★★
「来てくれないかと思った」
唇の熱は、そのまま残り続けていました。
息を切らして走ってきたわたしを見て、澪ちゃんはかすかに笑いました。
いつもと同じいもむしみたいなコートに、ぼんぼんのついた白いマフラー。
星のマークの入った桃色のかわいい耳当てをつけています。
月の光に照らされて、ひとり公園のベンチに座る澪ちゃんはとても綺麗で、
最近のエキセントリックな言動のせいですっかり忘れていましたが、
改めてこの子が美人だということを思い出させてくれました。
「ごめん、遅くなって」
「いいんだ。ありがと、来てくれて」
わたしが隣に腰掛けたのを見て、澪ちゃんはラジカセのスイッチを押しました。
おなじみの、ジー、という音が夜の公園に響きます。
「高いところのほうがいいじゃないの」と訊ねると澪ちゃんは、
「山の上とか登ってみたいけど夜は危ないから」と答えました。
澪ちゃんにちゃんと理性が残っているようで安心です。
途中、「こうしたほうが聞こえやすいかもしれないから」、
そう言ってラジカセにイヤホンを挿して片方をわたしに手渡してくれました。
このほうがまわりにうるさくないし、夜の公園で意味不明な音を垂れ流すよりも変な目で見られにくいからいいかもしれません。
わたしが右耳にイヤホンをはめるのをみて、澪ちゃんは耳当てを外し、左耳にイヤホンをつけました。
それからつまみに触れて、少しづつ少しづつ動かしました。…慎重に音を探っているみたいです。
左手でイヤホンをつけた耳を押さえ、眉を寄せて真剣な面持ちです。かなり集中している様子でした。
しばらくすると、つまみを調整していた手が止まり、どうだ! という笑顔をわたしに向けました。
けれどわたしの右耳には、変わることのない、ジー、という音が響いているだけでした。
「唯、聞こえる?」
「ジー、っていう音はね」
ここまできてもう、わたしは曖昧にごまかすつもりはありませんでした。
「そっか」
会心の調整も徒労に終わり、澪ちゃんはがっくりとうなだれました。
「澪ちゃんは? どんな声が聞こえるの?」
「えーっと…前にも話したと思うけど…」
そう言って話す内容は、地球環境がどうのとか森林破壊がどうのとか平和がどうのとかイルカがどうのとか…前に聞いた内容と変わりません。
耳タコです。
「そうじゃなくて。内容っていうよりも聞こえ方っていうか。澪ちゃんにはそれが人間の声として聞こえるの?」
「うーん、そうだなぁ…人間の声として聞こえるっていうよりも…振動っていうか音楽っていうか…身体の内側に響く感じで伝わってくる、というか……」
言葉にするのは難しいんだ、澪ちゃんは言いました。
あれだけなんども集会をしていて、澪ちゃんはなんにも説明してこなかったのでしょうか。
いや、説明なんかしなくても声さえ聞けば、みんなわかってくれるに違いないと思っていたのかもしれません。
「もしかして、ジー、って音?」
「……」
「…澪ちゃん?」
「…そう言われるとそう聞こえなくもない」
「なにそれ。じゃあ澪ちゃんもわたし達といっしょで、なんにも聞こえてない、ってことじゃん」
「……」
夜の公園はとても静かです。
澪ちゃんは黙ったまま、なにも答えてくれませんでした。
月の綺麗な夜でした。
点滅を繰り返す古い電灯が、ベンチに座るわたし達を照らしていました。
寒い夜でした。
冷たい風が吹くたびに震えそうになって、ふたりで身体を寄せ合って宇宙の声を聞こうとしていました。
澪ちゃんが左耳からイヤホンを外しました。
それに引っ張られるようにしてわたしの右耳からもイヤホンが外れます。
イヤホンから漏れるジー、という音。
わたしはラジカセからイヤホンを引っこ抜きました。
さっきまでふたりだけのものだった音は夜にバラまかれ、星空へと広がってきました。
なんで、わたしを呼び出したの」
「もしかして、唯には聞こえてるんじゃないかと思って」
「聞こえないよ。澪ちゃんだって、本当はなんにも聞こえてないんでしょ」
澪ちゃんはまた、黙り込んでしまいました。
「…………」
静かに呟いた澪ちゃんの言葉。
公園通り沿いを走る車の音に、かき消されてしまった言葉。
もしかしたらわたしの聞き間違いかもしれません。
澪ちゃんはなにも言わなかったのかもしれません。
「…だよな、そうだよな」
今度ははっきり、澪ちゃんの声が聞こえました。
「聞こえる、って言ってもわたしだけだもんな。
わたし以外の人全員聞こえないんだもんな。
わたしだって聞こえた声がどういうものか、うまく説明できないもんな。
そんなんじゃ、聞こえない、ってことと一緒だよな。
“宇宙の声”、…なんて、わたしの勘違いだった、ってことか…ハハ…」
快晴の夜空には無数の星。
でもこうして今、目に見えている星だけが、夜空にまたたく星の全てではないそうです。
目に見えていないだけで、本当はずっともっと、この宇宙には数え切れないくらいたくさんの星が存在しているらしいです。
けれどそのうちわたしの知っている星なんて指の数で足りるほど。
わたしの知らない星、見ることのできない星のほうが、ずっとずっと多いのです。
「今夜は付き合わせてごめんな。
宇宙の声はこれでおしまい。
明日からは毎日ちゃんと部室に行くし、練習もする。
宇宙の話ももうしない」
澪ちゃんはかるく笑ってみせるとベンチから立ち上がり、大きく伸びをしました。
「ほんとうにそれでいいの?」
「うん。なんか吹っ切れた。やっと冷静になれたよ。
ほんとごめん。わたしの思い込みのせいでみんなにめちゃくちゃ迷惑かけちゃって。
明日、みんなにちゃんと謝る」
「じゃあもう、宇宙の声は聞かないの?」
「ああ、もう聞かない」
「なんで? どうして? 聞こえるんじゃなかったの?」
「意味…ないから」
澪ちゃんは耳当てをつけなおして、ラジカセのスイッチを切りました。
音が止み、夜の公園を静寂が包みました。
「…やめないでよ」
「…え?」
「…簡単にやめるくらいならこんなことしないでよ。
本当に聞こえるんならやめるなんて言わないでよ。
誰にも理解されないからってやめないでよ。
…聞こえるんでしょ、
大事なんでしょ、
信じてるんでしょ、
…大切にしてよ、ねぇ…
お願い、だから…」
「ゆい…」
自分で自分がなにを言っているのか、わからなくなっていました。
強く握った両手は冷たくて凍えそうで、唇を噛みしめて我慢しようとしたけれど、
涙がこぼれるのを止められませんでした。
「わたし…聞こえないけど…全然聞こえないけど…信じてもなかったけど…
澪ちゃんが言ってることも…地球とか森とかイルカとかわけわかんないけど…
でも、澪ちゃんが宇宙の声聞くの、やめちゃうなんてヤダ」
誰にもわからないからって、
人とちがうからって、
まわりに理解されないからって、
なかったことにされちゃうなんてやだ。
否定されちゃうなんてやだ。
ほんとうのことなのに。
じぶんのほんとうの気持ちなのに。
いやだよ…そんなの…ぜったいやだ。
澪ちゃんはもう一度ベンチに腰掛けて、わたしをぎゅっと抱きしめてくれました。
わたしは全身を震わせながら、必死で澪ちゃんにしがみついていました。
何かの拍子にスイッチが入ったのか、ラジカセからは宇宙の声が流れ出していました。
★★
『ジジジッ……の風、日中は南の風、晴れ、夜は曇り。北部の山沿いでは雪……
日中は日差しのでるところはあるものの、最高気温は昨日とおなじかやや下がるでしょう。
府内警報注意報は出ていません。降水確率は……』
「どう? 今夜はイケそう?」
「…どうかな。曇りみたいだし、音の入りは悪いかも」
屋上には冷たい風が吹いています。
扉を開けて一歩を踏み出した瞬間に後悔するこの寒さ。
ところが澪ちゃんは寒さに強いのか、コートも着ずにこうして風に吹かれて平然としています。スゴいね、冬生まれ。
「ふぅん。まぁわたしはどーせ聞こえないからどうでもいいんだけど」
「…身も蓋もないこと言うなよ」
「それより今夜は寒いの?」
「昨日より寒いってさ」
「げ。サイアク」
今夜はやめよっかな。
「おしるこおごるから」
「わたし…一生澪ちゃんについていくよっ」
「…ゲンキンなやつ。…ていうかそんな安く釣られて大丈夫か?」
いいのいいの、結局澪ちゃんについていくのに変わりはないんだから。おしるこオゴってもらえてラッキーです。
あの日以来、澪ちゃんは宇宙の声の布教をやめ、以前どおりの澪ちゃんに戻りました。
部室でちゃんとみんなに謝ってりっちゃんとも仲直り。
ラジカセは持ってきているものの、人目を厭わず聞きまくるようなことはなくなり、やっとこ平和が訪れました。
『みお…わかってくれてうれしいよ』グスッ
『りつ…泣くなよ、大げさだな。わたしがわるかったよ。わたしも十分反省したからさ、だから泣かないでくれよ』
『よかった~やっぱり五人揃ってないとお茶もお菓子もおいしくないものね♪』
『そうです! 五人揃ってこその軽音部です! さぁ今日からガンガン練習しましょう!』
『ああ! これまでできなかった分、一気に取り返すぞ!!』
これまでサボっていた分演奏はガッタガタで、澪ちゃんは自分のことを棚にあげて激怒していました。
勘弁してほしいです…。
「唯って変わってるよな」
「なに? 急に。宇宙の声が聞こえるとか言ってる人には言われたくないんだけど」
「仕方ないだろ、聞こえるものは聞こえるんだから」
澪ちゃんは膨れたように言います。
「わたしは聞こえるからさ。でも唯は聞こえないのに付き合ってくれるからすごいな、って」
「そうだねぇ~」
「も、もしかして少しは聞こえるようになった?」
「ううん。まったく」
「……」
わかりやすく肩を落とす澪ちゃんが可愛らしくて、思わず笑ってしまいそうになります。
でも聞こえるか聞こえないかは、もうわたしにとってそれほど大事なことではないのです。
あの夜、家に帰ったのは随分遅い時間で、日付が変わる手前くらいでした。
冷え切った身体でリビングの扉を開けると、コタツに突っ伏すようにして憂が寝ていました。
わたしをずっと待っていてくれたのでしょうか。
起こしてしまうのは気が引けましたが、このままにしては風邪を引いてしまうかもと思い、身体を揺りました。
『…ん、あ、おねえちゃん…』
『ただいま。ごめんね。遅くなって』
『ううん、よかった。帰ってきてくれて』
憂は笑ってわたしの手を握りました。
『ダメ、冷たいから』
『いいよ、あっためてあげる』
『ううん、ダメ。ダメだよ』
憂はさっきのことを覚えているのでしょうか。
わたしのことをどう思っているのでしょうか。
自分から突き放したくせに、あんなことを言ったわたしを。
いろんな考えが頭の中をめぐり、こんがらがってわけがわからなくなり、目を閉じたわたしの唇にやわらかいものが触れました。
目を開くとそこにあったのは、いつもの憂の笑顔でした。
『うい…』
『おねえちゃん』
わたしはおおいかぶさるようにして憂を押し倒し、キスをしました。
憂は両腕をわたしの背中に回し、つよく身体を抱きしめました。
もう二度と、ほどけないほどつよく。
けれどわたしは抵抗するつもりなんて、まったくありませんでした。
なぜならそれは、他ならぬわたしが、いちばん望んでいたことだったからです。
「さぶっ」
「ほら、風邪ひくぞ」
そう言って澪ちゃんがこっちに缶を投げました。
「あっ、おしるこだ」
「唯がくるかな、って思ったから買っといた」
「気がきくね~澪ちゃん」
「えへへ、まあな」
「…うーん、でもコーンポタージュのほうがよかったかもー」
「…ゼータクゆーな」
「宇宙の声が聞き取れるんだから、心の声くらい読んでほしいね」
「無茶いうなって…」
澪ちゃんがラジカセのつまみを触れると、天気予報はかき消えて、ジー、という音が鳴り始めます。
わたしは澪ちゃんの隣に腰掛けて身体をぴったりくっつきました。こうするととってもあったかいのです。
つまみを調整する手が止まり、「ん」と澪ちゃんが声に出してわたしの顔を見ました。
この表情から察するに、宇宙の声絶好調!ってとこでしょうか。
わたしにはまーったくなぁーんにも聞こえませんけど。
きっとこれからずっと、どんなに頑張ってもわたしに宇宙の声は聞こえないかもしれませんけど。
でもそんなことどーだっていいんです。
宇宙の声は聞こえないけど、聞こえるって言ってる澪ちゃんのことを信じてるから。
澪ちゃんに、宇宙の声を信じ続けてほしいから。
こうして隣に座っているんです。
「唯」
「なーに、澪ちゃん」
「ありがと」
「どしたの? 急に。もしかして、わたしがいると声が聞こえやすくなるとか?」
「いや。そんなことはない」
「なーんだ。それよりさ、澪ちゃん。もうすぐお昼休み終わるよ」
「ん、わかった。あとちょっとだけ」
真っ青な冬空に、宇宙の声が響いていました。
おしまい
最終更新:2016年01月16日 06:19