月明かりが廊下まであふれ出した。
部室内は青白く発光。
白い肌したあずにゃんがぼうっと浮き上がって幽霊みたい。
バリケードには今日部室から出たときに開けた隙間がある。
そこからわたしたちは内部に侵入した。
西の窓がつくる四角形の光の上にわたしは座った。白い光はひんやりと冷たかった。

「……わたしね、町を出るんだよ」

慣れ親しんだにおいに、ふとした言葉が混じってしまう。
首の後ろに手を回す。

「って知ってるか。あずにゃんはだから天使になったんだもんね」

「∝♪※#▽∝」

天使の言葉ってなんだか笑ってるみたいだと思う。
くすくす笑い。

「あずにゃん、なんで笑ってんの?」

無視。
ドラムをたたくと音がするということを発見する。
どおんどおんどおおん。

「ねえ、あずにゃん、大学ってどんなところなんだと思う?」

どんどんどおん。じゃーん。

「ムギちゃんはね、海外に行くんだって、アメリカだよ。すごいよねえ」

ちゃっちゃっどんどん。

「さびしいけどさあ、こういうことって普通なんだよね。つまりさ、我慢しなきゃいけないっていうか結局いやだと思っててもそうなっちゃうっていう……」

ぱあぁぁん。ぱあぁぁん。

「ねえ、だから、あずにゃんは天使になったの?」

どん。

「あずにゃんは悲しいから天使だってそう思ってたんだけどでもわかんないなわたし」

ため息。

「あずにゃんがね、わたしのこと吸血鬼みたいに噛んだりしてねわたしのことも天使にしてくれればいいなあってときどき思うんだよ……それならよくわかるもんね、あずにゃんは怒っててそれでずっとわたしたちと一緒にいれるから。
だけどあずにゃんとこうやって毎日会うとそれがわかんなくなって、だってあずにゃんはなにもしないから、こうやって毎日わたしといて、でもそれはもうすぐおしまいで……そういうのってあずにゃんはどういうふうに感じるの?」

「∝♪※#▽∝」

「時間が止まってるからずっとわたしたちといるっていう気持ちがする?
それともわたしたちのこと思い出してるって感じ?
わたしあずにゃんのことわかんないなあ……あずにゃんはわたしのこと何でもお見通しだったのにわたしあずにゃんのことがよくわかんないや。
あずにゃんがもしわたしでわたしが天使ならあずにゃんはわたしのことわかった?
わたしが何を考えてるとか何で悲しいとか何で嬉しいとか、そういうこと。
そういうこと全部。
わたしはあずにゃんのことわかんないよ」




喋る声にひかれてあずにゃんがわたしのところまでやってきた。
手を開く。
そこには、鳥の羽、なにやらビーズのようなものに、ガラス片。
そしてピック。
それは修学旅行のお土産にわたしがあずにゃんのために買ってきたものだった。
あずにゃんはいつでもそれを差しだそうとする。まるで思い出を今もまだわたしと分かち合おうとするみたいに。
ピック以外のものを手にとって、ポケットにしまった。
それからあずにゃんの手を拳の形に握らせた。

「それはもらえないよ。だって、わたしが、あずにゃんにあげたんだもん……」

手のひらを上に滑らせて、手首をぎゅっとつかんだ。
ひっぱる。

「▽#!」

あずにゃんがわたしの上に降ってきた。
くにゅってつぶれた。
やわらかい。
人間だったあずにゃんのこと思い出した。

「あずにゃんは、どうするの、これから。ずっと降ってる?」

喋るとあずにゃんが声をつかまえようとして、わたしに抱きつくみたいになった。
いつもの反対だって思う。
あずにゃんからのところも。
すごく冷たいところも。

「わたしあずにゃんのこと心配だよ。悪い人に変なことされないかとか」

もしかしたらわたしがその悪い人なのかもしれないとちょっと思って、笑った。

「あずにゃんのこと誘拐しちゃいたいけど、都会のアパートって、動物禁止だもんね」

にゃあ、って言うみたいに天使の言葉を言う。
あずにゃんの声はやっぱり、なんだか笑っているみたいに聞こえるのだった。




家につく頃には夜も1時半だった。
わたしが天使に会いに行ってることを知らないはずの両親は就寝前完璧な戸締まりを履行するけど、憂がいつも鍵を開けておいてくれる。憂は朝は一番早いのに夜はたいてい遅くまで起きていて、部屋でTVゲームをしていたりする。
服を洗濯かごの中に入れてシャワーを浴びた。天使の羽が排水溝のごみ止めに重なってくるくる回っていた。その間を天使の血が流れてく。なんかちょっと映画の「サイコ」みたい。この場合黒い血じゃなくて白なんだけど。
洗面所で髪を拭いているとき、三面鏡に映った自分の背中が目に入った。
肩胛骨のあたりがなんだか盛り上がっているように見える。触ると固くて、でっぱっているような感じがする。
天使の羽が生えてきている。
わたしは天使になりかけているんだ。
これって気のせいだろうか。
こんなものがついていると、わたしはまだ経験がないけど、好きな人の前で裸になったりするときに困るんじゃないかって思う。
あくびが出た。



その夜夢を見た。
いつも見る夢。
わたしは沈んでいる。
黒い泥のなかに。
青い空、きれぎれに乱反射する光がまぶしい。
水面のよう。
泥はすでにわたしの膝の下まで達している。
まるでチョコレート・アイスクリームの海に沈んでいるみたいで、冷たい。
このままじゃお気に入りの白いスカートが汚れちゃうなあ。
そんなことを最初は考えていた。
それにしてもいったいわたしはどうして沈んでいってるんだろう。
身体を動かそうとしてその答えはすぐにわかった。
重いのだ。
膝の上、スカートが。
スカートのポケット。
その中のいっぱいのがらくた。
わたしは両手を突っ込んで、つかめるだけの物をつかんで投げ捨てた。
貝殻。プラスチックの櫛。ビー玉。おはじき。ペットボトルキャップ。
泥の海に浮かんだ。
そして繰り返す。
もう一回。もう一回。
腰が冷たい。
泥が。
ポケットの中に泥が入って、つかんだ半分が泥。
投げ捨てる。投げ捨てる。投げ……。
いつの間にか泥が胸のあたりまでやってきている。
もう投げられないから、ポケットの中からがらくたをかきだすようにする。
泥と一緒に。
赤、黄、紫、青、緑、ピンク、そして黒、黒。
泥の上でがらくたたちが光っていた。
どうしてこんなにたくさんあるんだろうか。
こんなにはポケットの中に入りきらないはずなのに。
なのに。
なのに、まだ出てくる。まだ。
もう首まで泥に浸かっていた。
なのに、まだ出てくる。
いくらかきだしてもかきだしても。
おはじきやパチンコ玉、鳥の羽、ビーズ。
泥がせり上がる。
口内に少し入りこんで苦い。
泣き出してしまいそうだった。
わたしは重いんだ。
わたしは重い。
重いーー。
ふいに天使が降りてきた。
翼をはためかせてゆっくりと降りてくる。
誰のようでもない中性的な顔に微笑が浮かんでいる。
まとった布が白く光ってた。
しみひとつない完璧な白。
わたしは天使に言う。
お願い事をする。
翼をください!翼をください翼をくだ……。
喉の奥に泥が入り込んで、声が出ない。
わたしは重い、だから落ちていく。
天使が見えなくなってしまう。
もう泥は目のすぐ真下に。
そしてわたしは沈む。
潜水人症、脳の信
号が途切れ途
切れにな
って、

わっと叫んだ。
目が覚めた。




ある朝、部室に行くと、天井に大きな穴があいていた。
正確に言うと、天窓に。
ガラスの破片が部室の真ん中あたりに散らばっている。おいてあった楽器にぶつからなくてよかったとすぐに思った。
そのほかは、ほとんどかわりがなかった。バリケードも帰りに見たときのままの姿で保存されていた。
どうやら落下物は行き帰り同じところを通っていったらしい。
完全犯罪、でもないか。
わたしは言った。

「きっとすごいでぶっちょの天使が落ちてきたんだね」

「貴乃花だな貴乃花」

たぶん澪ちゃんは昔の力士を貴乃花しか知らないのだ。貴乃花はまだ生きているのに。
今日部室に来ているのはわたしと澪ちゃんのふたりだけだった。三年生はもう受験を終えてあとは卒業を待つというだけだから、学校に来ていない人もたくさんいる。
それでもわたしたちはなんとなく習慣というか習慣への愛着というかで、部室に集まっていたのだ。



だけどここ三日ほどはムギちゃんもりっちゃんも現れなかった。
ムギちゃんのほうは海外に移る準備とかでいろいろ忙しいらしい。いくつかの事情から卒業式を待たずして向こうへ行くのだそうだ。
そのへんはここのところ、ムギちゃんといつも夜、電話しているから知っている。
わたしは寝る前の時間、布団の中で誰かに携帯で電話かけるのが好きだった。
一年生の頃はずっと澪ちゃんと話してて、それからあずにゃんとが多くなったけど、あずにゃんが天使になっちゃってからはまた澪ちゃんに戻り、ムギちゃんが海外に行くっていう話が持ち上がったあとは、毎日ムギちゃんと電話していた。
電話だと、ムギちゃんはけっこう笑えることを言う。たぶん、例の冗談を言ったあとの、あ、やっちゃったのかもっていう表情が見えないからだろう。
一度なんかはあんまり笑ったので、ふだん怒ることのない憂がわざわざうるさいと文句を言いに来たほどだった。




「ムギちゃんの住むとこってどんな感じなの?」

「えとねー、ケンタッキー州の南のほうにあって、大きいんだけどあんまり車の通らないハイウェイのそばにあるんだけどね……自然のたくさんあるところで、サッカーの試合ができるくらい広い芝生の庭があって、道路の向こう側には森があるし、わたしは見たことないんだけど、なんでもその森にたくさん鹿がいるらしくて、あ、でも野ウサギが庭で遊んでるのを見たことはあるわ。赤い屋根の三階立ての大きな家でね、玄関のところに、なんていうんだっけ?あの悪魔みたいな、ほら、ゴーストバスターズって見たことある? そう、その、あの敵になるやつ、あの銅像がふたつあって子供の頃は怖かったなあ夜とか。家の中には叔父さんと叔母さんが二人で住んでるんだけど、叔父さんはね、弁護士してて、うちの会社のアメリカ支部の顧問弁護士なんだけど、だからやっぱりお金持ちで、ガレージにはスポーツ・カーが二台あって、赤と黄色、壁には狩猟用のライフルが並んでて、本物の銃だよ。でっかいワインセラーもあってね、子供の頃、お父さんに秘密で飲ませてもらったことあったな。で、大学がスクール・バスに乗って15分くらいかな、の町にあるんだけど、週末にはダンスパーティがあるんだって、あ、それにね、家の後ろにでっかい湖があってー、そうしたいならボートにも乗れるのよ」

「わぁ、それって映画みたいじゃん」

「うそ、映画で見ただけだもん」

「なんだよー」

「ごめんごめん。本当は叔父さんのところには行ったことないの」

「でもお金持ちなの?」

「うん、顧問弁護士してるっていうのはほんとだし、あながちさっきのうそにならなかったりして」

「ひゃー……わたしも一度くらいムギちゃん家行っとけばよかったなあ」

「わたしの家は別にふつー、まあすくなくとも見た目はって意味だけど。日本は土地が狭いから……」

「でもさわちゃん家庭訪問のときびっくりしてたよ」

「そうなの?」

「うん」

「じゃあきっと家庭訪問用に新しく家建てたのね」

「あはは」

「今度来る?」

「ほんとに? 一ヶ月に前に予約いるんじゃないの?」

「あれうそなんだよね」

「えー……なんでさ!」

「だってわたし友だち家に呼んだことなかったから……お母様とかたぶんいい顔しないし」

「ムギちゃんのおかーさんって怖いの?」

「ちょーこわい」

「でもいいんだ?」

「うん、だってどうせ家出ちゃうもんね」

「悪いやつだ」

「えへへ。でももうあんまり日がないなあ」

「あ、そっかぁ。そうだよね……」

「うん……ならべくはやく来られるようにするね!」



それで、なんとかムギちゃんが都合をつけてくれた結果、今日の午後訪問する予定になっていたのだ。
聞いたら、澪ちゃんも行きたいと声を弾ませて言うのだった。

「りっちゃんはなんで来てないのかな? せっかくなのに」

「さあなあ、いろいろとあるんじゃないか。あいつは意外とナイーブなやつなんだよ」

「澪ちゃんは意外と繊細じゃないよね」

「ちっちゃいよりは、大きいほうがいいっていうだろ」

澪ちゃんは自信ありげにちょっと胸を反らした。バストが強調されて見える。

「おっきいもんねえ」

「ば、ばかっ。胸の話じゃないぞ!」

「貴乃花だね貴乃花」

照れ隠しつもりなのか、自然に澪ちゃんはベースの入ったケースに手をかけていて、それでふと気がついたみたいに言った。

「久しぶりに演奏する?」

部室で演奏すると天使が寄ってきてしょうがないので、わたしたちは天使以後みんなで音を合わせるということがなかった。
部室の扉についていた鍵は、まえにりっちゃんとあずにゃんが諍いを起こしてあずにゃんがりっちゃんを部室の中にいれないよう努力していたとき、りっちゃんが外から鍵をさして扉を開けようとするのに対してあずにゃんが内側のつまみを回して応戦し、がちゃがちゃやっていたら壊れてしまった。
だからわたしたちは対策としてバリケードを築くことにしたんだけど、そのあとすぐムギちゃんのことがあり、りっちゃんも来ないので、結局はほとんど役に立っていなかった。
同意のつもりで、わたしもギターをケースから出す。

「あれ澪ちゃん……」

「なんだコードをまた忘れたのか」

「ギターってどうやって持つんだっけ」

げんこつ。

「いや、じょーだんじょーだん」



ふたりで曲を決めて何度かあわせてみる。
ギターとベースの音だけだと何となくさみしい気がしてしまう。
そういうバンドで有名なバンドもあるんだぞと澪ちゃんはいくつか名前を挙げたが、当の本人も退屈そうだった。
結局30分位するとふたりとも床に直接座り込み、楽器の音を鳴らすとも鳴らさないともいえない感じで、お喋りに高じている。

「澪ちゃんは卒業してもここに残るんだよね?」

「うん、地元の大学に行こうかなって」

「りっちゃんのこと?」

「うん、まあね。あいついま大変だろ。父親なくしてさ母親もあんな感じで、へーきなふりしてるけどなんだかんだで繊細なやつだからさ」

「澪ちゃんとちがって」

そうだな、って澪ちゃんは笑う。

「べつにわたしになにかできることがあるとも思えないけど、結局は昔からのあれだから」

「あれってなに?」

「あれはあれだよ」

澪ちゃんは横を向いた。
たぶん、澪ちゃんはりっちゃんのことが好きだからそうするんだろうなってわたしは思う。
それはつまり澪ちゃんは男の子じゃなく女の子が好きってことだ。ということをわたしは澪ちゃんから直接聞いた訳じゃないんだけど、ムギちゃんがこっそり教えてくれた。
5人の間に秘密はない。
澪ちゃんが中学生の頃体育倉庫でクラスの女の子といちゃいちゃした話とか、りっちゃんが大人ぶってアルコールに手を出そうと試みて飲んでみたのが調理用のお酒だったとか、あずにゃんが通販でエロ本を買ってるとか、りっちゃんが他校の男の子とこっそり遊びに行ってちすごい大失態かました話とか、ムギちゃんは靴にちょっと身長を高くするやつを入れてるだとか、たいていのことはわかっている。
誰かがひとりが秘密を知ればそれはもう5人の秘密なのだ。わたしたちはみんな口が軽く、さらには自分の秘密さえ隠し通せないほど(下手すれば自分のを話すときが一番)口が軽い。
みんながみんな信用に値しないという点で、わたしたちは信頼しあっている。
でも澪ちゃんのことについてはそれをりっちゃんに話さないってくらいの分別もあった。



「あのさ、これって秘密にして欲しいんだけどな……」

「うん」

今日ムギちゃんに電話で言う。絶対。
おとついの、柳のゆれる、坂道で、わたし幽霊、見たどうしよう、っていうしょうもない話じゃなかったならだけど。

「律のことなんだけど」

「りっちゃんのこと?」

「うん。律さあ、本気なんじゃないかなって思うんだよね」

「免許取ったら車欲しいから、ネットで制服とか売って稼ごうって話が?」

「あいつそんなこと言ってたのか?」

「澪ちゃんとムギちゃんのをもらって、あとでこっそり4つセットにして売ればけっこういいとこまでいくんじゃないかって話してたよ」

「ばかだな」

「だね。わたしもそう思う」

「ちがうよ、そうじゃなくてさ。あの例の天使の宗教」

「りっちゃんのお母さんの?」

「そう。それにさ、けっこう律も入れ込んでるんじゃないかって」

「ほんとに?」

「あいつ毎週日曜きっかり教会行ってるだろ?」

「それはお母さんを心配してついてってるからじゃん」

「でもあいつ最近けっこう聖書とか天使関連の書籍とか真剣に読んでることあるんだよな。天使と一緒にいるところを見たっていうクラスメイトもいるし。それからまえにわたしたちは天使についての考え方を改めなきゃいけないのかもなって言ってたぞ」

「うーん」

「きっとあいつ洗脳されちゃったんだよ。この前だってな、わたしの家のポストにパンフレットが200枚くらい入れてあったんだぞ。ゴムで束にして。これってあれだろ、勧誘だよ勧誘、友だちを売ってるんだよ、高値で売りさばいてるんだよ」

なにしろ人の制服を売るようなやつだからな、と澪ちゃんは言った。

「それか澪ちゃんのことが嫌いになったかだけど……」

「そ、それはないだろ」

「知らないよ……」

澪ちゃんはちょっと不安そうな顔を一瞬したけど、すぐに気を取り直して、

「と、とにかくだな、あいつは信仰に目覚めたんだよ。だから今日も来てないんだろ?」

「軽音部より大事な場所ができちゃったってわけだ」

澪ちゃんはぴしっと指をわたしに向けた。

「そのとおりだ」

「でもさ、りっちゃんはあんなに天使を嫌ってたじゃん」

「まあな。でも、宗教にはつきものの話なんだよな。神を信じていなかった人が改宗すると熱心で優秀な信徒になるんだよ」

「ミイラ取りがミイラになっちゃったわけだね」

この場合は天使取りが天使になっただなと澪ちゃんは嬉しそうに何度もうなづいて見せた。




10

ムギちゃんの家にはお昼ちょっとすぎについた。
一生に一度くらいはお金持ちのお昼ご飯を堪能させてもらっても罰は当たらないだろうとわたしたちは何度も言いあったけども、最終的には駅前のサイゼリアでお昼を食べることにした。
結局のところ再分配は法と行政によるものであり個人に期待されるものではないというのが澪ちゃんの見解だった。もしも個人が再分配を執行したならばたちまち社会は無秩序状態におちいり原始世界へと逆行することになるだろうという悲観的な人間観を、あまり人のいない平日のファミレスで分かち合うことにわたしたちは成功していた。
しかしある面では、なにもせずに約束の時間を待つにはわたしたちは腹ぺこすぎでもあったのだ。
そういうわけで澪ちゃんはイカ墨のパスタを頼み(毎月買ってるあるファッション誌に美容と健康にいいと書いてあったのだと言った。でもダブルだった)、わたしはパエリアとパンケーキを頼んで、最後に季節限定のパフェをふたりで半分にして食べた。



ムギちゃんの家は桜が丘から5駅ほどした町の、駅から歩いて14分くらいしたところにあった。
静かな住宅街で、建っている家はどれもまだそれなりに新しく見えたけど、いくつかの道がくねくねと無理なカーブを描いているのがなんとなく古めかしくもある。道のりにはせまい公園がいくつかあり、木々に囲まれた小規模の神社があって、校庭が半分に芝生に覆われた私立中学校のそばでは、コンクリート舗装の川が穏やかに流れていた。
町は封を切ったばかりのおもちゃにみたいにきちんとしててなんとなく手つかずの感じがした。ケータイの液晶のフィルムをまだはがしてないっていうみたいな。
あんまり天使の染みを見ないせいかもしれない。ここには天国がまだやってきていないんだろうか。それとも毎日誰かがきれいに掃除してるとか。
住所をあらかじめ教えてもらっていたから家の場所はグーグルマップですぐにわかった。たしかにムギちゃんが言ったように外観からはよくあるお家のようにしか見えなかったので、わたしはちょっとがっかりした。
全体的にモノトーンの感じで、家の壁は灰色、切妻形の屋根は黒色で天使の白がぽつりぽつりと落ちている。たぶん二階建て。家自体はけっこう大きいけど庭がほとんどないからその分を足したらわたしの家とおんなじかちょっと大きいくらい。門はよくある折りたたみ式で、インターフォンで話をしたあと自動で開いた。車2台分の大きさのガレージが右側にあっていまはシャッターが降りている。
やっぱりお金持ちっぽくない。じゃあどんなのを想像してたんだって聞かれれば、記憶たどってすぐ思いつくのは、シンデレラ城。
玄関口に貼ってあるシールを見つけて、セコムが入ってるんだね個人の家にセコムが入ってるんだよってわたしは澪ちゃんに言ったけど、よく見るとそれはセコムではなくてなにか別の警備会社のものだった。



玄関あがったらすぐ、執事みたいな人が出てくるのかとてっきりわたしは思っていたけど、ここでもやっぱり予想は外れて、応接間に通してくれたのはムギちゃんのお母さんだった。
空豆みたいな形のつるつるした机に、黒っぽい革張りのソファーが向かい合ってひとつずつ。座ると腰が思ったより沈んだので澪ちゃんのほうを向いてえへへと笑った。澪ちゃんもしょうがないなあって感じで口元をちょっとゆるめて見せた。
机の上にはオレンジジュースと真っ赤なイチゴのショートケーキがふたつずつ並んでいる。わたしはまた澪ちゃんに目配せせずにはいられない。
これって漫画みたいだよねって。

「こちら、どうぞ食べてくださいね」

ムギちゃんのお母さんはムギちゃんにそんなに似てない。けど、そう思うのはムギちゃんのお母さんが外国人だからなんだろう。おそらく。
白い肌に、青い目。ムギちゃんとおんなじ色の金髪。
まだ30代前半のようにも見える。
いったいどこの国の人なんだろうか。

「いつもお話は伺っています。紬がとってもお世話になってるみたいで」

と、ムギちゃんのお母さんは流暢な日本語で言った。
澪ちゃんはなぜかとっても緊張して、いえいえお世話になってるのはむしろこっちのほうで紬さんはほんとにいい子でして手もかからないし成績も優秀ですよなどと言うので、いったいいつからこの子はムギちゃんの先生になったんだろうとわたしは考えている。

「……だよね、唯」

ぼーっとしてたら、急に澪ちゃんが同意を求めてきたからわたしは言う。

「うん、ムギちゃんがいるおかげで部活中もお茶できるしね」

「ばかっ」

澪ちゃんはわたしをこづいた。
それを見てムギちゃんのお母さんは笑った。
笑うと、目の周りや口元にはっきりとした皺が寄る。それでムギちゃんのお母さんもやっぱり、お母さんであるなりの年をとってるのだということがわかる。
元の表情に戻ったあとで、まったくおんなじ場所に皺が薄く残っているのが見えて、だからそれは何度も笑うことで刻まれた皺みたいだってわたしは思う。
この女の人がものすごく怖いだなんて話、本当なんだろうか。
あ、ってことは,ムギちゃんも切れるとちょーこわいのかも。ありうる。絶対に怒らせないようにしないと。
紬を呼んできますねと言って、ムギちゃんのお母さんは部屋をあとにした。




「やっぱこうじゃないと」

ケーキの側面のフィルムをぺりぺりはがしながらわたしが言うと、

「立派だよね」

と抽象的なことを澪ちゃんは言った。
フィルムに付いた生クリームをフォークですくおうとしたら澪ちゃんがあわてて、意地汚いことはやめろよなとわたしをぶった。
笑い声がした。
ムギちゃんが立っていた。
ムギちゃん家で見るムギちゃんはいつものムギちゃんよりなんだかよくわからないけどかわいらしく見えた。ゆるくカールした長い金髪を首の後ろのところでひとまとめにして、服はだぼっとした白いワンピース。
足は裸足で、化粧もなし。
指を背中でくんでいる。
扉にもたれかかって、曲げた片足を気まずそうにぶらぶら揺らしてた。
わたしたちのほうを見ては、ちょっとにっこりする。
ばったり出会った男の子の服を借りて下町を楽しむお姫様って感じでも、もちろんドレスをまとって民衆の前に立つ王女様って感じでもなかった。
強いて言うならアメリカっぽい。っていうのはムギちゃんがアメリカに行くからそう思うだけだけど。
どのみちムギちゃんの家はシンデレラ城じゃないのだ。



「ひさしぶり」

「うん」

「ふつうの家だったでしょ?」

まあね、とわたし。
いやいや、と澪ちゃん。

「わたしの部屋上だから、あがって」

螺旋階段をのぼる、長い廊下を歩いて、自動ドアじゃないけどってムギちゃんが言った。

「わームギちゃんの部屋!」

目の前のベッドにわたしは飛び込んだ。ぐぐって沈んで、潜水。
ふかふかしてた。
ぎぃってスプリングが悲鳴を上げる。
ムギちゃんが笑った。

「わたしの部屋なにもなにもないんだけどね」

たしかにそうだった。
部屋は不思議なくらい殺風景で、その理由が段ボールになって隅っこのほうに積んである。

「ムギの部屋っていいにおいがするな」

「そう?」

「うん」

「お菓子のにおいがするよね」

「それはイメージじゃないかしら?」

「お菓子の? ムギちゃんはお菓子のイメージなの?」

「ちがった?」

「わかんない……」



澪ちゃんはいつの間にか見つけた漫画雑誌を読んでいた。女の子同士が恋したり恋をされたりするやつ。
ムギちゃんがたまに部室に持ってきて読んでるからわたしも読んだことある。

「ああいうのってどこで売ってるの?」

「わたしはインターネットで買ってるから」

「ふうん……」

「あ、でも昔はね、年下の女の子が買いにいってくれたのよね。あれ、どこで買ってたんだろう?」

「それってパシリ? ムギちゃんって悪者だ」

「ふふふ、そうかも」

「ねえ、ムギちゃんってさあ、女の子が好きなわけ?」

「どうなのかしら。そういうことってあんまり真剣に考えてこなかったな。わたし中高女子校だったし」

「もう大学生なんだから考えなきゃだよ!」

「じゃあ、どっちも好き! 男の人も女の人も」

「それってずるくない?」

「ずるいかしら?」

「ほんとはずるくはないけど、いまはずるい」

「わかんないなあ。経験があんまりないから……」

「経験積まないとやばいよ。アメリカなのにさ!」

澪ちゃんが急に口を挟んできた。

「アメリカは関係なくないか」

「あるよー。アメリカでは恋愛がすっごい盛んなんだよ。映画とかでもいつも恋愛があるもん」

「日本だってそうだよ。漫画とか」

「漫画はフィクションじゃん」

「ばか」



澪ちゃんはまた漫画を読みだしている。

「服見てもいい?」

「うん。もうつめちゃったのもあるけど」

衣装棚を開けるとたしかにところどころすきまが空いてたけど、それでも冬物のコートなんかがずらりと並べてある。数の点では全然わたしなんかじゃ勝負にならない。おそらく値段も。なかにはドレスみたいな服もあった。
高校の制服が4つも並んでてわたしは驚く。そういえば前にムギちゃんは制服の替えをたくさん持ってるって言ってた気がする。最初2着で、あと年度ごとに1着新しいのを買ってるって。1着しか持ってない人だって多いのに。

「ねえムギちゃん、制服はあっちに持ってかないの?」

「ああ、そこにあるのはまだ着るかなって思って……でも持って行かないかな。じゃまになっちゃうし」

「そっかー……あ、そうだ!これちょうだい、制服があるとムギちゃんのこと思い出せるからね、記念に」

「うんっ。どうせもう誰も着ないし、全部持ってちゃってもいいわ」

「ほんとに? やったーじゃあ4着みんなもらうね! ねえねえ4着セットだよ澪ちゃん、大もうけだよ澪ちゃん」

「ばかっ」

澪ちゃんが言って、げんこつ。
ひりひりする。

「……ムギちゃんハウスが建てられるとこだったのにぃ」

わたしはまた叩かれた。

「人の制服を売ろうとするんじゃない」

「えへへ……」

わたしたちがなんで笑ってるのかわからなくてムギちゃんはちょっとさみしそうな顔をしていた。
これからまたちょっとした用事(あいさつに行くんだって。あいさつ?)があるらしいのでわたしたちはおいとますることにした。


家を出ると3時半くらいだった。
電車に乗っている間、澪ちゃんはもしもいまこの瞬間にゾンビがでたらどうすべきかってことについてなにやら検討してたけど、ふと、せっかくだから隣町へ行こうって提案してきた。春に着る服が欲しいのだと言った。わたしがやることがあるから帰るとこたえると、ふうんとつぶやいたきりそのことについては何も言わず、列車が脱線したとき安全なのは後部車両でいいのかなあとか、みんなで協力して荷物を並べてバリケードを作るんだとか、そんなハンドバックなんかは邪魔になるだけだからすぐに捨ててしまうんだぞといったことを再び延々と述べるのだった。
わたしは同世代の子に比べてもブランド品とかにはほとんど興味がないけど、このバッグはわざわざ都心まで行って買った限定品だった。
電車は桜が丘まで流れていく。
危機もなく。



3
最終更新:2016年04月24日 22:17