1
バリケードに最後の思い出をむりやり押し込むと、やるべきことはなにもなくなってしまった。
通学カバン、机が4つに椅子が6つ、オルガン、ソファー、譜面台、動物の着ぐるみ、さわちゃんが集めてきた服たち、ホワイトボード、食器棚、ティーカップ。
引っ越しの時みたいに部屋は空っぽで、ほこりやちりが舞っていた。夕暮れできらめく。
残ってるのは、ドラムス、ベース、ギターがふたつに、キーボード。
でも今はちょっと演奏するような気分じゃない。
りっちゃんが、部屋の真ん中にぺたりと座り込んで言った。
「だけどなんで気づけなかったんだ?」
誰もなにも答えなかった。
みんなが疲れていた。
ムギちゃんは落ち着かなそうにあたりを歩き回り、わたしはバリケードの横に立って、てっぺんから何かがすべり落ちるたびそれを拾ってまた一番上にのせていた。澪ちゃんは西側の窓の下に座り込み目をつぶっていた。
プールの底に背中をくっつけてゆがんだ空を眺めているときみたいに、時間の流れが遅く感じられた。
鳥の声やサイレンの響きやソフトボール部のかけ声が遠く聞こえる。
塩素まみれの生ぬるい水がオレンジ色に揺れている。
やがて天使がやってきて、扉をノックした。
こん。こん。こぉぉん。
みんな動かなかった。
音が鳴るたびにちょっと震えて、緊張。
だるまさんがころんだで鬼がふりむく瞬間の感じ。そうじゃなかったら、ノックの音が金槌でくぎを打つ音でそれが少しずつわたしたちの身体に刺さって動けなくなるみたいな。
こん。こん。こぉぉん。
こん。こん。こぉぉん……。
しばらくすると音がやんだ。
ばさばさばさっ、って鳥が羽ばたき立つみたいな音。
扉が揺れた。
その隙間から一枚の天使の羽が落ちてきた。
箒の柄みたいに長い軸に、白くてふわふわした綿うさぎの毛が生えている。
大きな羽だった。
いつのまにか音は聞こえなくなっていた。
天使はどこかへ行ってしまったようだった。
「わたし様子を見てこようかしら」
しばらくあとでムギちゃんが言った。
もちろん残りの3人の頭の中には、ホラー映画なんかだとそうやってひとりで動く子はたいてい殺されちゃうんだよねっていう冗談の結句は浮かんでいたけど、やっぱりみんな黙っていた。
ムギちゃんは、はあ、とため息をついた。
ちょっとかわいそうだった。
「ねえ、そろそろわたし帰らないと。お母様に怒られちゃうわ」
ムギちゃんの家は大金持ちだった。大金持ちの子供はほかの子供たちよりもその分多くの愛情を注がれている。過保護なくらいに。
ムギちゃんは申し訳なさそうな顔してた。
「帰るか」
澪ちゃんが言った。
窓から外をのぞくと、すでに天使たちが降りはじめているようだった。
グラウンドには、下校する生徒の姿に混じって、地面に落ちた天使たちの白い粒が見える。
サッカー部とソフトボール部はまだミニゲームを続けていた。
多少天使が降ったくらいじゃ休みになんないとこがソフトボールのやなとこだよね。いつか隣の席の姫ちゃんがそう言ってた。
日は沈み、闇がゆっくり落ちてきた。
夜は天使たちの時間だった。
2
わたしたちはあずにゃんだけを残して卒業しようとしたので、悲しんだあずにゃんは時間を凍結してしまった。
あずにゃんはわたしたちにとって天使だった。
それはたったひとりの後輩だったってことで、わたしたちはあずにゃんにやさしくして、いろんなことを教えて、特別な名前を付けて、とっても大事に扱った。まるで天使みたいだって感じに。
そして卒業した。
両腕で抱えきれないほどたくさんの贈り物を、わたしたちはあずにゃんに与えて、その贈り物からなる山岳のてっぺんに卒業を載せた。わたしたちのあずにゃんへの特別な愛は、最後にあずにゃんをひとり部室に取り残すという形で完成した。結局のところ先輩であるわたしが与えられる贈り物というのは、空っぽの部屋できれいに包装された箱の紐をほどいてはじめて贈り物たりうる、そういう類の贈り物でしかない。
生きるってことは時間を押し流すってことで、もちろんわたしたちは生きていて、だから卒業式もやってきて、けれど時間を凍結するというのは死によく似ていた。あずにゃんは死んだわけじゃないけどやっぱり死んだみたいな感じだった。
天使とは死者である。
というふうによく言われるのはちょっと間違っている。
天使とは永遠の時間に過ごすものであり、死とは時間の停止だった。その意味では死者も天使だったし、時間を凍結したあずにゃんもやっぱり同じ天使だった。
あずにゃんは、いまもよく降ってくることがあって、町中を、うろうろうろうろあてもなく歩き回り、それからふと思い立って羽を広げ、また空へと消えてしまう。
なんだかそういうのってゾンビみたいだとわたしは思う。
ゾンビは死んだ人だけど、映画とかでは蘇ったって言い方をときどきしてるから、はたしてゾンビは生きてるのか死んでるのかわたしにはよくわかんない。
運動するだけっていうだけで生きているって言えるなら、宇宙のなにもかもが生きている。
まあでも、とにかくそういうわけで、あずにゃん=ゾンビは永遠の17歳となり、そして再び天使になった。
「だけどなんで気がつけなかったんだ?」
天使たちがはじめてこの町に降りはじめたとき、りっちゃんが部室で言ったのとまったく同じことを、人々は口にした。
屋根の先がとがった協会に通う人たちは、終末の予言は聖書にちゃんと書いてあるのになぜ気がつかなかったのかと言い、作家たちは、地が死者であふれかえりその結果死者たちが蘇る話は無数にあるのにどうしてそれがわからなかったのかと頭を抱え、環境主義者たちは、空気がそのうち死んだ人でいっぱいになってしまうのはわかっていたはずのことなのになぜなにもできなかったのかと嘆き、わたしたちは、いつか卒業したらあずにゃんはひとりになっちゃうって知ってたのにどうして知らないふりをしてたんだろうって考えた。
それはまとめていえば、こういうことだ。
あらゆる物事は必ず終わるのに、そしてそのことをいつでもわたしたちはよく知っているのに、それに気づかないふりをしていることを、なんで気がつかなかったんだろうってこと。
3
部室から出て学校をあとにすると、天使たちが降っていた。
天使たちは天国からそれぞれちがった格好で落ちてくる。
気を付けの姿勢で落ちてくるものいれば、体育座りしているものもいて、天使のくせに涅槃の格好もするし座禅だって組む、セクシーなポーズをとってることとか、羽があるのに手をぱたぱた振っていることもあって、なかには頭から落ちてくるのもいる。
その多様さはまるで、天上でなにか別のことをしているときに急に誰かに突き落とされちゃいましたって感じだけど、ちゃんと途中で羽をパラシュートらしく開いて降ってくる天使もいるのだから、やっぱり自分で選んでそうしているんだろうなと思う。
そのあと天使たちは地面に激突し、潰れる。
どさりって音がする。
ワンピースをびしょびしょに濡らして、高くつりあげて、落とすみたいな。
でも潰れた天使についてはもっとずっといい比喩がある。
強化傘なんてものがなく、天啓を授けられたなんていう言い回しがまだ使われていて、天使に頭をぶつけて死んじゃったりする人がまだいた頃、わたしたちはいつもの4人で帰っていて、澪ちゃんの目の前にちょうど天使が落ちてきたことがあった。
それはひゅっと降ってきて、空と水平の姿勢をとってたから、地面に大の字にぺちゃんこになった。
天使の白い血があふれ出した。それはまるでサスペンス映画で死体から血液がじわじわと広がっていくあのシーンみたいだった。まだ乾ききっていない血はぬらぬらと新しい街灯の青い光を反射した。
なんだかちょっと甘そうだった。
澪ちゃんは気絶した。
澪ちゃんはオバケとかゆーれーとかゾンビとかそういうのがだめなのだ。
そのとき天使はどちらかっていえばそっち側だった。
わたしだって、目の前に来たらけっこうびびっちゃうかも。
ちょうど後ろにムギちゃんが立ってたから事なきを得たけど、すぐに意識を取り戻した澪ちゃんにりっちゃんが大丈夫かと聞くと、
「……ひきがえるの死体みたい」
って澪ちゃんが冗談みたいなことを言ったので、わたしたちはとっても笑ってしまった。
澪ちゃんほどじゃなくてもわたしたちにみんな天使にちょっと緊張してて、そんなときに澪ちゃんが変なこと言うもんだから、お腹を抱えてもう一生笑いが止まらないんじゃないってくらい笑ったのだ。
わたしは笑いすぎて道に座り込み、りっちゃんは隣にいたムギちゃんの背中をばんばん叩き、ムギちゃんもーー普段はそんなことしないのにーーりっちゃんの肩とか背中とか頭とかをかなり強く叩いてた。澪ちゃんは最初自分が馬鹿にされたのかと思ってちょっとむすっとしてたけどすぐに笑いに加わった。
わたしたちはそのまま、天使が歩き出しはじめるまで、ずっと笑い続けていた。
降ってきた天使たちは、しばらくそのまま地面に張りついているけど、やがて立ち上がり、歩き出す。
首はぐらぐら、手はぶらぶら、膝からは下はあらぬ方向に曲がってて、つま先は背中をむき、びっこを引いている。外から見ても骨がぐちゃぐちゃになってしまっているというのがよくわかる。
死人が痛みを感じないように、天使たちにも痛覚がないのだ。
わたしたちは強化傘を開いた。
それが蛍光灯よりもずっと白い色をしているのは、万が一天使がそこにぶつかってもその跡が目立たないようにするためだ。実際、町中の道路や屋根の上には、たくさんの天使の白い染みがこびりついていて、羽が秋の落ち葉のように舞っている。
天使の染みは鳥の糞によく似てた。
「わたしアメリカに行くと思うのね」
帰り道、別れ際にムギちゃんが言った。
「アメリカ?」
「うん、そこに住むって決まったわけじゃないんだけど、海外の大学にね、進学するの」
「でも今すぐってわけじゃないんだろ?」
りっちゃんがあんまり気にしてない感じを出して言う。
「わかんない、でもならべくはやいうちにそうするって……」
「そう……」
沈黙。
天使の落ちてくる音がときどき、ぼとり……ぼとり。
こんなときになんて言ったらいいかわたしは知らなかった。
いつも気の利いたことを思いつくりっちゃんも、ときどきみんなをはっとさせる澪ちゃんもこんなときに使う言葉までは持ってない。
スカートのポケットに手を突っ込むと、そこにはきれいな石とかビー玉とか貝殻とかパチンコ玉とか、とにかくそういうがらくたがいっぱい入っていて、それをわたしはぎゅっと握りしめる。
どすん。
ちょうどりっちゃんの傘の上に天使が落ちた。
特殊フィラメント素材が衝撃を吸収し、そのエネルギーが変換されて、傘は光る。
みんな目をつぶった。
天使の光。
人工の。
だれかがつぶやく。
天啓。
天使は天使だけあって普通の人よりはずっと軽い。でもあんな高くから落ちてきたものに直撃するのはちょっと遠慮したい。
たまたま姿勢の問題で天使は傘からうまく滑り落ちず、りっちゃんはちょっといらついたみたいに傘を振った。
40代くらいの背の高い男の天使が道路にたたきつけられて、30メートルくらい向こうに跳ねた。
白がとんだ。
りっちゃんの顔にぶつかった。舌打ちした。
「どうせそれもこいつらのせいなんだ……」
りっちゃんは天使が大嫌いだったのだ。
それはお父さんが、天使に頭をぶつけて死んだからなんだろうな。たぶん。
りっちゃんのお父さんは、天使が降りはじめた最初の日、駅で傘を広げた瞬間(雨が降ってたのだ)傘ごと押しつぶされて死んだ。傘の鉄骨は、りっちゃんのお父さんの骨とおんなじくらいぐにゃぐにゃに曲がっていた。
その日から、りっちゃんのお母さんはちょっと頭が変になって(天使が頭にかすったんだとりっちゃんは言う)それ以来《聖・天使教会》に通ってお祈りを続けている。《聖・天使教会》は天使が降りはじめてから現れた新興宗教団体で、天使を神様が人々を救うために地上に使わしたものだと解釈する。解釈の内容は(りっちゃんに聞いた話では)わりとこまごましているらしいけど、すべきことは単純明快で流れ星するみたいに天使にお願いごとをするのだ。どうして、りっちゃんのお母さんが天使を憎むんじゃなくて、代わりに崇めて大切にしてお祈りまでするようになったのか、わたしにはよくわからない。
そういうわけでりっちゃんの家にはいつも弟とりっちゃんのふたりしかいない。
そのおかげで、りっちゃんの家にみんなが夜遅く集合することなんかもよくあって、案外りっちゃんは平然としてるんだけど、でもなにからなにまで平気ではないんだろうなと思うし、実際りっちゃんは天使が嫌いで、あずにゃんのことも怒っていた。
天使になるなんてばかだし、あいつは、ばかだから天使になったんだ、とりっちゃんはよく言う。
でもそれは本心じゃなくて、むりやりお母さんに協会のお祈りに連れていかれるときなんかは、りっちゃんはあずにゃんが戻ってきてくれるようこっそりお願いしてるってこともみんなは知っている。
「でもなんで急に?」
わたしは聞いてみた。
ムギちゃんが言った。
「お父様がね、この町は、きょー、いく、じょー、に悪いんだって」
ムギちゃんは冗談を言ったあと、いつでもちょっと申し訳なさそうな顔をする。だからムギちゃんのジョークでは誰も笑えたためしがないのだった。
「何でアメリカなんだ? 別荘があるの?」
「ううん、むこうに叔父さんがいるから、その家に居候させてもらうの」
homestay。
それっぽいけどほんとはぜんぜんそうじゃない発音でりっちゃんがつぶやいた。
「なにで行くの、アメリカ?」
「飛行機に決まってるだろー、ばか」
「うん、ひこーき」
「アメリカにも天使っているのか?」
「いないよ、日本だけだもん。りっちゃんニュース見てないの?」
「天使のことなんてどーでもいいしさあ、いいよなー天使のいない国って。天使がゾンビみたいにうろうろしてるのって最低」
また沈黙。
ちょっとあとで澪ちゃんが言った。
「空港には気をつけるんだぞ」
「空港に?」
「そうだ、あと一歩で逃げられるっていうところが一番危ないんだ。映画ではいつもそこで油断してやられちゃうんだよ」
澪ちゃんはとっても怖がりだけど、それゆえにホラー映画的窮地への対策をいつでも怠ってはいない。実は、ゾンビ映画や幽霊のでる映画、サスペンス映画とかをよく見ていて、研究してるのだ。
男の子がエッチなDVDにするみたいに、ベッドの下の衣装ケースにはたくさんの怖い映画が隠してあるのをわたしは知ってる。
「用心するにこしたことはないんだ。ゾンビが出たら、生きのびることができるのは必ずひとりだけなんだからな……」
澪ちゃんがそう言うと、急にまたみんな黙ってしまう。
それはまるで今なにかすっごく大事なこと言ったから、それをちゃんと頭の中にメモしておかなきゃ!っていう感じの沈黙だった。
「向こういったら、手紙、書くね」
ムギちゃんが言った。
「毎週書くよ、絶対」
それから、じゃあねって笑って、駅の方へ歩いていった。
背中がちょっと小さく見えた。
わたしはさよならを言いそびれてしまった。
帰り道、りっちゃんと澪ちゃんはさっそく、ムギちゃんのお別れパーティを盛大にやろうなという話をしていた。
ポケットの中のがらくたをわたしは未だに握りしめたままだった。何かとがった物が、指の間に刺さって痛い。
なんだか泣きそうだった。
みんながいつかはなればなれになってしまうという単純明快な事実は、天使の襲来という災難によって、より悲劇的になってるのかそれとも少しは気が紛れてるのか、わたしにはよくわからない。
4
ひとりの天使が誰かの家をノックしていた。
りっちゃんたちと別れて、家までの最後の直線を早歩きであるいてたとき。
空には天国が浮かんでいる。
天国は幾何学的な途方もなく大きいひとつなぎの雲だった。でっかいはんぺんを浮かべたようなものって言う人もいるし、アルビノの女の子のお腹みたいだって言う人もいる。
こん。こん。こぉぉん。
静かな早夜の町に、天使の来襲音は遠くまで響く。
人々が玄関の戸締まりを確認しているようすがここまで伝わってくるような気がした。
鍵を開けておくと天使たちは家に入ってきてしまう。
ノックして誰も出てこないと。
誰も出てこないのに部屋の明かりがついていると。
別に天使たちの肩を持つわけじゃないんだけど、天使にだって悪気とかそんなにあるわけじゃないんだと思う。
ただ天使たちは人間に祝福を与えたいだけなのだ。
だけど問題は、それが人間にとってはもう必要ないものだってこと。
ずっと昔の、天使たちが再び現れるまで、図書館の端っこでほこりをかぶっていたこんなお話がある。
まだ天使と人間が共存していた時代、天使は人間にいくつものすばらしい知恵とものを授けた。
貝殻はお金で、鳥の羽は美しい装飾品で、知恵は財宝だった。
天使は人間に持てるものすべてを与え、人間たちもやがてほんのちょっとだけ進化した。その結果いつの間にか人間は天使より偉大になってしまった。100足す1は101であり、100より101のほうが少し大きい。なぜなら天使とは永遠であり、永遠に生きるの者の時はとどまり続ける。新しかったはずの知恵はやがてより複雑な叡智へと変化し、銀は安価で鋳造されお金は紙切れに取って代わり、人類は神様のおわします雲を突き破って月に立った。天使は永遠だったけど、完全じゃなかった。永遠に不完全だった。
そういうわけで、いまでは、天使の授けるものをありがたがるものは誰もいない。それはもうずっと昔に受け取られたものであり、過去の遺失物、がらくただったのだ。
再び地上に現れた天使は、ずっと昔人間が喜んで受け取ってくれた物を、いまでもおなじように与え続けようとしているのだ。
こう考えるとなんていうか天使たちもけっこうかわいそうっていうか、ちょっと悲劇的だな。
わたしはこういう話にかなり弱い。捨てられた子犬の話とか、「トイ・ストーリー」とか。
さっきの天使が結局あの家を開けてもらえなかったんだろうか、わたしの方向に歩いてきた。
顔は右に75度曲がってて、腕はだらんと下に垂れ、背骨が折れてるんだろうかひどく猫背になっている。両足を背中側に投げ出して膝で進んでいるせいで、天使の衣装である長くて白い半透明のローブがずっと後ろから地面をひきずってついてくる。
新婦入場。じゃなきゃ、なめくじ。
珍しい光景じゃないけど実際ちょっとびびる。
天使がわたしの前でとまった。声には出さないけど、ひっ、って感じ。
食べないでくださいわたしはおいしくないですお腹が減ってるならおいしいともだち紹介します。
そして、天使は右手を差し出した。
そこには、ガラスのおはじきがふたつ赤と青、ピンクのプラ櫛、鳥の羽。
天啓。
顔あげて(ぎゅんって動く、わぁ)、わたしを見た。
言う。
「#▽∝♪※」
天使の言葉は人間にはわからないのだ。
もしも、りっちゃんだったらいますぐ傘を畳んてバットみたいにして天使をフルスイングしただろう。ほんとのとこそこまで暴力的じゃないとしても、つばくらいは吐きかけたかも。澪ちゃんなら悲鳴を上げて逃げだしただろうし、ムギちゃんは申し訳なさそうにごめんなさいって言ってそこをあとにしたと思う。あずにゃんは……まあ、あたえるほうだよね。
だけど、わたしはそれを受け取った。
ありがとうって言って笑う。天使がなにか天使の言葉で言って、それからくるりと背中を向けて、5ブロックくらい先に歩いていったあとに、突然羽を開いて宙に浮かんだ。
彼らは役目を終えると天に帰って行ってしまうのだ。
後に残されてしまったわたしは、手のひらのがらくたをじっと見つめたあと、制服のポケットにしまった。膨らんだポケットがさらに大きくなった。こんなことを続けているといつかその重さで破れちゃうだろうな。
ふぅ、と息をついた。
わたしは天使からの贈り物を断れない。
優しいのだ。
猫が庭を荒らすから餌をやるなと言われてもお菓子をあげたり、鯉に餌をあげないでくださいと書いてあってもパンを投げる。
わたしは優しい性格なのだ。古典的な天使のように慈悲に満ち、友愛をまとっている。
澪ちゃんはよく言う。
「それはただ勇気がないっていうだけの話だぞ。いらないものをもらったり先のことも考えずに動物に優しくしすぎたり、そのとき自分がいいやつでいて、傷つかないでいればいいって思ってるだけなんだ」
ああ、澪ちゃんは心がすさんでいたのです。ありもしないものにおびえるあまり、猜疑にとらわれ信仰を失い無知と迷妄の中に居を構え、愛されることを知らぬが故に愛すことができない、なんてあわれな女の子なんでしょう!神さま、彼女に、手のひらいっぱいのビー玉貝殻パチンコ玉の祝福を!
「唯は自分が悪者になるのをおそれてるんだ。そんなのは臆病者のすることだぞ。天使に出会ったら、悲鳴を上げながら、背を向け目をつぶり耳をふさいで一目散に走って逃げる、それが本物の勇敢さってことなんだよ」
たしかに。
「まあ、だけど、唯みたいなやつはホラー映画では」
映画では?
「けっこう生き残ったりするんだ」
うれしい知らせ。
5
夕ご飯のあとお父さんとお母さんは喧嘩をはじめた。
雨が降る前に黒雲が集まるように、天使が降る前に天国が現れるように、前々から兆候はあったのだ。
前は家族4人で夕ご飯を食べたりなんかはしなかった。
お父さんはフリーのスポーツライターだったので世界中に取材に出かけていて、お母さんもいつでもそれについて行き、だからそれはちょっとした旅行(ふたりの言うところの毎日が記念日だよねハネムーン)でもあったけど、この町に天使が降るようになってから少ししてふたりは「愛する子のために」という理由で家に帰ってきた。
帰ってきてからのふたりはなんだかよそよそしい感じで、明らかに口数は減っているようだったし、お父さんが取材でどこへ出かけようともお母さんはもうついては行かなかった。
もちろんふたりともわたしと憂の前では、天使たちさえいなければもう問題はなにもないよねオールオッケーってふうに相変わらず仲がよすぎる夫婦でいたけど、それがポーズにすぎないってことはわたしも憂も簡単に見抜いてた。なのにお父さんもお母さんもずっと家を開けていたせいで、わたしたち姉妹がそんなことでひっかかるほどもう子供じゃないってことが実感できてないのだ。
そして、今日、たまたま庭に降ってきたおばあちゃん、つまりお母さんのお母さんを、お父さんが箒ではいて道に捨ててしまったことをきっかけに、こどもユニセフ的停戦状態も終わりを告げたようだった。
「なんであんなことをしたの?」
「あれは天使だったんだ。そして天使はうちには絶対に入れたりしない。そうやって決めておいたじゃないか」
「でも、あれはわたしの”お母さん”だったのよ!」
「だけど死んでたんだよ」
「死んでる! じゃあなに、あなたはわたしが死んだら箒で道路に捨てるわけ?」
「それとこれとは全く話がちがう」
「同じよ! なに? それともゴミ収集車にもっていかせる? 生ゴミやプラスチックや紙屑と一緒に燃やすつもり? 死ぬのが楽しみになるわね、大きな煙突のお墓にダイオキシンの線香なんて!」
「落ち着けよ。じゃあどうすればよかったんだ? 家に上げてお茶でも出せばよかったのか」
「そうよ」
「出せるわけがないだろ。それにあの姿を見ろ、気味の悪い」
「気味が悪いですって? 人の親を! だいたいあなたはもともとうちの母が嫌いだったのよ」
「そんなことはない!」
「あるわ、お母さんが病気で倒れたときだってそうじゃない。わたしは実家まで毎日往復して大変だったのに、あなたはフランスで遊んでたじゃない」
「仕事だったんだ!」
云々。
TVはニュースを喋っている。
天気予報のコーナーになった。
『……天国はいまも近畿地方を中心に拡大を続けながら少しずつ北上中です。気象庁は、拡大の速度は緩やかな減衰傾向にあるため今後は収縮に向かうだろうという予測を示した上で、実際に今後どういった動きを見せるのかは調査中だと発表しました。また、フィリピン、韓国、中国の一部では、天使の目撃情報が現れていますが、十分な証拠が発見されないため、各国政府はいまのところこれらは宗教的な……』
わたしはとろろ醤油を白米にかけているところだった。
別に食べるのは遅いってわけじゃないけど、急いで食べようとするとすぐのどにひっかけてしまうのだ。ごはんおかわりしなきゃよかったんだ。
それらをむりやり胃の中に押し込んでしまったあとも、口論はまだ続いていて、空になった食器を抱えて逃げるように台所に向かう。
憂がお皿洗いをしていた。
「嵐がきたよ」
と、わたしは憂に言った。
とうぶん止みそうにはないねって手を止めて憂が笑う。飛んだ泡が額のところについていた。わたしは食器をシンクの中に押し込んで、指で泡を拭った。
子供のためだ!とお父さんが叫ぶのが聞こえた。
「子供のためならお風呂でも洗ってくれればいいのにね」
「あ、わたし洗って、こよっ、かなあー」
わたしがあわてて言うと、憂は
「おねーちゃんはいいんだよ。こうやっていてくれることが仕事なんだもん」
って楽しそうに言った。
「なんだか憂がお母さんみたいだ」
あははって憂は笑った。
蛇口をひねった。すぐに水の音。
なにか憂が言ったのが聞こえなかった。
「ざあざあざあね」
「え?」
「おねーちゃんはいいよね」
「そうかなあ?」
「大学生になったらこの町から出ていくんでしょ?」
「うん、まあね」
「いいなあ。きっと都会には天使もいないよね」
「でももっと危険なものがいっぱいあるって言うよ」
「それにさ、お母さんとお父さんがあんな調子じゃわたし参っちゃうな。おねーちゃんもなしでさ」
「嵐も止むよ」
「そのときまで家が無事に残ってればいいんだけど」
ざあざあざあ。
憂は洗い終わったお皿を水切りに並べていった。小さな水切りにはすでに乾いた食器が並んでいて、そこに今洗ったばかりの食器たちがうまい具合にあいだあいだに入ってきれいに積まれいていくのは、なんだか憂にしかわからない迷路をたどっているって感じだった。白い憂の秘密のお城みたいな。
きゅっ。
蛇口を閉じて、黄色いリラックマのタオルで水滴を拭ってから憂は言った。
「わたしね、ときどき、おねーちゃんが羨ましいって思うんだ、変なふうに思わないでね、おねーちゃんが新しいことを先にやるたび、わたしもね、あと一年早く生まれてればなあって」
「わたしも一年遅く生まれてれば憂みたいに優秀になれたかもって思うときある」
「あはは。たしかにね。あとに生まれてだめだめじゃないだけよかったかも」
「あーそれってさあー……」
「あ、ちが、ちがうの。おねーちゃんがだめってことじゃなくて!」
憂はあわてて首を振って、あんまり否定するもんだからまるで本当はそう思ってるみたいに見えるということに自分で気がついて、えへへと下を向いて笑った。
扉越しに金切り声が聞こえてきた。
天使たちの襲撃音がつつましやかに聞こえるくらい大きな騒音。
リビング・ワーはまだ続いている。
ヒステリーは幾何級数的に増大している。
やがて雨が降りはじめるんだろう。
そしてしばしの間、ふたりの兵士は剣を鞘に収めるのだ。
「……ねえ、おねーちゃん、今日も梓ちゃんに会いに行くの?」
さりげない感じを装いながら憂は続ける。
「梓ちゃんがさ、天使になっちゃったのはおねーちゃんのせいじゃない……とわたしは思うよ」
そのことはちゃんとわかってる。
だって天使は誰かを裁いたりはしない。
なぜなら天使はずっと過去にとどまり続けていて、わたしたちは新しくなっている。聖書の解釈は日々更新され、新しい罪は毎日発明される。
今、この瞬間にも重要判例は増え続けている。誰かを裁くには天使はちょっと古すぎる。
だから天使は誰も裁かない。あずにゃんはわたしたちのことを非難したりはしない。
天使たちは雨と同じで、ただ降ってくるだけなのだ。
わたしがあずにゃんに会いに行くのは、あずにゃんがまだわたしの友だちで、あずにゃんといると楽しいからってだけ。
わたしはギターケースを背負って家を出た。
6
市民公園にはすでに天使が何人かいるようだった。
わたしはベンチに座ってて、その真向かいにある噴水のところにひとり。自販機の後ろの木立がときどき揺れるからたぶんそこにもいるだろう。
あとはさっき右手に見えるコンビニの前で店員に野良猫するみたいにしっしっと手を振られ追っ払われた天使を見た。その後どこに行ったのかまではわからない。
背中側にある旧テニスコートに天使が落ちてきて、がしゃんと金網の鳴る音がした。
時刻は11時を回ったところだった。
まんまるい月が低い位置で浮かぶ明るい夜。
野球場から野太い歓声が聞こえてきた。
噴水のところにいた天使が振り向いて、のろのろとその方向に歩き出す。
野球場のフェンスはきっちりと鍵がかけられて、昔から小学生の通り道になっていた抜け穴にはトタン板が打ち付けられていた。それでもフェンスをのぼって侵入してこようとする天使はいて、それをユニフォーム姿の男の人が”打つ”ところをわたしは見たことがある。
どうやら天使たちは音に反応することになっているらしい。彼らは目が見えないわけじゃないと思う。実際声を出さずとも人間のとこによってくることもある。たぶん音が好きなんだろう。音楽が。虫が光に集まるみたいに、それが彼らの本能なのだ。走音性。まあたしかにそれは天使っぽいかもね。
わたしはケースからギターを取り出して鳴らす。
じゃらん。
アンプをつないでないから音がか細い。
天使たちにはまだ聞こえない。
木々の天蓋ごしに街灯の灯りが、スポットライトみたいに手元を照らしてた。
それからまた腕を振った。
今度はもっと大きな音がする。
弦が振動してる。
天使たちがこっちを見た気がした。ライブのとき、幕が上がって、観客みんながわたしになにかを期待してるんだって思うときみたいな感じ。
いまや音楽は鳴りはじめていた。
徐々に天使が集まってくる。
折れた足。曲がった背中。傾いた顔。垂れ下がった腕。折り畳まれた大きな羽。白い布切れ。蛍光の体液。光った。天使。天使の言葉。天使たち。
走性。
息を深く吸ってから、声を吐いた。
声は、はじめて触れた空気の冷たさにちょっと戸惑ったのち嬉しそうににふるると身体を震わせて、すぐに歌になった。
わたしは椅子の上に立ち上がっている。
ベンチを囲むように、天使たちが4人。
遠くから歩いてくるのが見えた。
みんな手のひらをさしだして、反射。きらきらしたがらくた。
あらゆる過ぎ去ったもの。
「#▽∝♪※!」
噴水の向こうに新しい天使が落ちてきた。
わたしの声は天国まで聞こえるんだってこと信じてしまいそうになる。
あずにゃんのことを考えていた。
一年生、ほとんどだまされるみたいにして部活に入ったあずにゃん。練習もまともにしないわたしたちに怒ってばかりだったあずにゃん。幸せそうに小さい口でケーキを食べてるあずにゃん。わたしにギターの上手なテクニックとため息のつきかたを教えてくれたあずにゃん。卒業式をむかえるとひとり取り残されてしまうあずにゃん。時間を凍結したあずにゃん。
天使になったあずにゃん。
はたしてあずにゃんは本当に天使にならなきゃいけなかったんだろうか。あずにゃんはわたしたちのことどう思ってたんだろうか。あずにゃんは今怒ってるんだろうか、それとも悲しんでいるんだろうか。
わたしにはわからない。
わからないのだ。
この曲はわたしたち4人が残されていくあずにゃんのためにつくったということになるはずだった。
それはこんな歌詞だ。
ねえ、思い出のカケラに
名前をつけて保存するなら
”宝物”がぴったりだね
そう、心の容量が
いっぱいになるくらいに
過ごしたよね、ときめき色の毎日
なじんだ制服と上履き
ホワイトボードの落書き
明日の入り口に
置いてかなくちゃいけないのかな
でもね、会えたよ! すてきな君に
卒業は終わりじゃない
これからも仲間だから
大好きって言うなら
大大好きって返すよ
忘れ物もうないよね
ずっと、永遠に一緒だよ
天使は普通ランダマイズされてる。
けれど、この時間、この場所で、この曲を鳴らすと、なぜかいつでもあずにゃんは降ってくる。
たぶんそれはこれがあずにゃんのための音楽だからなんじゃないだろうかってわたしは思っている。
ある天使は行きつけだった喫茶店のコーヒーの香りとドア・ベルの震動に引かれ、おばあちゃんは愛する我が子の家庭から響く夕食のざわめきを叩き、潮風の匂いのなか暮らした天使は波の音に寄り、野球が好きだった天使はグラウンドの歓声に導かれる。
そしてあずにゃんはわたしたちの歌に降ってくるのだ。
でもそういうふうに考えるのってやっぱり人間的すぎるかな。
ねえ、どうなんだろ、あずにゃん?
目の前に降ってきた天使にわたしは言った。
7
今日のあずにゃんはけっこう原型をたもっていた。
下にいた何人かの天使にがうまくクッションの役割になったようだった。足が一本折れて、腰のあたりで下半身が右に少しゆがんでるってだけ。
つぶれた天使たちから白い血が間欠泉のように吹き出ていた。
あずにゃんはすっかり天使色だった。
彼らは音楽が消えたいまでもわたしの周りを取り囲んでいて、その数は7まで増えている。
わたしはあずにゃんの手を握って言った。
「逃げよう!」
天使たちが背後から追いかけてきた。
危険がないって知ってても、下半身を引きずった天使が白光液を垂れ流しながらずるずるとついてくる姿はかなり恐ろしい。
天使たちはかなり遅いけど、わたしもあずにゃんをひっぱり強化傘をさし重いギターを背負っているからそんなにはやくは走れない。わたしの背中で、天使的に軽いあずにゃんがアスファルトの上を跳ねまわっている。
服は白だらけだった。こうなることはわかっているからそんなには気に入ってはない長袖のシャツをいつも着てくるのだ。衣服についた天使の液はわりと落ちるというのが天使のもっとも天使的なとこだと憂は言う。少なくともお母さんが洗濯するんじゃなくてよかった。
握ったあずにゃんの手が液でぬれていて冷たく、いやな感じ。
振り向くと天使たちはだいぶ遠くまで離れている。追跡行を通して身体のバランスはさらに崩壊していた。
こん、こん、こおん。
どこかでノックの音がしていた。
立ち止まって息を整える。
「わぁっ」
安心しているところ、すぐ後ろに天使が再び落ちてきた。
うつ伏せにアスファルトにぶつかる。
打ち所が悪かったのか首が180度後ろを向いている。そしてその落ちくぼんだ黒い目が、なんだかわたしのほうを恨めしそうに見つめているように思えるのだ。
あずにゃんの手をつい強く握りしめたのだけど、すぐに思い出してぱっと離した。
手のひらには白い血がべったり。
そんなときは、ホットケーキみたいに柔らかい月までも、なんとも気味が悪く感じられるのだった。
こんなふうに天使と手つないで歩いてるところを誰かに見られたりでもしていたらけっこうやばい。
最悪、あずにゃんのことをごにょごにょしたいんだって思われるかもしれない。
実際のところわたしは男の子じゃないし、そんなことにはならないだろうけど、なかには法的に微妙なところがあるなって考える人もいて、でもたいていは死体損壊が適用される。
あるいは倫理観が天使に対しては働かないのかも。これはちょっと逆説的。
まあだけどそうじゃなくても、発見されればわたしは頭がちょっとおかしいんだということになるし、「あのあのあの平沢さんちの子、あの子天使と友だちなのよ、やあねえ」っていうことにもなる。朱に交わればなんとか。家訓一、不良の子とはつきあってはいけません、みたいな。お母さんだってけっこう怒ると思うな。自分はおばあちゃんの天使がどうこう言ってたくせに(まあ物事には場合と限度があるってことだよね。ちゃんとわかってる。ちぇっ)
あずにゃんにこうやって会っていることをみんなにも言っていない(憂は感づいてるみたいだけど)天使に近づきすぎると、その人もまた天使になってしまう。そんなことさえ、まことしやかに囁かれている。
ゾンビに噛まれたらゾンビになっちゃうみたいに。
あるいはわたしはもう天使になりかけているのかもしれない。
とにかく、わたしはあずにゃんを人目のつかない裏路地へと引っ張っていく。
左右の家の高い塀が囲む小さな道。大きな暗渠の中をかがんで歩く。空き家の庭を通り抜けて、ラーメン屋のにおい。虫の声。田んぼのあぜ道を過ぎると、大きな工場が。三本足の大きいタンクからたくさんの四角いパイプがぐにぐにと絡み合って鉄塔に変化して空に向けてのびている。白い煙。流れる細い川のへりをたどれば、橋のふもとの錆びた鉄階段を上がって、なにもかも思い出すことができるだろう。
わたしたちは校庭に立っている。
あらゆる施設は天使以後厳重な戸締まり体制を敷いている。
もちろん桜が丘女子高等学校だってその例にもれない。
だけど女子高生なら夜の学校に忍び込む方法の1つや2ついつでも頭に入れて置いているものだ。
今いちばんホットな侵入経路は西バレー部ルートだと言われている。
これはその名の通りバレー部の子たちが開拓した方法で、バレー部は部室として体育館の第二倉庫の一部を使うということになっているんだけど、第二倉庫は部室としての場所と体育用具がおいてあるところに分かれていて、さらに用具置き場の奥にはほとんど使われないマットなどが積んである小さなスペースがある。
その上のところにちょうど人ひとりが入れるくらいの大きさの窓があり、外から見るとそれはちょうど室外機の上の部分にあたるということになっている。
そこが侵入点となる。
先にあずにゃんを窓の中に押し込み(これが一苦労だった)マットの上に飛びおりると、埃が舞った。
部室にはってあるバレー選手のポスターの裏側には体育館の鍵がかけてある。
校内に夜警はいない。
室内だと傘をさす必要がなく両手が空いたので、わたしはあずにゃんを抱くようにして、軽音部の部室まで連れて行く。
部室の前で床におろすと、あずにゃんはおずおずとあたりを歩き回った後、部室のドアをノックした。
こん、こん、こぉぉん。
はたして天使はなにかを懐かしがったりするだろうか。
そんなことをふとわたしは思う。
あずにゃんはドアに手をかけて押した。
だけど開かない。
バリケードが後ろにはそびえている。
あずにゃんはドアを一生懸命押している。
わたしは笑った。
天使の知らない秘密を言う。
「あずにゃん、これ、引くドアだよ」
最終更新:2016年04月24日 22:08