パキッ、と小気味良い音を立てて、割り箸が真っ二つに割れた。

「あっ、きれいに割れたね~。おめでと~」

両手を小さく叩きながら唯先輩が笑う。
別に嬉しくもないんですけど…。

「お先にいただきます」

もうもうと湯気を立てて運ばれてきた大盛りチャーシュー麺を目の前にして、
お腹の下の方が小さく音を鳴らす。

「あずにゃん、大盛りなんて食べれるの?」

「いつも大盛りですよ、わたし」

「ふぅん」

脂っぽいラーメン屋のテーブルに肘をつき、両手で頬を支える唯先輩。
丼からは湯気が立つ。もうもう。
その湯気越しにきょろきょろ左右に動く唯先輩の茶色がかった瞳が見え隠れした。


いつもならもうちょっと、大盛りチャーシュー麺なんて頼んだら女子としてどうなんだ、とか、
人に見られてどう思われるっていうか、他人が持つ自分のイメージっていうか、
そういうの意識してるけど、今日はもういいや。
“ご自由に”と書かれた容器の蓋を外し、ばんばんキムチをラーメンに入れる手は止まらない。
続いてニラも。

「タダだとたくさん入れたくなっちゃうよねぇ」

ピンク色に頬を染めた唯先輩が中ジョッキを傾けながら言う。

「りっちゃんも、そうやっていっつもてんこ盛りにしてたよ」

そんなの知ってる。
割り箸でちぢれたカタ麺を掴んで口元に運び、すすりあげる。
ずずずっと、音を立てて、スープが飛び散った。

満席になってもたぶん10人も入らないんじゃないだろうか、という狭い店内。
天井近くに設置された手作りの台の上にブラウン管のTVが置かれていて、
最近売り出し中と評判の若手芸人が合コンの失敗談を楽しそうに語っていた。

オレンジ色の薄明るい照明の下にはわたし達二人だけで、
真っ赤なエプロンにタオルを頭に巻いた店長らしき男性はタバコを片手にブラウン管に見入っていた。

おまちどうさまです、と深夜にそぐわない愛想のよい声と同時に、
唯先輩の分のラーメンと二人分の餃子、ホイコーロー、ニラレバが運ばれてきた。

二十歳前後の女子大生としてどうなんでしょうね、わたし達。
“女子力”という言葉からはおよそ遠い行為ですよね。

わたしの煩悶をよそに嬉しそうに両手を合わせた唯先輩が割り箸を手に取る。
パキッと音を立てて割り箸が割れた。


あちゃ~…と情けない声をあげた唯先輩は、眉を八の字にしながら不恰好に別れた箸を代わる代わる見つめる。

「…律先輩も下手なんですよ、割り箸割るの」

唯先輩は一瞬真顔に戻り、それからすぐに表情を緩め「そうだね」と笑って言った。

「別にいいじゃないですか。使えるんだから」

片方だけ短くなった割り箸を左手に「そうだね」と唯先輩はもう一度笑って言った。
笑顔は心なしかくたびれて見えた。


「あずにゃん、はじめてこのお店に来たのっていつ?」

「そうですね…今年の1月くらいだったでしょうか」

唯先輩は片手を上げ、笑顔で駆け寄ってきた女性の店員さんに生中のお代わりを頼んだ。
いつも頼んでるカシスオレンジは注文しないのだろうか。
わたしは絞り機を使ってグッと力を込めてニンニクを潰す。
これで2個目。メリメリとニンニクが潰れていく。

「勝った~。わたし、去年の年末ぅ~」

「そんなことで勝負してどうするんですか」

お互い、惨めになるだけ。

3個目のニンニクを絞り機に入れると、思い切り全力でニンニクを捻り潰した。


「勝ちは勝ちだよ、あずにゃん」

酢醤油の入った小皿に餃子を浸し、唯先輩がもぐもぐと咀嚼しながら喋る。
ギュッと手を握るとニンニクが小さく音を立てて潰れていった。

「あれ? ラー油入れなくていいんですか?」

「あ、忘れてた」

慌てて小皿にラー油を足すと、唯先輩は食べかけの餃子をちょんちょんと小皿につけて口の中に放り込んだ。

「あっ、ちょっと!」

「あずにゃん、こういうの気にする人?」

「…小皿、新しいのもうひとつ出します」

「りっちゃんは気にしなかったけどなー…」

「そんなことないです。律先輩はこーゆーことはちゃんとしてました」

「あずにゃんが気をつかわせてただけでしょ」

TV画面から笑い声が響き、外の風にドアが少し揺れた。
唯先輩はまたビールのお代わりを注文している。
ちょっとペース、早すぎませんか。


「じゃあ…回数はどうですか」

「回数?」

わたしは新しい割り箸をパキッと割り(またきれいに割れた)、
大皿に盛られたニラレバを二人分の小皿により分けていく。

「…わたしは毎週です」

「ラーメン屋でデートってどうかと思うけど」

ありがとー、と唯先輩が小皿を受け取る。

「どうもです。負け惜しみですか。みっともないですね」

ちっぽけな優越感に浸りながらキムチを口に含むと、
予想外の辛さに吹き出しそうになった。

おかしい。前はこんな味じゃなかった。

「…毎週来てたのにキムチの味変わったの気付かないなんておかしくない?」

感情がすぐ表に出る体質をなんとかしようと思い立ってから何年経っただろう。
改善の目処は全く立たない。

唯先輩は不恰好な割り箸でキムチを掴むと同じように口に含み、平然と、笑顔さえ浮かべている。

悔し紛れに、自分の分のホイコーローをちょっとだけ多めに取り分けた。


「あずにゃんや」

「はい」

「いま思ったんだけど」

「なんです」

唯先輩がホイコーローを箸で掴んで口に運びながらしゃべり続ける。

「二人でラーメン食べた後は絶対チューしたりはしてなかったと思うんだ」

「…なんでです?」

「ほら。ニオイ」

「ああ…」

唯先輩がホイコーローをもぐもぐさせながら話す。
自分の分がちょっとだけ少ないことには気づいてないのかな、この人。



“生協でハーゲンダッツが安売りしてたんでつい買っちゃったんです。ひとりじゃ食べきれないんで一つどうですか?”

夜23時半。

0時を一緒に迎えたくて、無理矢理こじつけた言い訳。
季節外れもいいところだと我ながらため息が出る。
そうして頭の中で練りに練った(そのくせ平凡極まりない)文言を繰り返し頭の中で唱えながら律先輩の部屋の前まで来ると、そこには先客が立っていた。

唯先輩。

おなじみの趣味のおかしなティーシャツの上に半纏を羽織り、右手に缶チューハイを2本手にした唯先輩が、扉の前で立ち尽くしている。

アイスの入ったビニール袋が揺れてガサッと音を立てた。
わたしに気づいた唯先輩がこちらを見ると、左手を上げて“来ちゃダメ”と合図をしながらゆっくり首を横に振る。


わたしは意味がわからず、合図を無視して唯先輩に近づき、気がついた。

部屋の扉がうっすら開いている。

自然、視線は隙間に吸い寄せられていく。

部屋の中には、肩を寄せ合う二つの影。
長い黒髪が揺れる。

影は重なり、ひとつになった。

二、三歩後ずさって身体の向きを変えると、わたしは跳ねるようにしてその場から駆け出した。


夜の女子寮を飛び出し目的もなくただ全力で走り続けて…いつしか鴨川の手前まで来たころ、わたしはビニール袋の中に手を突っ込み、ハーゲンダッツを二つ掴むと、大きく振りかぶって腕を振り、川の中に放り投げた。

真っ暗闇に放物線を描き、ハーゲンダッツは飛んでった。

『なかなかいいフォームだね』

ぽちゃ、と水の跳ねる音と一緒に甘い声が聞こえた。

『ダメだよ、あずにゃん。川にそんなもの投げちゃ』

肩を叩かれて振り返る。息を切らした唯先輩がそこにいた。

『あれ、ハーゲンダッツだよね? 勿体ないなぁ…食べたかったなぁ』


鴨川を見下ろした唯先輩は、目を細めてアイスの落下点を探すように左右に視線を泳がせた。いや、見つけてももう食べれないし。
わたしの心の声が聞こえたのか、自分の行動の無意味さに気づいたのか、唯先輩がこちらを振り向いてニコっと笑うと、『風邪ひくよ』とわたしの首にマフラーを巻いて、

『わたしもねー、りっちゃんのこと、好きだったんだよねー』

“わたしも“と付け加えながら、まるでアイスを惜しむのと同じような軽い調子でそう言った。


唐突な告白と、なんでバレてたんだろうという疑問が胸の内をぐるぐる巡り、
発言が冗談なのか本気なのかも判断できず、
気の利いた返答も思いつかず、
わたしはただ並んで川面を見下ろすしかできなかった。

夜の闇を写し取った川の流れに街の明かりがきらめている。


沈黙を破ったのは唯先輩だった。


『あずにゃん。お腹空かない? いいラーメン屋さん知ってるんだけど』

そう言ってわたしの先を歩き出した。

さすがに半纏からコートに着替えてるその背中を見て、
わたしよりこの人の方が大人なのかな、なんて思った。


「だからさ。一緒にラーメンを食べに行ったその日のりっちゃんはさ。澪ちゃんのものじゃなかったと思うんだ」

なるほど。
その理論で言えば、律先輩にラーメン(…というかキムチやニンニクとかニオうもの)を食べさせ続ければ…

…。

…ダメだ。わたし。バカになってる。

「…そもそも唯先輩のものでもないと思いますけど」

「あずにゃんのものでもないと思うけどね」

「…まぁそうですけど」

「りっちゃんはみんなのものだよぅ…澪ちゃんが独り占めなんてズルいよぅ…」

残り半分にまで減った中ジョッキを飲み干しつつ唯先輩が言う。
ゴン、と勢いよくテーブルの音が鳴る。


「…唯先輩は、」

わたしのジョッキはというと、3/4も減っていない。

「唯先輩は律先輩を独り占めしたいとは思わなかったんですか」

「…」

「…わたしはそうですけど」


沈黙。


TVはいつの間にか音楽番組に切り替わっていて、
今週のヒットチャートと並行して、20年前の今月と同じ週のベストヒットを紹介している。

唯先輩は右手を上げて店員さんを呼ぶと、生中のお代わりを頼んだ。

「てゆーか、唯先輩が律先輩のこと好きだなんてちっとも知りませんでした」

「あずにゃんはね」

生中が来るまで手持ち無沙汰な様子の唯先輩が、餃子残り三つのうちの一つを箸で掴み、酢醤油に浸さず口元に運んだ。

「態度に出しすぎ。あれじゃりっちゃん困るに決まってんじゃん」

「…」

残り二つのうちの一つを箸で掴み、わたしは酢醤油に浸してから口元に運ぶ。

「唯先輩のやり方じゃ、気持ちは伝わんないですよ。あの人、きっと唯先輩のこといい友達としか思ってませんよ? 知ってました? 律先輩って…」

「知ってるよ。りっちゃんは…」

「「ちょうニブい」」

生中がやってきた。
唯先輩がジョッキを右手で掴む。
わたしもまだビールのたくさん残ったジョッキを掴む。

意気投合したわたし達は、ガチン、とジョッキを鳴らし、今日2度目の乾杯をした。


あずにゃんがわたしのことを甘いもの好きな人、って思ってるのは知ってる。
そのとーりだよ。ちっとも間違ってないよ。わたしは甘いものが好き。昔も今も。かわらないよ。

でも案外辛いものだっておいしーじゃん、って最近思うようになってきたのも本当。


夏頃だったと思う。
ライブがあって、その打ち上げの帰り。
なんだかまだ飲み足りなくて、そーいえばこないだ部屋飲みしたときの残りが、まだ冷蔵庫に残ってたじゃん、って思い出してりっちゃんを誘った。

じゃあツマミはわたしが持ってくわ、と言ったりっちゃんが差し出したのはキムチ。
キムチぃー…とロコツにイヤそうな声をあげたわたしにりっちゃんは、

『このメーカーのは変に甘くないし、辛いけど案外イケるんだよ』

『エェー…わたし辛いのダメだし』

『お子様だなー、唯は! まぁでも食べてみろって騙されたと思って』

と笑いながら容器の蓋を開けた。


げっ、辛そう!
もうこのニオイだけでイヤな予感がする。
うーん、どうしようかな。

迷ったけどりっちゃんに笑われたのが悔しい気持ちもあったし、
わたしもオトナだよっ! …ってとこをりっちゃんに見せたかったのかもしれない。

両目をつむってキムチを口の中に放り込んだ。

『…』

『どう?』

『…案外イケるかも』

『…だろ?』

りっちゃんがニッと笑う。
その顔がもっと見たくて、わたしはまたキムチを放り込んだ。

次の日、わたし達を見る澪ちゃんの目はとても冷たかった。
(めちゃくちゃキムチ臭かったんだって。避けなくてもいいのにね)


自分がけっこー辛いものもイケちゃう、ってわかってからも、5人でいるときはあんまりそんな素振りを見せることはなかったと思う。多少の恥じらいもあったのかなぁ。
それにみんなと一緒のときは甘いものを食べる機会の方が圧倒的に多かったし。甘いものは変わらずに好きだし。

『唯先輩はホントに甘いもの好きですよね…』

飲み会の終盤で手つかずのままテーブルに残された他の人の分のプリンまで黙々と食べるわたしを見て、呆れながら呟いたあずにゃんを、なんだか裏切っちゃダメな気もしたし。

こんなことで裏切るも何もないのに。

なんだろうね。もう付き合いだってそこそこ長いんだし、こんな些細なことなんてどーでもいいことなのにね。

二人飲みの機会が多かったせいもあるんだろうけど、辛いもの(と言ってもキムチばっかり)を食べるのは、決まってりっちゃんと二人のときばかり。


キムチのおいしさを教えてくれたりっちゃん。
だからわたしにとってのキムチの味は、りっちゃんの味。

大好きになったキムチ。

でもりっちゃんにとってのキムチはわたしの味じゃなかった。

りっちゃんにとっては澪ちゃんの味だった。

りっちゃんも別の誰かにキムチのおいしさを教えてもらってたなんて、想像すらしてなかったわたし。
バカ。大バカ。

バーカバーカ。
バカなわたし。


『梓ってさ。ラーメン好きだったよな』

『まぁ、それなりに』

『じゃあラーメンについてケッコー詳しい方?』

『は? なんですか突然』

市内のラーメン屋なら知らないところはありません。
一人で自転車に乗って全店舗を巡りましたから!

…とはさすがに恥ずかしくて言えない。

『まぁ…少しくらいなら』

『そっかー。いや今日ラーメン食べたくてさ。いいお店知ってたら連れてってよ』

右手をわたしの首に回しながら律先輩が言う。

『バイト代入ったからさ、おごるぜー』

頬が触れるくらい近くに律先輩がいることも嬉しかったけど、
澪先輩でも唯先輩でもムギ先輩でもなく、わたしに声をかけてくれたのが何より嬉しかった。


澪もさ。ラーメン嫌いじゃないんだよ。
でもよー、太るからヤダって言ってなかなか付き合ってくれないんだよ。

ムギは誘えばゼッタイ付き合ってくれるってわかってるんだけど…
体重気にしがちなのは、澪と一緒だろ? だからかえって悪い気がして…

唯はほら。アイツ何食べても体型変わんないから。
わたしだけ体重気にしなきゃいけないの、なんか腑に落ちねーし。

…消去法ですか。

あ、ごめん。そういうつもりで言ったんじゃなくて。

『梓と食べるラーメンがいちばんおいしそうだから』

身体中に巡る血液の流れが勢いを増して、全身が浮き上がるように感じた。
口角を大きく開けて、ニッと笑う律先輩。
呼吸が苦しくなって、わたしは顔をヨソに向けた。

…単にラーメン好き同士で食べに行きたい、って意味だったんだろうけど。


ちょっと遠いから自転車で行きましょう。
身体を動かすとお腹も空きますし、ラーメンがおいしくなるのでちょうどいいです。

風を切りながら、川沿いを自転車で並んで走る。

吹き付ける風が身体中の熱を冷ましてくれるみたいで、わたしは立ち漕ぎでスピードを上げた。

おい、待てよー!
…って律先輩の叫ぶ声が聞こえた。

追いかけてくれるのが嬉しくて、わたしはさらにスピードをあげた。


せっかくだから、
と、もう一杯だけ中ジョッキを頼むと唯先輩もそれに便乗してまた生中を注文した。

あとあと聞けば、その日は何にも食べてなかったらしく、
さらに追加したニンニクたっぷりの餃子を3人前も平らげたのも頷ける。

ジョッキを手に取ったわたしを見た唯先輩は、

「あずにゃんはすぐ真っ赤になるからかわいいね」

と笑った。
あなたも真っ赤なんですけど。
でもこの人がこんなに飲めるなんて知らなかった。







四時。
深夜というか早朝というか。

真っ暗な夜のバス停。

冷気が肌を刺す。
わたしの口から白い息が流れていく。

「律先輩と澪先輩。よく考えたら意外でもなんでもないですよね」

「そうだよね。仲がいいのが当たり前すぎて逆に考えてなかったよ」

車も原付も、自転車すら走っていない。こんな時間に起きて外を出歩いてるのは…
わたしたちくらい?

「いつから付き合ってたんでしょうか」

唯先輩がマフラーを持ってきてくれて助かった。
着の身着のままじゃたぶん風邪ひいてたな。
この間まで半袖でも過ごせるくらいだったのに。もうすぐ冬なんだ。

「さぁ…いつからなんだろう」

唯先輩もわたしも、目を合わせることなく、通りを眺めていた。
しばらく通りを走る車がないと、世界にわたし達二人だけが取り残されてるような気分になる。

「なんで言ってくれなかったんでしょう」

あの二人が悪いわけじゃないってわかっていても、
誰かを何かの吐け口にしたかったのかもしれない。

「まぁ…言いにくかったんでしょ。いろいろ」

唯先輩は淡々と言った。

「そりゃあ…まぁ…」

そうか。そうだよね。



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最終更新:2015年11月11日 19:48