新幹線が新横浜を過ぎた頃になってようやく、りっちゃんから着信があったことに気がついた。
着信履歴は二時間前と一時間前の二件。LINEのメッセージも一件。

返信のスタンプを打とうとした途端、車内放送が流れ始めた。もう品川に着くみたい。降りなきゃ。
スマホをバックに押し込み、立ち上がって棚の上にある荷物を手に取る。
返事……まぁ、いいか。またあとで。


隣の席のおじさんに軽く頭を下げ、通路に出る。すでに降車のための行列ができている。
家族連れやカップルが多い。お盆休みの新幹線は、帰省や観光のための乗客でいっぱいだ。
三人掛けの真ん中の席しかとれなかったとはいえ、座れただけでも感謝感謝。
寝過ごして富士山を見られなかったことは残念無念。

エスカレーターを上りながら、りっちゃんに電話をかけるべきか迷う。
LINEには仕事で待ち合わせに遅れる旨が送られていた。
それならわざわざ電話をかけ直して要件を確認しなくていいか。
ただ、二回も電話をかけてきていたことが気になった。
けど、仕事中だとしたら電話をするのも悪いかな。
相手の様子がわからず躊躇しているうちに、エスカレーターを上りきってしまった。
……まぁ、いいか。急用なら、またかけてくるっしょ。

新幹線の改札を抜けたところに、ムギちゃんの姿が見えた。
歩いてくるわたしを見つけたムギちゃんは、笑顔で大きく手を振った。
わたしも大きく振り返し、改札を目指して駆け出す。
一歩を踏み出すたび、背中のリュックがぼんぼんと跳ねる。
息を切らして改札を抜けたわたしは、両手を広げてムギちゃんに抱きついた。

「ムギちゃーん! ひっさしぶり~~!」

「唯ちゃーん! 待ってたよ~~!」

抱き合ったムギちゃんの身体は、相変わらずやわらかくてあったかい。
新幹線の冷房で冷え切った身体があったまる。
すん。あ、いい匂い。わたしの知らない、柑橘系の香り。



……ん? 周囲の視線を感じる。
あ、目立ってるかな。まぁ二十代後半、いい歳こいた女二人が公衆の面前で抱き合ってりゃねぇ。女子高生じゃあるまいし。
年齢にふさわしい行動。そんなことを考えるようになったのは大人になったからなのか。
TPOを考えろ? みっともない? うるさいよ。いいじゃん。だって大事な友達と、久々の再会なんだから。
そう、遠距離恋愛の恋人たちが、数ヶ月ぶりの再会を喜んでるみたいなもんだよ。

「ごめんね、わざわざ迎えにきてもらっちゃって」

「ううん、わたしが唯ちゃんを呼んだんだし。それに唯ちゃんに早く会いたくって!」

と、ムギちゃんは言うけれど、わたしが心配だったに決まってる。
このわたしが、東京の電車を間違えずに乗りこなして目的地に着くなんて、できるわけがない。
…いや、これでも大人ですからね、ちゃんと調べりゃできなくはないんでしょうけどね、ムギちゃんに案内してもらう方がはるかに確実ですからね。言い訳じゃなくってね。

人混みの中をするすると歩くムギちゃんにぴたりと付いていく。
ムギちゃんは、大勢のひとごみの中をするすると進んで行く。
わたしひとりなら、ぶつかったり、まごついたり、ふらふらしてるうちに違うところに行っちゃいそう。

ふたつみっつと路線を乗り換え、わたし達は電車に揺られ続けた。

車内から聞こえる会話のイントネーション、駅に着くたびに流れる発車メロディ、車窓に流れる景色。どれも馴染みがなくて、旅行に来たんだと実感する。

ぺらぺらとおしゃべりしながら、ムギちゃんに手を引かれて電車を降りる。
SF映画の地下要塞みたいに長いホームを歩き、どれだけ登るんだと不思議なくらい長いエスカレーターを上り、さらにまた電車に乗って…、目的の駅に着くと、もう空は真っ暗だった。

「ムギちゃん、すごいね。迎えに来てくれてよかったよ」

七年も住んでいればね、とムギちゃんはこともなげに笑った。

「そーいや、りっちゃんどうしたの?」

「あれ? LINEきてなかった?」

「ん…どうだったかな」

「仕事で遅れるって。先に始めてくれていいって」

「そっか」

七年、か。
りっちゃんがこっちに来てからは三年。時の流れって早いね。

駅前の居酒屋に入って一時間くらいが経ったころ、ようやくりっちゃんが姿を現した。
肩を過ぎるくらいまで伸ばした髪に、軽くパーマをあてたりっちゃんは、ごめんごめん、と手刀を切りながら席に座り、手をあげて店員さんを呼び止めると、笑顔で生中をひとつ、注文した。

「唯、久しぶりなのにごめんな、遅れて」

「いいよ~ん。その代わり、ここの払い、よろしくね♪」

「オイ。会って早々それか」

「りっちゃん、休日出勤お疲れさま。相変わらず仕事、忙しそうね」

「んーまぁ、ぼちぼち、かなぁ」

そう言って、ニッと歯を見せて笑った。
とりあえず元気そうで安心。わたしも、ニッと歯を見せて笑う。
それを見たムギちゃんも真似をして、ニッと笑った。

「いつ以来だっけ? 唯と会うの」

「年末に会ったじゃん」

りっちゃんの生中がやってきた。ジョッキを掲げ、三人でもう一度、乾杯をする。

「そっかそうだったな。あのときは全員揃ってたっけ?」

「年末は梓ちゃんがいなかったから…みんなで集まってのはその前の年の年末ね」

そう言って一気にジョッキを傾けて残りを飲み干すと、ムギちゃんは耳に沿わせてピンとまっすぐ手を伸ばし、店員さんを呼んだ。あ、ついでわたしも注文いいかな? だし巻き、あります? え、ないの? だし巻きだよ、だし巻き。ありふれたメニューなのに…まぁいいか。

「そんなになるのかぁー…みんなで毎年旅行に行ってた頃が大昔に思えるな」

「しょうがないよ、りっちゃん。結婚したり、子供できたりしたらさ。カテイノジジョーってやつだよ」

「家庭の事情、ねぇ」

りっちゃんは枝豆の殻を放り投げながらため息をついた。

「そうねぇ、でもまたみんなで旅行、行きたいね」

「そうだねぇ。ベタだけど南の島とか行きたいな。スキューバやってみたい! りっちゃんは?」

「わたしは熱海とかでいいや」

「………りっちゃん、しょっぱいね、しみったれてるね、夢がないね、老けたね」

「うっせー。いいとこだぞ? 熱海も。ムギは? どっか行きたいとこある?」

「わたしもいいと思うよ、熱海」

「まー、ムギちゃんがそう言うなら」

「…対応が違いすぎ」

「えー、だってりっちゃんだし」

「ふふ、みんないっしょなら、きっとどこでもたのしいよ」

すこし寂しそうに言いながらも、ムギちゃんはやってきた店員さんに熱燗を頼んでいた。

大学卒業。
さすがに就職先まで同じ、というわけにもいかず、高校大学とそれまでずっと一緒だったわたし達にようやく別れの季節がやってきた。
澪ちゃんは大阪、ムギちゃんは東京。わたしとりっちゃんは地元…だったけど転勤次第ではどうなるかわかんない。まだ大学生だったあずにゃんだって、就活の結果どうなるのかわかんない。
だからわたし達はひとつ約束をした。


“毎年一度は五人全員で集まって、旅行しよう”


それをたのしみにがんばろう、って。


レンタカー借りて温泉に行ったり、海に行ったり、スキーに行ったり。

社会人になったのをいいことに、ここぞとばかりに溜め込んだ小銭を大放出して。

離れていても、わたし達は会えばすぐに、あの頃に戻れる。
本当に不思議なんだけど、まるでタイムスリップしたみたいに、部室でお茶飲んでダラけてた気持ちにそのまま戻っちゃう。
毎日遅くまで働いて、たくさん失敗して、こっぴどく怒られて、へとへとになって家に帰ってまた朝早く起きて出勤して。その繰り返しで溜まり溜まった疲れも、みんなで集まって笑って話せば、全部嘘のように消えてなくなった。

働き始めて、離れ離れになって、学生時代とは違っていても、わたしは何も変わらない。
肌はみずみずしさを失って、ついに体重が増え始め、いやでも年齢を感じるようになってきても、気持ちや関係性は何にも変わらない。
ささいなことでいちいち連絡を取り合ったりは、しなくなったけれど、肝心な部分は何も。だよね?

「集まるだけなら、次は年末?」
軟骨のからあげを頬張りつつ、わたしが尋ねる。

「その前に梓ちゃんの結婚式よ」
お銚子を傾けつつムギちゃんが答えると、

「そうだったそうだった」
と、目の前に置かれたノドグロに目を輝かせながら、りっちゃんはおおげさに頷いてみせた。

「ハァァァ~~あずにゃんが結婚かぁ…わたしのあずにゃんが……」

「唯のじゃない、っての。しっかし最近、ウチの職場でも結婚ラッシュでさぁ…」

「りっちゃんとこも? わたしも先月三回も結婚式に出たからさ、財布カラッカラ…」

「わたし達、先輩なのに先越されちゃったねぇ…」

「ムギちゃんはその気になれば大丈夫だよ、かわいいから」

「…えへ、ありがと。唯ちゃんだってすっごくかわいいわ!」

「ありがとー! そんなこと言ってくれるのムギちゃんだけだよぉ!」

「そうなの?? 唯ちゃん、すっっごくかわいいのに!! すっごくすっごく!!」

「んもぅ…ムギちゃんってばぁ褒めすぎ! ムギちゃんのかわいさだってすんごいよ!」

「ううん、唯ちゃんのほうがかわいい!」

「そんなことないって! ムギちゃんのほうがかわいい!」

「唯ちゃんのほうがかわいい!」

「ムギちゃんのほうがかわいい!」

「唯ちゃん!」

「ムギちゃん!」

「…………お前ら、自分で言ってて悲しくならないか?」

唯誕生日おめでとう

「ならないならない! だって事実わたし達かわいいもーん。だから結婚してなくたって、まだまだ焦る時間じゃないっしょー。
 ほらー人生、長いんだから。それにけいおん部的にも独身勢が人数優勢! いえーい!」

わたしがムダに大きな声をあげてグラスを掲げると、ムギちゃんもそれに合わせてグラスを掲げた。
りっちゃんは顔をため息をついて呆れたように笑い、申し訳程度にグラスを掲げ、乾杯をした。

わたし達の中で、一番はじめに結婚したのは澪ちゃんだった。
勤め先の銀行で、新入社員だった頃の教育係だった先輩と。
結婚式で流すため、わざわざ桜高の生徒会室を訪れて伝説のライブビデオを借り、編集した映像を披露宴で流したのはいい思い出。

そのあとの二次会で花嫁の鉄拳が、りっちゃんの頭上に炸裂にしたのは言うまでもない。

結婚してからも五人で旅行に行った。
夏、高原、星がきれいだった。それが最後。


その旅行のあとすぐ、りっちゃんが転勤になり、年の瀬には澪ちゃんに赤ちゃんができた。
明くる年の三月、年度末を機に、あずにゃんは仕事を辞めて専門学校に入り直した。

ずっと同じ職場にい続けたわたしも、キャリアを重なれば役職もついて、だんだん忙しくもなるわけで。
ばたばたと騒がしい毎日に追われて五人で全員での旅行は簡単にできなくなった。

それでも年末は大抵みんな桜が丘に帰ってきていたし、落ち着けばまた、どっか行きたいね、ってそう話してた。

「あのさ、唯」

本当は今回の東京行き、澪ちゃんあずにゃんにも声をかけていたんだけどね。
家庭の事情や仕事の都合ばっかりは、どうしようもない。どうしようもないけど……まぁ、いいか。

「おい、聞いてるか?」

「んあ? 聞いてるよぉ」

「唯…酔ってる?」

「こんくらいで酔うわけないじゃん。まだ生中三杯とカシスオレンジに白ワインに日本酒…」

「はいはい。もういーから。熱い茶飲め。熱い茶」

いつのまにやら目の前に置かれている湯呑を手に取り、じっと見入る。
茶色の液体に映ったわたしの顔が、ゆらゆらと揺れていた。

「いま思ったんだけど」

「どうしたの唯ちゃん」

「わたし達、黒髪ストレートロングにしたら、結婚できちゃったりして」

「なに言ってんだ、唯」

「ハクバノ王子サマは、黒髪ストレートロングのオヒメサマしか、迎えにこないのです。なんちゃって」

「ア ホ」

りっちゃんは口を大きくあけ、呆れたようにそう言った。

「ほらー。澪ちゃんあずにゃんにあってわたし達にないもの、って考えたらさ、ふと」

「そうでもないだろ、ほら。憂ちゃん」

「憂は特別だよー、憂だよ? 憂」

「それもそうね」

ムギちゃんは然もありなん、と頷いて焼酎ロックをぐびぐびやっている。

「唯ちゃん。結婚や恋愛は見た目だけじゃないわ。澪ちゃんも梓ちゃんも中身が素敵なのよ。だから…」

空になったグラスの氷を鳴らしながら、ムギちゃんは生真面目に言う。

「それじゃ結婚できないわたしたちは、中身がくだらないってこと?」

通りがかった店員さんを呼び止め、ムギちゃんの分と合わせてウイスキーを二つ注文する。
ロックにするか、水割りにするかで5分ほど悩み、ムギちゃんに合わせてロックにする。
ご注文入りましたー!! …やたらと大きな声で返事をされて、ちょっとうっとうしい。

「そういうわけじゃ……」

「ごめんごめん、くだらない冗談だよ」

「そうそう。くだらない冗談。くだらないくだらない」

その場をおさめるようにりっちゃんは軽口を叩き、中身が残りわずかとなったグラスを持ち上げた。

「くだらないくだらない♪」

一休さんの調子でわたしも呟くと、「くだらないくだらない♪」とムギちゃんもそれに続き、わたし達三人はグラスを掲げてかちん、と乾杯をやり直した。

「結婚なんてさ、縁だよ、縁」

「なぁ~にを言ってんのさっ、りっちゃんのくせにぃ。そんなこと言えた立場じゃないでしょうがっ」

含み笑い。
りっちゃんは黙ったままニヤニヤと笑う。うげー、りっちゃんキモいっす。

「オイ、ひくな」

「ひくよ。だってキモいし」

「キモいとか言うんじゃねーっ」

「キモいっすりっちゃん隊員。そんなんじゃ一生結婚なんてムリだと思いまっす」

またしても含み笑い。
りっちゃん酔ってる? それにしてもヒドくない? ちょっと会わないうちに頭おかしくなった?

「だからひくな、ってば」

「ひくよぉ……だってキモいもん。正直、完全に酔い冷めちゃったよ………」

「りっちゃん。焦らさないではっきり言ったら? 唯ちゃん、りっちゃんはね…」

たまりかねたのか、ムギちゃんが口を挟む。

「ダメだよムギちゃんやさしくしちゃ。
 こういうのはね。ちゃーんと事実を突きつけてあげないといけないの。
 そうしてあげないとね、事実を認識できないでしょ?
 どーゆー行為が“キモい”のか、しっかりわからせてあげるのがりっちゃんのためなんだよ……うん」

「えーっと…な、」

コホン。

いかにもわたしを見ろとばかりに、りっちゃんが咳をした。
なにさ? ほら、聞いてあげるからさっさと言いなよ。どーせくだらないことなんでしょ。

「唯、わたし、な……」

ほらほら。もったいぶったりしないの。

「えーっと……」

さっさと言いなよ。もう。はっきりしないなぁ。
わたしはグラスを手に取り、口につけた。











「わたしも、結婚……しちゃうかもしんない」









ウイスキーが喉をすり抜けた瞬間、焼けるような感覚が全身を貫いた。

ほーら、やっぱり。たいしたことない話じゃん。
あんなにもったいぶっちゃってさ。バッカみたい。

……バッカみたい。










そのあとトイレでしこたま吐く。
どれくらいこもっていたんだろう。便器から顔をあげてよろよろと立ち上がり、スマホを取り出す。
りっちゃんからのLINEと着歴。また気がつかなかった。もう店を出るけど大丈夫か、って。
スマホの電池が残り少ないし、返事をする余力もない。

だいたい、心配なら様子を見にきてくれりゃいいのに。…と思ったら扉をノックされて声が聞こえた。
もしかして、ずっとそこにいたのかな。声をかけてもノックしてもわたしが気づかないから電話したのかな。

いきおいよく扉を開き、敬礼してみせる。
唯隊員、無事生還しましたっ! ……バッカみたい。

りっちゃんは眉を八の字にして、呆れたように笑った。





東京の夜は心なしか、涼しく感じる。
四方を山に囲まれたわたし達の町と違い、真夏とはいえ夜になると少しひやりとする。
都会の空は星が見えない、という先入観があったけれど、そうでもない。
鮮やかな星空、とはいかないものの、全然見えないわけでもない。ってやつ。普通。

「唯、ホテルどこだっけ?」

「なに言ってんの。りっちゃんち泊まるって言ったじゃん!」

「ありゃ? そうだっけか?」

唯ちゃん、飲む? ムギちゃんがアクエリアスを差し出した。夜道に自販機が明るく光っている。
わたし、どっちかっていうとポカリのほうが…まぁいいか。好意を無下にはできません。

りっちゃんはわたし達から少し離れて誰かに電話し始めた。
眩しい自販機の逆光が、りっちゃんの全身を黒く塗りつぶす。

唯ちゃん、平気?
平気だよ。ムギちゃんこそ、平気なの?
わたしも平気。

ほんのりと桃色に染まった頬で、ムギちゃんは答えた。

唯ちゃん、肩貸すよ?
んー、もう大丈夫。
じゃあせめて、手をつながない?
えー、いい歳して?
いいじゃない。それにほら、知らないところで夜にはぐれたら、大変でしょ? ね?

ムギちゃんは返事を待たず、わたしの右手をつよく握った。
その手が予想外に冷たかったのは、きっとさっきまでアクエリアスを握っていたから……そのはず。

通話を終えて戻ってきたりっちゃんは、手を繋いだわたし達を見て呆れたように笑った。

仲いいなー、おまえら。

そうだよ、わたし達、なかよしだよ!
そうよ、でもりっちゃんは仲間に入れてあげないんだから!
そうそう、りっちゃんとは手ぇ繋いであげないもんねー! ねーっ、ムギちゃん!
うんうん、りっちゃんとは繋いであげないんだから! ねーっ、唯ちゃん!

おまえら、バッカだなぁ。

そう言って、りっちゃんはとても楽しそうに、お腹を抱えて笑った。

最寄駅の改札口までムギちゃんを見送り、明日の集合場所と時間を再確認して別れる。
改札を抜けた後も、ムギちゃんは二回三回と振り返っては手を振り、一度姿が見えなくなってからもひょっこりと顔を出して手を振った。
そうこうしてる間に終電がホームへ滑り込む音が響き、ムギちゃんは最後に“また明日ねー!”と慌てた様子の大声で別れを告げ、駆け出した。
ふたりきり、残されたわたしたち。

「歩けるか?」

わたしはりっちゃんの方を向かずに無言で頷いた。
どんなに酔っていたって、りっちゃん隊員なんかにゃ頼りませんよ。
さっき言ったでしょうが。りっちゃんとは手ぇ繋がない、って。

大通り沿いのローソンに入り、買い物を済ませる。
飲みたかったピルクルは置いてなくて、しかたなしに飲むヨーグルトで我慢。…まぁいいか。
店を出てすぐの郵便ポストがあるところを折れて細い路地に入る。
路地を抜けると住宅街。しばらく行くと川にぶつかった。
膝丈くらいの高さのガードレールの、不恰好にへしゃげている部分にいくつか花が手向けられていた。
そのまま川に沿って歩き、二つ目の小さな橋を渡る。
橋のたもとには桜の木が立派に枝を伸ばしていて、その真下はゴミ捨て場になっていた。
すぐそばの電柱に監視カメラのようなものがつけられているのを見つけて思わず目を背ける。
駅から徒歩五分、という道程も、知らない街を歩くと随分長く感じるから不思議だ。
ただ想像していたのとは随分とちがう。

「案外、普通だね、東京も」

「なにが?」

東京の夜、と言えばギンギンギラギラ輝くネオンの光。
道路を颯爽と走る高級車。
道ゆくは世界の最先端をゆくビジネスマン、
振り向けば誰もが知る芸能人……

さすがそこまでいかなくても、もうちょっとその…ねぇ? 
東京東京してると思ってたっつーか…桜が丘と大差ないじゃないの? ここ。

「あのな。東京、つってもいろいろあるの。どこもかしこも高いビルが建ってて、高級車が走りまくってて、芸能人がうじゃうじゃ歩いてるわけねーだろ」

…幼稚な頭の中を覗かれたようで、ムッとなる。

「さ、さすがにわたしもそこまでは思ってないよっ!」

「それにここはほとんど埼玉だからな」

「えっ、ここ埼玉なの?」

「いや、地図上は東京都だ」

「へぇ。じゃあ胸張って東京都民、って言えるわけだ」

「まぁ……一応」

無い胸張っても意味ないよ。
わたしは心の中で毒づいた。

りっちゃんの部屋は五階建アパートの三階角部屋。
玄関口で出迎えてくれたのは赤べこの張り子人形。
リビングに入ると、部屋の隅にいくつか積み上げられた空き缶が目に入る。
ソファの上にはファッション誌や音楽誌が数冊。最近出たばかりの新刊のマンガ本も。

すこしくすんだ黄色のカーテン、壁に貼られたミュージシャンのポスター、本棚の上に寝っ転がっているスポンジボブみたいなよくわかんないぬいぐるみ。そのいくつかになんとなく見覚えがある。
住む場所は違っても、りっちゃんの実家や大学時代の寮の部屋に雰囲気が似ている。住んでる人間が同じなのだから当然か。

初めて来るのに気兼ねのいらないかんじで助かる。おしゃれなデザイナーズマンションとか、几帳面に整理整頓が行き届いている部屋よりよっぽど居心地がいい。

学生時代と違う点をあげるとしたら、ほんのりタバコに匂いがすることくらい。
居酒屋でそんな様子は見せなかったけれど、りっちゃんも吸うようになったのかな。
テーブルの隅には所在なさげにライターと灰皿が乗っかっていた。

おっ、そうだ。電池残量少ないんだった。さっさと充電させてもらお。

「あ」

「ん、どしたー」

「やばい…充電器忘れたっぽい」

バッグの中身を漁っても漁っても出てこない。
電池が5%を切っている。しまったなぁ、コンビニでモバイルバッテリー買ってこりゃよかった。

「唯、iPhoneだっけ? わたしのiPodの充電器貸すよ」

「わるいね」

充電器を借りてコンセントにつきさす。
ぴぴぴ、と電子音が聞こえて何かと思ったらお風呂が湧いたそうな。好意に甘えて先にお風呂をいただく。

満足に足を伸ばせないちいさな湯船。死体みたいに足を折り曲げて浸かり、汗と脂を洗い流す。
いつもと違うシャンプーを使うと、髪がキシキシ言って調子が悪いけれど、ゼイタクは言えない。まぁいいか。

髪を乾かしてリビングに戻ると、りっちゃんはソファの上に猫のようにまるまっていびきをかいていた。ゆさゆさと揺すって呼びかけても起きる様子がない。
今日も仕事だったみたいだし、随分と疲れていたんだ。

わざわざ時間をとって呼びつけてしまったことも、約束していたとはいえ部屋に押しかけてしまったことも、申し訳ない気持ちになり、わたしはりっちゃんの髪を撫でた。
静かな室内にすぅすぅと寝息だけが聞こえる。

勝手なこととは思いつつ、わたしはリビングを出て寝室の扉を開けた。
夏用の毛布かブランケットくらいあるだろうと、灯をつけて室内を見渡し、一二歩踏み出したところでわたしは足を止めた。机の上、閉じられたノートパソコンの横に飾られた写真立て。
わたしはきゅっと口を結び、視線をそっちに向けないようにしながらベッドの上にくしゃくしゃっと捨て置かれたブランケットを手に取り、早々に灯を消して部屋を出た。
気持ちよさそうに眠るりっちゃんにブランケットをかけてあげると、ライターと灰皿を手に取り、リビングの灯を消してベランダに出た。

川から吹き上がる夜風が気持ちいい。
ふぅ、と息を吐くと白い煙が風に乗って流れた。
見上げた夜空にまばらな星が散らばっている。ひさしぶりに満天の星空を眺めてみたい。そう思った。



2
最終更新:2016年11月28日 18:39