「ところで……あの、お名前を伺っても……?」
「律さんはこのお店をよく利用されるんですか?」
「まあな。暇な時バイトがてら遊びに来てるっていうか」
「梓さんのご友人なんですか?」
「う~ん、友達っていうか……まあ昔なじみの仲かな。あそこにいる奴……澪っていうんだけど、あいつも似たようなもんだよ」
黒髪の子は相変わらず物憂げに窓の外を眺めていました。
この気さくで明るい律さんと、いつも何か不満そうにしている梓ちゃん、そしてどこか影のありそうな黒髪の子……澪さん。
それぞれまったく違った性格に見えるのに、この寂れたカフェを舞台にすると、不思議と3人がかつて紡いできた物語が浮かび上がってくるような気がしました。
「……おっと、こんなことしてる場合じゃなかった。みおー! そろそろ行くぞ」
律さんはコーヒーをぐいっと飲み干して「じゃあな」とだけ言い残し、颯爽と席を立って行きました。
どこからかヘルメットを取り出して(そういえば律さんは店に入ってきた時にヘルメットを抱えていました)それを澪さんにぽんっと手渡し、せかすように店の外へ出るのでした。
澪さんは上の空といった感じでのろのろと食器を片付けると律さんの後に続いて店を出て行きました。
エンジンをふかす音が聞こえて、それから砂利を転がっていくような音と一緒にどこかへ行ってしまいました。
なんというか、いまいち関係性の分からない二人です。
私は残ったスープを飲み終えてからのんびりコーヒーを啜って、改めて店内を見渡してみました。
今は少し慣れましたが、ただでさえ古そうな建物が、全体に漂う粗雑さや埃っぽさのせいで一層薄汚れて見えます。
ただ、椅子や机のやわらかいデザインや木目調に統一された色合いなど、内装そのものは落ち着いた雰囲気がありました。
今日は外も大変気持ちのいい陽気で、窓からほんのり差し込んだ朝日が暖かく、気を抜いたら眠りこけてしまいそうです。
私は食器を厨房へ片付けた後、ふと思い立って窓を開け放してみました。
すると僅かな潮の匂いを含んだそよ風が心地良く店内に吹いてくるのでした。
そしてそのまま店の反対側の窓と玄関のドアを開けると、どんよりと店の中に留まっていた重たい空気がぐるぐると風に押し流されて瞬く間に爽やかな空気が循環し始めたのには驚きました。
こんなに簡単な事をするだけであれほど暗鬱としていた店が途端に生き生きとして見えるようになったのです。
それから私はカウンター席の近くに重なって置いてあった布巾を手にとってすべてのテーブルを丹念に拭きました。
床に散らかったゴミを拾い、ぐらぐらして安定しない椅子の取れかかったネジを手で軽く絞めて、雑誌や小物を外に持ち出して埃を払い、玄関マットを日の当たる場所で叩き干してみました。
しかしこれでもまだ足りません。
私はひとまず窓と玄関の扉を閉めてから、ホテルへ戻って唯ちゃんの部屋を訪ねてみました。
確かこの部屋だったと思い何度かノックすると、寝癖たっぷりの髪をした唯ちゃんがドアを開けてくれました。
「ふわあぁ……おはよ~ムギちゃん」
「む、ムギちゃん!?」
「あ……この呼び方ダメだった?」
「いえ、そんな事はないです。ただちょっとびっくりして……あの、それで朝早く起こしてしまって申し訳ないのですが、掃除道具ってどこにあるか分かりますか?」
「掃除道具……? 箒とかちりとりでいいなら、廊下の突き当たりにあるロッカーに入ってるよ……ふぁ~」
「ロッカーですね、分かりました。あと、カフェの横にある水道栓は使ってもいいのでしょうか?」
「ん~……よく分かんないけど別に問題ないと思う……」
「ありがとうございます」
それだけ聞いてぺこりと一礼すると、唯ちゃんは髪をぽりぽり掻きながら眠そうに部屋に戻りました。
私はさっそく準備に取り掛かりました。
髪の毛を結わえ袖をまくり、汚れてもいい格好に着替えると、ロッカーから箒、ちりとり、埃はたき、雑巾、バケツを運び出しました。
マスクの代わりに荷物で持ってきたフェイスタオルを口元に巻きます。
完全装備の出で立ちで『さいはてのカフェ』の看板を仰ぎ見る私。
「よしっ」
まずは天井の埃を払わなくちゃ。
蜘蛛の巣もどうにかしないと。
……そんなわけで、突発的な一人大掃除が始まりました。
パタパタとはたきを振ると物凄い量の塵が巻き上がります。
床の汚れがひどいところは厨房にあった重曹を使って雑巾をかけ、モップも取り出してゴシゴシと拭いたりしました。
普段はあまり掃除なんてやらないけれど、召使たちがいつも近くでやっているのを見ているのでやり方はなんとなく覚えています。
ここでは汚れたカーテンや布地を洗濯することもできないし、ボロボロになったソファを直したりすることもできませんが、
それでも私は自分にできることをやろうと思い、汗をぬぐいながら作業に没頭するのでした。
正直、私がこんな事をする義理はないのですが、お世話になった以上、こうした形で恩返しをするのも特に間違っていないように思えます。
何より私自身がこうした労働を楽しんでいるのでした。
もしかしたら、唯ちゃんや律さんのおせっかいが移ってしまったのかも、なんて。……
◇ ◇ ◇
お昼前、梓ちゃんが店に戻ってきた頃には、私は一通りの掃除を終えてゆっくり休憩している所でした。
「あっ、梓さん! おはようございます……って、もうお昼になっちゃいましたね」
「なに……これ……」
私は清々しいような誇らしい気持ちで挨拶しましたが、梓ちゃんは驚きに固まったような表情で立ち尽くしたままです。
私は彼女が唖然として眺めている景色を再び見渡してみました。
我ながらよく頑張ったと思います。
店内は、それはもう見違えるほど綺麗になっていました。
油でギトギトしていたテーブルは今や自然な光沢を放ち、棚や窓際には埃ひとつありません。
床は照明が反射するくらいピカピカで、飾ってあるたくさんの置物や装飾は汚れもなくそれぞれキチンと綺麗に並べなおしてあります。
清潔感を取り戻した店内には深呼吸したくなるくらい爽やかで良い匂いのする空気が満ちていました。
「あずにゃ~ん、お腹すいた~……うわっ?!」
後からやってきた唯ちゃんも同じようにびっくりして店内を見渡しました。
「どーしちゃったのこれ。ムギちゃんがやったの?」
「はい。すみません、勝手なことしちゃって」
「いやいやそんな謝らなくても。すごいよこれ、こんな綺麗なさいはてのカフェ、私はじめて見……」
「なに勝手なことやってるんですかっ!!」
突然大声を出されて私と唯ちゃんはビクリとしてしまいました。
梓ちゃんが怒りの形相で私に詰め寄ります。
「今すぐ元に戻してください!」
「へっ?」
「元に戻すって、そりゃ無理だよあずにゃん」
「……わ、私は前の方がやりやすかったのっ! だから元に戻して!」
「いいじゃん、綺麗になったんだし」
「この人は客のくせに私の店に勝手な真似したんですよ!? こんなの横暴ですーっ!」
まさかこんなに反感を買われるとは思ってもみなかった私は、何も反論できずにただ梓ちゃんが怒り狂うままにしていました。
そんな梓ちゃんを唯ちゃんがなだめている時、入り口からバァン!と大きな音が聞こえて、振り向くとそれは律さんと澪さんでした。
「おーっす!」
「だから扉は静かに開けろって何度も言って……」
澪さんの台詞はそこで一瞬止まりました。
目をぱちくりさせて、まるで知らない所へ来てしまったようにキョロキョロと周囲を見渡しています。
そして怒りに興奮している梓ちゃんとそれを抑えようとしている唯ちゃんのじゃれあってるような姿を見て、次に私とふと目が合ってお互いに固まってしまうのでした。
「……二人共なにしてんの? っていうか朝の人、まだいたんだ」
「そこのお客さんが掃除してくれたんだけどさ……ちょっ、あずにゃん落ち着いて……なんかあずにゃんはそれが気に食わないみたいで」
「ん? ……ほんとだ、綺麗になってる! すげーっ」
隣で澪ちゃんが「気づくの遅すぎだろ……」と呆れながら視線を逸らします。
「まあまあ、落ち着けよ梓」
律さんにも諭されて、梓ちゃんはとうとうそっぽを向いて拗ねてしまいました。
そして不愉快極まりないといった足取りで厨房へ向かい、ガチャガチャと乱暴な音を立てて昼食の準備を始めるのでした。
「ったく、こーんな綺麗にしてくれたのに何が不満なんだか」
「あずにゃんも頑固だからねえ」
二人はやれやれといった様子で近くの椅子にぺたんと座り込みました。
澪さんはいつの間にか私たちから離れた所に座って、ぼんやりと肘をついて部屋の隅を眺めていました。
まさに我関せずといった感じです。
「こーやって見ると案外この店もちゃんとしてるよな」
「うん。なんか私、感動しちゃった」
「ほんとほんと。なんつーか、ありがとな……えーっと、名前なんだっけ?」
私は慌てて自己紹介しました。
そういえば律さんにはまだ名乗ってなかったっけ。
「今までのも別に嫌だったわけじゃないけど、やっぱり清潔な方が気持ちいいね。ありがとうムギちゃん」
二人に感謝されて私はようやくホッとしました。
梓ちゃんにいきなり怒鳴られた時は余計なお節介を焼いてしまったと後悔したのですが、こんな風にありがたく思ってくれるのなら掃除した甲斐があったというものです。
まあ、ちょっと本格的にやりすぎちゃったかなあと反省もしていますが、何はともあれひと安心です。
「でもさあ、店内がこうまともだと外観のみすぼらしさが余計に際立つよな……」
「窓もひび割れっぱなしだしね」
「庭は雑草が伸び放題」
「看板は字が掠れて読めないし」
二人がそんな会話をしていると、梓ちゃんがやってきて、
「みすぼらしい店で悪かったですね。それはともかく、材料切らしてるのでお昼はペペロンチーノでいいですか?」
唯ちゃんや律さんはそれぞれ「なんでもいいよ」と答え、澪さんも無言で肯きます。
それから梓ちゃんは私の方をじろりと見やって、
「お客さんは?」
「あ、私もそれで……」
それだけ聞くとサッと厨房へ戻っていくのでした。
律さんと唯ちゃんは親切心か好奇心からか私にしきりに話しかけてくれました。
「どこから来たの?」とは聞かれましたが、何をしに来たかという点についてはあまり深く突っ込まれませんでした。
きっと彼女らなりに気を使っているのだと思いました。
他にも「お掃除好きなの?」「使用人がいるって、それマジ?」「メイドさんもいるの?」などなど。
「なんでまたそんなお嬢様が……」
「やっぱりムギちゃんって面白い人だよね」
「お、面白い?」
「いや面白いというか普通じゃないというか……」
しばらくして料理が運ばれてきました。
私は唯ちゃん律さんと同じテーブルに座り、会話の続きをしながらペペロンチーノをいただきました。
驚いたことに(こんな風に言うと失礼ですが)これもまた昨日のカルボナーラに負けず劣らず美味しいのでした。
昨日はお腹が空いていたから美味しいと錯覚したと思っていたのが、今やそんな考えは完全に払拭され、私はもうすっかりここの料理の味を気に入ってしまいました。
そして、そんな素朴な感動を味わいつつも、さきほどから少し気になっていた事がありました。
澪さんがちっともこちらの輪に入ろうとしないのです。
彼女は相変わらず遠くの席で一人寂しそうにパスタを食べていました。
私はなんだか彼女を仲間はずれにしているようで気が気でなく、唯ちゃんと律さんが会話している最中もチラチラと澪さんの方を見てしまうのでした。
「澪がどうかした?」
「えっ」
律さんには見透かされていたようです。
「いえ、その……ずっと一人でいるから、何かあったのかな、と思って……」
「あ~、あいつは一人が好きなんだよ。それに人見知りだからさ」
「そうなんですか……」
そして急に、
「みお~! 琴吹さんが澪と話したいってさ!」
大声でそんな事を言うので、私は恥ずかしくなってつい律さんの口を塞いでしまうところでした。
「え、私? 私は……その、また今度……」
澪さんもまた恥ずかしそうに顔を赤らめ小声で何やら呟くと、ごまかすようにペペロンチーノを黙々と食べるのでした。
「恥ずかしがりなんだよ、あいつは」
「ほとんどりっちゃんのせいだと思うけどね」
「……ああ、別に琴吹さんのこと嫌ってるわけじゃないと思うから、それは心配しなくていいと思うぜ」
律さんは言いながらいつの間にかペペロンチーノを完食していました。
こう、何かにつけて勢いのある人です。
そして彼女は勢いのまま、こんな事まで言い出しました。
「よーし、飯も食ったし、午後はみんなで大掃除の続きでもするか!」
「ええーっ!?」
唯ちゃんが素っ頓狂な声を上げ、呆気に取られたように律さんを見上げました。
「りっちゃんが……掃除ぃ!?」心底信じられないといった表情です。
……そんなわけで、午後はみんなでホテルの掃除をすることになりました。
梓ちゃんにその事を報告すると、「ふん。勝手にしてください」と言って店の奥に引っ込んでしまいました。
「ホテルもやるの? 部屋ぜんぶ?」
「とりあえず使われてない部屋と、あとは廊下とか玄関だな。外も雑草が伸びっぱなしだし、壁の落書きも消したいから……ちょっと買出しが必要かもな」
唯ちゃんと律さんが相談している横で澪さんが面倒くさそうに「なんで私まで……」と呟いていました。
「すみません、なんだか巻き込んじゃったみたいで……」
「へっ?! あ、いや、別に私はそういうつもりじゃなくて……あぅ」
なんとなく澪さんに話しかけたのですが、彼女はわたわたと慌てるばかりで全く会話になりませんでした。
そしてなぜか顔を真っ赤にして俯いてしまうのでした。
極度のあがり症なのでしょうか。
「買い出しはりっちゃんやってよね~、言いだしっぺなんだから」
「トラックで行くんだし、唯も一緒に来ればいいだろ」
「あ、バイクじゃないの? なら私も行く行く~」
「梓ー! 軽トラ借りて行くけどいいかー!?」
すると梓ちゃんが現れて、
「出かけるならついでに材料も買ってきてください」
「はいよー」
そうして彼女らが色々と話している間、私は他にすることもなくぼうっと立って眺めているばかりでした。
隣では澪さんがモジモジして私の方を見たり見なかったりしていて、そんな視線が気になり始めた頃、
「じゃー行ってくるわ! すぐ戻ると思うから待っててな」
「行ってきま~す」
と言って唯ちゃんと律さんが店を出て行ってしまいました。
あれ? これってもしかして……。
私はやっと状況を理解して、不意に緊張が走りました。
つまり、澪さんと二人きりという事に。
私はけして人見知りではありませんが、この状況は少々過酷といわざるをえません。
最初、澪さんを見たときは物静かで落ち着いた人だなあ、なんて思っていました。
しかしこうやって微妙な距離に近づいてみると、颯爽と孤独に浸るようなクールさは失われていて、私に何か必死に話しかけようとする気配だけを見せながら何をしゃべればいいか分からないような表情でモジモジするばかりでした。
「……澪さん、コーヒー飲みますか?」
気まずい空気を払拭しようとして私が口を開くと、澪さんは食い気味に頷きました。
朝もコーヒーを飲んだのにまたコーヒーかあ、なんて思いながらマグカップと豆を用意していると、ふいに澪さんが話しかけてきました。
「私のコップこれだから……」
「あ、ごめんなさい」
そんな会話をしたっきり、澪さんは私が準備しているのを隣でじっと眺めているのでした。
き、きまずい。
「……あの、ここって紅茶は置いてないんでしょうか」
ふと思いついて尋ねてみました。
それに対し澪さんが一瞬怪訝な顔色を浮かべたので、「いえ、なんでもないです。ちょっと気になっただけで……」と言いかけた時、唐突に
「紅茶好きなの?」
と聞かれ、
「まあ、はい」
と歯切れ悪く答えると、
「実を言うと私もコーヒーより紅茶の方が好きなんだよな。この店のコーヒーってあんまり美味しくないし」
「そうなんですか」
「梓は料理は美味いけどこういう細かい所にこだわりがなくて……」
意外や意外、先ほどの気まずい沈黙が嘘のように普通に会話できてしまいました。
なるほど、きっかけがあると違うものです。
「……言いそびれてたけど、掃除してくれたんだな。ちょっと綺麗すぎて落ち着かないけど……」
「すみません……」
私ったら謝ってばかり。
でも実を言うと内心ではそこまで反省していないのです。
「いや、別に悪く言うつもりじゃなくて……その、感謝してるっていうか」
私はそれを聞くと嬉しくなって思わず笑顔になってしまうのでした。
そしてなぜか澪さんは私のそんな顔を見て恥ずかしそうにふいと目を逸らすのです。
「コーヒーできたみたい。唯ちゃんや律さんが来るまであそこでゆっくりしてましょう」
私はすっかり機嫌を良くして、まるで澪さんよりもこの店を知っている人のように大胆になってしまうのでした。
それからまた私たちは向かい合って座って色々なことを話しました。
澪さんは想像通り繊細な人だったので質問は少し気を使いましたが(いつも一人で何をしているのかとか、立ち入った話題は避けて)基本的に律さんや唯ちゃん、それからこの一風変わったお店について彼女が愚痴まじりに楽しそうに話すのを聞いているだけで十分でした。
ただ、澪さんは自分の事については全く話そうとしませんでした。
1時間ほど経って、律さんたちが帰ってきました。
私は残ったコーヒーを慌てて飲んで彼女たちを迎えました。
荷台にはたくさんの買物品が積んでありました。
中にはお菓子とかおもちゃみたいな物も……
「余計なものまで買うんじゃない!」
「てへっ」
澪さんが叱っても律さんはあまり真に受けていないようでした。
それに澪さんも別に本気で怒ってるわけじゃないみたいですし、やっぱりこの二人は特に仲が良いように思えます。
さて、そんなわけで大掃除(というには少し大掛かりですが)が始まりました。
ホテルの方へ向かう前にまずカフェの周りを片付けようという事で、私は唯ちゃんと一緒に外壁のペンキを塗りなおしを、澪さんと律さんは草刈りをすることになりました。
「律って案外こういう作業は好きだよな」
「新品の軍手! 新品の鎌! 照りつける太陽と爽やかな風、そして滴る乙女の汗! 肉体労働なら任せとけって」
「ふふっ、なんだかとても似合いますね」
「ねぇねぇりっちゃーん、臨時休業の張り紙とか出しておいた方がいいんじゃない?」
「どーせ誰も来ないからいいだろ……あと唯、塗りムラがあるぞ。ムギのやり方をちゃんと見とけよ」
そんな会話を聞いて私は妙にこそばゆいような楽しい気持ちになるのでした。
ムギだなんて、私のことをそんな風に呼ぶ人、今まで一人もいなかったから。
……なんだか私だけ変にかしこまって遠慮してるのがバカみたい。
「ほんとだ、ムギちゃんキレーに塗るねえ」
「あのね、コツがあるの。ローラーをかける前に壁の汚れを落としてから……――」
――庭の雑草を刈り、くすんだ色の壁を綺麗に塗り替えただけで『さいはてのカフェ』は驚くほどすっきりして見えました。
窓のひび割れなど細かい所はまだ手をつけていませんが、少なくとも昨日のような廃墟めいた印象はありません。
その後、私たちは同じようにホテルの掃除に取り掛かりました。
律さんが少し飽き始めているのを澪さんがたしなめて、一方の唯ちゃんは楽しそうに作業に没頭しています。
埃を払い、廊下を水拭きし、それぞれの部屋の家具や照明を磨き、取り付けが悪いのを注意しながら窓ガラスの汚れを落としました。
壁に穴が開いていたりシミが残っている場所は唯ちゃんの提案で可愛らしいシールやポスターを貼ってごまかすことにしました。
外壁の誰が書いたか分からない落書きや黒ずんだ部分を消すためにペンキで上塗りしました。
そして夕方が近づき涼しい風が吹いてきた頃、私たちはようやく大方の掃除を終わらせました。
「おお……」
律さんが感動したような声を上げました。
こちらも細かい部分まで手が回らなかったので残った汚れはまだ目立ちますが、それでも昨日よりずっとホテルらしい建物になりました。
「ふぅ~……疲れちゃった~」
「私も~」
「なんだお前ら、体力ないなあ。まだまだ元気な私を見習いたまえ!」
「律が元気なのは後半ずっとサボってたからだろ!」
とうとう澪さんのゲンコツが炸裂。
そんな夫婦漫才をやっているのを横から眺めていると、ふいに視界にぴょこぴょこ動くものを見とめました。
「あっ、あずにゃーん! 何してんの、そんなとこで」
声をかけられてびっくりした梓ちゃんは逃げるようにカフェの方へ戻って行きました。
きっと様子を見にきたのでしょう。
なんだかんだ言って彼女も気になっているに違いありません。
いくら強情な梓ちゃんとはいえ、この見事なまでに立派になったホテルやカフェを見れば悪い気分はしないはずです。
私は唯ちゃんや律さんが協力してくれた事でそんな自信がむくむくと湧いてくるのでした。
「あとは看板だね」
唯ちゃんが思い出したように言うと、
「それは言わないでおこうと思ってたのに~」
「面倒くさいだけなんだろ」
「うん」
律さんはどうやら熱っぽく冷めやすい人のようです。
澪さんは責任感があって真面目。
「琴吹さん?」
「はい?」
「ほら、行こうよ」
ぼうっと考え事をしていると澪さんに声をかけられました。
唯ちゃんと律さんはもうカフェの方へ戻って行ってしまいました。
「ああ、今行きます。……それと、ムギでいいですよ」
「えっ?」
「私も澪ちゃんって呼んでいいかしら」
澪さん……いえ、澪ちゃんは豆鉄砲をくった鳩のように固まって、それからみるみる顔を赤くすると早足に向こうへ行ってしまいました。
恥ずかしがっているのか怒っているのかよく分かりません。
いきなり距離を詰めすぎちゃったかしら。
でも、なんだか人をからかってるみたいで楽しいかも……なんて思ったりして。
『さいはてのカフェ』と書かれた看板の掠れた文字を修復し、玄関扉の上に戻すとようやく今日一日の作業がすべて終わりました。
外観を整えるだけでも十分立派に見えましたが、この新しくなった看板を掲げることでお店もぐっと生き生きとして見えるような気がしました。
「なんてゆーか、達成感あるね」
「……ああ。ぶっちゃけさ、最初は本当に気まぐれだったんだよ。帰ってきたらいきなり店ん中が綺麗になってて、しかも客人が勝手にやったって言うからさ。なんかおもしれーって、暇つぶしのつもりで始めただけだったんだけど……」
「私らもあの環境に慣れちゃってたからな。これも紬さ……む、ムギが来てくれたおかげだよ」
そんな事を言いながら澪ちゃんは私から必死に目を逸らすので、私は笑いを堪えながら、
「お役に立てたようで何よりです」
「うん。疲れたけど、やって良かったねっ」
彼女たちがそれぞれどんな思いを抱いているのか私には量りかねますが、なんとなく、とても良いことをしたのではないかという嬉しさがこみ上げてくるのでした。
そうやって私たちが奇妙な感動に浸っていると、店から梓ちゃんが出てきて、
「ちょっと律先輩、頼んでおいた材料が違――」
「おーっ、ちょうど良い所に! ほら梓、こっち来て見てみろよ」
梓ちゃんは何か言いかけていたのを飲み込んで律さんに促されるまま店の正面を振り返りました。
「…………」
じっと見上げたまま黙ってしまいました。
そして私たちは梓ちゃんが何か言い出すのを待って静かに見守っていました。
太陽が沈み始めて辺りがどんどん暗くなり、店の明かりが『さいはてのカフェ』の文字を照らした時、私は梓ちゃんの目が微妙に潤んでいるのを見逃しませんでした。
「どうだ梓? これでも私たち結構頑張ったんだぜ」
「……まあ……悪くは……ないです」
「だろ? これならきっと憂ちゃんだって戻ってきて――」
律さんが言い終わる前に、
「ふんっ。知りませんよ、あんな人」
急に嫌なことを思い出したように顔をしかめて店に戻って行ってしまいました。
横で唯ちゃんが「あちゃー」と言い、続いて澪ちゃんが「このバカ……」とぼやき、そして律さんは「いつまで意地張ってんだか」と微妙に困ったように肩をすくめるのでした。
「あ、良い匂い~。今日の夕飯は何かな~」
唯ちゃんがお腹の虫を鳴らしながら店へ入って行きます。
それにしても梓ちゃん、名前を出しただけであそこまで拒絶するとは相当です。
その憂ちゃんというのが梓ちゃんと喧嘩別れした人なのでしょうか?
私はそんな憶測を働かせながら、あんまりこの話題は出さない方がいいのかもしれないと判断し、何も言わずにみんなの後についていくのでした。……
最終更新:2016年07月04日 19:17