◇ ◇ ◇
翌日、私は朝ごはんを食べ終わると町の散歩へ出かけました。
天気も良かったし、何より他にすることがなかったので面白いお店があればいいなと思いながら30分ほど散策してみたのですが、人もまばらな海水浴場と何の変哲もない民家がぽつぽつとあるだけで、どこを見渡しても面白そうなものが見当たらないのには少しがっかりしてしまいました。
とは言うものの、辺りは緑豊かな自然と深い青の海に囲まれていますから、そういう風景を楽しもうと思えばこれほどのんびりできる町もないような気がしました。
道の途中に売店があったので興味本位でひょっこりと覗いてみるとお菓子やおもちゃが雑然と並べられているのが目に入りました。
これが噂に聞く駄菓子屋という店なのでしょうか。
けれどよく見てみると文房具、雑誌、電気小物、衣料品なども陳列してあって、その統一感のない品揃えからするとこれは雑貨屋と呼ぶべきかもしれません。
奇妙ですが面白そうなお店です。
「いらっしゃい」
店員さんが(この場合は店番というのでしょうか)けだるそうに挨拶するのを簡単に会釈して返し、薄暗い中に敷き詰められた見たこともないお菓子をわくわくしながら物色していると、ふと私の興味をひきつけるものが目に留まりました。
ガラス製のティーポットです。
「あの、これください」
ティーポットと一緒に紅茶の茶葉と
その他いろいろな駄菓子をカゴに詰めて店員さんに声をかけました。
「はいはい……全部で400円ね」
私は聞き間違いかと思ってもう一度金額を尋ねたのですが、店員さんは面倒くさそうに「400円」と言って代金を催促するばかりです。
半信半疑で1000円札を出し、そしてきちんと600円お釣りが返ってきたのにはびっくりしました。
驚くべき安さです。消費税とかはないのでしょうか。
さて、思いがけず面白いお店を発見して満足した私はこのまま『さいはてのカフェ』に戻ることにしました。
たくさん買ったお菓子をひとつずつ味わいながら一人食べ歩く帰り道は妙に心が浮き立って、お行儀が悪いと分かっていてもこの幸福感には代えられないとさえ思うほどでした。
買い食いなんて生まれて初めてです。
戻ったら紅茶を淹れてお昼までゆっくり読書でもしようかしら。
そうしたら午後はもう一度散歩に出かけて……ああ、なんというめくるめく自由への招待、その胸の高鳴りと言ったら!
そんな調子で来た道を戻りホテルに到着したのですが、ふとカフェのお店の方が奇妙に騒がしいことに気が付いて足を止めました。
大勢の人の声が聞こえます。
りっちゃんや澪ちゃんたちが話しているのかと思いましたが、確か二人は今日夕方まで出かけに行っているはず。
(ちなみに私がりっちゃんと呼ぶようになったのは今朝の話です)
他に声の主に心当たりがありません……もしや暴漢や強盗が押し入っているのでは、なんて考えながら恐る恐るカフェへ近づいてみると、なんと知らないお客さんが数人、楽しそうに談笑しているではありませんか!
梓ちゃんの知り合いかしら?
しかしよく観察してみると一方は畑仕事の帰りのような中年男性が三人、一方は若い男女のカップルがそれぞれテーブル席に座っています。
どう考えても普通のお客さんでした。
しばらく窓からこっそり盗み見ていると、厨房では梓ちゃんが忙しそうに料理を作っていて、唯ちゃんはヨレヨレになったウェイトレスの制服を着て慣れない接客を頑張っていました。
しかもそうしている内にまたお客さんが来たのにはびっくりしました。
私が知らなかっただけで『さいはてのカフェ』はこの辺りでは人気店だったのでしょうか。
そんな事を考えていると、
「ムギちゃん! 良いところに!」
窓から覗いているのを唯ちゃんに見つかってしまい、
「ちょっと来て、こっちこっち……裏口から入れるから」
言われた通りに裏手のドアから入ると唯ちゃんがエプロンをおもむろに手渡して
「ごめんムギちゃん、しばらく変わって! すぐ戻ってくるから」
「え? え?」
「今から買い足しに行かなくちゃいけなくなったからその間だけ、ね? もぉ~っ、昨日りっちゃんが買うの間違えなければこんな事には……」
唯ちゃんは「お砂糖、ソース……あとなんだっけ……」とブツブツ呟きながら私が何か言う前に外へ飛び出して行ってしまいました。
事態が上手く飲み込めないまま突っ立っていると厨房から梓ちゃんがひょっこり顔を出して
「何ぼさっとしてるんですか、お客さん呼んでますよ!」
「は、はい!」
……結局その後、唯ちゃんが帰ってきてからもお客の足は途絶えず、私たちがお昼を食べられたのは午後も2時を過ぎてからでした。
「あ~お腹すいた……あずにゃんもこっち来て一緒に食べようよ」
「また誰か来たらどうするんですか」
「来たときにどうにかすればいいんだよ」
「……ちょっとだけですよ」
ひとまず客の居なくなった店内で唯ちゃんと一緒にテーブルにつきました。
梓ちゃんが三人分のパスタを運んで私の正面に座ります。
「いつもこんなにたくさんお客さんが来るんですか?」
「そんなわけないです。どうして急に……」
「やっぱり掃除して綺麗になったからじゃない?」と唯ちゃんがパスタをもぐもぐと口に入れながらしゃべります。
「それだけでこんなに繁盛したら世話ないですよ」
やはり梓ちゃんたちにとっても不測の事態だったようです。
「お客さん、美味しいって言ってましたよ。常連になるかもしれませんね」
「常連なんて唯先輩たちで十分ですから……」
言いながら少し嬉しそうに口元がゆるんでいるのでした。
そうやって彼女がちらりと覗かせた優しそうな表情は、私が彼女に対して抱いていた意地悪な印象をひっくり返して、元はきっと笑顔が素敵な可愛らしい少女だったろう事を予感させます。
それからしばらく三人で他愛の無いおしゃべりに興じました。
そして気づいたのは、梓ちゃんはもう私に対して警戒心や敵意などは抱いていないという事でした。
実際、食べ終わった後に「手伝ってもらったのでお代は結構です」とお皿を引き下げられ、それが彼女なりの義理なのか、あるいは感謝の気持ちなのか判断できませんでしたが、いずれにせよお店を手伝った事で以前ほど邪険にされずに済むようになりました。
三人ともお昼を食べ終わりおしゃべりしている間、私はふと午前中に買ったティーポットの事を思い出しました。
「紅茶、淹れましょうか?」
と言っておもむろに席を立つと、唯ちゃんが「ウチに紅茶なんてあったっけ?」と首をかしげます。
「さっきティーポットと茶葉を買ってきたんです。梓さん、ヤカンと火をお借りしてもいいですか?」
梓ちゃんは「別にいいですけど」とにべもない返事。
私はさっそくお湯を沸かしてガラス製のティーポットに茶葉を三人分用意しました。
特に強いこだわりがあるわけではないのですが、家ではよく自分で紅茶を淹れていたのです。
目分量でもある程度は美味しくできる自信がありました。
カップを温め、沸騰したお湯をポットに注いで3分ほど蒸らして出来上がりです。
本当なら私はここで茶葉を抜いてカップに注ぐのですが、今回はストレーナーが無いので仕方ありません。
とりあえず砂糖とミルクも用意して二人の待つテーブルに持って行きました。
唯ちゃんと梓ちゃんは最初こそなんでもないようにカップに口をつけたのですが、
一口目を飲んだ瞬間ぴくりと表情が変わり「美味しい……」と呟いたのには嬉しさで顔がニヤケてしまいそうになるほどでした。
まあ、私のちょっとした自慢といいますか、数少ない自尊心を満たすのに十分な言葉だったのです。
「こんな美味しいの初めて飲むかも。これ、なんていう紅茶なの?」
「ダージリンっていうの」
一方梓ちゃんは黙ったまま深く息を吐いて、それから味わうようにゆっくりと飲むのでした。
何も言わないけれど、気に入ってくれたのかな?
「ねえねえあずにゃん、これお店に出そうよ」
「…………」
唯ちゃんの唐突な提案を梓ちゃんは黙って聞いています。
私としてもそれは全く予期せぬ話だったのですが、自分の淹れた紅茶がきっかけでメニューが増えるという想像はとてもわくわくするものでした。
梓ちゃんは何か考え事をするようにじっとしています。
私はなんだか試されているような気分でした。
「……コーヒーと違って作るのに手間がかかるのがネックです」
「私がやりますから大丈夫ですよ」
即答してから、これじゃまるで私が働きに来たみたいだと一人複雑な心境になるのでした。
「それだと歩合給になりますけど、いいんですか?」
まさかお給料まで貰えるとは思っていなかったので、一瞬梓ちゃんが何のことを言っているか理解するのに時間がかかりました。
私は呆けたように「はい」とだけ返事して、
「ならメニュー表に加えておくです。えっと……こ、琴吹さんが居るとき限定の裏メニューとして」
後になって考えてみると、たかだか紅茶を一、二杯作る程度の手間を惜しむのも少し変な話でした。
このときの私は梓ちゃんに認めてもらった気で舞い上がっていたのですが、実はただ単に上手く乗せられただけだったのではないでしょうか。
とは言っても私は働くことについて抵抗はありませんでしたし、むしろ一任してくれるのならやりがいがあるというものです。
私はさっそくメニュー表の隅っこに「期間限定:紅茶(ダージリン)」と書き添えて(なぜか唯ちゃんもハートや花模様を書き足しました)
お客さんが来るまでの間、昨日やらずじまいだった厨房の掃除をして時間をつぶしていました。
そうやって子供のようにはしゃぐ私と唯ちゃんでしたが、それを見ても梓ちゃんは何も言わないのでした。
夕方、りっちゃんたちが帰ってくる頃になると再びちらほらとお客が来るようになりました。
見慣れない光景にりっちゃんも驚いた様子で「何があったんだ?」と私に耳打ちしましたが、私は肩をすくめて返事をする他ありませんでした。
お昼の時はなんの準備もしていなかったのでてんやわんやでしたが、夕飯時は梓ちゃんも唯ちゃんも余裕をもって動けるようになっていました。
私はカウンター席の隅に座って、誰か裏メニューに気づいてくれないかしらとそわそわしながらお客さんの方を見ていました。
結局、私の紅茶を初めて注文してくれたのはりっちゃんと澪ちゃんでした。
「なんだ? この期間限定って」
「それムギちゃんの特製紅茶なんだよ」
「へ~、じゃあ私はボンゴレロッソと、その紅茶ね」
「あ、私もそれで」
唯ちゃんが伝票を持って私に伝えてきてくれた所で、
「唯ちゃん、食前か食後か聞かなきゃ」
「ああ、そっか」
そんなわけで食後に私特製の(と言うのはやや大げさですが)紅茶を持っていくと二人とも美味しいと言ってくれて私はホッとした気持ちでした。
今日はそれ以外にもとある老夫婦のお客さんが注文してくれて、こちらは直接感想など聞けませんでしたが遠巻きに様子を伺った限りでは好評のようでした。
家では私が何をしても大抵の事は褒められましたし、私自身も褒められる事に慣れていた節がありました。
しかし今、周りに身内のいない見ず知らずの環境でこうして実力が認められるというのは何にも代えがたい新鮮な感動がありました。
私はにわかに楽しくなって、その日の夜、梓ちゃんにブランドものの茶葉を取り寄せられないか相談してみることにしました。
その話をもちかけた時、梓ちゃんはかなり渋い顔をして「むむむ……」と唸ってから考えるように腕を組むのでした。
深夜、ひっそりと静まり返った店内の隅っこのテーブルで向かい合って座りながら。
「……簡単に言いますけどね。ウチだって予算とか都合が色々あるんですよ」
「それは分かりますけど……」
「聞いてみたらずいぶん高級なブランド品じゃないですか。赤字になったらどうするんですか?」
ぐうの音も出ません。
梓ちゃんは続けて言います。
「別にブランドじゃなくったっていいじゃないですか……今のままでも十分おいしいですよ」
あれ? これってもしかして褒められてる?
「梓ちゃん、今なんて……」
すると自分の言った事に気づいたのか急に慌て始めて、
「べ、別にそういう意味で言ったわけじゃなくて……ていうか梓"ちゃん"って何ですか馴れ馴れしい!」
私はつい口を抑えましたが時すでに遅く、梓ちゃんは今ので怒ってしまったみたいです。
「いいですか! 私より年上だからと好い気になってるみたいですが、ここでは私の方が立場は上なんですからね! それと今日はあなたの善意を汲んで許可してあげたって事を忘れないでください!」
私はしゅんとなって「はい……でしゃばってすみませんでした」と素直に謝りました。
梓ちゃんはそれから何かぐっと言いたい事を堪えるようなしぐさをして、
「……っ、ただ、まあ……その……ほどほどに安い銘柄なら、仕入れても……い、良いけど……」
ぼそぼそと小さくなっていく声を私は聞き逃しませんでした。
「本当?」
「……ふ、ふんっ。勝手にしやがれです」
はき捨てるように言って席を立ってしまいました。
お店を閉める後片付けをするみたいです。
私はすごすごと引き下がり、ホテルの部屋へ戻りました。
半日働いて疲れた体をどさりとベッドに放り投げてから、枕に顔を埋めて
(また梓ちゃんに嫌われちゃったかなあ)
なんて考えて憂鬱な気分になったり、一方では
(みんな美味しいって言ってくれた、あの梓ちゃんも)
と嬉しくなったりして、面白いんだか面白くないんだか分からないような気持ちを上手く心に留めておけずに足をパタパタと動かして悶々とするのでした。
◇ ◇ ◇
『さいはてのカフェ』は日増しに客足が伸びて行きました。
時間帯によってはテーブル席が全部埋まってしまうほどで、そんな時はりっちゃんや澪ちゃんもアルバイトに駆り出されたりして私が初めてこのカフェに来た頃とは比べ物にならないくらい活気に満ち溢れたお店になりました。
なぜ急にこんなにお客さんが来るようになったのか、その理由ははっきりとは分かりませんでしたが、少なくともカフェそのものが綺麗になった事が大きく関係しているのは間違いないと思われました。
また町を少しずつ探索していくうちに知ったのですが、この辺りには飲食店がほとんど無いのです。
『さいはてのカフェ』は立地こそあまり良くありませんでしたが、遠くからでも比較的目立つ建物だったので、以前の廃屋のような風貌ならともかく今のようにきちんとお店として営業していると分かれば寄ってみようと考える人がいても不自然ではありません。
そして、そういった最初のお客さんたちから口コミで評判が広がり、こうして人が集まるに至った……そう考えるのが妥当でしょう。
またそれに伴って私の期間限定の裏メニューも注文する人が増え、今では紅茶だけを飲みに来る人もいるほどでした。
唯ちゃんには「全部ムギちゃんのおかげだね」なんて言われたりもするのですが、私もさすがにそこまで自惚れていません。
実際には梓ちゃんの作る料理が美味しいおかげなんだと思います。
まあそうは言っても、私も漫然と働いているだけではありませんでした。
できる範囲で茶葉の種類や道具をそろえ、お客さんと簡単にお話して好みの味を把握したり、カフェの一員としてきちんと役割を果たしているつもりです。
ある時などは淹れ方を教えてほしいと頼まれ、梓ちゃんの許可もありお客さん数人を相手に給茶を実践してみせたりしました。
それがまた好評だったようで、それ以来要望があると即席の紅茶教室が開かれたりするのでした。
こういう事が続くようだと私もあまり無責任ではいられないと思い、仕事以外の時間にも一人でお茶の勉強をするようになりました。
一応唯ちゃんや澪ちゃんにもレクチャーしたので、私が居ない時でもちゃんとしたお茶が出せるようにはなっていたのですが、ここに来る人はだいたい(唯ちゃんたちも含めて)私の紅茶を飲みたがるので結局仕事量は変わりませんでした。
ある日、休憩していた時のことでした。
りっちゃんが梓ちゃんと唯ちゃんに何やら相談していたのでなんとなく近くで聞き耳を立てていると、どうやら明日重要な用事があるから店を手伝えないという話のようでした。
「りっちゃん、明日どこか行くの?」
「ん? ああ、ちょっとな」
照れくさそうに頭を掻いています。
唯ちゃんが代わりに答えました。
「りっちゃんは明日面接があるんだよ」
「面接?」
聞くと、りっちゃんはここ最近はずっと就職活動をしていたそうなのです。
確かに普段日中は姿を見せない事が多かったので、何か別のお仕事をしてるのかなあ、とぼんやり勘繰っていたのですが、就職活動だったとは知りませんでした。
「ま、言ってなかったからな」
「一世一代の大勝負だね!」
「んな大げさな……」
「私も応援する! がんばって、りっちゃん!」
りっちゃんは珍しく気弱そうに「あんまり期待しないでくれよな」なんて半笑いしてましたが、あの梓ちゃんにまで「頑張ってください」と応援されたので覚悟を決めたように「おう!」と言い切りました。
「協力してくれた澪先輩のためにも受からなきゃだめですよ」
「そうなんだよなあ。まあアイツもアイツで頑張ってるみたいだし、私も負けてらんねーな」
彼女たちにも色々と事情があるみたいです。
気にならないといえば嘘になりますが、これまで彼女たちが私に対して余計な詮索をしなかったように、私もまた彼女たちの過去や経歴を探るような真似はなるべく止しておこうと考えていたので、この時も聞き流すだけにしておいたのです。
しかしどの道、こうした配慮には意味がありませんでした。
なぜなら私が聞きだすまでもなく彼女たちの方から自然と打ち明けてくれたのですから。
その日の夜、私はりっちゃんの部屋で彼女と二人きりになっていました。
たまたま廊下で通りすがったところを呼び止められて、
「あのさムギ、ちょっと時間いいか?」と改まったように部屋に誘われたのです。
彼女の部屋は物が少なくてさっぱりしていました。
元々彼女はあまりホテルを利用しておらず普通の宿泊客としてたまに部屋を借りるくらいだったので(むしろ唯ちゃんや澪ちゃんのように住み込んでいるのが変なのですが)こうして整然としているのは不思議ではありません。
そしてりっちゃんはベランダの籐椅子に私を座らせると、しばらくしてティーカップを二つ、紅茶を注いで持ってくるのでした。
「私も紅茶淹れてみたんだ。一緒に飲もうぜ」
「いいけど……明日早いんじゃない? 大丈夫?」
私の言葉を無視して自分の紅茶を啜り始めました。
それに促されて私も一口飲みます。少し酸味の強いアールグレイでした。
「味、どうだ?」
私はどういう感想を求められているのか分からず、ただ「おいしいよ」とだけ答えました。
「そうか……でもやっぱりムギの淹れてくれるお茶の方がおいしいな」
ベランダから見える夜の海をぼんやり眺めながらそう言うのでした。
「紅茶なんて上品なもん、ガラじゃねーなって思ってたけどさ。でもムギが作ってくれたのを飲むようになって、こういうのも悪くないよなって思い始めたんだ。それに最近自分で淹れるようになって分かったんだよ。私たちに必要だったのは、こういう時間だったんだなって」
私は紅茶を飲みながら黙ってそれを聞いていました。
「色々行き詰まってたんだよ。私なんかはずっと前から家族とか澪に甘えっぱなしでさ。適当にバイトして楽しく暮らしてればいいじゃんって思ってて、でも実際、そういう生活はあんまり楽しくなかったんだよな。張り合いがなくってなあ。刺激がないっていうか……ムギはそういう経験したことないか?」
「う~ん……」
私にはいまいち分かりませんでした。
ただ、この町での生活は私にとっては刺激的なものに違いありませんでした。
そう考えると、これまで深く省みる事がなかった私の人生は大半が味気ないものだったように思われてきました。
「なんか焦ってたんだろうな。何かしないとヤバイ! みたいなのがずーっと頭ん中にあって、そういうのをごまかしながら暮らしてたから、のんびり人生を楽しんでるつもりが全然そうじゃなかったっていうか……だから一回ゆっくり自分を見つめなおす時間が必要だったんだと思う。梓が音楽やめて、それに引きずられるみたいに私も澪も腐っちまって……唯と憂ちゃんだけは梓のことをずっと待ってあげてたんだけどなあ」
「音楽?」
「言ってなかったっけ? 私たちバンド組んでたんだよ。まあ案の定全然売れなくて解散してさ。それから私とか澪はバイトして日銭稼いで、梓はこの店を立ち上げたってわけ」
「そうだったの……」
「まあ正確に言うと、梓じゃなくて唯の妹の憂ちゃんが立ち上げたようなもんなんだけどな。それからまた色々あってさ……」
……りっちゃんの話を要約すると、つまりこういう事でした。
梓ちゃんも最初は音楽の道を諦めきれずにカフェで演奏したりしていたのですが次第にそれも止めてしまい、いつしかそんな失意が重なってやさぐれるようになってしまったのです。
まじめな憂ちゃんは梓ちゃんを放っておけず色々と世話を焼いたそうなのですが、それがかえって梓ちゃんとの間に摩擦を生んで行きました。
一方は自堕落な生活を望み、一方はその折れた心を矯正しようとしたので、すれ違いから喧嘩になることもしばしばでした。
そして唯ちゃんが梓ちゃんの肩を持った事が決定打になり憂ちゃんが店を出て行くことになってしまったのです。
元々唯ちゃんは二人の間をずっと取り持っていたのですが、一緒にバンドを組んでいた関係もあって梓ちゃんに対する同情は大きかったのでしょう。
「まあ誰が悪いかっつったら梓なんだろうけど、私たちもあんまりアイツのことを悪く言えなくてな……こんな風になっちまったのは私たちにも責任があるっていうか……」
りっちゃんはそれ以上は言いませんでした。
きっと彼女たちの心には言葉では表せないような想いが積み重なっているのだと思いました。
部外者である私が踏み込めるのはここまでです。
でも、
「変われると思うわ。梓ちゃんも、それからりっちゃんたちも」
「そうかな……」
「きっとそうよ」
私がそう断言すると、りっちゃんは元気を取り戻したようにニカッと笑うのでした。
「ムギの言う通りだな。澪のヤツも最近ちょっと明るくなったし」
確かに、この数日で澪ちゃんは表情が明るくなったような気がします。
相変わらず窓際でぼうっとしていたりする事があるのですが、それ以外はよくしゃべるようになりました。
「澪が普段なにやってるか知りたいか? あいつ小説家を目指してるんだよ」
私は思わず「えっ」と言ってしまいました。
別に変な意味ではありません。ただちょっと驚いただけです。
「バンドやってた頃は澪が作詩してたんだけど、続けてたらなんか物書きにハマっちゃったみたいでさ。四六時中ボーッとしてるように見えるのは、妄想力を高めるためなんだと」
「小説家だなんて、すごい」
「少し前はここで働きつつちらほら賞なんかにも応募してたんだけど、まあ梓とおんなじだよ。夢を追うのに疲れて筆を折ったって言ってたのに、最近になってまた書き始めてさ。元々夢を捨て切れてなかったんだな」
言われてみれば、澪ちゃんの物静かな佇まいや思慮深げな眼差しはいかにもな小説家らしさがある気がします。
「ちなみに今書いてる小説のモデルはムギだって」
「ええっ!?」
それはさすがに予想外でした。
「あ、これ秘密にしとけって言われたんだっけ。まあいっか」
りっちゃんは豪快に笑い飛ばしていましたが私はどういう顔をすればいいか分からず曖昧な笑みを浮かべるのでした。
しばらく私たちは他愛も無い会話を楽しみました。
私も昔ピアノをやっていて……と言うと音楽の話題で盛り上がり、それから好きな映画や小説の話になり、かと思うとまた唯ちゃんたちの話に戻ったり……
そして気づくと夜もすっかり更けてしまっているのでした。
「ごめんなさい、明日は大事な日なのに……」
「気にすんなって」
私は焦れったいように「頑張ってね」と「おやすみ」を交互に繰り返して部屋を後にすると、なんとなく自室に戻る気がおきずホテルの小さなロビーへ足を運びました。
古びたカーペットに染み付いた匂いが今はなんだか心地よく感じられました。
ここに泊まってまだ日は浅いのに、まるで昔から住んでいる我が家のように思われてくるから不思議です。
そうして妙に冴えてしまった頭を休めようと椅子に座って自販機のジュースを飲んでいた時でした。
海風のうねりにまぎれて遠くからかすかに物音が聞こえるのです。
なんだろうと思って耳を澄ませてみると、それはアコースティックギターの音色でした。
優しいメロディが生ぬるい空気に溶け込むように響いています。
私はしばらくそのギターの奏でる音に聞き入っていました。
……たとえ彼女が自分の思い描いていた夢を諦めて道を見失ったとしても、その演奏をよろこんで聴いてくれる人はきっと居るはずなのです。
静かだけれど情熱的で、そしてどこか懐かしい感じのする旋律は、不器用な性格の内側に隠された気持ちを何よりも素直に語っているように思われました。……
次の日の夜も私はもしかしたらと期待してロビーへ行くと、やはり昨日と同じようにギターの音色が聞こえてくるのでした。
改めて耳を澄ましてみるとお店の方から鳴っているのが分かりました。
このホテルは『さいはてのカフェ』と繋がっており、ロビーにはその通路へと続く扉があるのですが、ギターの音はその扉から洩れているようでした。
私は特に深い考えもなしにその扉を開け、通路の奥、ほんのり照明が灯っている部屋へそろそろと歩いて行きました。
しかし途中、暗がりの中を手探りで進んでいたものですから足元の荷物に躓いて予期せず大きな音を出してしまい、あっと思うが早いかギターの音がぴたりと止んでしまいました。
「だれっ!?」
「ご、ごめんなさい……音が聞こえたから、つい……」
梓ちゃんは私の姿を認めるとホッとしたように息をつき、それから慌てて手に持っていたギターを隠しました。
彼女はいつもそうやって一方的に気まずい空気を作り出そうとする。私にはそれが悲しかった。
でも今なら分かります。
梓ちゃんは寂しがっているだけなのです。
彼女の心を覆っている頑なな皮膜はもう溶けかかっている。
その決壊を唯一食い止めているのは彼女の心に住まう後悔と罪悪感なのです。
私は憂ちゃんの代わりにはなれません。
けれど、梓ちゃんの助けを求めるような悲痛な表情を無視することはできませんでした。
「ギター、お上手なんですね」
「…………」
「……なんていう曲ですか?」
彼女はバツが悪そうに俯いたまま、
「曲名は……まだ、ないです」
「もう一度、聞かせてくれませんか?」
「…………」
彼女はしばらく何かを考えるように遠くを見つめて逡巡している様子でした。
それから決意したようにぐっとギターを寄せて弾き始めました。
弦を爪弾く彼女の指は可愛らしく、それでいて力強く。
思わず口ずさみたくなる素敵なメロディ、楽しげに弾むようなリズム……優しさと郷愁が詰まったような曲でした。
演奏が終わると彼女はどこか吹っ切れたような爽やかな表情を見せて、こう言いました。
「……琴吹さんならこの曲になんて名前をつけますか?」
「え? う~ん、そうですね……」
難しい質問です。
けれど私はすぐにぴったりな名前を思いつきました。
それはもしかすると私がこの町に、この店に来た時から決まっていた曲名なのかもしれません。
そう、私たちの奇妙で素敵な出会いに名前を付けるとしたら……
「……『海の見える町』」
私がそう答えると、梓ちゃんは想いを馳せるようにぼうっと天井を仰いで、それから私ににっこりと笑いかけました。
初めて見る彼女の心からの笑顔でした。
私も思わず嬉しくなって、
「アンコール。私、もっと梓ちゃんの演奏が聞きたいな」
梓ちゃんは少し恥ずかしそうにはにかんで、それ以外の色々な持ち曲を聞かせてくれました。
夜は二人きりの部屋、私と梓ちゃんだけの小さなライブハウス。
彼女は思い出を紡いでいくように、そしてこれからの彼女を祝福するように演奏を続けました。
やっと、彼女の心に触れることができたような気がしました。
最終更新:2016年07月04日 19:18