澪「今回は任せっきりじゃないだろ?」
唯「えっ?」
澪「梓の事……任せたよ、唯」
唯「……うん、わかった」
◆
梓父「入院するかどうか等の判断は、全て梓に委ねる事になったよ」
しばらく後、大人全員が揃っての第一声はそれだった。
普通であればお医者さんが仕事を放棄しているようにも映るけど、私という前例があるから誰も何も言わない。
梓母「平沢さんの時と同じであれば、入院しても改善するとは限らないから、本人の望みを優先する、って」
紬「あの、それについてですけど。まずは原因の解明の為に聞き込みをしてみようかと思うんです」
梓父「……それは、警察の力を借りるという事かい?」
父「いや、そうはならないと思う。ウチの娘の時も独力だったからね。琴吹さんがいろいろ手を回してくれたけど」
『魔物』などというものが世間に知られたらパニックになるから、と梓ちゃんからは聞いている。
けど今にして思えばそもそも『対抗する術』が警察にはないのかもしれない。もしかしたら私にも。
その『対抗する術』が超能力的な何かなのか、紬さんの家の支援に含まれているものなのかはわからないけれど。
とにかく、私以外の皆は、たとえ相手が『魔物』でも戦えるだけの力を持っている。私の時の実績がある。
梓ちゃんのお父さんもそれは知っているはずだから、この方向で決定になるだろう。
紬「はい。私達の力で。原因が警察沙汰になりそうなものだったなら、その後に通報します」
梓父「そうか……ありがとう。現場に向かうのなら送るよ、車で来たからね」
紬「ありがたいですけど……今はまだ梓ちゃんの近くにいてあげてください」
梓母「でも……私達の事、覚えてないから……」
唯「……あ、あの……覚えてなくても、家族がいるってだけで安心できるものですよ……」
図々しいかな、私が言っていいのかな、と思いつつも、どうしても言わずにはいられなかった。
だって、私は本当に両親に救われたんだから。記憶はまだ戻っていないけど、心は救われたんだから。
実際のところは私の言葉に梓ちゃんの両親もウチの両親も複雑そうな表情をしたけれど……でも最終的には微笑んで、言ってくれた。
梓母「平沢さん……ありがとう」
梓父「君みたいな優しい子が友達で、梓も幸せだと思う」
◆
結局、紬さん達の聞き込みにはさわ子先生が付き添う事になり、平沢一家と中野一家は病院に残ることになった。
私が以前使っていた個室がまだ空いてるらしく、お医者さんの好意で聞き込み班が戻るまではそこを使わせてもらえる事になった。
梓ちゃんをベッドに座らせ、梓ちゃんが手を離してくれないので私もその隣に座り、話を切り出す。
唯「えっと、梓ちゃん。自分の記憶がないことはわかる?」
梓「……はい」
唯「どのくらいの記憶がないんだっけ? 私と同じってことは、日常生活に困らない範囲の常識は残ってるけど思い出とかがない状態なのかな」
梓「……はい。あと、ゆいさん、あなたの名前だけは覚えています」
唯「こ、光栄です……でいいのかなあ?」
梓父「いいと思うよ」
それにしても、唯さん、か。なんか新鮮な呼ばれ方。
あ、そういえば皆の呼び方を変える作戦を実行してなかったな。さすがに今は梓ちゃんの事が優先だから後回しにするけど。
でもそうだ、呼び方の事は提案してみるべきかもね。あの時律さんが私に提案してくれたように。
唯「梓ちゃん、梓ちゃんは高校二年で私は高校三年だから、梓ちゃんは私の事を先輩って呼んでたんだよ」
梓「……じゃあ、ゆいせんぱい、ですか?」
唯「うん、そうだね」
梓「……なんか、落ち着きます。唯先輩」
唯「……ふむ」
私はお馬鹿キャラだったらしいけど、お馬鹿なりにちょっと気付いた事がある。
唯「……お父さん、私はどれくらい寝てたの?」
父「え? ええっと……二日くらいだったかな」
唯「……私は襲われて、二日くらい昏倒してた。でも、梓ちゃんは記憶を無くしながらもちゃんと早朝に私の家に到着した」
父「……そうだね」
唯「それに、私は本当に何一つ覚えてなかったけど、梓ちゃんは私の名前は覚えてた。私は以前の呼び方が慣れなかったけど、梓ちゃんはそうでもない。細かいところが結構違う」
父「………」
唯「……私は梓ちゃんも『魔物』に襲われたって思ってたけど、もしかしたら違うのかも?」
もちろん、全部ぼんやりとした憶測に過ぎない。
魔物に襲われた時に梓ちゃんが『対抗する術』で抵抗したのかもしれないし、誰かが助けてくれたのかもしれないし、今回の魔物が私の時より弱いだけかもしれない。
でも、魔物が原因じゃない可能性も結構出てきたように思う。少なくとも最初からそう決め付けて話してはいけないくらいには。
よく考えたら、実際に魔物を見た皆が魔物説を否定しているのに病室にいただけの私は魔物と決め付けている、というのも変な話だよね。
……いや、ホントに変な話だねこれ。もしかしたら私が過敏になりすぎていただけかもしれない。
律さんには悪いことしちゃったな、一旦落ち着こう。
梓「……唯先輩」
唯「ん、なに?」
梓「……まもの、って?」
唯「あ、えっとね、人の記憶を食べちゃう魔物っていうのがいるんだって。嘘みたいな話かもしれないけど、私はそれにやられちゃったらしくて」
梓「……なるほど。だから唯先輩は」
唯「うん、記憶が無いの。昔の私がどんな人だったかっていうのは、うっすらわかってきてるんだけど」
梓「……私達、記憶喪失仲間ですね」
唯「えへへ、そうだね。だから記憶喪失の先輩としてもどんどん頼ってくれていいからね? 記憶はまだ戻ってない身だけど……」
梓「……はい、お願いします。いろいろ助けてください、唯先輩……」
唯「……うん」
……梓ちゃんに、もっと甘えてほしい、と言ったのは私だ。実際、梓ちゃんもこれからは甘えると言ってくれた。
……それが、こんな形で叶うことになるなんて。こんなの誰も望んでいなかったはずなのに。
でも、こんな形でも、私が梓ちゃんに何かしてあげたい気持ちは変わらない。
梓ちゃんの記憶を戻してあげよう。
私の全てに代えてでも。
◆
和「――結論から言うと、目撃者はいなかったわ」
お昼を少し過ぎたくらいに、皆は戻ってきた。
扉を開いた時点で皆の沈痛な表情は見えていたので、良くない報告だろうなというのは予想できたが。
唯「そっか……朝といえど、誰かいるかもと思ったんだけど」
和「そうね、唯の家の近くはお年寄りも多い。私も誰かいるはずと思ったんだけど……運が悪かったようね」
唯「残念だね……どうしようか」
澪「……それについてみんなで少し考えたんだけど、魔物の可能性も視野に入れて行動した方がいいと思った」
唯「ええっ!? 私は逆にみんなの言うように魔物じゃない可能性も考えようって思ったんだけど……」
澪「意見がコロコロ変わってごめん。でも、実際に唯の時に魔物がいたんだから、有り得ないって言い切るのは難しいって思ったんだ」
唯「……でも梓ちゃんは私とは症状とかがちょっと違うんだ。だから魔物じゃなくて別の何かかもしれないよ?」
澪「そうか……そう言われると、そのあたりは否定しきれない、とは思う」
紬「……私達では結論が出せませんでした。あれだけ言ったのに、すいません」
律「ごめんなさい」
大人びている紬さんと、責任を感じている律さんが最初に梓ちゃんのご両親に頭を下げた。
すぐに他の人も続く。居心地が悪くなって私も頭を下げた。
梓母「……いいのよ、頭を上げて、みんな」
梓父「無い、という事が明らかになっただけでも収穫だよ。むしろ君達に任せてしまってすまない、ありがとう」
律「あのっ! 後でもう一度聞き込みに行ってきます! 行かせてください!」
梓父「…気持ちはありがたいけど、あまり先延ばしにするのも病院に迷惑だ。今後の事だけは、今この場で決めさせてくれないかな?」
律「あっ……わかりました……」
さわ子「……どうするおつもりですか?」
梓母「……私達の気持ちは変わりません。梓の望むままに、です」
その言葉を受けて、部屋の全ての視線が梓ちゃんに集中する。
梓「……ゎ、わたし、は……その……」
……私の時とは違い、なにかとジタバタしてしまって梓ちゃんは私以外の人とはロクに話をしていない。
つまり、ここで梓ちゃんに向けられてる視線のほとんどは記憶の無い梓ちゃんにとって『知らない人』の視線だ。萎縮してしまっても無理はない。
梓ちゃんは俯きながら必死にそこから先の言葉を搾り出そうとしているけど、なかなか声にならず……私と繋いだままの手は、震えていた。
唯「……梓ちゃん、私の家に来る?」
梓「……い、いいんですか…?」
唯「まあ、梓ちゃんやお父さんお母さん、みんながいいって言えば、だけど」
梓「わ、私は……唯先輩と一緒が、いいです……」
梓母「……唯一覚えていた名前、だもんね、梓?」
梓「は、はい、お母さん……」
梓父「……平沢さんは、どうですかね」
父「ウチは問題ないですよ。以前も部活で泊まってくれたと聞きました」
さわ子「ええ、軽音楽部全員でお世話になりました。その節はすいません」
母「いえいえ、こちらこそお構いも出来ず……」
梓母「でも明日まではそれでいいとしても、それから先は学校がありますよね」
さわ子「……平沢さんと同様、休学扱いにするよう申請は出来ます。中野さんはまだ二年生ですし真面目ですから問題もないでしょう」
梓母「いえ、娘の事ではなく……」
唯「……あっ、私?」
そっか、来週からは学生に戻るんだっけ、私も。
そうなると梓ちゃんは家に一人、か……
唯「となると、私の家でお父さん達とお留守番か、梓ちゃんの家に戻ってお留守番か、私も休むか、梓ちゃんも学校に行くか、ですね?」
梓父「三つ目はダメだ。人様の娘さんにそこまでの迷惑はかけられない」
私自身はあまり迷惑とは思ってないけど、私の世話をしてくれてた間の梓ちゃんも一日を除いてちゃんと学校に行っていたので、やっぱりダメそうだ。
となると残りの中から梓ちゃんに選んでもらうしかないわけだけど。
さわ子「学校に行くのであれば、協力してくれそうな友人に心当たりはありますが」
唯「でも、あくまで私の意見ですけど……気持ちを整理する時間って、必要だと思います」
梓母「では、平日は自宅で静養でどうでしょう? 私でしたら日中は家にいられますから」
梓父「……いいかい? 梓」
梓「………」
唯「……学校に行く前と放課後はお見舞いに行くから。ね?」
梓ちゃんが、私にそうしてくれたように。
梓ちゃんが私を救ってくれたように。
梓「……はい」
◆
医者「――なるほど、わかりました。では、月曜からは平沢さんと同様になるべく通院してください」
梓父「はい。どうもすいません、お世話になりました」
さわ子「……では、これから私の方で休学申請は進めておきますね」
梓母「すいません、よろしくお願いします」
ひとつお辞儀をして、さわ子先生は去っていく。
その背中は頼もしく、有能な教師のそれだった。
父「じゃあ、僕達も移動しようか。梓ちゃんは家に来るという事だけど、みんなも来るよね?」
お父さんのその言葉に、しばらく会話に入れなかった紬さん達は弾かれたように返事をし、
梓ちゃんのご両親は一度は渋ったものの、私がお願いしたら折れてくれた。
もちろんお願いといっても私が助けを求めたという意味ではなく、梓ちゃんのためにも側にいてあげて欲しいというお願いだ。
というわけで中野家の車と平沢家の車に分乗し、私の家へと向かうこととなった。
◆
ウチのお母さんと梓ちゃんのお母さんがお昼を作ってくれている間、私達は改めて梓ちゃんに自己紹介をした。
相変わらず梓ちゃんは私の後ろに隠れ気味だったけど、一応挨拶は返していた。良い傾向のはずだよね。
もっとも梓ちゃんに記憶が戻るような素振りはなかったし、皆も私の時ほどグイグイ行けてない感じがあったけど。
昼食を食べた後は、皆が私にしてくれたような事を梓ちゃんにしてあげよう、ってなった。
すなわち、私達の周囲の話をしたり、部活の写真を見せたり、ギターを弾かせてみたり、とかだ。
しかしいかんせん準備不足で、写真は私が持っている物に限られるため梓ちゃんのクラスの写真などはなく、
ギターもギー太しかないため手の小さい梓ちゃんでは弾く以前に使いにくそうだった。
日が傾くまでそうしていろいろやってみたものの、やはりというかなんというか、梓ちゃんの記憶が戻る気配は無かった。
ご両親とは落ち着いて会話出来ていたように見えたのが唯一の救いだろうか。
……いや、梓ちゃんにとっての救いではあるけど、私にとっての救いではない。
私にとっての救いは、梓ちゃんの記憶が戻ること。過程ではなく結果だけだ。そこはハッキリしておかないと、きっと何かを見落とす。
自分が焦っているのがよくわかる。わかるからこそ、何かを見落としたくはない。
そう思っているのは、私だけではなかったようだ。
律「……ごめん、みんな。私、まだ諦めきれない」
唯「……律さん?」
澪「…わかった。もう一回聞き込みに行ってくるか、律」
和「そうね。こういうのは現場百回と言うしね」
まるで律さんがそう言い出すとわかっていたかのように、皆が呼応する。
帰りがけにもう一度聞き込みをするつもりなんだろう。
その輪に自分が入れなかった事を少し寂しく思ったけど、それ以上に、今のうちに言っておかないといけない事がある。
唯「あっ……待って、えっと、紬さん!」
紬「私? どうしたの唯ちゃん」
誰にしようか少し悩んだけど、紬さんを呼んだ。
言い出した律さんを引き止めるわけにはいかなかったし、律さんが行くなら幼馴染の澪さんも行くだろう。
和ちゃんはちょっと話の内容にそぐわない。というわけで紬さんになったけど、間違ってはいないはず。
唯「えっと、ちょっと、あの、これからの話とかさせて欲しいな、なんて」
澪「……それもそうか」
紬「ううん、後でメールするから、澪ちゃんはりっちゃんと行ってあげて? 和ちゃんも二人をお願い」
和「わかったわ」
うん、私の予想は間違ってなかったね。
そうして三人が出て行って、今ここにいるのは私と梓ちゃんと紬さん、あと遠くで静かに見守る両親が二組、となった。
紬「どうしよっか、これから。なんでも言って、なんでも力になるから」
唯「……ありがと。でもその前に、一つ聞いていい?」
今のうちに言っておかないといけない事。
それは、今日一日見ていて気付いた事。ずっと気になっていた、私の時と梓ちゃんの時との、違い。
唯「……みんな、ちょっと梓ちゃんと距離を置いてるよね。計りかねてるっていうか」
紬「……それは……」
梓「…………」
唯「なんでかな、って思って。記憶のない私より、みんなの方が話せる事は多いはずなのに」
そのはずなのに、皆の梓ちゃんに対する姿勢は、どこか腫れ物を触るような、そんな気遣いと遠慮に満ちているように見えた。
私にはそれがわからなかった。
紬「……やっぱり、私達のせいじゃないか、って。みんなそう思っちゃって」
唯「……そんな、それを言い出したら私だって一緒だってば!」
紬「ううん。唯ちゃんよりずっと前から、私達は梓ちゃんを一人にして、いろいろ背負わせてきたから。だから原因は私達なの。今更いい顔なんて出来ないわ」
唯「違うよ! そもそも原因は魔物かもしれないし!」
そう言っても、紬さんは無言で首を振るだけだった。
魔物であろうと無かろうと、原因は私達だ。梓ちゃんを一人にしたのは私達だ。守れたのに守らなかったのは私達だ。……そう聞こえてくるような気さえする。
紬「あの日、唯ちゃんが守ろうとした梓ちゃんをそんな姿にしてしまったのは、私達。そういう意味では、本来なら今の唯ちゃんにも会わせる顔はないの」
唯「……だ、だったら、そんなの私は気にしないから、一緒に梓ちゃんの記憶を戻そうよ! そうすれば守ったのと一緒だよ!」
厳密には一緒じゃない。一度奪われたという事実は消えない。そんなのはわかってる。
でも、このまま記憶が戻らないよりはずっといいはずなのに…!
紬「……うん、その通りだよね。唯ちゃんの言うとおり、本当なら向き合わないといけないんだよね……。でもね、りっちゃんがあんな調子だから、どうしても、ね……」
律さん。
部長で、気遣いが出来て、明るく皆を引っ張る律さん。私にも何度も笑いかけてくれた律さん。
そんな律さんが、梓ちゃんの姿を見てくずおれたのは、私でも心が痛んだ。
記憶のない私でも心が痛んだんだから、ずっと一緒にいた皆はもっと痛んだのだろう。それなのに律さんを差し置いて梓ちゃんと仲良くしろなんて言うのは確かに酷だ。
唯「……ごめんなさい。無神経だったね、私」
紬「ううん、いいの。唯ちゃんの言う事も確かだから。でも……あ、ここから先は、完全に私個人の意見だけど、いい?」
唯「……う、うん。何?」
紬「……あのね、梓ちゃんを後回しにする、って意味じゃないんだけどね、でも梓ちゃんの記憶を戻すのに一番いいのは、唯ちゃんが記憶を取り戻す事なんじゃないかって思う」
唯「私、が…?」
梓「…………」
紬「……唯ちゃんの退院が決まった、あの日なんだけど、私達と梓ちゃん、ちょっと喧嘩しちゃったの」
唯「…そう、なの?」
それで翌日、様子のおかしい梓ちゃんが学校を休んでまで私のところに来た、というわけだろうか。
紬「私達はね、唯ちゃんの記憶が戻らなくても友達だ、って。そういう事を梓ちゃんに言ったの。でも梓ちゃんは、絶対諦めない、って。唯ちゃんの記憶を戻す、って」
唯「………」
紬「諦めるとも取れる言い方をした私達が悪かったんだけどね。……ともかく、そういうわけで、梓ちゃんが一番こだわってたのが唯ちゃんの事なのは確かだから」
唯「……私の事だけは覚えてるくらいに?」
紬「うん。だから本当の唯ちゃんが戻ってくれば、梓ちゃんが記憶を取り戻す何よりの刺激になるんじゃないかな」
唯「……そっか」
紬「あくまで私個人の意見だし、唯ちゃんが焦るのも良くないから、話半分くらいで聞いてね?」
唯「ううん、話半分だとしてもとても参考になったよ、ありがとう」
実際、自分一人で考えていたら思いつかない考えだった。私はあの日の梓ちゃんに何があったかを知らないんだから。
これまでの私は、私の全てに代えてでも梓ちゃんの記憶を戻す、と意気込んでいたけれど、私が記憶を取り戻す事で梓ちゃんの記憶も戻る、というハッピーエンドの道も見えてきたわけだ。
さっき呼び止めたのが紬さんで本当に良かった。
梓「……あの、つむぎせんぱい」
紬「……どうしたの? 梓ちゃん」
梓「……ごめんなさい。覚えてないですけど、ごめんなさい」
紬「梓ちゃん……」
初めて私の後ろからではなく、紬さんの正面に立って、梓ちゃんは頭を下げた。
そんな梓ちゃんを、紬さんはおずおずと抱きしめる。
紬「……あの頃はみんな、記憶を戻そうとする事自体が、唯ちゃんに辛い顔をさせているんじゃないかって思っちゃってて……諦めたかった訳じゃないんだけど、辛かった」
梓「………」
紬「おかしいよね、理不尽に奪われたものを少しでも取り戻そうっていうだけなのに、みんなどこかで悲しい顔をしてた……。梓ちゃん、私達、何か間違ってたのかな…? どこで間違ったのかな…?」
梓「………」
紬「……ごめんね、こんなこと聞かれても……わからないよね……記憶がないんだもんね……」
梓「……間違って、ないと思います……わからないけど、間違いだとは、思いたく、ないです」
……それは、目の前で泣く先輩に対しての言葉なのか。それとも、今の梓ちゃんが過去の自分に届けたい言葉なのか。
私にはわからないけれど、抱き合って肩を震わせる二人にそれを聞くつもりなんてあるはずもなかった
◆
これからの事については、結局そこまで話はしなかった。それ自体が紬さんを引き止める方便だったし、今までの皆のやり方を否定するつもりもなければ注文をつけるつもりもなかったからだ。
ただ、どちらかと言えば外に出たい、とだけ伝えた。紬さんは笑顔で頷き、梓ちゃんのご両親と一緒に帰っていった。駅まで送ってくれるらしい。
泊まっていけばいいのにと言ったけど、明日の梓ちゃんの服を取りに行くから、等の理由でかわされてしまった。
お風呂と夜ご飯を済ませてからは、私の部屋で梓ちゃんと二人きり。
それは私にとって、いろいろ考えを巡らす時間とも言える。
私は、自分の全てを賭けてでも梓ちゃんの記憶を取り戻したい、と思っていた。
でも紬さんの話を受けて、まず自分の記憶を取り戻すべきだと今では思っている。
そもそも自分の全てを賭けるなら賭けられるものは多いに越した事はない。記憶もその中の一つだ、とも言える。
なら、記憶を取り戻すためにこれから何をするべきか。
勿論、皆がいろいろ考えてしてくれるところに注文をつけるつもりはない。でも退院した今なら、私は受け身なだけじゃない。自分から何か出来る事があるはず。
今までにやった事をもう一度やってみるとか、逆にやってない事はないかとか、何か見落としてないかとか、考える事はいくらでもある。
中でも特に、今までやっていない事が鍵になるんじゃないかと思っている。何かが欠けている感じは私の中にずっとある。きっとそれが記憶の鍵だと思うから。
唯「……あ、そうだ」
今までやっていない事、という話で一つ思い出した。この部屋のどこかにあれがあるはず。
探そう。どこにあるのかな……
梓「……唯先輩?」
唯「お、あったあった。じゃーん、楽譜!もしくはバンドスコア!」
梓「……わあ……」
記憶のない梓ちゃんにとっても、昼間演奏しようとしたふわふわ時間以外の楽譜は物珍しいんだろう。私にとっても物珍しい。
とりあえず、せっかくだから今まで弾いてない曲でも練習してみようかな、というわけで発掘してみた。見つかってよかった。
さて、どの曲にしようか……
唯「えーっと、ふでペン~ボールペン~、カレーのちライス、わたしの恋はホッチキス……うーん……」
梓「……なんというか、独特なセンスですね……」
唯「全部澪ちゃん作詞なんだって。独特だとは思うけど、私は好きだよ?」
梓「……私も、嫌いじゃない気がします。唯先輩、良ければ聴かせてくれませんか?」
唯「覚えてないから上手く弾けないと思うけど……がんばってみるよ」
ギターを構えると、やっぱり懐かしい感じがする。
さて、最初は運指の確認だ。どうせ一発では弾けないだろうから、まずはゆっくりと、一曲通して指を動かす。
梓「………」
次は、少しスピードを上げて。
唯「うーん……」
まだ難しそうだけど、聴いてくれる人もいることだし次は本来の早さでやってみよう。
唯「………あっ、間違えた。あはは、やっぱり難し――」
梓「っ……」
唯「……梓ちゃん?」
梓「……すいません……わかりませんけど、何か……なぜか涙が……」
唯「…よしよし」
梓「すいません……っ」
私が何よりも梓ちゃんへの刺激になる。紬さんはそう言っていたっけ、と、梓ちゃんの頭を撫でながら思い出す。
ということは、梓ちゃんのこの無意識の涙は、私が私らしく梓ちゃんの記憶を揺さぶった、その証なんだろうか。
それはきっといい事のはず。だけど、その度に泣かせるのもなんだか可哀想なので、ギターはこのあたりでやめておこう。
……そういえば、私は泣いた事はあったっけ、とふと疑問に思う。
皆の話を聞く限りでは感情は豊かな方だったようだけど、今の『私』はまだ泣いていない、はず。
落ち込むことは結構あったけど、涙は流していないはず。
……それがいい事なのか悪い事なのかは、わからない。
◆
梓「すいません……急に泣いちゃって」
唯「大丈夫だよ。むしろごめんね、私、結構梓ちゃんを泣かせちゃってるね」
梓「……そうなんですか?」
唯「うん。三回くらいは泣かせちゃってるね……」
梓「……ひどい先輩です」
最終更新:2015年09月23日 21:38