そう言いながらも、笑いながら甘えるように抱きついてくる。
やっぱり梓ちゃんは可愛い。記憶を失っていてもそれは変わらない……けど、記憶を戻してあげたいという私の気持ちも変わらない。
唯「……ひどい先輩は、頼りがいのある先輩になりたいんだって。梓ちゃんにいろいろしてあげて、私と梓ちゃんの記憶を取り戻して、先輩のおかげだって言われたいんだって」
梓「……頼りにして、いいんですか?」
唯「もちろんだよ」
自分の記憶を取り戻す事。梓ちゃんの記憶を取り戻す事。
何度も言ってるけど、それが今の私の全てだからね。
梓「……記憶のあった頃の私達も、こんな感じだったんでしょうか?」
唯「うーん……」
正直に答えていいものか、少し迷う。
正直に答えたとしても正しいかどうかわからないのも問題ではあるけれど、それは今考えてもしょうがない。
今の問題は、梓ちゃんがどんな返事を求めているのか。悩んだけど、正直に答える事にした。
唯「違ったんじゃないかなぁ。私はダメな子だったみたいだし、梓ちゃんも素直な子じゃなかったみたいだし」
梓「そ、そうなんですか?」
唯「そうらしいよー」
梓「……私は、唯先輩をダメな人だとは思いませんけど。そういう面もあったのかもしれませんけど、そう言い切れるとは思いません」
唯「私も、梓ちゃんに素直じゃない面があったとしても、ちゃんと心は優しい子だったんだと思うよ」
梓「……ふふっ」
唯「なんか変な感じだねぇ」
梓「そうですね。……記憶が戻ったらどうなるか、楽しみですね」
複雑な笑顔で、梓ちゃんは言うのだった。
その笑顔の意味も、やっぱり私にはわからない。
◆
唯「ちょっと早いけど、寝ようか」
少し他愛も無い話をしてから、梓ちゃんと一緒の布団に入り、横になる。
それからも少しだけ他愛の無い話が続いたけど、次第に梓ちゃんは静かになり、寝息を立て始めた。
ちなみに、他愛の無い話と言ったけど本当に他愛ない。
今日は大変だったねとか、明日は晴れるといいねとか、そんなものばかり。
梓ちゃんを泣かせて、複雑な笑顔をさせて、次はどんな話を振ればいいのかがわからなかったから。
わからない事ばかりで、自分が嫌になる。
自分のためにも梓ちゃんのためにも、早く記憶を取り戻したい。強く、そう思う。
……それを焦りだと言ってくれる誰かがいたなら、この先の何かが変わったのだろうか。
◆◆
お母さんと一緒に朝ごはんを作った。
お父さんと一緒に部屋の片付けと掃除をした。
梓ちゃんと一緒に記憶の手がかりを求めて家の中を歩き回った。
どれも成果は無かったけど、この家でする事はどれも身体が覚えていた。
梓ちゃんのご両親が荷物を持って訪ねてきたので、来客用のスリッパを出し、リビングまで案内し、お茶を出した。
これくらいは余裕でこなせるくらい、この家には慣れている。
午後は皆と外に出る予定だけど、家の中にいたほうが記憶が戻る可能性は高いんじゃないだろうか。
正解はわからないのに、『記憶の鍵』はこの家にあるような気がしてならない。
鍵。
鍵といえば、私の部屋の隣の物置には鍵がかかっている。
正確には、私の部屋と同じレバーハンドル型のドアノブにチェーンを引っ掛けて引っ張り、外で留める事により、内開きの扉を固定する。そういう仕組みになっており、そのチェーンを輪の形にするために南京錠が使われていた。
つまり、物置を開けたい時にはその南京錠を外すだけでチェーンが外れる。そういう仕組みのはずだ。
そのはずなのだが、これに関しておかしな点が三つある。
まず一つ。この家のどこに何があるかは大体身体が覚えていた、にも関わらず、この物置に何があるかに限ってはどうしても思い出せないこと。頭の中に靄がかかっている感じがする。
もう一つ。我が家のキーロッカーを見てみたけど、ここに使うような鍵が無かったこと。鍵は丁寧に分類されていたので、一目でわかった。
あと一つ。私はさっきお父さんと片付けをしたわけだけど、その時この物置には見向きもしなかったこと。聞いてみても「あそこは後回し」と言うだけだった。
どれもいくらでも言い訳が利きそうな程度の『おかしな点』だけど、三つ揃えば途端に怪しく見え始めて止まらなくなる。
記憶のない身で憶測はしないけど、それでも中を見たいという気持ちは強くなるばかり。
『記憶の鍵』はきっとあそこにある。いつの間にか、何の根拠も無いのにそう思うようになっていた。
となると、次はどうやって中を見るか、という話になるわけだけど、正攻法は無理だろうと思う。
理由は簡単、キーロッカーに鍵が無いからだ。そこに無いから私は鍵を使えないし、そこに無いということは誰かが意図的に『隠した』という可能性もあるから。
誰が何のために隠したのかはわからないけど、「私が聞いてくる時まで隠しておいた」とかいう稀なパターンでもない限り、私が聞いても鍵は出てこないだろう。
正攻法は無理だという事で、外を伝って窓から覗き見る作戦とかも考えたけどさすがに危ない。
結局、一番現実的なのは『力技』というシンプルな結論に達した。
梓「……唯先輩? どうかしましたか?」
そして、最後にして最大の問題は、この子。
どこに行くにも私の後ろをついてくる可愛い子だけど、可愛い子だからこそ、力技なんていう危ない事に巻き込みたくなかった。共犯者としての責任も負わせたくなかった。
よって、梓ちゃんの知らないところで実行しよう、そう胸に誓った。
唯「……ううん、なんでも。今何時だっけ?」
梓「11時くらいですね。リビングでお昼の話し合いをしてますよ」
唯「私達も行こうか」
梓「はい」
◆
さっき言った通り、梓ちゃんはどこに行くにも何をするにも私の後ろをついてくる。
それを可愛いと思うし、私としても出来るだけ梓ちゃんを一人にしたくなかったから、私達はずっと一緒にいた。
だから梓ちゃんの目を盗んで何かをするチャンスなんて、そうそう巡ってこないと思っていた。
……実際は、意外とすぐ巡ってきた。
皆でリビングで談笑していた時に、呼び鈴が鳴ったのだ。
その呼び鈴を鳴らしたお客さんの目的が、梓ちゃんのお見舞いらしい。
それを聞いた梓ちゃんは、珍しく「一人で行く」と言い出したのだ。
唯「大丈夫なの?」
梓「……何かあったら、叫びますから来てください」
唯「うん、それはもちろん」
そんな危ない友達が梓ちゃんにいるとは思えないけど、心配なのも確かだった。
梓ちゃんの目を盗んであの物置を見るチャンスなのも確かだけど、記憶の無い梓ちゃんを一人にするなんて心配に決まってる。
梓父「……珍しく一人で行きたいと言うんだ、思うところがあるんだろう。行かせてやってくれないか」
唯「…はい」
心配に決まってるけど、梓ちゃんの意思を尊重しないなんて真似も当然出来なかった。
ここは割り切って、あの物置を見るための行動に移ろう。心配だけど。
唯「……まだ外で待たせてるんだよね?」
父「ああ。知ってる子だったけど、本人がそう望んでたから」
そう望む子、というのはちょっと珍しいというか、理由の予想が付かないけど好都合ではある。
お父さんが知ってる子ということで、相手がどんな子なのかも気になるけど……今は自分の目的を優先しよう。
唯「……玄関まで送るよ。心配だから」
梓「唯先輩……」
唯「大丈夫、盗み聞きなんてしないから」
梓「……ありがとうございます」
ちょっと悩んだようだけど、結局は甘えてくれた。
梓ちゃんのそんな反応を利用しているようで心苦しいけど、記憶を取り戻すためだと必死に自分を正当化し、梓ちゃんと手を繋ぐ。
◆
梓「……じゃあ、行ってきますね」
唯「そんなにかしこまらなくても。すぐそこだし、何かあったらすぐ呼んでね?」
梓「はい」
この心配は本心だ。自分の目的も大事だけど、梓ちゃんの身の安全の方がもっと大事だ。そんなの比べるまでもない。
目的のためにわざと梓ちゃんを遠ざける事も出来た。出来るけど、やるつもりは一切なかった。梓ちゃんが大事だから。
この後だって、途中で梓ちゃんに呼ばれれば全てを投げ出して駆けつけるつもりだ。先輩として、優先順位は間違えたくない。
梓「……ありがとうございます、唯先輩。では」
そう言って少し微笑んだ後、梓ちゃんは扉を開けてスルリと外に出てしまった。
その動きは素早くて、私からは外にいたはずの相手の姿がまるで視認できないほど。
相手は気になるけど……仕方ない。ここからは私も時間との勝負だ、急ごう。
唯「っと、ここだったよね……」
あの物置の中を見る上で邪魔なのはチェーンだ。そして、私はそれを力技で突破すると決めた。というかそれしか思いつかなかった。
というわけで、あのチェーンを切れるような何かがあればいい。そう思い、一階で工具箱を漁る。しかしそれらしきものは見当たらない。
ただの見送りである私が、いつまでも一階にいるのは不自然だ。もう時間がない。
仕方ないので第二の方法、もっと強引な力技で行くしかない。そう決めて金槌を手に取った。
後は物置へ向かうだけなのだが、ここでまた一つ問題が浮上する。
三階へ上がるには大人が四人いるリビングをどうしても通らなくてはいけない。
金槌はサイズ的には服の中に隠せばどうにかなるかもしれないが、重量があるため人の前では動きが不自然になるだろう。
そもそも早々に三階に上がりたいんだから、逆に開き直って何も言わずリビングを走り抜けてもいいのではないか。
物音がすればどうせ様子を見に来るだろうし、リビングで丁寧に時間を稼ぐ意味もない。そう考えて、一気に走り抜ける事にした。
父「あ、おい唯、どこに行くんだ?」
唯「ちょっとね!」
当たり障りのない返事をし、物置部屋の前まで辿り着く。
レバーハンドル型のドアノブにチェーンが掛けられて南京錠で留められている、のは既に言った通りだが、そちら側は私にはどうしようもない。
この金槌を使うのは、反対側。南京錠で輪にしたチェーンを引っ張り、壁に固定している場所だ。
なんとも雑な事に、このチェーンは又釘で壁に打ち付けられているだけだった。固定としては十分だが、金槌で何度か叩けば外れるだろう。まあ壁もえぐれそうだけど。
問題は何度も叩くだけの時間があるかどうか。これに尽きる。急ぐしかない。
狙いを定め、金槌を思いっきり振り下ろす。
唯「……やあっ!」
一度目。外れた。若干上の壁を思いっきり叩いてしまい、若干の手の痺れと大きな物音を残しただけだった。
父「……唯!? なんだ今の音は!?」
階下からお父さんの声と足音がする。時間がない…!
二度目。当たった。金属の鈍い音がする。しかし外れない。
三度目。当たった。外れない。時間がない。
四度目……
唯「っ……取れた!」
ドアノブに引っかかっているチェーンを乱雑に床に落とし、ドアを開けた。
父「唯っ!!!」
そこには……
唯「………ぁ」
そこには、『ひと』がいた。
正確には、生きた人がいたわけではない。
でもそこには確かに、一人の『ひと』の生きた証があった。
机。ベッド。クローゼット。写真。制服。鞄。本。私服。ぬいぐるみ。貯金箱。観葉植物。時計。鉛筆立て。辞書。アルバム。等々。
おそらくそれらは本人のものだけではない。様々な場所から寄せ集められた、一人の『ひと』の存在の証が、ここに放り込まれているようだった。
それはまるで、その人の存在自体をここに封じ、見えないようにしたかのような……無かったことにしたかのような……
唯「……ぁ……っ、あぁ……」
そして、私はその『ひと』を、知っていた。
記憶が溢れ出す。
手を引いて歩いた記憶。手を引かれて走った記憶。一緒に笑った記憶。私に笑いかけてくれた記憶。いつも、どんな時も、ずっと一緒にいた記憶。
その手の温かさを知っている。身体の暖かさを知っている。心のあたたかさを知っている。一番近くにいたから、誰よりも知っている。
涙が、溢れ出す。
ここにいる『ひと』。その正体は――
父「唯ッ!!!」
怒声を受けて振り返ると、そこには声とは裏腹に悲しそうな顔をした皆がいる。
お父さん、お母さん、梓ちゃん、梓ちゃんのお父さん、梓ちゃんのお母さん。
皆一様に悲しそうな顔をしている。でも、私は……
梓「ゆい、せんぱい……」
唯「ッ!」
走った。
皆の間を強引にすり抜けて階下へと走った。
その時に姿勢を崩したのだろう、皆が追いかけてくる気配はまだ無い。
走った。
玄関で乱暴に靴を履き、外に出た瞬間、後ろから梓ちゃんの声がした。
梓「唯先輩!待って! っ、純!唯先輩を捕まえてッ!!」
その声を受けて戸惑う女の子の横を走り抜け、飛び出した。
記憶にある外に飛び出し、記憶に無い所に向かって走った。
一人で知らない所に行きたかった。
友達も、仲間も、一緒にいた子も、魔物も、何もいないところへ……
◆
唯「――ッ、はぁっ、はぁ……」
知らない景色が広がる。
ここはどこだろう。走った程度でそこまで遠くには来れないだろうけど、適当に歩いても戻れそうに無い程度には周囲の景色に見覚えは無い。
……多少記憶を取り戻したくらいでは、戻れそうにない。
そんな私の足を止めたのは、梓ちゃんだった。
もちろん物理的な意味ではない。ここに梓ちゃんはいない。
でも、思った。
あの子を一人には出来ない、と。そんな想いが私の足を止めた。
今はまだ、頭の中がごちゃごちゃしている。
この数週間の私の記憶と、取り戻した記憶と、取り戻すべき記憶が混在している。
まずは頭の中を整理しよう。そう自分に言い聞かせるけど、それが難しい事であるのもわかっている。
自分でわかるんだ。なぜなら恐らく私は『違う記憶』を取り戻しているから。
さっき取り戻した記憶は断片的なもので、本来取り戻すべき記憶は他にあるはずなんだ。
そうでないとおかしい。
おかしいんだ。
そう思いながら、自分の身体を抱きしめながら、呟く。
唯「……お姉ちゃん……」
もちろん、返事はない。
◆
「い、いた……やっと見つけたぁ……」
背後からの声に振り向く。そこには家を飛び出した時にすれ違った女の子がいた。
まあ、いかんせん見たのはその一瞬だけだ、人違いかもしれない。でも大事なのはそこではない。
私は、この子の名前を知っている。
唯「純ちゃん……」
純「えっ…? 唯先輩、記憶が戻ったんですか…?」
この子は軽音部の仲間ではない。澪さんに見せてもらったクラスの写真の中にもいなかった。
でも私は知っている。
あの時梓ちゃんがそう呼んでいたから、では説明がつかないくらいの事を知っている。
唯「
鈴木純ちゃん。私の中学からの友達で、一緒に軽音部を見学した、今のクラスメイト」
純「……えっ…?」
唯「おかしい? これは私が知ってたらおかしい記憶なの?」
純「えっと……」
唯「私は
平沢唯。三年二組。軽音部。ギター担当。そんな私が、純ちゃんの事を知ってたらおかしい?」
聞くまでもない。おかしい。
私はおかしいんだ。どこかが壊れてしまった。
ダメなんだ、ちゃんと全部の記憶を取り戻さないと、説明がつかないんだ、きっと……
純「……梓を、呼んでいいですか。梓だけを」
唯「呼んで、どうするの?」
純「説明には適役だと思って。少なくとも、私は梓を差し置いて先輩に説明する気はありません」
唯「梓ちゃんは、今の問いに答えをくれるの?」
純「くれると思います。ダメなら私が説得します。……私はあなたの味方のつもりだから」
唯「……どういうこと? 梓ちゃん達は私の敵なの?」
純「そうじゃないです。ベクトルの違う仲間というか……ま、梓に説明させます」
よくわからないけど、疑っても始まらない。
仲間だと言ってくれるならまずは話を聞こう。そうしないと私はもうどうにもならない。そんな気がする。
……あ、でも、話を聞こうにも今の梓ちゃんって……
唯「……でも、梓ちゃんは今は記憶が……」
純「ああ、そこは心配ないですよ。記憶の無い梓とはさっき話しましたけど――」
心配ないという言葉が表す通り、何でもない事のように純ちゃんは言った。
純「あれ、多分嘘です」
◆
梓「……唯、先輩……純……」
純「おー、よく迷わずに来れたね」
全力で走ってきたのだろう、梓ちゃんの息はかなり上がっている。
それだけ私の事を大事に想ってくれているんだ。それは嬉しい。
でも、それなら何故……
唯「……梓ちゃん、記憶が無いって、嘘だったの…?」
梓「…………はい。ごめんなさい」
唯「なんで…? なんでそんな嘘を? みんなに心配をかけるだけの嘘を?」
責めたくはない。梓ちゃんが優しい子なのは知っているから、責めたくはない。
きっと何か理由があるんだ。私はそう信じた。
梓「……そうすれば、唯先輩と対等な後輩でいられるじゃないですか」
唯「対等な、後輩…?」
梓「記憶の無い先輩と、記憶の無い後輩。条件が同じになれば、唯先輩は私に後ろめたさなんか感じないでしょう?」
後ろめたさなんて感じた事は……無い、と言いたかったけど、無理だった。
私の記憶を戻すためにいろいろしてくれている梓ちゃんに、記憶の戻らない私は申し訳ないという思いを抱いたから。
梓「それに、唯先輩もずっと先輩として振舞いたがっていたじゃないですか。私もそれが『唯先輩』の記憶が戻る鍵になると思ったんです。先輩は先輩ですから。だから……」
だから、記憶を失ったフリをした。
全ては私のために。そして、私の記憶を戻すという梓ちゃんの目的のために。
……責められるはずがない。少なくとも私にはその権利は無い。
唯「……ごめん、梓ちゃん」
梓「……いえ、他の先輩達に心配をかけたのは事実です。いずれ必ず謝らないといけません」
唯「ううん、そこまでしてくれたのに記憶が戻らなくてごめん。梓ちゃんは私の望みを叶えてくれたのに、私は叶えてあげられなくて、ごめん……」
梓「……それは……」
純「っていうか、梓も澪先輩達に相談した上でこれを実行すれば良かったんじゃないの?」
梓「あの人達は、半ば諦めてたから。そんなつもりはなかったらしいけど、あの時の私にはそう聞こえてしまったから、相談は出来なかった」
昨日の、紬さんの話が蘇る。
喧嘩別れしてしまった次の日、朝から様子のおかしかった梓ちゃんは、それでも午後に来た皆には何も無かったかのように接していた。
その間に決意してしまったのだろうか。決意するような何かがあったのだろうか。
……いや、あった。
私が料理で泣かせて、先輩なんだから甘えて欲しいって梓ちゃんに告げたんじゃないか…!
唯「わ、私のせい…? あの日、梓ちゃんの嘘の背中を押したのは私…?」
梓「唯先輩は悪くないです! 私、嬉しかったんですよ? ああ言ってもらえて……甘えていいって言ってもらえて」
唯「でも! 昨日紬さんは言ってた! そんなつもりじゃなかったって! 私が背中を押さなければ、梓ちゃんがみんなと話し合ってから決めてた可能性だって…!」
梓「…そうですね、もしかしたらあるかもしれません。でもそれでも、絶対諦めたくない私と、記憶の無い唯先輩を受け入れようとしていた先輩方とでは、そのうちどこかですれ違いがあったはずです」
純「私と梓みたいにね」
梓「……そう、だね。一番最初は、純だったね」
唯「……だから、純ちゃんは私のお見舞いには来てくれなかったの?」
純「そういうことになりますね。ずっと梓が近くで目を光らせてましたから、記憶を失うまでは近づけませんでした」
梓「……純は何を言い出すかわからないからね」
そうか、だからさっきも梓ちゃんが一人で向かったのか。わざわざ玄関の外で話していたのか。
珍しいとは思ったけど、私に近づけないためなら納得だ。
でも、最初に外で待つと言い出したのは純ちゃんらしいから、純ちゃんも梓ちゃんの考えを汲んではいるようだ。
本当に『ベクトルの違う仲間』という関係みたい。
純「でも、改めて言うよ、梓。やめたほうがいい」
梓「っ……私がやめられない理由を知っててそれを言う!?」
純「言うよ!私だけが知ってるから私が言う! もう誰の為にもならないところまで来てる! 唯先輩は『混ざってしまってる』!」
梓「ッ!? そんな、こと……」
純「梓の気持ちもわかるよ! でもこれ以上続けたら全部壊れちゃうんだ! あんたの大好きなその人も! 軽音部も! 全部!」
梓「じ、純に何がわかるのよ……私達の、な、何が……」
純「……唯先輩は私の事を知ってた。澪先輩は私に梓を助けてくれって頼ってきた。あんたはそんなザマ。これだけで十分わかるよ……」
梓「……っ、ぅ、うあぁっ……」
梓ちゃんが、膝を付き、泣き始めた。
慰めてあげたい。けれど、話が見えない私にその資格はないような気がした。
純ちゃんも慰めようとしない。ただ、静かに泣く梓ちゃんを、悲しそうな目で見ているだけ。
これが、この場での最善手なのだろうか。梓ちゃんを一人で泣かせる事が、梓ちゃんのためなのだろうか。
私にはわからない。私には――
梓「ごめん……っ、ごめんね、うい……!」
唯「っ――!」
うい。
その名前は、私にもわかる。
憂。
その名前を、私は知っている。
さっき、物置とされていた部屋で取り戻した、私の記憶。
私の手を引き、笑う、その人は私の顔をしていた。
手を引かれ、笑いかけられているのは、私だった。
あの部屋にいた『ひと』は、私だった。
私の名前は、きっと……
平沢憂だった。
最終更新:2015年09月23日 21:38