唯「和ちゃんがバッサリ解決してくれたからね。大丈夫だよー」

母「……でも、娘を不安にさせちゃうなんて、母親失格だわ」

唯「そんなこと……」


そんなことない、と言いたかった。私が家族に助けられているのは事実だから。
でも、そう言おうとした時、今日の皆の顔が一瞬頭の中をよぎった。私が不安にさせてしまった皆の顔が。
その申し訳なさは、考えてはいけないとわかっていても頭の中から完全には消えない。
お母さんも同じような感じなのだろう。少なくとも今の私には、お母さんが抱えているその申し訳なさを否定は出来なかった。


唯「……一緒にいてくれれば、それで充分だよ。お母さん」


否定出来ないから、そう言うしかなかった。
一緒にいてくれて、私を救ってくれている人が母親失格なわけがないと、そう言うしかなかった。


母「……ありがと、唯。あなたは優しい子に育ったわね……本当に……」




しんみりとしたお母さんの言葉にどう返事すればいいかわからないでいたら、タイミングよくお医者さんが訪ねてきた。
調子はどうだい?と聞かれたので、身体が覚えていた事がいくつかあったみたい、と伝える。


医者「ふむ。いい傾向だね」

唯「ですよね!」

医者「でも、このまま全てが上手くいくと約束されたわけじゃないから気をつけるように。なんせ初めての症例なんだから。水を差すようで悪いけどね」

唯「は、はい……」

医者「……でも、今日君が取り戻した『感覚』は確かに君のものだ。そこは喜んでいいよ」


「言いたかったのは、もし明日や明後日に何も思い出せなくても落ち込む必要はないよ、と、そういう事だ」とお医者さんは言い、出て行った。
でも私は、その忠告を真に受けようとはしなかった。
だって今日、あれだけ以前の私の片鱗とも言えるモノが見えたんだから。
あくまで見えるだけ止まりで皆を落ち込ませたけど、でもこれは記憶が戻る兆候だって私は思う。
これからどんどん記憶が戻ってくる。だから、お医者さんの忠告は杞憂で終わる。そう思った。



……実際は、そうはならなかったんだけど。



それからの毎日では、何一つ進展がなかった。
「なんとなく懐かしい感じがする」という受け答えももはや恒例になってしまって、言う側の私も心苦しかった。それしか言えない自分が歯痒かった。
嘘を吐く事が許されるなら、もっと前向きな事を何度でも言ってあげたかった。
でも、それは許されない。

皆の表情が曇る事も多くなってきた。当然だと思う。
「焦らなくていい」と言ってくれた皆の気持ちを疑うわけじゃない。信じた上で、それでも当然の反応だと思う。
だって、私の表情も曇っているはずだから。
私が何も思い出せない自分に腹を立てているのと同様に、私に何も思い出させてあげられない、と皆が考えてしまって唇を噛み締めていても何ら不思議じゃない。
記憶のない私が信じたいくらい、皆は優しいから。

次第に、「魔物探しに本腰を入れるから」という名目で、日替わりで一人だけ顔を見せなくなった。
私はその言葉を信じた。たとえ本心が「思い出せずに苦しむ私を見たくない」だったとしても、私に言える事は今や何もなかったから。
「頑張る」だなんて言葉じゃ何の意味も成さないほどに、何の進展もない毎日だった。

……そんな日々の中でも、両親はずっとそばにいてくれた。
梓ちゃんも、平日は毎日朝と夕方に来てくれて、休日は一日中一緒にいてくれた。
だからかな、軽音部の記憶は戻らなくても、梓ちゃんだけは特別に距離が近かったような、そんな感じがするんだ。



◆◆◆



――そんな、何も変わらない毎日がある程度続いた後の、ある日のこと。
久しぶりに軽音部全員と和ちゃんと先生が病室に揃ったので、聞いてみた。


唯「今日は魔物のほうは大丈夫なの?」

律「ふふふ、よくぞ聞いてくれた、唯!」

唯「えっ…?」


私自身も皆もどことなく元気がなかったここ数日が嘘のように、律さんのテンションが高い。
周囲の皆も微笑んでいる。これは……


唯「もしかして……」

律「おう! 『魔物』は退治した!!!」

唯「お、おぉ~! すごいねみんな!」

紬「ようやく、ってところだけどね」


昨日姿を見せなかった紬さんが、ちょっと疲れたような顔で笑いかけてくれる。さわ子先生も昨日はいなかったし、もしかしたら昨日の段階でいろいろあったのかもしれない。
何も手伝えなかったのは残念だけど、記憶を取り戻す事を優先しろと言われているし、梓ちゃんからも魔物が退治されるまでは退院してほしくないと言われているし……どのみち手伝えなかったのかもしれない。
あ、ちなみにあの日梓ちゃんに聞いてきてもらった時にお医者さんも「魔物が退治され次第、退院も前向きに検討する」と言っていたので、やっぱり手伝いには行けそうにもなかった。


唯「……どうだったの? みんな、何事もなかったの? ケガとかしてない?」

澪「大丈夫だよ。心配してくれるのはありがたいけど、こうしてみんなピンピンしてる」

唯「……よかった。あ、でも……ごめん、みんな」

紬「えっ?」

唯「……記憶が戻った感じは、まだしないんだ」

澪「う、うん?」

和「なんで今言うの?」

唯「えっ? だって、魔物を倒したんだし……」

律「……あ、わかった。ゲームみたいに、敵を倒せば取られたものが戻ってくる、って私達が考えてると思ってたんだろ?」

唯「う、うん。律さん達がっていうか、私もちょっと期待してたし……」


だって相手は『魔物』だからね。そういう説明しにくい現象が起こっても不思議じゃないというか。
そもそもが私の記憶を奪うような相手だし、そういういわゆるご都合展開があってもいいと思ったんだけど。


律「……残念ながら、そう都合のいいことにはならなかったな」

澪「……復讐しても……やっぱり失われたものはかえってこないんだ」

紬「それでも! それでも、これでみんな安心できる……。そうでしょ?」

澪「……そう、だな。ごめん」

紬「ううん。澪ちゃんもお疲れ様。怖がりなのに……」

澪「そ、そういう事は言わなくていいから!」

唯「……えへへ」

さわ子「良かったわね、唯ちゃん」

唯「うん。優しい人ばかりで……幸せ者だね、私は」

梓「……それは、唯先輩が優しい人だからですよ。だから周囲に自然とそういう人が集まるんです。……記憶が戻らないとピンとこないかもしれませんが」

唯「……私自身についてはピンとこないけど、梓ちゃんを見てると優しい人の周りには優しい人が集まるっていうのはわかるかな」

梓「私は……そういうのじゃないです」

唯「そうかなぁ?」

梓「……ちょっと、お医者さんの先生に相談してきますね。先輩のこれからのスケジュールについて」

唯「あっ、梓ちゃん……」


梓ちゃんは俯きがちに表情を隠し、そそくさと病室を出ていってしまった。
たぶん……いや、どう考えてもこれは私の失言だよね……


唯「……何がいけなかったんだろ……」

澪「……梓は、何と言えばいいかな、要するに唯への恩返しみたいな考えで動いてるところあるから……」

紬「きっと、本人から褒められても困っちゃうのよね」

唯「……私が何も覚えてないから尚更、ってことかな」

律「嫌ってはいないから安心しろって」

唯「……うん、ありがと、みんな」


皆にしろ梓ちゃんにしろ、いまだに何も思い出さない私に対して失望みたいな感情を向けたことは一度もない。
今となっては私はそれを一番恐れてるから、どうしてもそこには敏感になる。敏感になってるから、今までそんな事は一度もなかったと言い切れる。
それはとてもありがたいこと。いくら感謝しても足りないくらいに。

でも、思い出さない私に失望はしていなくても心を痛めているのはわかってる。
家族以外で一番長く近くにいる梓ちゃんは、多分誰よりも多く心を痛めてる。
立場の違いゆえに、もしかしたら家族よりも多く。

……やっぱり、どうしても焦っちゃうよね。
たとえ誰も私に焦りを強いていないと知っていても、梓ちゃんの心が今どれだけ傷だらけなのかを考えると、どうしても。




唯「というわけで退院したいです、先生」

医者「何が「というわけで」なのかわからないが……」


魔物退治の報告を受けてだろう、梓ちゃんと一緒にお医者さんも来てくれたので、率直な気持ちをぶつけてみた。
……率直すぎたみたいだけど。


医者「……ま、そうだね、魔物が退治された事に加え、病室に篭りきりで改善の兆候が見られないなら、退院も考えたほうがいいか」

唯「やったぁ!」

医者「ご両親も、それでよろしいですか?」

父「はい。本人の望むようにさせてあげてください」

唯「じゃ、じゃあ今すぐにでも!」

母「さすがにいろいろ手続きがあるから今日は無理よ。唯の着替えも持ってきてないし」

唯「そ、そっか……」

和「落ち着きなさい唯。家に帰りたい気持ちはわかるけど」


一言で済ませてしまえば「家に帰りたい」になるけれど、退院してからやりたい事はたくさんある。
単純に外の空気を吸いたいとか、病院食じゃない食べ物を食べたいとか、着替えたいとか、学校に行きたいとか。
梓ちゃんが言ってくれたように自宅や街並みを眺めて思い出す事もあるだろうし、それに一番大きいのは、これまた梓ちゃんが言ってくれた事だけど、


唯「私、早くみんなで合わせて演奏したいよ、軽音部で」

梓「唯先輩……」

医者「じゃあ仮に明日退院するとして……明日は金曜日か。登校は来週頭からで?」

さわ子「そうなりそうですね。私のほうは特に問題はありません」

医者「そうですか。でしたら明日退院の方向で話を進めましょう。よろしいですね?」

父「はい」

唯「えっ、ほ、ホントにいいの…? いいんですか?」


自ら望んだ事とはいえ随分急な話に見える。本当にいいんだろうか。
とはいえ、さすがにお医者さんが嘘や冗談を言うはずもないけど。


医者「何か不都合が?」

唯「い、いえ! その、すんなりいきすぎて怖いというか……」

医者「何度も言うけど前例のない症例だから、危険な賭けではある。けど、その上で君自身が環境を変えて治療する事を望むなら応えるしかない」

唯「ど、どうしてでしょうか?」

医者「今回の場合、入院は悪化を防ぐ為の措置に過ぎない。改善の為の最善手は誰にもわからないんだ。だから、外の危険も無くなった今なら、治療の為と言われれば止めるに足る理由が無い」


要するに、入院してるだけでは良くならなかったから、他の方法を試したいと言い出したら止められない、ということか。
前例の無い記憶喪失であるがゆえに、何が良くて何が悪いかわからないから止められない、と。


医者「でも通院は続けてもらうよ。出来れば平日は毎日。あと少しでも何か起きたらすぐに電話するように。帰ったら病院の番号を携帯電話に入れておいて」

唯「は、はい」

医者「周りのみんなも、この子に何か気がかりな変化が起こったら教えて欲しい」

紬「はい。ありがとうございます」

医者「……では明日の午前中で退院、と。そういう方向で」


お医者さんはそう言って、最後にお父さん達に向けて一礼してから部屋を出ていった。

……まさか本当に帰れるなんて。自分が言い出した事なんだけど、実際にそう決まると期待と不安でいっぱいだ。
家に帰れば、きっとギターの時みたいに自分がそこにいたという実感が持てるだろう、という期待と。
それでもギターの時のように記憶が戻らなかったら、という不安。それらで胸の中がいっぱいだ。
早く帰りたいとは言ったけど、気持ちを整理する時間は取ったほうがよかったかな…?


和「……変に気負わない事よ、唯」

唯「……和ちゃん?」

和「こういう事はなるようにしかならないし、なるようにすればなんとかなるわ」

唯「……え、どういうこと?」

律「記憶が戻るに越したことはないけど、戻らなくても私達はずっと友達だってことさ!」

和「ま、身も蓋もない言い方で結論だけ言えばそうなるわね」

さわ子「不安も期待もあるだろうけど、そこまで気にしなくていいって事よ」

律「さわちゃんが先生らしくまとめやがった……」

さわ子「もっと褒めてもいいのよ?」


……要らなかったかな、気持ちを整理する時間なんて。
今のままでよかったんだ。


唯「……ありがと、みんな」




今日も記憶は戻らなかったけど、明日が退院という事で皆の意識はそちらに向いているようだった。
よって、あまり皆の落ち込む表情を見なくて済んだ。ありがたい。

もう魔物も退治されたということで皆もいつもより遅くまで残ってくれたけど、それでも解散の時は来る。
そんな中、ちょっとだけいつもと違う光景があった。というか、懐かしい光景が。


さわ子「ほら、そろそろ帰るわよ? 唯ちゃんも退院の準備とかあるでしょう?」

唯「……あるの?」

父「無い、ことはないね」

澪「あ、じゃあそろそろお暇します。みんな、帰るぞ」

紬「はーい」

和「そうね、そろそろいい時間だし」

律「そうだなー。さて……」

梓「……私は、残ります」

律「まーそんなこと言うだろうって気はしてたよ」

梓「そうですか、すごいですね」


初日以外は梓ちゃんだけいつも残っていてくれたから、いつもと違う、懐かしい光景だ。
あの時は律さんが梓ちゃんを引きずっていったんだっけ。今回は……?


律「……唯も退院することだし、私達もスケジュールをちょっと考えなくちゃいけない」

梓「スケジュール?」

澪「ほら、土日は休みだからいいけど、学校が始まったら例えばムギは電車通学だから登下校は一緒にいられないし、梓も学年が違うから学校ではあまり一緒にはいられない」

梓「………」

律「そのへん相談しながら帰るぞ、梓」

梓「……そういうことなら……」

唯「あ、あの、そこまでしてもらわなくても……」


記憶が無い事がどの程度日常生活に支障をきたすのかわからないけど、登下校までお世話してもらうのは申し訳ない気がした。
だから遠慮しようとしたんだけど、でも当然というかなんというか、皆は聞く耳を持たなかった。


和「気にしなくていいわ。どうせ全員同じクラスだし」

さわ子「私のおかげでね!」

唯「職権乱用ですか!?」

紬「でも、感謝してますよ」


確かに、皆から見たらこんなことになってしまった今となっては同じクラスにしてもらった事に対して感謝しかない、のかな。
私としても、来週から行く学校で同じクラスに知ってる人が誰もいないよりかは遥かに助かるし。うん、ありがたい話だよね。
甘えていいのかな、ずっと甘えっぱなしだけど。せめて感謝の気持ちは忘れないようにしないとね。


澪「じゃあ、そういうことで。今日は失礼します」

父「今日もありがとう。また来てくれると助かるよ」

律「それはもちろん」

母「退院してるだろうから、家で会うことになるかしら」

梓「……私は朝も来ますから」

唯「ありがと、梓ちゃん。みんな、また明日ね」

紬「またね~」

和「またね、唯」

さわ子「それでは」


◆◆


期待と不安で眠れない――なんてことはなかった夜を越えて、退院当日の朝。


唯「……ん…?」


朝特有のまどろみの中で、手に何かが触れているような感触を覚え、目を開く。


梓「……あ、おはようございます、唯先輩」

唯「梓、ちゃん……?」



違和感を感じた。何かに。
……ああ、そうだ、珍しいんだ。


唯「……今日は早いね?」


入院患者である私は模範的で健康的な早寝早起きの生活を送っている。
そんな私が起きるより前に梓ちゃんが来ていて、しかも私を起こしかねないくらいにしっかり手を握っているというのは、珍しい。
もっと言うなら予想外。そして、らしくない。

そんな梓ちゃんの次の言葉は、もっと予想外なものだった。


梓「……今日、退院でしたよね。付き添います」

唯「……えっ?」

梓「おじさんとおばさんには許可を取りました。唯先輩次第だ、と」


枕元にある時計を見てみる。実際のところ、非常識と言うほどの早朝ではなかった。
うちの両親もいつも私が起きるより早く起きているし、梓ちゃんが会ったというのは嘘ではないのだろう。

でも、もっとも大きな問題はそこではなく、別のところだ。


唯「……学校は?」

梓「休みます、親に連絡してもらって」

唯「元気だよね?」

梓「少なくとも熱はないですね」

唯「サボりじゃん! ダメだよそんなの!」

梓「……でも、学校に行くより、唯先輩の側にいたいです」

唯「………」


どうして、とは聞けない。あの時の事を誰よりも悔いている梓ちゃんに、それは聞けない。
だから、別の聞き方をする。


唯「……なんで、今日に限って?」

梓「……人手があったほうが、いいかと思いまして。他の先輩方は受験生ですから休めませんが、私なら」

唯「……それは助かるけど、本当に? それだけ?」

梓「………」

唯「………」

梓「……私は、いないほうがいいですか?」

唯「そんなことはないよ、絶対にない、けど……」

梓「………」


……何かあったんだろうか。昨日別れてから、今までの間に。
今日の梓ちゃん全てからそんな気がして、聞くべきかどうか、とても悩む。

でも、何かあったのだとしても、その『何か』まではわからない。記憶の無い私は、必然的に蚊帳の外だから想像もつかない。
恐らく私がこうなってからの色々に関係してるんだろうとは思うけど、どう関係するのかが想像できない。わからない。私が発端のはずなのに。

……そんな私が軽々しく事情を聞きだそうなんて、とてもおこがましい事に思える。


唯「……わかった。じゃあ、お願いできるかな?」

梓「……いいんですか?」

唯「いいよ。決意は固そうだし……それに」


何かあったのかは私には聞けない。
聞けないからこそ、突き放すことなんて出来なかった。今の梓ちゃんは近くにいてもらわないと不安だ。
何があったのかを聞けて、解決できるのが一番いいんだろうけど……私にはそれも出来ないだろうから、せめて他に何かしてあげられる事はないか探そう。

そういえばこの前もこんな感じの事を考えてたっけ。
その時は頼りがいのある先輩になりたい、って思ったはず。だったらやっぱり、今の梓ちゃんは放っておけない。


唯「……梓ちゃんがそばにいてくれると、嬉しいし」


そんな梓ちゃんに、何かしてあげたい。そう思う。
昨日の話だと、私に恩返ししたい梓ちゃんは直接そういう事を言われても困ってしまうらしいので、なるべく自然にさりげなく何かしてあげたいな。




私服に着替えた後、両親と梓ちゃんがまとめてくれた荷物を抱え、病院を出る。
体力はそこまで落ちてないようだ。何ヶ月も入院していたわけでもないから当然か。


医者「次は月曜かな。学校帰りにまた来なさい」

唯「はい、お世話になりました」


お医者さんと看護師さん数人が見送ってくれた。
目覚めてからはそれこそ梓ちゃん達がずっといたけど、それまでは看護師さん達にも世話になってたんだろうな、と今更ながら思い至る。
今更ついでにもう一つ。退院して外に出た時、初めてこの病院の名前を見た。


唯「……ああ、ここ脳神経外科だったんだ。って当たり前だけど」


紬さんがいろいろ手回ししてくれたとは聞いたけど、別にこの病院が「琴吹脳外科」という名前なわけではなかった。
まあ、お金持ちの世界にはいろいろあるんだろう、私にはわからないことが。それとも記憶のある頃の私ならそのあたりもわかっていたんだろうか?
……以前の私はお馬鹿キャラだったらしいし、それは無いかな。紬さん自身もそういう事を言いふらすキャラにも思えないし。


父「あー、梓ちゃん、その荷物はこっちに」

梓「あ、はい」

母「助かるわぁ。ほら唯、梓ちゃんばかり働かせてないで、こっちにおいで」

唯「……はーい」


お父さんのものと思われる車のそばで、皆が手を振っている。
行かないと、と思いながらも、もう一度病院の方を振り返ってしまう。

……記憶喪失の私がこんな事を言うのも変な話だけど、何かをここに忘れているような気がして、後ろ髪を引かれる感じがあった。
でも記憶が戻ってない事自体が忘れ物だと言われればそれまでだ。
もしくは、今の私の記憶はこの病院の中での事で構成されているから、去るのを寂しく感じてしまっているのかもしれない。
……どちらにせよ、わざわざ皆に告げる理由も無ければここで足を止めている理由にもならない。もう行こう。


唯「ごめんね梓ちゃん」

梓「いえ、いいんです。そのためにいるんですから」

唯「じゃあ、ありがとうって言えばいいのかな」

梓「……それもいいです。唯先輩には私のワガママを聞いてもらいましたから」

唯「むぅ、かたくなだねぇ」

父「ほらほら二人とも、出発するよ」


お父さんが運転席に、お母さんが助手席に乗り込む。
我が家ではこれが普通だったんだろうか。そんな気もするし、普通に世間一般の家庭がこんな席順なだけのような気もする。
でも、梓ちゃんと一緒に後部座席に乗り込んだ時、思う事が一つあった。


唯「……お父さんの運転、楽しみかも」

父「楽しみって。残念ながら何も面白い事はしないけど?」

唯「不安は感じない、ってことだよ」

父「そうかい、それは光栄だ」


きっと昔もこうやってお父さんの運転でドライブした事があるんだろう。
そう思えるくらい、不安はない。




辿り着いた家は、白を基調とした三階まである一戸建てだった。


唯「……見覚えがある気はするよ」


家だけではなく、帰ってくる途中から薄々そんな感じはあった。
私はこの近くに住んでいた。この家に住んでいた。そんな実感がどんどん溢れてくる。


梓「家の中に入れば、もっと何か思い出すかもしれませんね」

唯「うん、お父さん、早く!」

父「ああはいはい、ちょっと待って、鍵、鍵っと……ほらこれだ、唯」


お父さんから渡された鍵で、扉を開ける。
この行為にさえ懐かしさを感じる。やっぱり私はここに住んでいたんだ……


唯「うん……知ってる気がする……」


懐かしさを感じながら、一人で家の中を歩き回る。
間違いなく自分の家だ。そう思えるくらい、歩き回っていて不便がない。歩き回る事に身体が慣れている。

……でも、そうしてテンションが上がっていたのも最初のうちだけだった。
どれだけ歩き回っても記憶は戻らなかった。これもまた身体が覚えているだけに過ぎない、という結論に至り、ショックだった。
それに、この家に関して、途中から気になっていた事がある。


唯「……ねえ、お父さん、お母さん」


リビングで私の荷物を片付けてくれている三人の前で、問う。


唯「私が魔物に襲われた時、二人はいなかったんだよね?」

父「……そうだよ。ごめん」

唯「ううん。それはいいんだけど……」


それはちょっとした違和感。
いくらでも否定材料はありそうな、大したことのない違和感。
でも、聞かずにはいられない違和感。


唯「……じゃあ、その間、私はこの家に一人暮らしだったの?」


何故だろう、聞かずにはいられなかった。
共働きの家なら両親が二人とも家を空ける事だってあるだろう。その間、子供は一人暮らしになる。それは別に何もおかしくない。

でも何故だろう、この家に私が一人きりというのは……とても変な事に思えた。


唯「何か……何かね、ひっかかるんだけど……」

父「……いや、一人暮らしだったよ。だからこそ僕達は悔いている。娘の下を離れたことを」

母「……うん」

唯「そっか……気のせいかな」


気のせい、なのだろうか。
はっきり言って自信はない。でも、あれだけ私の身を案じてくれる両親の言葉を疑う気にもならなかった。
それに加えて……


唯「ごめんね梓ちゃん、変な話をしちゃったね」

梓「いえ……」



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最終更新:2015年09月23日 21:36