……
………
…………
……………

いつの間にか、気がつくとわたしはすでに布団の中だった。
ふっかふかの羽毛布団の中。

入浴中。憂は普段と変わらない様子でわたしに笑いかけてくれていた。
けど、言葉が頭に入ってこない。会話の内容はぼんやりとしか記憶にない。
覚えているのは…もうもうと浴室に立ち込める湯気。
その合間に時折見える、刺すような憂の視線。
声とは反対に凍りつくような視線。
思い出すだけで身体が震える。

梓ちゃん、寒い? もうちょっと熱くしようか?
ううん、そんなことない! 大丈夫っ! ちょうどいいよ!
またまたぁ~遠慮しないでいいんだよ!
ぴぴぴぴぴっ。
43、44、45………上がり続けるデジタル数字の表記。
ごぼごぼごぼー、と威勢良く沸き立つ湯船。
鏡を見なくても自分の顔が赤くなってることがわかる。
呼吸があらい。こめかみから滴る汗が止まらない。
うわぁあずさちゃん。汗いっぱいだね!
いい汗をいっぱいかいて、新陳代謝をよくするのが美容の秘訣なんだよー。

たのしそうな憂の声が遠い。

そう、汗をかくのは美容の秘訣…わたしがきれいになったら、唯先輩よろこんでくれるかな?

…デトックス…美容…唯先輩のために…きれいになる…汗をかく…あつい……これはデトックス……もうろうとする……………唯先輩………うい………………






憂「目、覚めた?」

梓「………あ、うん」

やわらかい風がやんだ。
湯あたりしてたおれてたのか。
首を倒すと亀のぬいぐるみが見えた。
ということはここは憂の部屋だ。

うちわをあおぐ手を止めた憂が、枕元に置いてあったコップを手に取り、わたしへ差し出した。
上体を起こして受け取ると、一気に飲み干す。
おかわり、あるよ。プラスチック製の透明ボトルを揺らしながら、空のコップに麦茶を注いでくれた。
ベッドサイドのランプが、暗闇をほのかに照らす。憂はやさしく微笑んでいた。いつもの憂だった。


梓「…唯先輩は?」

憂「おねえちゃん? 自分の部屋で寝てるんじゃないかな」

ベッドの横、フローリングの上に布団が敷かれている。

梓「ごめんね、ベッド取っちゃって」

軽く頭をさげると、

憂「いいよ、梓ちゃん、お客様なんだから」

笑って憂は答えた。

静かな夜の中に針の音が響く。時計の針はもうすぐ頂点で重なろうとしていた。

憂「もう遅いから、寝ようよ」

梓「………うん」

ぱちん。憂がランプを消した。




憂「…………………」

梓「…………………」


憂「…………………」



梓「…………………」




憂「…………………」





梓「…………………」






憂「…………………」







ブイーンブイーン
梓「…」ガバッ

憂「…………………」


憂「おねえちゃんから?」

梓「……うん」

憂「誕生日おめでと」

梓「………ありがと」

憂「ねぇ、梓ちゃん」

梓「……なに」ポチポチ

憂「あっ、いいよ。返事打ち終わってからで」

梓「ん。もう送った。大丈夫」

憂「そっか」

憂「…あのさ」

梓「…どしたの」

憂「嫌いになった? わたしのこと」

梓「えっ」

憂「だからさ、わたしのこと、嫌いになった、でしょ?」

梓「………うい?」

憂「なるよねー、あれだけおねえちゃんとのこと露骨にジャマしたんだもんねー。いまさらなに言ってんの?ってかんじかぁー」

梓「いや…べつに…そんなことないけど…」

憂「うそ」

梓「うそじゃないよ。それならわたしだって…嫌われたかと思った」

憂「どうして?」

梓「そんなの当たり前じゃん。だってわたし…唯先輩と……」

憂「まぁね。それはそうだね」

梓「うっ…わかっててもはっきり言われるとツライね…」アハハ

憂「ん。嫌いじゃないよ。わたしが梓ちゃんのこと嫌いになるわけないじゃん」

梓「え、…そうなの?」

憂「決まってるよ。そんなの」

憂「ねぇ梓ちゃん。姉妹、ってふしぎだと思わない?」

憂「子供の頃からずっと一緒にいてさ、どんなときもそばにいて、とってもたのしくて、しあわせなのに、
  ずっとこのままでいたい、って思ってるのに、いつか別々になっちゃうのが“普通”なんてね」

一段下のところで身体を横たえた憂の表情はわからない。
暗闇にひとつひとつ言葉が浮かんでは、消えていく。

憂「すっごく好きで、これからも一緒にいたい、って思っても、いつかは離れ離れになるのが“普通”なんだよ。みんなそう思ってる。
  おねえちゃんだって」

憂「当たり前のことなんだよ。普通のことなの。
  いつかおねえちゃんにわたし以外に好きな人ができるなんて。
  むしろおめでたいことなんだよ。わかってるんだ。
  それが梓ちゃんで、わたし、すごくうれしい。ううん。うそじゃない、うそじゃないよ。本当だよ? ほんとうのほんとう。

  わたしが梓ちゃんのこと恨むなんておかしい。まちがってる」


ごめんね。


最後にそう言って、憂はすっかり黙ってしまった。



寝ちゃったのかな。

わたしは、というとすっかり目が冴えてしまって(さっきまで寝てたせいもあるかもしれない)、ちっとも寝付けやしなかった。

寝なきゃ。

目を閉じる。
すると、瞼の裏に唯先輩が現れた。よくできた幻だ。
幻は次第に輪郭があいまいになり、だんだんと姿を変え、憂になってゆく。
しばらくして完全に憂になると、ふたたび変化をはじめ、そのうち唯先輩に戻る。
唯先輩、憂、唯先輩、憂、唯先輩、憂、唯先輩、憂、唯先輩、憂、唯先輩、憂、唯先輩、憂、唯先輩、憂、唯先輩、憂……………

瞬間接着剤でもつけられたように、瞼が固まって開かない。

唯先輩はまた憂になり、憂は唯先輩になり、そしてまた……永遠に続くかのような変身を繰り返すうちに、ふたりは混じり出す。

どっちがどっちかわからなくなった幻は、しまいにそのどちらでもないまっくろくろの塊になり、わたしにのしかかった。ずしり。



ぎゃあ!



わたしは声をあげて飛び起きた。


窓の外からはりんりんと、虫の音が聴こえる。
額を流れる汗を拭う。前髪が張り付いて気色悪い。

瞼を閉じた憂は、静かに寝息を立てていた。






 ブイーンブイーン

ケータイが鳴った。

憂「……出なよ」

梓「……起きてたの?」

憂「眠れなくて」

梓「わたしも」

憂「…おねえちゃん、なんて?」

梓「…唯先輩も、眠れないんだって」

憂「…梓ちゃん、提案なんだけど」

梓「…なに」

憂「わたし、このまま眠れそうにないの。だからいっそのこと、お散歩いかない? 夜のお散歩」

梓「……じゃあわたしからも提案」

憂「なに?」

梓「唯先輩抜きでいかない?」

憂「いいね♪ おねえちゃんにナイショでいっちゃおっか?」

いこういこう♪

わたしたちは笑いを噛み殺しつつ起き上がって素早く着替えると、音を立てないよう静かにドアを開き(なんてったって起きてる唯先輩に感づかれちゃいけない。ふたりっきりでナイショのお散歩なのだから)、抜き足差し足、家を出た。




17歳になって、はじめての夜。
半分に満たない月が空に浮かんでいる。
秋の夜の冷気が肌を刺す。
隣に並んで歩く憂がわたしの手を握る。わたしも握り返す。
このあいだまであんなに暑かったのにね、と憂が笑う。
そうだよ、先週なんてジャケット着てるのも暑いくらいだったのに、わたしも笑う。
今週からはマフラーしてる子増えたもんね、と憂。
純なんて寒がりだから、10月中からコート着てたよ、とわたし。

憂「そっか」

梓「…どうしたの?」 

憂「おねえちゃんと梓ちゃん。今は同い年、なんだね」

梓「二週間そこそこだけだよ」

憂「それでもいいじゃない。ちょっとの間だけでも」

追いつけるなら。
そう言った憂の口から白い息が溢れて、暗闇に消えていく。


松ヶ崎の橋を渡り終えると、踏切の向こうにコンビニの明かりが見えた。
あそこでなにかおかしとあったかいものでも買って、帰ろうか。 

憂「梓ちゃん。ひとつお願いがあるの」

梓「どうしたの。まさかに財布忘れた?」 

憂「ううん。持ってきた」

そりゃ憂がそんなヘマをするわけない。唯先輩ならともかく。
唯先輩、どうしてるかな。寝てるかな、起きてるかな。メール、まだ送ってくれてるのかな。ケータイ置いてきちゃったからわかんないや。

点滅する真夜中の黄信号。
車も来ていないというのに横断歩道の手前で立ち止まり左右を確認してしまうのはこびりついた習慣のせい。

憂「いますぐ家に戻って。おねえちゃんのところへ行ってあげて。きっとまだ起きてるから」

梓「…急になに言い出すの」

憂「いいからはやく」

梓「そんなこと…じゃあ憂はどうするの?」

憂「わたしは…朝が来るまで外にいる。散歩してる」

梓「バカなこと言わないでよ、カゼひくよ」

憂「バカじゃないよ。おねえちゃんをひとりにして、わたしとこんなとこにいる梓ちゃんのほうがバカだよ」

梓「ちがうよ。バカは憂だよ」

憂「梓ちゃんのバカ!」

梓「憂のバカ!」

梓「……わたし、帰らないからね。憂と一緒にそこのコンビニに行って、おかしとホットミルクティー買うまでは」

憂「じゃあ、コンビニまで一緒にいくよ。そのあとはひとりで帰って」

梓「ヤダ」

憂「……どうして。気を利かせてあげる、って言ってるのに!」

梓「そんな風に気を利かせてくれてもぜんっっぜんうれしくない。
  そんなじゃ憂に勝った気がしない」

憂「なに……勝つとか負けるとか」

梓「ヤなの…憂がわたしのこと…わたしと唯先輩のことにちゃんと納得してくれてないのが、すっごくヤなの。
  だから……勝つとか負けるとか…そういう風に言うのは違うかもだけど…ちゃんと認めてもらいたい」

憂「…………」

憂「そんなの…無理だよ。もしかしたらわたし、一生しぬまでおねえちゃんと梓ちゃんのこと、認めないかもしれないよ?」

梓「うぅ…いっしょうかぁ…思ってた以上にきびしいね……ハハ。でもそれくらいのほうが、憂っぽいかも」

憂「わたしっぽいって?」

梓「おねえちゃんのこと、だいすきなんでしょ?」

いいんじゃない。それで。

憂「梓ちゃんって、」

梓「?」

憂「思ってたよりバカだね」クス

梓「なっ…」

そう言っていたずらっぽく笑うと憂は駆け出した。
白み始めて紫がかった夜の端へ、ポニーテールを揺らしながら。
わたしも慌てて追いかけていく。新聞配達のバイクがわたしたちを追い越していった。

汗、かいちゃったね。
と、静かに玄関の扉を閉めながら憂が言った。

憂「いっしょにシャワー、浴びよっか?」

ううん。いいや、わたしは笑って首を振る。
昨日の夜みたいな思いをするのはもうこりごりだ。

憂「じゃあわたしもやめる」

梓「いいよ。浴びて来なよ」

憂「ううん、いいの。かえって湯冷めしちゃいそうだし」

梓「そっか。そだね」

憂「…なんか眠くなってきた」

梓「…わたしも」

憂「今寝て、いつもの時間に起きれるかな……」

梓「わたしムリ。絶対起きられないと思う」

憂「うぅ……でもずっと起きてるのも…ムリそう…」

梓「ファ~…わたしも……」

ソファに腰掛けた途端、ぐぐっと身体が沈み込み、意識が朦朧としていく。

憂「………………学校、サボっちゃおっか」

梓「……いい…かもね」

憂の頭ががくんがくんと前後にかしいでいる。

梓「お互い……、母親のフリして…学校に電話…してさ。“娘は熱がでまして…”ってね」

憂「いいね。でも学校はじまる時間まで起きてる自信、ないかも……」

梓「そだね……それも…そうだ………ね……………」

だめだ………意識がとぎれそう。

ねえ。

……。

ねえ、あずさちゃん。

…なに。

おねがいがあるの。

また? へんなこと言わないでよ。

言わないよ。だから聞いて。

ほんとにへんなことじゃないんだよね。

梓ちゃん、しつこい子はおねえちゃんに嫌われるよ?

…それはやだ。

じゃあ聞いて。

うん。

もうちょっとの間だけ、お姉ちゃんと一緒にいさせて。

…そんなの、わたしが許可するようなことじゃないよ。

…ううん。梓ちゃんに認めてほしいの。

…わかった。

…それともう一つ。

…まだあるの?

…おねがい。

…いいよ。

おねえちゃんには、言わないで。わたしが言ったこと。

憂が言ったこと?

うん、わたしが言ったこと、ぜんぶ。

…。

約束して。

できない。

どうして?

だって…

だって?

もう全部忘れちゃったんだもん。

…。

…。

…ありがと。梓ちゃん。









……
………
…………
……………


ぐらぐらと身体を揺すられて目を覚ました。




ちょこん、とわたしの隣に腰掛けた唯先輩が、“まちかど情報室”に熱心な視線を向けている。
唯先輩はもうすでに制服に着替えており、前のめりの姿勢で液晶画面にかじりついていた。どれだけ夢中なんですか。
痛んでしまった包丁を研ぐなら…うんぬん。アナウンサーの説明に集中した様子の唯先輩がうんうんと頷く。内容、わかってるんだろうか。
唯先輩、こういう生活雑貨に興味あったんだ。…うそでしょ。憂じゃあるまいし。憂?

左右に視線をうごかす。
憂はどこにもいなかった。


頬を両手に乗せた唯先輩の視線は変わらずテレビに釘付けだ。
わたしもつられてテレビに視線を向けてみる。…どうにも興味を持てない。わたしの生活に必要性を感じないのだ。別にいいじゃん。痛んだら新しいの買えばいいのに。
いやでも…簡単にほいほい買い換えるのってどうなんだろう。昔からつかってるものを大切に…番組内容から離れてそう思っているうちにうつらうつらとしはじめて、ガッと肩を掴まれた。

唯「あずにゃんおはよ」

梓「……起きてたんですね」

唯「ううん。正確に言うと寝てない」

梓「……眠くないんですか」

唯「うーん。なんかもう、眠気のピーク過ぎたみたい。むしろ逆にテンション高いよ! だからなに見てもちょうおもしろい!」

梓「………ああそれで」

唯「ほらほら、ご飯たべよ」

リビングにはトーストの焼ける香ばしい匂いが漂っている。
唯先輩はわたしを両脇から抱えるように持ち上げて立ち上がらせると、ズルズル引きずるようにしてテーブルまで連れていく。
テーブルには少し黄身の崩れた目玉焼きに、片側が黒くこげたウインナー、半分にカットされた食パン、忘れちゃいけない昨日のカレー。

これ、唯先輩がひとりでつくってくれたんですか?
えへへ、まあね。
憂の分は?
わたしがリビングに来た時にはもういなかったんだ。
…そうですか。

唯先輩は両手を合わせ、“いただきます”とおおきな声を出した。
わたしも両手を合わせ、“いただきます”とちいさく呟いた。

やっぱり憂はどこにもいなかった。

梓「………」モグモグ

唯「………」モグモグ

梓「………」モグモグ

唯「………」モグモグ

パチン、と音がして、ティファールが沸騰を告げた。
あずにゃん、なに飲む? ホットミルクティーでいい?
はい、大丈夫です。おねがいします。

梓「あの…唯先輩」

唯「…ん、なぁに」

昨日の夜、わたしが憂と散歩したのは現実だったんだろうか。
憂と、夜に話したこと。一緒にお風呂に入ったこと。そもそも、昨日憂は家に帰ってきてた?
どこまでが夢で、どこまでが現実かわからない。

梓「憂のこと、好きですか?」

唯「あったりまえじゃん」

唯先輩は勝ち誇ったようにピースを作り、歯をむき出しにして笑った。歯と歯の間に、ウインナーの切れ端が挟まっているの見えた。

梓「大事にしてあげてくださいね」

唯「もっちろん。大事にしてるよぉ」

唯先輩がマグカップにお湯を注ぐ。
ティーバッグを揺らすたび紅色が広がり、みるみるうちにカップを満たしていく。

梓「唯先輩、もうちょっとしたら誕生日ですよね」

唯「そだよー」

梓「ウチ…来ませんか?」

唯「えっ、それはつまり昨日の続きを……」

梓「それもいいんですけどでも今回は……憂と三人で、お祝い、したいです」

梓「三人で、お祝いしたいんです」

唯先輩は紅茶に口をつけ、ちょっとだけ啜ってからニッコリと笑い、頷いた。

唯「ゆっくり、進んでいったらいいんだよね、わたしたち」

梓「はい」

梓「すみません、やっぱ紅茶、結構です」

唯「えっ、どうして?」

梓「これ、飲みます」

テーブルの端に置かれたミルクティーを手に取る。
すっかり冷たくなった缶のプルタブを開けて口につけた。
甘すぎるくらい甘い、ミルクティーだった。

おわり

あずにゃん誕生日おめでとう



最終更新:2016年11月14日 20:59