琴吹紬誕生日SS(のつもり)



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そのお店は『さいはてのカフェ』といいました。


雨上がりの雫にしっとりとうなだれていた紫陽花たちが、潮風に吹かれてきらきらと光りを反射させています。
そんな清清しいようなにおいを胸いっぱいに吸い込みながら、私は、この名前も聞いたことがないような町の隅っこをのんびり歩くのにもくたびれてしまって、この紫陽花たちが悪いのだ、私はちっとも歩き疲れてなんかいやしないのに、あなたたちが構って欲しそうに道端に咲いているから立ち止まってやるのだと、自分の奇妙な不機嫌をぜんぶ花のせいにして、それから大きな溜息をついて休憩するのでした。

実際、私はもうくたくたでした。
キャリーバッグにもたれかかって足を休めます。
少しだけ、ほんの少しだけ、あのとき意地を張っていなければと後悔しましたが、そもそも後悔するくらいだったら喧嘩なんてしません。
まあ、私もわがままだったかなあと思わなくもないけれど、あっちだって融通が利かないのはお互いさまです。

夕暮れが近づいていました。
菫色の空の彼方が、徐々に夕日の燃える赤に変わってゆきます。

……ふと、菫のことを思い出してしまいました。

「やっぱり私が悪かったかなあ」

同じ菫色をした紫陽花に、さっき八つ当たりしたことを心の中で謝ったりして、すると今度はなんだか寂しいような悲しいような気持ちが胸のうちに沸いてきました。
私は、たまにこうやって怒ったり不機嫌になることはあっても、それが長続きした試しがないのです。
ぷんぷん怒るのは結構疲れます。
それよりも悲しいとか切ないとか、虚しいとかいった感情の方が、よっぽど私の心を癒してくれるような気がして、私のまんまるな心は怒りの頂からすぐにコロコロと転がり落ちてしまうのです。

それに、今の私はもう感情を奮い起こすほどの体力が残っていませんでした。
最初は知らない町を探検するのにワクワクしていた私の好奇心も、空腹や喉の渇きを覚えるにつれ、次第にどこか休憩できる場所はないかしらとオアシスを求める遭難者のような不安と焦りを抱き始め、そして改めて周囲の様子を振り返ってみるとこの町は喫茶店はおろかコンビニすら無いような辺境の地だったので、仕方なしに引き返そうと思った矢先、帰り道が分からなくなってしまうほど遠くへ来てしまった事にようやく気付き、まさしく途方に暮れている最中だったのです。

携帯電話のバッテリーも切れてしまいました。
通りかかる人もいないような場所だったので道を尋ねることもできません。
どうにかなるだろうと当てもなく彷徨っていたのがあだになって、海岸沿いの道には民家すらも見当たりませんでした。

日が暮れてしまう前にせめてどこか休憩できる場所を、と思いながら、私は重たい腰をようやく上げてこの紫陽花通りを再びとぼとぼと歩きはじめました。


そして赤からやがて藍色になりつつある空、その端々にまだ薄く赤を残した雲たち、烏たちの憂鬱な鳴き声、ざわめく木々や草花、生ぬるい潮風の匂い……
そんな懐かしいような風景に癒されてぼうっと心を奪われながら歩いていると、不意に曲がりくねった道の先に建物があるのを見とめました。

遠くからだと民家なのかもよく分かりませんでしたが、私はやっと安心して溜息を漏らしました。
あそこで道を聞いてみよう。
あわよくば休憩させてもらえないかしら。
疲労した体ににわかに活力が湧き出てきた私はそんなことを考えながら先へ先へと歩みを早めます。
そしてその建物の全貌が西日の影の中にとうとう明らかになってくると私の安心しきった心にいやな予感が走りました。

それは古寂びたダイニングカフェのようでした。
といっても、看板に掠れた文字で「カフェ」という言葉が見えなければ何かの店かも分からないくらいな建物でした。
外装のペンキは剥がれ、窓にはヒビが走り、周辺は手入れされていない雑草が伸び放題です。
もう日が落ちて外は真っ暗になりかけているのに、店内は明かりもなくひっそりとしていました。

私は最初、廃屋かと思い、がっくりと肩を落としました。
しかし次の瞬間、まるで私の来訪を待ち構えていたように店内にパチパチと明かりが点き始めたのには驚いてしまいました。
なんだか来てはいけない所へ来てしまったような、不思議の国に迷い込んでしまったような気分です。

怪しい。
怪しいけれど、どうやら人は居るみたいです。
私は勇気を出してえいやと入口の扉を開けました。


それが、この奇妙な出会いの物語の始まりでした。

「けほっ、けほっ……」

まず私を出迎えてくれたのは降りかかる埃の匂いでした。
思わず目をしばたたかせて咳き込みながら、店の奥に向かって

「ごめんくださーい。どなたかいらっしゃいますかー?」

と声をかけてみましたが、反応がありません。
誰もいないカウンターの傍まで寄ってもう一度声をかけてみると、ようやく奥から店員さんらしき人が現れました。

小さな女の子でした。

「…………いらっしゃいませ」

「あの、すみません。道をお聞きしたいんですけど……」

「ウチは交番じゃありませんよ。注文しないならよそへ行ってください」

ぴしゃりとはねつけられてしまいました。
その拒否反応の強固なことといったら、有無を言わせずという言葉そのものといった風でした。

私は口もきけずにしょんぼりと俯いてしまいました。
なんだか自分がすごく情けないような、悔しいような気持ちがしました。
一人ぼっちで道に迷い、やっと家屋を見つけたと思ったらそこは汚くてみすぼらしい飲食店。
そして不機嫌な店員さんに冷たくあしらわれて為すすべもなく立ち尽くす私。
あ、泣いちゃいそう。

すると店員さんは何を思ったのか、そうやって泣き出しそうな私の目の前におもむろにメニュー表を差し出したので、私は一瞬それを使って一発芸でもやらされるのかな、なんて馬鹿なことを考えてしまうくらいにぽかんと口を開けたままそれを眺めていました。

「食べないなら帰る、食べるなら注文、です」

ぐうぅぅ。
タイミングを計ったように私のお腹が思いっきり鳴き出すと、私は恥ずかしくなって顔を赤らめながら、

「じゃ、じゃあ……このカルボナーラください」

とだけ言って、店員さんに無言で促されるままに近くのテーブル席に座りました。

ほとんど倒れこむように腰を落ち着けると、私は盛大に溜息をついてひとまずは休憩できたことに安心しました。
飲食店なのに薄汚れて埃まみれなのには閉口しましたが、カウンターの中で料理を作る美味しそうな音が聞こえると途端に空腹が刺激されてしまい、今はもう一刻も早くお腹を満たしたい思いで頭の中はいっぱいになりました。

そうして私がぼーっとソファに座って店内を眺めていると何やら店の奥から人の声が聞こえました。
他の店員さんかしらと思っていると、ドタバタとやって来たのは私と同い年くらいの女の子でした。

「あれーっ!? もしかしてお客さん?」

そう言って遠慮する様子もなくずかずかと私の方へ歩いてくるのです。

えっ、なになに?
私なにか変なことしちゃった?

なんて考えている暇もないうちにその子は席の向かいに座りニコニコしながら私に話しかけてくるのでした。

「この店に私たち以外のお客さん来るなんて何日ぶりだろー、あっ、私は唯って言います。よろしくね!」

「は、はい」

私は気圧されてそれしか言えませんでした。

「あなたのお名前はなんていうの?」

「え? ああ、えっと、琴吹紬といいます」

「へーっ、面白い名前だね!」

私はよく分からないままに曖昧な笑みを浮かべて返事をしました。

「あの子はね、あずにゃんっていうんだよ。ここの店主で、本名は中野梓っていうんだけど、猫みたいに気分屋だからあずにゃん」

「唯先輩! 余計なこと言わないの」

「うへぇ、怒られちゃった」

そういって悪戯っぽく舌を出す唯ちゃんに、私はちょっとだけ親近感を覚えました。
悪い人ではなさそうです。

「それにしても紬ちゃん、せっかく来てもらってなんだけど、今日はちょっとタイミングが悪かったみたいだねー」

「どういうことですか?」

「あずにゃんがご機嫌ナナメなんだよ」

私にひそひそと耳打ちしてカウンターの方にちらりと視線をやります。
機嫌が悪そうだというのは私にも分かりましたが、この唯ちゃんという人はそれすらもなんだか楽しそうに話すのでした。

「お互いにさー、あんまり意地張らないで仲良くやればいいのにね」

唯ちゃんが何を言ってるのかちんぷんかんぷんでしたが、なんとなく自分の事を言われているような気がしてドキッとしました。
私が難しい顔をして首をかしげていると唯ちゃんは席を立って梓ちゃんの元へひょこひょこ歩いて行きました。

「何か手伝おっか?」

「珍しいですね。じゃあお皿を用意してくれますか?」

「りょーかい」

そんな会話を遠くに聞いていると、間を置かずに雷の落ちたような激しい音が店内に響き渡りました。
私はびっくりして音のする方を振り向きました。

「ありゃー……やっちゃった」

唯ちゃんと梓ちゃんがカウンターの中で突っ立ったまま同じ床を見つめていました。
音から察するに、きっと二人の足元には粉々になったお皿が5、6枚分は散らかっているに違いありません。
唯ちゃんは口元をヘンな形に曲げて苦笑いしているし、梓ちゃんはもはや無表情の極みといった感じです。

そうやって二人がしばらく茫然と固まっているものだから私はなんだか可笑しくなってしまって、笑っていいような状況ではないはずなのに思わず笑いそうになるのを頑張って堪えていました。

……そんなアクシデントもありましたが、私が注文したカルボナーラは無事に私のテーブルに運ばれてきました。
カウンターの中では唯ちゃんが割れたお皿を箒で集めている最中でした。

正直なことを言うとあまり味には期待していなかったのですが、梓ちゃんが無愛想にテーブルに置いた料理は思いのほか美味しそうに見えました。
そしてそれは実際に食べてみると、空腹を満たすという喜び以上の、感動してしまうほどの美味しさが体に染み渡っていくのでした。
これがもしや「空腹は最高の調味料」というものなのでしょうか。
私はあまりお腹を空かせるという経験がなかったので、これがこの料理の本当の味なのかどうかもよく分かりませんでしたが、とにかく私は目の前のカルボナーラを夢中で食べ続けました。
そしてあっというまに平らげて、えもいわれぬ幸福感に満たされたような気分でぼうっと天井を仰ぐのでした。

「お皿割った分のお給料減らされちゃった。あはは……って、おーい、紬ちゃーん?」

まどろみかけていた私はハッと気づいて慌てて体勢を正します。
唯ちゃんが食器を片付けてテーブルを拭いているところでした。

「大丈夫? 眠いの?」

「ええ……少し疲れちゃって」

忘れかけていた疲労と共に、空腹に押さえつけられていた睡魔がにわかに重みを増して体の隅々に広がっていくのが分かりました。
本当にこのまま眠ってしまいそう。
お店の中で居眠りするなんて非常識だと思いつつ、それでも私は自然とまぶたが閉じられるのに抵抗できませんでした。
そんなふわふわと飛んでいきそうな意識を寸での所で繋ぎとめている間、遠くで唯ちゃんと梓ちゃんが話している声がぼんやりと聞こえていましたが、それが何の話をしているかを考える余裕もなく次第にその繋ぎとめていた最後の糸もぷつりと切れて、いつの間にか私は静かな眠りの中に沈んでいくのでした。

「――……おーい……紬ちゃんやーい……」

肩を優しく揺さぶられて夢の続きを引きずるように私は目を覚ましました。
そしてやっと自分が眠りこけていたことに気づくと、

「ご、ごめんなさい! ……ああそっか、お金払わなくちゃいけませんよね。すみません、代金はいくらで……」

そんなことをブツブツと呟きながら財布を取り出そうとすると、目の前の唯ちゃんはそれを遮って、

「ここ、カフェと一緒にホテルもやってるんだけど、良かったら泊まっていかない?」

ニッコリと笑ってそう言うのでした。

「ホ、ホテル? でも私……」

「もしかしてお金が無いとか?」

「お金はありますけど……」

いきなりの提案ですっかり面食らってしまった私はもごもごと口ごもって遠慮するような素振りをしてしまいましたが、実際お金はたっぷりあるし、宿泊用の荷物は手元にあるし、ホテルに泊まるという事だけ考えれば断る理由もないような気がしてきました。
最初こそ不審に思い嫌々入ったようなこのお店も、あの美味しいカルボナーラのおかげで怪しいという印象は少しずつ和らいでいたので(見かけという点ではまだ不安は拭えませんでしたが)もはや過剰に警戒する必要はないように思えます。

不安があるとすれば、お父様やお母様、家の者たちに多大な心配をかけてしまう事くらいでした。
すでに私がいなくなった事に気づいて大騒ぎになってるかも。
菫が上手く誤魔化せていればいいけど……なんて、そうやって一瞬でも菫に頼るような事を考えて、ちょっとした自己嫌悪に陥ったり。
今はもう菫と喧嘩した事について反省もしているし、これ以上意地を張って菫を責めるような考えはこれっぽっちもありませんでした。
本当ならすぐにでも家の者に連絡を取って帰るべきなのです。菫にも謝らなくちゃ。

けれど、そんな果すべき責任とは別に、知らない町を一人彷徨い冒険した末のこうしたささやかな出会いが何か私にとって簡単に捨て置けない数奇なめぐり合わせのようにも思われてくるのです。
あるいは世間知らずで夢みがちな私の愚かな錯覚かもしれません。
しかしやはり私は、(少なくとも私にとっては)非日常的なこの状況を楽しむような、ワクワクするような気持ちが心のうちにもたげてくるのを認めないわけにはいきませんでした。
……それにしても、ここに来るまであれだけ寂しく辛い思いをしていたというのに、それらをすっかり忘れてしまっている自分の都合の良さには我ながら呆れるほどです。
喉元過ぎれば熱さを忘れるとはこの事でしょうか。

そんなわけで、私はほんの気まぐれのような好奇心からしばらくこの町に留まってみようと思いついたのでした。
もちろん家に連絡はしますが、元々旅行のつもりでここまで来たわけですし、その辺はうまく誤魔化して何とでも説明がつきます。

「……それじゃあ、お言葉に甘えようかしら」

「決まりだね! あ、受付はここで済ませられるけど、私も一緒に戻るからちょっと待ってて」

「唯さんもそのホテルに泊まっているんですか?」

「うん。ここで働きつつ泊めさせてもらってるみたいな……あと私のことは唯でいいよー」

唯ちゃんはそう言って危なげに食器を片付けていきました。
その後姿を目で追っていくと、ふいに梓ちゃんと目が合ってしまいました。
彼女はどこか不満そうな、苦々しげな様子で私をにらんでいます。
最初に冷たく当たられた時こそ怖気づいてしまいましたが、今度は私も負けじと睨み返してやります。
すると梓ちゃんは急に私から顔をそむけて肩を震わせるのでした。
やった。私の勝ちです。

「どしたの。かわいい顔して」

「えっ?」

戻ってきた唯ちゃんに笑われてしまいました。
私、そんなに変な顔してたのかしら。

カフェのカウンターで受付を済ませ、鍵をもらってから私は唯ちゃんと一緒にホテルを目指しました。
外はもう夜で、お店の裏手は街灯もなく真っ暗です。
そんな足元も見えないような暗がりの中、鬱蒼とした木々を抜けてしばらく歩くとそのホテルが影からぬっと姿を現しました。

それはもはやホテルというよりも屋根と窓のついた倉庫でした。
隅っこの1室だけ明かりが灯っていたので、それでようやく人の気配が感じられるといった風です。
数えていませんが2階建ての建物には全部で10部屋もないように見えます。

「きゃっ!?」

「あ~、そこ足元危ないんだ。気をつけてね」

もう少しで荷物ごと放り投げるところでした。
唯ちゃんは慣れたように玄関の明かりをつけて先に入っていきました。
私も続いて中に入ると、ここもやはり埃っぽくて軽く咳き込んでしまいました。

でも、思ったよりも雰囲気は悪くありませんでした。
白熱電球の温かい照明がそうした印象を演出しているのかもしれませんが、内装もシンプルながら整然としていてきちんと掃除をすればとても落ち着ける場所のような気がします。

唯ちゃんに案内されて部屋に到着しました。
どんな部屋なんだろうと覚悟していましたが、中は驚くほどすっきりしていて、ベッドのシーツもぴっちりとアイロンがかかっているし、まるで本当のホテルのようでした。
私は思わず、

「意外とまともですね……」

なんて呟いてから失礼な事を言ってしまったと口をつぐんだのですが、唯ちゃんは一切気にするような素振りを見せず、

「たぶんこの建物で一番綺麗な部屋だからね」

「そうなんですか」

「うん。あずにゃんもああ見えて気を使うところがあるっていうか、不器用なりに誠意を尽くそうとしてるんだと思うよ」

「誠意、ですか……」

そう言われても中々ピンときません。
でも、良い部屋をあてがわれたというのは悪い気がしませんでした。

「ま、別の言い方をするとお客さんの人となりを見て選んでるって事」

「え?」

「なんでもない、なんでもない」

唯ちゃんは「えへへ」と笑って、その後、家具の使い方やらお風呂、トイレの注意点などを親切に教えてくれました。
見た目は綺麗な部屋でしたが、やはり色々な所にガタが来ているらしく、例えばクローゼットのハンガー掛けは3着以上掛けると折れるとか、水圧が弱いからトイレはマメに水を流すとか、ドライヤーとテレビは同時に使うとブレーカーが落ちるから気をつけて……等々、言われなければまず引っかかってしまうような罠の数々を丁寧に説明してくれるのでした。

私がそんな親切に感動して深々を礼を述べると、唯ちゃんは照れくさそうに「何かあったら呼んでね」と自分の部屋番号を告げて去っていきました。
ドアを閉めると、急に辺りが静かになりました。
そして徐々に窓の外から鳥の鳴き声や風の吹く音が不気味に響いてきます。

とうとう一人になってしまいました。
まさか自分がこんな状況に置かれる事になるなんて数時間前まで夢にも思っていませんでした。
見知らぬ土地の思いがけない場所で、誰の力も借りずにたった独り、夜を過ごそうとしているのです。
むくむくと湧き出てきたのは不安と隣り合わせの奇妙な解放感でした。
私は生まれて初めて本当の自由を手にしたような気持ちがしました。

変に興奮してしまったせいで先まであんなに眠たかった頭が今はもうはっきりと冴えてしまいました。
ひとまず家に連絡しなければと思い携帯電話を充電して電源をつけてみると、そこには何十件もの菫からの着信がメッセージに残っていました。
私は慌てて菫に電話をかけました。

「もしもし、菫? ……私なら大丈夫……充電が切れちゃって……ううん、そんなことないよ……私の方こそごめんなさい……うん……」

そんな風にお互いにいつまでも謝ってばかりいるのでした。
菫の声がちょっと泣いているような気がしたので、きっとお父様や執事長にこっぴどく叱られたのだろうと思ったのですが、話を聞いてみるとどうやらそうではないらしいと分かりました。
予想通り、菫は私が途中の駅で一人降りてしまった事を秘密にして上手くごまかしたのだそうです。
古い学友とたまたま乗り合わせて、手土産を用意するついでに途中の一旦別れたとかなんとか。
そんな嘘が通るのか甚だ疑問でしたが、いま菫がいる所……つまり私の叔父の家は繊細な私の父と違って豪胆というか細かい事を気にしない性格の方々だったので、私が遅れて到着するという事を少し残念がっただけで済んだのでした。

「……分かったわ。それは私の方からちゃんと説明するから……ううん、気にしないで……私が全部一人で決めた事だし……え? どんな場所かって? う~ん、なんか変なところ……ああ、別に危険な場所じゃないんだけど……でも少し楽しそうなところ」

不機嫌な店主がいるカフェとか、お化け屋敷みたいなホテルだとか、そんな話をすると菫はますます心配そうにするのでした。
しかし、私はけっしてこれを災難とは思っていない、むしろ前向きな気持ちでここに残ることを決めたのだと話すと、菫はどうにか分かってくれました。
予定は未定だけれど、帰る目処がついたらまた連絡すると言って、それからお互いに電話を切りました。
その後、叔父のところへ電話をかけて、菫のついた嘘をなんとか引き継ぎつつ、しばらくこの町に滞在する旨を説明しました。
せっかく姪が遊びに来るといって楽しみにしていらっしゃったのに、私のわがままでそれを無碍にしてしまったという事への罪悪感がありましたが、休暇のうちに必ずお伺いしますと言うと先方はあっけないほど簡単に納得してくれました。
もしかしたら私や菫の嘘などはとっくに見破られているのかもしれません。
まあ、それでも好きにさせてくれるのなら都合がいいというものです。
……なんだか私もすっかり悪い子になってしまったみたい。


私は一息つくとベッドに腰かけて、疲れた体をほぐすように伸びをしました。
それから荷物を整理し、シャワーを浴びて(温度を調節するのが大変でした)寝巻きに着替えると、私は再び穏やかな眠気に襲われるのでした。
まだ時間は早いけれど、もう寝てしまおうと部屋の電気を消したその時、暗闇に中に不自然なほど明るい光りが洩れているのが目に留まりました。
それは窓から差し込む月の青白い光りでした。

私はふと感傷的な気分に浸りたくなって明かりの零れ落ちる窓辺へ近づいてみました。
満月がとても高い所にありました。
そうやって何気なく窓の外を眺めていると、背の低い木々のすぐ向こうに海があるのが分かりました。
耳を澄ませると漣の音がかすかに聞こえます。

「海の見える町……」

思うに任せて口を衝いて出たそんな言葉が何か暗示めいた詩の題名のように私の思考をひとつに包み込み、そこでようやく、私はこの町をすっかり好きになっている事に気が付いたのでした。……

 ◇ ◇ ◇

翌朝、朝食を摂りにカフェへ行くと、先客がいました。

黒髪の、美人な女の子でした。
その子は私の方をちらりと一瞥しただけで後はまったく関心を示さず、思いつめたように窓の外を眺めながらトーストをかじっていました。
私は少し離れたテーブルに座って朝食が運ばれてくるのを待ちました。
しかし梓ちゃんは一向に姿を現しません。
7時から10時のあいだに朝食が用意されると聞いていたのですが……

そんな風にそわそわして首を伸ばしながら奥の様子を覗き込んだりしていると、背後でいきなり叩きつけるような大きな音がして思わずびくりと肩をすくめてしまいました。

「うおっと……ったく、またかよ! おい、建て付け悪いから直すって言ってなかったか?」

「知らない。だいたいお前がいつも乱暴に開け閉めするからそうなるんだろ」

「私のせいかぁ?」

「他に誰がいるんだよ」

カチューシャを付けた子が(この子も私と同い年くらいに見えました)入り口の外れかかったドアをがちゃがちゃと動かしながら大声で黒髪の子と会話しています。

「よっ、と。こんなもんでいいだろ。……ん?」

わ、気づかれた。
私は思わず目を逸らしてしまいます。

「……あの人、誰?」

「私に聞いてどうする」

「いや、澪の知り合いかと思って」

「私の知り合いがお前の知り合いじゃなかった事があるか?」

二人はひそひそと話しているようでしたが、全部丸聞こえです。
なんとなく居心地が悪くなってもぞもぞしているとカチューシャの子がつかつかとこちらへ歩いてきたので私はますます体が強張ってしまいました。

「えーっと……もしかしてお客さん?」

「ひゃいっ」

声が裏返ってしまいました。

「あ~、そっか。そういう事なら、ちょっと待ってて」

彼女は一人で納得したように厨房の奥へ行ってしまいました。
私は何がなにやら、彼女がいったい何をしようとしているのか、そもそも朝ごはんはどうなっているのか、困惑に身動きがとれず呆然としているとなにやら遠くで言い争うような声が聞こえてきました。
それから待たずにやってきたのは梓ちゃんでした。
私の姿を見とめると昨日と同じようにキッとにらみつけて言いました。

「朝食はセルフサービスです。厨房に料理があるので、レンジで暖めるなりして勝手に食べていただいて結構です」

「そうだったんですか。すみません……」

「おいおい梓、この人だって知らなかったんだから仕方ないだろ」

梓ちゃんは「フン」と鼻を鳴らしてスタスタと去って行ってしまいました。
彼女のああいう辛辣な態度にはまだ慣れません。

「ごめんな。てっきり普通にメシを食べにきたお客さんだと思って……宿泊客なら早く言ってくれればよかったのに」

「はい……お手を煩わせてしまったみたいで、ご迷惑をおかけしました。それと、ありがとうございます」

「お、おう」

少し早とちりする気の人のようですが、親切にしてくれた事はとても助かりました。
礼をしつつ料理を取りに立ち上がると彼女は「私も私も」と言って一緒についてきました。

「レンジ先に使っていいぜ。コーヒーいる? あ、マヨネーズはあっちの机にあるから」

彼女は何かと私に世話を焼いてくれました。
トレーに乗ったサンドイッチとベーコンエッグ、具のないコンソメスープを暖めてテーブルに戻ると彼女も後から来て私の向かいに座りました。

「ほいコーヒー」

「あ、ありがとうございます……」

昨日の唯ちゃんのようにどこか人懐っこい振る舞いをする人でした。
しかし私は、実を言うとこういう遠慮のない距離感というのが少し苦手でした。
現に彼女は朝食を食べようとする私を興味深そうにジロジロと見るので妙に気恥ずかしくなって何気なく窓の外を眺めていると、

「旅行?」

「えっ、なんですか?」

考えに耽って聞き返してしまいました。

「んー、いや。一人で来てるの?」

「はい」

「仕事とか用事で?」

「いえ、そういうわけでは」

「じゃあアレだ。一人ぶらり旅ってやつ?」

私はなんと答えたらいいか迷いましたが、まあそういう事になるだろうと思ってうなずきました。

「へ~……あんたも変わった人だね」

物珍しそうに言うので、私はただ「はあ……」としか返事ができませんでした。

「私が言うことじゃないけどさ。この町ってほんと何もないんだぜ。しかもよりにもよってこの店の宿に泊まるなんて、よっぽど差し迫った理由でもなければ変人としか考えられないじゃん」

事実、差し迫った理由でここに漂着したのですが、その事はとりあえず黙っておきました。

「それにあんた、来るタイミングも悪かったな」

唯ちゃんと同じことを言われたので気になって尋ねてみると、

「大したことじゃないんだけどな。ついこの前、梓が相方と揉めてさ。その相方を店から追い出しちゃったんだよ。まあ二人共いつも喧嘩してるし、またかーなんて思いながら私たちも一部始終見てたら結構シャレになんなくて、これが」

「喧嘩、ですか……」

私は菫のことを思い出してしまいました。



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最終更新:2016年07月04日 19:17