11
教会の中は思っていたのとだいぶ違ったから少し残念な気持ちがした。
外側はまさしく映画で出てくるような、とがった屋根のついている格好をしていたのに、一度エントランスをくぐった後に現れたのは単なる事務的空間だった。
空間は白っぽく、無機質で、蛍光灯の光が冷たい。ワックスのかかったリノリウムの床に反射して水面のように見えた。左手側奥まったところに階段が見えて、入り口に水平に引かれた鎖の下では『関係者以外立入禁止』のプラスチック板がぶらぶら揺れている。右手にはカウンターというか受付のようなところがあって台の上には何種類かのパンフレットが整頓されて並べてあるけど人はいない。
『《聖・天使教会》なぜ天使は再び舞い降りたか』『てんしがみんなのおねがいごとをかなえてくれる!』なんていうなことがパンフレットには書いてあり、そのひとつを適当にとってポケットに入れる。
なんだか病院みたいだった。
正面の廊下の先にある大扉まで歩いていく。誰かになにか注意でもされるかと思ったけど何も言われなかったし、ここまで来て帰るのもそれはそれでとかなんとか自分に言い訳して、扉を少し開けてみる。
そしてそこには、教会があった。
昔ながらの、懐かしい、映画的教会。
最初に目に入るのは、十字架に張り付けにされたキリスト像で、そのすぐ真下には祭壇があり、そこからこちらに向かって赤いカーペットがまっすぐのびていて、左右に長椅子が列を作って並んでいる。黒ずんだ木の椅子で、横長のクッションが上に敷いてあった。この時刻、人はまばらで、祈りを捧げる人がいたかと思えば、単に休息していたり、本(聖書だろうか?)を読むとか、ある人は居眠りなんかしていて、そのすべてをステンドグラスから横ばいに射し込む光がまるで祝福するかのように染めている。
厳めしい教会風の建物に入ったらそこは現代的な受付だったというのもなんだか肩透かしな感じがするけど、あの殺風景な事務空間から急にちゃんとした教会へとつながるのはそれ以上に変な感じがする。衣装ダンスの向こうはおとぎ話の国でした、とか。あるいは、マーガレットを開いたら、いきなり数Ⅱの問題たちが現れて、そのあとにまた「君に届け」がはじまるみたいな。
だけどこういうのって行きはまあいいけど、帰りはやっぱり冷めちゃうんじゃないのか
な。せっかくの神様との面会も帰りに処方箋持って薬局に寄るんじゃだいなしだ。それともそうでもないのかもしれないな。もしかしたらディズニーランド帰りの電車あたりにヒントは転がっているのかも。
わたしは最後列の左側、通路沿いのところに腰を下ろした。
同じ席の少し離れたところに座っているおばあちゃんにわたしは声をかけた。
「あのー、あの、りっちゃん、あ、高校生って知らないですか、女の子の。こういう黄色いカチューシャつけてるんですけど、こー、いう」
「いやあ、知らないねえ。高校生なのかい?」
「はい!」
「高校生なのにこんなところに来るなんて大変だねえ」
そうなんですりっちゃんはとっても大変なんですよという言葉は飲み込んだ。
でもおばあちゃんはりっちゃんのことをいろいろ詳しく聞いてくれ、なんとか思いだそうと懸命につとめてくれた。こうやってお祈りをしているような人は心が豊かなのである。やっぱり神様っていうのは力があるんだ。
それでもうりっちゃんのことは諦めて、おとなしく黙ってることに決めてじっとしていると、なにか囁き声のようなものが聞こえてくる。耳を澄ますと、それは音楽だった。ピアノとボーカルだけの曲で、ピアノの音は柔らかくゆっくりと流れ、それでいてどこか厳かでもあり、なにやらの英語のようなそうじゃない知らない言葉、こういうのはなんだかいかにも映画で見たみたいな感じでちょっとわくわくしてしまう。するとやがて祭壇のところに、白っぽい服を着た男の人が現れるから、これはもういよいよだと嬉しくなる。
「みなさん、こんにちは」
こんにちは、とみんなが声を合わせて言葉を返す。
「本日はようこそおいでくださいました。さっそくですが、実は今日、新しく我々の仲間に加わる方がいます。彼女もまたわたしたちと同じ苦しみに遭われ、そして神の恵みによって救われようとする者の一人です。どうか我が主のように、慈悲の心を以てして彼女の手をとり、仲間に迎えてあげようではありませんか」
一瞬、それがわたしのことなんじゃないかと思ってびっくりしたけど、前の方で30代ぐらいの女の人が立ち上がるからそうじゃないんだって安心する。女の人は壇上にあがって話しはじめた。
「えーみなさん、こんにちは。わたしは今、39歳で、離婚歴があり、ひとりの娘がいます。娘は高校生です。夫とは別居していて、今は実家の方で母のお世話になっています。夫は結婚した当初はとてもよい人でしたが、だんだんとすれ違いが生まれていき、しかしそれはふつうの夫婦生活ならば十分考えられる程度のすれ違いでもありました。決定的なのは子供が生まれたことです。そこからだったんです、そのときから彼は急に素っ気なくなり、家に帰らないことも増えました。生まれたばかりの子供がそこにいるにも関わらずです。彼は子供が好きではなかったんです。わたしは娘のことをとても愛していますが、彼女は望まれて生まれた子供ではありませんでした。生まれた子供が女の子だったことも夫を失望させたのだと思います。彼はどちらかと言えば男の子を欲しがっていましたから。時が経っても夫の態度は変わらないどころかますます冷たく、家に帰ってくる頻度も減り、やがて自然な成り行きでわたしたちは別居することになって、最終的には離婚するに至りました。アルコール依存になりはじめたのは、ちょうどその離婚した頃のことでした。最初は段々と心離れていく夫への寂しさから酒に手を出すようになり、ひとりで子を育てる気苦労がそれに拍車をかけました。それでもそのときのわたしはせめて自分の身の回りのことはきちんとし、娘も学校へ行かせ、よい母親であったかはわかりませんが、少なくとよい母親であろうとしていました。このアルコールという悪魔の手に本当に捕まったのは娘が中学を卒業し、そこにちょうど離婚も重なった――もちろんそのときにはすでにそれは形式上のものにすぎませんでしたが――そのあたりでした。娘も大きくなり自分のことは自分でできるようになり、また反抗期らしきものを迎え、今までふたりでがんばってきたのが、なんだかひとりになったようで、なにか張りつめていた糸のようなものがぷつりと切れてしまったな心持ちがし、わたしはお酒に溺れるようになりました。もちろんわたしが他の誰かよりもそれほど悲惨な目にあったとは思っていません。だからこれはひとえにわたしの心の弱さが引き起こした問題です。今こうして喋っている間にもアルコールへの要求は収まらず、ふとすると手がふるえてしまっているのではないかと不安になります。幸いなことに、母の力添えもあって、娘は今のところ元気な子に育っています。わたしは娘のためにもはやくこの依存に打ち勝ちたいと心から願っています。聞いてくださいありがとうございました」
女の人が頭を下げると、ぱちぱちぱちぱちぱち拍手の音がして、ありがとうありがとうとみんなが声をかけている。
そうだったのだ、これはお酒を常習的に飲み過ぎて依存症になってしまった人たちが集まりなにやら順番に自分のことを告白しつつ神さまの力を借りてアルコールを断とうとする会合なのだった。わたしは知っている。映画にはよく出てくるやつなのだ。
りっちゃんのお母さんはアル中だったんだ!
いつの間にか女の人の告白は終わっており、別の人が壇上に立っていた。このままだとわたしも高校生にてアルコール中毒にされてしまうというか、法的な問題が持ち上がってきてあんまり気持ちのいいことにはなりそうにもない。
隙を見て席を立ち扉を開けて逃げ出して、再び病院的空間の方に戻ると、受付のところには女の人が座っている。大学生風の感じで、退屈そうな表情をしていて、スマートフォンをなにやらいじっていた。
「あの、りっちゃんのお母さんが、アル中で、あ……」
「なに?」
「あ、いや……あのー、ここって《聖・天使教会》あってます?」
女の人は顔を上げわたしのほうを一瞥し、それからカウンターの上のクリアファイルに綴じられた用紙をじっと見つめて言った。
「んー、今は、アルコール依存症患者のための……あー……キリスト……相互補助会……みたいだけど」
「あのっ、わたし、《聖・天使教会》に来たつもりだったんですけど、ここじゃないんですか?」
「《聖・天使教会》は火曜日と水曜日と日曜日だったと思うけど。あれ、土曜日もやってるときあったっけなあ」
それから先ほどの用紙に再び目を通して、
「あ、違った火曜じゃなくて、月曜だ。月水日ときどき土曜日」
「へ、どういうことです?」
「あれ、もしかして、はじめての人かな? 向こうから出てくるからてっきり……」
「はい、そうなんです」
「あのね、この教会はあれなんだよね、貸してるらしんだよね。あーだから、いろんな団体とか宗派とかが借りて時間とか曜日とか分けて使ってるって事だけど、つまり、もう今時は土地なんかもあんまりないっていうし。お金もかかるもんね」
「はあ」
「ちなみに、今、どっかに体験入教とかしてみようとか思ってるわけ? わたしの個人的お勧めはさ《天使光来会》かな、神父さんがみんなかっこいいんだよね。《西日本東キリスト教団》も見たとこレベル高くていい感じだよ。《天使を許さない会》なんかもBBQとかして楽しいって友だちが言ってたな……」
「あ、あのー、あ、大丈夫です。友達を探しに来ただけなので」
「あれ、そうなんだ」
「でもよかった、りっちゃんのお母さんはアル中じゃなかったんですね」
「なに?」
「あ、いや、ありがとうございます」
「がんばってね」
ありがとうございますと反射的に頭を下げたあとで、はたして何をがんばればいいんだろうかと考えてみたものの、結局はまあいいやと思うことにした。
12
帰り道、りっちゃんを見つけた。
河川敷、堤防の川につづくコンクリートの階段の上。下から3段目。
白い傘が揺れてた。
傘の上では、2つの点と1つの曲線が幾何的な笑顔を浮かべている。バリケードをつくるため部室をひっかき回してたときたまたま見つけた極太の油性ペンを使って、ムギちゃんとわたしでいたずら描きをしたのだった。
意外なことにあずにゃんもいた。
今日のあずにゃんは調子悪。下半身は液体だった。両足から腰にかけては芯が入ってないみたいにぐでんとして、広域接地。上半身はまあまあ。ほ乳類的基準値を満たす。一番の問題は首で、頭蓋は自由運動を勝ち得た喜びにあっちへこっちへ跳ね回る。けん玉の真っ赤な玉みたいな感じ。天使の皮は丈夫なのだ。
あずにゃんは、りっちゃんよりさらに川岸にいて、せせらぎに引かれうろうろしてるのかと思えば、急に立ち止まって泥を掘りはじめたり、天使の言葉を呟いてみたり。すこしでも水面に触れると驚いてそこから離れようとする。ちょっと猫みたい。
なんたってあずにゃんは天使である以前に猫だったんだもん。
「ねー、りっちゃんっ! あずにゃんのこといじめてたのー?」
わたしは階段を小走りに下りて、りっちゃんの隣でひざを曲げた。
りっちゃんは肩をすくめた。
「まさか」
「だけど、骨とか折れてるし、首も……わわ、あずにゃーんだめだよー、そんな急に動いたら首が落っこちゃうよー」
それから、川岸のほうに寄っていって口笛を吹くと、あずにゃんがのろのろとこっちに歩いてきた。
わたしはあずにゃんの手を引いて、あたかも流した鈍液がとどまりきれずこぼれだしたかのように階段の終わり、いびつに広がったコンクリートに、腰を下ろした。
あずにゃんの頭を優しくなで、りっちゃんを見上げて
「あずにゃん、大丈夫? ね、りっちゃんはひどいよねー」
と、言った。
りっちゃんはなにか言い返そうとしたけど結局はめんどくさくなったみたいに言った。
「ああ、そうだそうだ。結局はみんなわたしが悪いんだよ、天使が降りはじめたのも、ムギが海外に行っちゃうのもさ、父さんが死んだのも、梓が天使になったのも、みんなみんなわたしのせいだよ」
「ていうかさー、りっちゃんがあずにゃんとふたりでいるのなんか意外」
「梓に会ってるのがおまえだけだと思ってたか?」
「そんなことないって、あずにゃんはみんなのものだもんね。つまり神さま、っていうか天使はわけへだてなく人々を愛してくれるって意味だけど……」
わたしが猫にするみたいにあずにゃんの頭をなでているのを見て、りっちゃんは微笑み、
「唯って梓を扱うのがうまいんだな」
階段飛んで、わたしの横に座った。
「ずっと前からか」
夕暮れどき。
りっちゃんの影がわたしの隣までのびていた。小さな夜の中、あずにゃんは、よりかかってわたしの膝の上に頭を乗っけている。
川は光を失い、陰影が跳ねた。電波塔。対岸の木立はいつ誰が迷い込んでいいように悪巧みの計画を練りはじめる。
ちゃぽん。
水しぶき。
2月の終わりの冷たい風。
太陽が遠い。
「あ、そういえばね、制服」
「制服?」
「ムギちゃんが制服くれるって言ってたよ」
「ああ、制服か」
「こんなのでいいならいくらでもあげるから、生活のたしにしてねって」
「清貧だ」
「貧じゃないけどね」
「『富んでいる者が天国にはいるのは難しい』」
「りっちゃんさ」
「なに?」
「免許取れた?」
「仮免な、わたしけっこううまいんだぜ」
「へー」
「でも、教官がさ厳しいのよ。俺はちゃらちゃらした女子高生が大嫌いだと最初に言うわけ、きっとあれ昔生徒に手を出して痛い目見たんだな」
「あはは」
「だけどすぐ取れるよ」
「たまには学校来たら?」
「ムギはきてないんだろ」
「まあね」
「唯とか澪とかはまだ会えるしさあ。それよりはやく免許とればさ、唯がまだここにいるうちに三人でどっかいけるかもしれないじゃん」
「あぁ、そっか」
「唯はさどっか行きたいとことかあんの?」
「えっとねー……」
空を見上げると、切れ目ない大きな雲が東から広がっていき、ゆっくりと夕焼けを制圧しようとしている。白。天使の国はどんな色にも染まったりしないのだ。
わたしは呟いている。
「……天国、とか」
「ばーか、そんなとこ車なんかなくたって簡単にいけるだろ」
りっちゃんがわたしをこづいた。
「じゃあ海がいいな、海!」
「海か」
「まえに澪ちゃんがひとりで冬の海行ったでしょー。あのときからいいなあって思ってたんだよね、みんなで行きたいって」
そう、ほんとはさ、みんなで、5人で行くつもりだったんぜってりっちゃんが小さな声で呟いた。
だけどそれを打ち消すみたいにすぐ、
「なあ、梓も行くか?」
って聞いた。
あずにゃんは顔を上げてりっちゃんのほうを向いたけど何も言わない。わたしの膝の上にどんどん進出していまやお腹が乗っかっていた。寝ころんだお父さんの垂直にのばした足の上で子供が、ひこーき!ってやるみたいな感じ。
「ってむりだよなー」
「トランクにさ、ガムテープでぐるぐる巻きにして、つめてけば?」
「それ誘拐」
ちがうよねーってわたしはあずにゃんの耳元で言う。あずにゃんはばた足してた。
「変なやつ」
「だれが?」
「ふたりとも」
「えー」
「梓は、唯のせいだな」
「なにがさ?」
「梓が天使になっちまったの。梓は唯に一番なついてたんだから、梓がひとりになって寂しいのは唯のせいだ」
「えー、それならりっちゃんもじゃんー、責任転嫁だー」
「責任なんかわたしにはないんだって」
なんたって唯のせいだからな、とりっちゃんはくすくす笑いながら繰り返す。
「てかさありっちゃん免許とる前提だけどとれるのほんとに?」
「うまいっていっただろ。神童だよ神童。教習所始まって以来の大天才」
「へー」
「それにドラマーだからな。ペダルを踏みながら手を動かすのは得意なんだ」
「走りすぎ、信号無視で横から、どかん」
ちぇって舌打ち。
りっちゃんは石を投げた。平行に水面を切って三回跳ねた。
「りっちゃんの運転じゃほんとうに天国にしかいけないかもなあ」
「なんだとーこいつーいま殺してやるー」
りっちゃんが後ろからわたしの首をロックして締める。
「いたいたいいたいごめんごめん」
ばたばたと暴れ回るわたしの上からあずにゃんはことんって落ちて、コンクリートを土の上まで3回転がった。気に入ったのか知らないけど、そこで仰向けに横たわって動かなくなってしまう。
そんなあずにゃんのことをりっちゃんはおもしろそうに眺めている。
「澪ちゃんが言ってたんだけどさあ、りっちゃんって天使のこと好きになったの? あずにゃんのことも」
少しはにかんでりっちゃんはいった。
「許すことにしたんだよ」
「許す?」
「うん。あのさ、天使がセックスしてるとこ見たことある?」
「は?……え、それって、あのえっちなやつ?」
「うん」
「あるわけないじゃん!」
「わたしはあるよ。いつもの集会の帰りだよ、たしか日曜日だっけ。よく晴れた日だったんだけどさ、空気が妙に澄んでて、その日は集まったみんなが、なんつーのかな、自分が体験した奇跡、みたいなのを話す日で、わたし、ものすごくうんざりしててさあ」
それからちょっと笑って、
「あんまりうんざりしたもんだからあと少しでわたしの奇跡は降ってきた天使にぶつかって父親が死んだことですって言いそうになったくらいだよ」
わたしはそれには答えずに言う。
「奇跡ってさ、たとえばどんな奇跡なの?」
「くだらないことだよ。そうだなあ……たとえば、なくなったマヨネーズを逆さにしてしばらく置いておいたら七日後には復活してみたいな類のさ」
「あはは、それはたしかにくだらないね」
「で、その帰りだよ、天使を見たのは」
「してるとこ?」
「うん。ほら、あの、エロビデオ屋あるだろ、駅のとこのさ」
「そこってエロビデオ屋じゃないよ」
「みんな男の子とか、そこで借りてるよ。年齢確認とかないから」
「でも、ふつうの映画もあるもん。しかも50円で借りれるし、ビデオテープだけど……」
「唯って意外と進んでんだな」
「ばか、勝手にそう思ってればいいじゃん」
「ま、とにかくそこの裏手でさ、近道なんだけど、通って帰ったら見たんだよな、天使がこう、ふたりで絡み合っちゃってさあ……」
「それってさ、りっちゃんの勘違いじゃないの? たまたまそういう格好になってたのかも、ちょうど上から落ちてきたとか」
「それはないよ」
「なんでわかるのさ、じっくり見てたんだ?」
「なわけないって」
それからりっちゃんは顔を上げて、天国をじっと見てから言った。
「唯はさ、いつも天使の肩を持つよな」
「そんなことはないよ」
「じゃあなんで天使がセックスしないなんて思うんだよ」
「だって天使はそんなことしないよ、できないと思うし。なんたって天使だし……」
「唯は天使贔屓だ」
「そんなことない」
「梓が天使になったから?」
「あずにゃんは関係ないじゃん」
そのあずにゃんは相変わらず土の上でごろごろと転がっている。
「そんなこと言えばりっちゃんは天使が嫌いだからそう言うんだし」
「そう、わたしは天使が嫌いなんだよ」
「で、それ見て、どうしたの?」
「どうもしないけど、たださ」
「ただ?」
「……わかんないな、なんかそれ見たら笑っちゃって。なんだろうな……要するに天使なんかさ、全然大したことないんだよな。ほんとさ気にするのもばかばかしいくらいでさあ」
「どういうこと?」
「つまりさ、わたしたち、もう、大人になるんだぜ」
「なにそれ、イミワカンナイ」
りっちゃんは立ち上がってそう言ったのだが、恥ずかしくなったのか、すぐに座り込んでしまう。
「どーせまたお得意のそれっぽいこと言おうとするやつでしょ」
「なんか唯が冷たい」
「知らないし」
それからはわたしたち黙ってしまう。
りっちゃんは流れる川をにらんでいた。わたしはあずにゃんを眺めている。
少しあとで、わたしは言った。
「なれるの?」
「なに?」
「大人にさあ……」
「なれるよ」
「ほんとになれる?」
「なれない」
「イミワカンナイ」
あははとりっちゃんは笑って、でも許すよって言った。
「天使のことは。もういいんだ、ほんとに」
「そっか」
そのときあずにゃんがりっちゃんのところまでやってきた。
匍匐前進で、ゆっくり。
そして、手のひらをぱっと開いたのだ。
そこには、この河原で拾ったのだろうか、様々な石があった。
とってもきれいな石たち。
わたしはそこにピックがないことになぜだか少し安心していて、でも思った、これはきっとあずにゃんとりっちゃんの和解なんだ、って。
そういうのってたぶん人間的なんだけど、それでいいと思えたのだ。
りっちゃんが言った。
「だからわたしな」
「うん」
「梓に石をぶつけることにした」
ちょうどいいところに石が突如出現したのだという具合にりっちゃんはあずにゃんの手のひらから石ころを取り上げた。
「ゆ、許しはどこいったのさ?」
「許すけどただでは許せないだろ」
「あずにゃんがかわいそうだよ!」
「だって痛みを感じないんだろ」
「い、痛みを感じてはいるけどそれを表現する方法がないのかも」
言ってからこれは頭のよさそうな意見だぞって思った。
「痛んでも痛まなくても一緒ならなんのために痛むんだ?」
「えーと、うーん……精神を強くする? えと、天使、天使だから、神様になるための修行だよ!」
「だったら聖書で神様だってこう述べてるんだぜ」
りっちゃんは立ち上がって言った。
「『あなたがたのうちで罪のないものが、まず彼女に石を投げなさい』」
りっちゃんに罪はないのかっ、とわたしが言うと、りっちゃんは笑って
「ないよ」
って言った。あまりにも自信ありげに笑うのでわたしはそれ以上何も言えなくなってしまうのだ。
河原にあずにゃんが立っていた。
それと対峙するみたいに10メートルくらい離れて、りっちゃんがいる。
西の空の低いところに、雲の切れ目にあわせて、微妙に色を変えながら紫色の横縞が何本も走っている。ミックスのソフトクリーム、紫いも味、期間限定、落として溶けた、みたいな。
りっちゃんはあずにゃんに小石を投げた。
小石はあずにゃんの右のほっぺたにぶつかった。
ばしっ、という音がした。
わっ痛そうってわたしは目をつぶっちゃったくらいだけど、あずにゃんはあんまり気にしてないふうに見えた。ぶつかったせいで首が左の後ろ側に倒れ、沈む夕日を下から眺めてるみたいになった。
あずにゃんは(協会の人は奇跡って言うかもしれない、りっちゃんならあずにゃんの罪の意識がそうさせたって言うのかも)まだそこにいて、少しも動かないまま立ち止まっていた。
なんか言わなきゃってわたしは思ったけどどうやって言っていいかわからなかったから、しかたなく言った。
「ねえ、りっちゃんのとこってキリスト教なんだよね?」
「聖書を読むんだからそうなんだろうな」
りっちゃんはもう次の石ーー今度は黒光りするとがった薄いやつーーをつかんで、まるで歴戦の英雄が自分の剣をながめてうっとりするって感じで、裏返したりして光の反射を楽しんでいる。
「りっちゃん!」
「なに?」
「えと、えーとねえ……き、キリスト教徒っていうのは楽しい?」
りっちゃんはちょっと吹き出しそうになって、それから表情を崩して、
「別に楽しくはないって。でもけっこうばかな話とかもあるよ」
わたしはチャンスだって思って話を続けた。
「いま聞かせてよ」
「だめ。もうはじめちゃったんだから」
それからはもうりっちゃんはなにをいっても返事をしてくれなくなってしまった。
一投一投、時間をかけて淡々と石を投げ続けている。
あずにゃんのほうもなぜだかそこから動かないのだ。
わたしはもうこの愚かな儀式をくいとめるのを諦めてしまった。
ふたりに背を向けて、対岸を眺めていた。
石をぶつけたいならぶつければいいし、ぶつけられたいならぶつけられればいいのだ。悪いことすればいずれ天罰は下るんだし。
ばしっ、ぽこん、ばしっ、ぽこん、ばしっ、ぽこん。
柔らかいあずにゃんの肌に小石がぶつかり、土の上で跳ねる音。
我慢できずにときどき振り返ると、やはりりっちゃんはまだ石を投げ続けている。深い夕暮れの色に染まりながら、石を投げては拾い、投げ、拾い、投げるのだ。
あずにゃんは無表情で、りっちゃんはなんだか怒っているみたいに見えた。でもいつも天使のことになると見せるむすっとする怒り方じゃなくて、それはお父さんとお母さんが喧嘩するときの怒り方ともちがっていて、なんていうかうまく言えないけど野球のピッチャー(投げるの連想だ)がホームランを打たれて帽子を深くかぶる、みたいな感じ。
りっちゃんは、一度だけ短い言葉をつぶやいた。
単音節の言葉を二つ。
なにかを言ったのはそれだけだった。
いつの間にかわたしも、聞こえてくる音にあわせて、黒々と染まった川に向かって小石を投げている。
ばしっ、ぽこん、ぱちゃん、ばしっ、ぽこん、ぱちゃん、ばしっ、ぽこん、ぱちゃん……。
いつしか水の跳ねる音だけしか聞こえなくなったとき、振り向くともう西の空も真っ暗になっていた。ただ天国だけが妙に白っぽく浮かんでいるのだ。
二人の罪深い少女の影がぼんやりと遠くに見える気がした。
りっちゃんはあずにゃんのほうに歩いていって、両方の肩をぐっとつかんで、言う。
「許すよ」
あずにゃんはもちろん何も言わない。
「どっちかと言えば許すのはあずにゃんだと思うけど」
わたしは言って、すぐに言い過ぎたかなって思って、そりゃりっちゃんの気持ちも分かるけどさあ……ってつけたす。
「だって梓が何を許したりするんだ?」
「そりゃあ、もちろん、天使になっちゃったこととか……」
「唯は天使贔屓だから、そういうこと思うんだ」
「だから別に天使贔屓とか、じゃない、もん……」
りっちゃんは続けて、笑って冗談っぽく、
「それに梓が天使になったのは唯のせいだしな」
「なんでなのさ?」
「それは少しでも信心があれば自明だ」
りっちゃんだって信心なんてないくせに。
わたしが言うと、じゃあ知性だな唯には知性がないんだとかなんとか。
「あーあ唯のせいでこんな姿になって梓も大変だな」
「……そぉ#で∝♪ね」
そうですね?
あれ、あずにゃんさっき人間の言葉喋ったような。
だけどりっちゃんは、気にするふうもなくあずにゃんの手を引いて、先に歩いていってしまう。あずにゃんも自然な感じで引かれていって、ちょっとまんざらでもないみたい。前世もその前の前世だって、わたしたちベストフレンドでしたよねって感じ。
わたしはあずにゃんのことかばってやったというのに、毎日あずにゃんに会いに行ってあげたっていうのに。なんで石なんかぶつけるりっちゃんとは喋って、わたしとは喋んないのさ?
あずにゃんってやなやつ。わたしも石とかちょーいっぱいぶつけてやればよかった。
つぶやいてから、りっちゃんたちを小走りに追いかける。
最終更新:2016年04月24日 22:13