と。
でも、私の一方的なワガママを聞いてもらうっていうのはどうなんだろう……? どう思われるんだろう?


母「きっと、今の唯みたいな気持ちだと思うわよ」

唯「今の、私……」


なるほど。
お母さんのワガママでババ抜きにつき合わされている、今の私。単純に状況だけ見れば同じようなもの。
そんな私の胸中は……正直、嫌じゃない。
ぺちぺち、と、カードを捨てていくこの音がすごく優しいものに思えるくらいには。


唯「……お母さん、あの……」

母「なぁに?」

唯「……ジョーカー、既に捨てられてるんだけど」



――その夜。
やはりいろいろあって疲れていたのか、和ちゃんという人について軽く聞いておこうかと思っていたのに、結局いつの間にか眠ってしまっていた。

◆◆


――日曜日。朝。


唯「……梓ちゃん、今日は遅いね」

母「ふふっ、心配?」

唯「うん、まあ……昨日も一昨日もいてくれたから……」

父「唯が目覚める前も、毎日朝早くからこの場にいたからね、あの子は」

母「だから、私達も心配といえば心配なんだけど……」

唯「………」


「だけど」でお母さんが言葉を切り、お父さんも言葉を継がず、私もその意図は察している。
というか、理由の予想がついている。今日は和さんという人が来るから、だ。
私に和さんを会わせたがっていた澪さんと、その澪さんの考えの正当さを評価して意を汲もうとする皆なら、この日に賭ける思いは大きいはずだから。
その『皆』に、きっと梓ちゃんも含まれているはずだから。


唯「……ねえ、お父さん、お母さん。みんなが来るまで話をして欲しいんだ」

父「うん、どんな?」

唯「和さんの事。昨夜聞こうとしたけど寝ちゃったから」

父「……うーん、どうかな。昨日と一昨日で、皆からそれなりに聞いてはいるだろう?」

唯「そうだけど、幼馴染なんでしょ? 私達しか知らないような事もたくさんあるはずだよね?」

父「そうだね。だけど、僕達は独断でそれを唯に話すわけにはいかないよ」

唯「……許可がいるってこと? お医者さんの?」

父「それもあるけど、どちらかといえば澪ちゃんかな。彼女のペースに合わせようと思ってるから」

唯「澪さんの作戦に?」

父「そう」


大人であるお父さんとお母さんが、高校生に従うと言う。それは普通に見れば異様な光景。
でも昨日の時点でもそんな雰囲気は出していたから、私は問い返しこそしたもののその判断自体をそこまで疑問に思いはしなかった。
だけど、何故そうするのか、という理由までは考えた事がなかったんだ。


父「……負い目を感じているのかもしれないね。唯が魔物に襲われた時も、僕達は日本に居すらしなかったんだから」

唯「そう、なの?」

父「……記憶が戻れば、思い出すよ。その時は、僕達を責めてくれていい」

母「そうね……」

唯「そんな……私、そんなことしないよ……」


そんなこと、絶対にしない。そばにいてくれるだけで安息を与えてくれる人を責めたりなんて、するはずがない。
そう言い切りたいけど、記憶が無くてお父さん達の事情がわからない私には何も言えない。
お父さん達は責められる事を覚悟してる。そんなに正当性のない事情なんだろうか?
聞けばいい? ううん、教えてくれないよ。和さんの事さえ教えてくれないんだから。

だから、自分で思い出すしかない。
思い出して……思い出したら、お父さんとお母さんを責めるの?
そうなの? 私……

……ちょっと、記憶を取り戻すの、怖くなったかも……


唯「そんなこと、したくないよ……」

父「……ごめんな、唯。混乱させるようなこと言うんじゃなかった」

唯「……ホントだよ……」

父「あああ、顔を上げてくれ……失言だったよ本当に……」

母「ほ、ほら唯、大丈夫よ~」ナデナデ

唯「………」


二人の焦りようがとても伝わってくる。……あたたかい。
出来ることなら今すぐ笑顔を作ってあげたい。以前に何かしていたにしろ、今の私にとっては大切な家族、そばに居てくれる人なんだから、心配はかけたくない。
私が記憶を取り戻したいと思ったのは澪ちゃんや梓ちゃん達だけではなく、この人達のためでもあったはずなんだから。
ちょっと不安になる事を言われたくらいで、この気持ちは揺らがないはずなんだから……


唯「……ん……」


うん、大丈夫。ちゃんと前を向ける。
そう思い、言おうとして、顔を上げようとした、その時。


和「失礼します………って、何、この状況」


赤いメガネをかけた人が、非常に空気の読めないタイミングで入ってきた。




和「迂闊すぎます!」ガミガミ

父「ごめんなさい……」シュン

母「おっしゃるとおりです……」ションボリ

和「おじさんおばさんのそういうのんびりした所は私も好きだし滅多に欠点に転じる事はないんですけど、今回はさすがにデリカシーがありません」

父「面目次第もございません……」

母「……こういうのもデリカシーって言うの?」

和「言います!言わせます!言いなさい!」

母「ひゃいっ!!!」ビクッ


……えっと。
今何が起こってるかというと、状況を聞かれたので私の口から説明したら、即、説教タイムが始まりました。
……今日の予定って何だったっけ……


唯「あ、あの、お父さんもお母さんも反省してるのでそのくらいで――」

和「っていうかそもそもそんな隠すような事でもないでしょう。あのね唯、この夫婦はラブラブ海外旅行に行っていたのよ、当時」

父「ああっ!」

唯「ええっ、そうなの!? 私も行きたかったー!」

和「学校があるから無理よ」

唯「あ、そっか」


その頃の記憶がない上に入院中だからわからなかったけど、そっか、別に長期休暇でもないんだ、今は。
うっかりうっかり。


父「っていうか唯もツッコミ所はそこなの?」

唯「へ? あ……」

和「いつもの事なのよ。ずっとラブラブでしょっちゅう家を空けるのがあなたの両親なの」

父「あああ……」

唯「へー。素敵な夫婦だね」

和「でしょう?」

唯「うん。いつまでも仲良くしててほしいよ」

父「……あれ?」


子供をほったらかしにして旅行するような親だった事を責められると、お父さん達は思ってたんだろう。
でも私の第一声はそれだった。たぶん、この数日間だけでもこの二人が親としての愛情をちゃんと持っているっていう事はわかったからじゃないかな。
たとえそれが負い目からのものだとしても、償いだとしても、私にとっては充分に大きな支えとなるものだったから。


和「わかりましたか? 人を愛する事を知っている貴方達が育てた娘は、愛し合う貴方達の行動を責めはしないんです」

父「いやぁ……ははは」テレテレ

母「和ちゃんったら、そんな恥ずかしいことを大声で言わなくても…」テレテレ

和「褒めてませんよ! 唯はこんなにも真っ直ぐな子なのに、正直に言えばわかってくれるのに、変に隠し事をして不安にさせた貴方達の行動を私は責めてるんですからね!!」

父「は、はいィ!!」

唯「あ、あの、そのくらいで……」

和「だいたい親が子に隠し事って何ですか。子供の隠し事は親は受け入れるものですが、逆なんて到底できやしないんです。子供は親の背中を見て育つんです。親として子供を信じているなら最初から全てをさらけ出して――」

唯「の、和ちゃん! 私は大丈夫だからっ!!」

和「………」

父「………」

母「………」

唯「……あれ? どしたのみんな」

母「……「和ちゃん」って呼んだわね、今」

唯「あっ……」


なんでその呼び方が口を衝いたのかは、考えてみてもわからない。
さっきまでは、写真で見ただけのこの人の事を考えるときは「和さん」だったのに。なのに、何も考えず叫んだら「和ちゃん」になっていた。


唯「え、えっと……どうしよう? どういうこと?」

和「……ま、いいんじゃない? 貴女に「和ちゃん」と呼ばれるのは……嫌じゃないわ」

唯「……そう?」

和「ええ」

唯「………」


彼女――和ちゃんは「嫌じゃない」と言ってくれたけど、私には「嬉しい」という表情にも見えなかった。
喜びを抑えているようにも見えるし、喜んでいいのかわからないようにも見える。
幼馴染のはずのこの子の表情の意味も理由も、記憶のない私にはわからなくて、それがとても……歯痒い。
咄嗟に出たこの呼び方は、少なからず以前の私の記憶と関連しているはずなのに、手放しでは喜べない気がした。

記憶が無いって、嫌だな。
ただただ、そう思う。




澪「へえ、良かったじゃないか!」


私が「和ちゃん」と呼んだ事実を――記憶が戻る兆候と取れるそれを――真っ先に喜んだのは、やはりというか当然というか澪さんだった。


梓「さすが澪先輩です!」


私の事をとにかく心配してくれていた梓ちゃんも勿論喜び、この『ゆっくりやろう作戦』を提案した澪さんを褒め称える。
律さんと紬さんは、その光景までをも含めて喜んでくれていたように見えた。

そんな空気に流され、私も笑顔を作った。
歯痒い気持ちはまだある。でも、これは小さな一歩。
私から見れば小さすぎて手放しでは喜べないけど、皆から見れば意味のある一歩なんだ。
自分の中に、皆を喜ばせるものが残っていた。その事実は充分、笑顔を作る理由になる。
そんな笑顔の勢いで「この調子で一気に記憶が戻らないかなぁ」なんて呟いたら、やっぱり皆から「無理はするな」と怒られたけど。


和「でもそうね、ゆっくりでいいから、これを機に唯の記憶が戻ってくれれば嬉しいわよね」

律「和……うん、そうだな」


さっきとは違い、和ちゃんは心からの笑顔で語っている、ように見える。
そのことに安堵していいのかはまだわからないけど、記憶が戻ればわかるはずだから何も言わない。



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最終更新:2015年09月23日 21:33