大学三回生の春までの二年間、私は一つとして実益のあることをしてきただろうか。
否。
異性からの孤立、学問の放棄、肉体の衰弱化、
その他全てにおいて負の坂道を転がり落ちていったのはなにゆえであるか。
責任者に問いただす必要がある。責任者はどこか。
かつては邪念のかけらもない純粋無垢の権化ともてはやされた私だったが、
今では邪念を通り越し怨念の塊と化してしまった。
まだ若いのだからと言う人もあろう。人はいくらでも変わることができると。
そんな馬鹿なことがあるものか。
やがてこの世に生を受けて四半世紀になんなんとする立派な青年が
いまさら己の人格を変貌させようとむくつけき努力を重ねた所で何となろう。
すでにこちこちになって屹立している人格を
無理にねじ曲げようとすればぽっきり折れてしまうのが関の山だ。
過去を変えることは出来ぬ。今ここにある己を引きずって、生涯をまっとうせねばならぬ。
その事実に目をつぶってはならぬ。
でも、いささか、見るに堪えない。
この物語の主な登場人物は私である。
第二の主役として、三次元に存在するとは思えない美しき令嬢、
琴吹紬がいる。
そして多次元宇宙から舞い降りた天使のような彼女と、
誇り高き美男子である私に挟まれて、矮小な魂を持った脇役たる小津がいる。
博識であり頭脳明晰な読者諸君にあえて断わっておくが、
この物語は小説「四畳半神話体系」を土台とし、いうなればそのまんまである。
当時、私はぴかぴかの大学一回生であった。
新入生が大学構内を歩いていればとかくビラを押しつけられるもので、
私は個人の処理能力をはるかに凌駕するビラを抱えて途方に暮れていた。
その内容は様々であったが、私はあるひとつの奇想天外なビラに心奪われた。
バンドサークル『ぴゅあぴゅあ』と書いてあるその紙には、
私が想像する一般的なバンドサークルとは一線を画した案内が描かれていた。
一目見るだけではそれがバンド活動をするサークルとは思えない可愛らしい字体に、
丸や星など淡い色合いをした柔らかな模様が散りばめられ
そのビラからは甘く香ばしい香りが立ち込めている。
その目もくらむような和気藹藹としたビラから私はおもむろに推測した。
これほど男っ気のないバンドサークルに私の望む健全な異性との交流がないわけがない。
高校時代は運動部にも所属せず、文化系の活動もしていなかった。
とにかくできるだけ活動せずに息をひそめ、同じく非活動的な男たちとくすぶっているばかりだった。
思えば、私は物心ついたときから音楽というものに
さして興味を示したことがなく、義務教育課程における音楽の授業も
熱心に取り組んだわけでもない。
もちろんギターなど触れたことすらなかったが、案内には初心者大歓迎と書いてある。
しかも優しい先輩が手とり足とり教えてくれるというのだ。それも淡いピンクのハートが添えられている。
私は「音楽活動も悪くあるまい」と考えた。
プロのミュージシャン養成学校でもないただの大学のバンドサークルなど、
適当に楽器を弾いてわいのわいのと楽しむだけである。
鬱鬱たる高校時代よサラバ、こういう集いに加わって
爽やかにギターをかき鳴らしながら、友達百人作るのも悪くない。
みっちり修業を積んだあかつきには、
天才的な音楽の才能を開花させ、美女たちと言葉のアンサンブルを奏でるのだ。
これは社会に出て生きていくためにも、ぜひとも身につけておかねばならない能力だ。
決して美女と交流したいわけではない。技術を身につけたいのだ。
しかし技術を身に付けた結果、美女もついてくるならば、特にそれを拒むつもりはない。
講義が終わってから、私は大学の時計台へ足を向けた。
『ぴゅあぴゅあ』の新歓説明会の待ち合わせ場所である。
時計台の周辺は湧きあがる希望に頬を染めた新入生たちと、
それを餌食にしようと手ぐすねひいてるサークルの勧誘員たちで賑わっていた。
幻の至宝と言われる「薔薇色のキャンパスライフ」への入口が、
今ここに無数に開かれているように思われ、私は半ば朦朧としながら歩いていた。
今にして思えば、あの紙切れ一枚で判断するべきではなかった。
どこの馬の骨とも分からぬ新入生が集う入会説明の雰囲気を吟味することなく、
その日の内に入会を決めてしまったのは、
来るべき薔薇色の未来への期待に我を忘れていたとしか言いようがない。
かくして『ぴゅあぴゅあ』に入った私は、早くも理想とのギャップを思い知ることとなる。
私の想像を超えたぬるま湯状態がちゃんちゃらおかしく、とても馴染むことができない。
柔軟な社交性を身につけようにも、そもそも会話の輪に入れない。
会話に加わるための社交性をどこかよそで身につけてくる必要があったと気付いたときには
すでに手遅れであり、私はサークルで居場所を失っていた。
『ぴゅあぴゅあ』は私が思い描いていたサークルとは違い、
意外にも男の比率のほうが高かったことも後悔の念を更に後押しした。
そうして片隅の暗がりに追いやられた私の傍らに、ひどく縁起の悪そうな顔をした不気味な男が立っていた。
繊細な私だけが見ることができる地獄からの使者かと思った。
それが小津との出会いである。
小津は私と同学年である。
一回生が終わった時点での取得単位および成績は恐るべき低空飛行であり、
果たして大学に在籍している意味があるのかと危ぶまれた。
即席ものばかり食べているから、月の裏側から来た人のような顔色をしていて甚だ不気味だ。
夜道で会えば、10人中8人が妖怪と見間違う。残りの2人は妖怪である。
弱者に鞭打ち、強者にへつらい、わがままであり、傲慢であり、
怠惰であり、天の邪鬼であり、勉強をせず、誇りのかけらもなく、
他人の不幸をおかずにして飯が3杯食える。
およそ誉めるべきところが一つもない。
もし彼と出会わなければ、きっと私の心はもっと清らかであっただろう。
小津との出会いから、時は一息に2年後へ飛ぶ。
3回生になった四月の終わりごろ、私は愛すべき四畳半に座り込んで物思いにふけっていた。
私が起居しているのは、下鴨幽水荘という下宿である。
今にも倒壊しそうな木造三階建て、
見るものをやきもきさせるおんぼろぶりはもはや重要文化財の域に達していると言っても過言ではない。
しばらく過去の思い出に浸り、怒涛の後悔の津波に耐え、
現実と正面から向かい合おうとしていた私は、ふと四畳半の部屋を見渡してみた。
埃の積もった本棚と普段めったに向かうことのない学習机との狭間には当四畳半において
行き場を失ったありとあらゆるガラクタが投げ込まれる空間が広がっており、
そこへ送られることは一般に「シベリア流刑」と言われる。
半年前、二回生の冬に小津とともに『ぴゅあぴゅあ』を辞めて以来、
私はほとんどギターを弾くことはなくなった。
『ぴゅあぴゅあ』に入った途端にギターを薦められ、
半ばむりやり初心者用のギターセットなるものを買わされ練習に励んだ私だったが、
一か月もすると自分の才能の無さに早くも絶望した。
コードが抑えられない、リズムが取れない、理論を覚えられない。
ベースなら簡単そうだとパートの変更を申し出るが、
意外にも真面目に練習していたサークルの同士たちはそれを認めてくれなかった。
入学して半年経っても一向に上達せず、がつがつと練習しているのが馬鹿らしく感じてきた。
そんないじましい己の姿は私の美学に反する。
よって私は潔く練習を諦めた。こういった潔さには自信がある。
サークルをやめるまでの一年半、苦楽の道程を共に歩んできた安物のギターだったが、
今や「シベリア流刑」に処せられたガラクタを崩れないように支えるだけの存在となってしまった。
埃をかぶったそれは悲しげで、そこはかとなく哀愁が漂っている。
それだけならまだ良かったのだが、
問題はこの四畳半においてその巨大なボディが圧倒的な存在感を放っていることである。
この数か月というもの、古びたギターに目を向けるたび
四畳半の狭い空間に負のオーラが充満していくようで憂鬱だった。
いっそ捨ててやろうかとも思ったが、変に愛着が湧いてしまい捨てるに捨てられない。
「・・・すまない、ギー太郎・・・」
最近は変な方向へ愛着をまとわせたせいで、とうとう名前までつけてしまった。
そのうちごろりと横になって窓の外を見てみると、すでに日は大きく傾いていた。
私の休日は不毛に終わろうとしている。
この不毛なる休日を、唯一、有意義なものとする「英会話教室」の時間が迫っていた。
私は出掛ける支度をした。
『ぴゅあぴゅあ』でひどい目に合った私は
サークルと言うものを信用しなくなっていた。当然、時間が有り余る。
前年の秋ごろ、たまたま商店街を通った時に見かけた
「英会話教室」の看板に触発され、一から何かを始めてみる決心をしたのである。
英会話教室では各々が自分の好きな題材をスピーチするが、私の題材はもっぱら小津の悪行であった。
私の交友関係の中核を、小津が占めているからである。
正直なところ、やや気が引けたのだが、やむを得ず言及すると
なぜかクラスメイトから喝采を受け、毎週「小津ニュース」を語ることになった。
英会話のクラスが終わってから、日の暮れた夜の街を歩いた。
すると暗い民家の軒下に、白い布をかけた木の台を前にして座る老婆が居た。占い師である。
妙な凄味が漂っている。
この世に生まれて四半世紀になろうとしているが、
これまで謙虚に他人の意見に耳を傾けたことなど数えるほどしかない。
それゆえに、あえて歩かないでもかまわない茨の道をことさらに選んできた可能性がありはしないか。
もっと早くに自分の判断力に見切りをつけていれば、私の大学生活はもっと違ったものになっていただろう。
そうだ。
まだ遅くはない。可及的速やかに客観的な意見を仰ぎ、あり得べき別の人生へと脱出しよう。
私は老婆の妖気に吸い寄せられるように足を踏み出した。
「学生さん、何をお聞きになりたいのでしょう」
「そうですね、なんと言えばいいのでしょうか」
老婆は私の顔をじっと見つめた。
「不満…。あなた、自分の才能を生かせてないようにお見受けします」
「ええ、そうなんですよ」
老婆は私の両手を取って、うんうんと頷きながら覗き込んでいる。
「ふむ、あなたは非常に真面目で才能もおありのようだから」
老婆の慧眼に私は早くも脱帽した。
能ある鷹は爪を隠すということわざにあるごとく、
慎ましく誰にも分からないように隠し通したせいで、ここ数年はもはや
自分でも所在が分からなくなっている私の良識と才能を、
逢って五分もたたないうちに見つけ出すとは、やはり只者ではない。
「とにかく好機を逃さないことが肝要でございます。
好機はいつでもあなたのそばにぶら下がっております」
そう言って老婆は占いを締めくくった。
まったく根本的なことが判明していないが、
老婆は静かに手を差し出し、占いの料金を急かしている。
なんだか一杯食わされたような気がした。
「ありがとうございました」
私は頭を下げ、料金を支払った。立ち上がって振り向くと、背後に女性が立っている。
「迷える子羊さん、ですか?」
琴吹さんは言った。
琴吹さんは英会話教室で同じクラスである。
私が教室に通ってからおよそ半年以上の付き合いになるが、あくまでクラスメイトとしての付き合いである。
彼女も私と同じ大学に通っているが、私の一つ下の学年であり、文学部で現代文化学を専攻している。
非常に穏やかな性格であり、
性根がラビリンスのように曲がりくねった小津のような人間とは対極に位置する存在である。
英会話教室での彼女のスピーチは主に海外旅行やクラシックのコンサートといった、
上流階級を匂わせるようなものがほとんどであった。
話し方、立ち振る舞い、ファッションなどいたるところが上品であり、
明るいクリーム色の髪の毛をふわふわさせながら歩く姿は
まるで神がこの世に平穏をもたらすべく地上に使わした天使のようである。
また彼女は、その端麗な容姿だけでなく、英会話のスキルもクラスの中で
頭一つ抜きん出ていたため、クラスメイトからも一目置かれるような存在であった。
顔はまだ幼さが残っているが派手な化粧をすることもなく、
知的な雰囲気も漂わせながらも表情は柔らかく笑顔が絶えることがない。
真面目であり、素直な性格である彼女は決して他人を卑下することなく謙虚で、
それでいて堂々たる気品も兼ね備えていた。
所かまわず笑顔を振りまいているかと言うとそうではなく、表情は豊かで、
その特徴的な眉毛は彼女の喜怒哀楽を十分に表現するのに一役買っていた。
かつて彼女が高校時代の部活動を題材にスピーチしたことがあった。
高校の三年間は軽音楽部に所属し、五人でバンドを組んでライブをしたり
部室でまったりとケーキを食べたりして過ごしていたらしい。
彼女のパートはキーボードで、作曲を担当していたという。
どこまでも才色兼備がとどまることを知らない人物である。
そして彼女は自分の眉毛について、高校の友達にたくあんと間違えられたと言及した。
なるほど、言われてみれば同年代の女の子に比べいくらか太ましいその眉毛はいかにもたくあんであった。
しかし彼女の眉毛は彼女自身の評価を下げることなく、
むしろアイデンティティとして彼女の存在を確立させるものであった。
はっきり言って私は彼女に対して劣等感を感じずにはいられなかった。
非の打ちどころのない彼女を目の前にして、果たして私は自尊心を保っていられるのだろうか。
もし彼女とあわよくば二人きりで会話する機会に恵まれたとして、
自分の中の何かが決壊してしまうのではないだろうか。
不毛な大学生活を漫然と過ごし、過去に築いたものはそびえたつ後悔の柱だけ。
未来を見据えても果てしなく広い人生が山も谷もなくただ横たわっているだけ。
大学三回生になってようやくそのことを思い知った。
そんな私の焦燥の心を深くえぐられるのではないかと、彼女を見るたびに思うのだ。
しかし、私は決して彼女を嫌っているわけではない。
正直に申し上げると、好意を抱いていた。
そんな折、運命か偶然か、はたまた夢か、このような夜道で琴吹さんに会おうとは予想だにしなかった。
「先輩、何か悩みごとでもあるんですか?」
よりにもよって私が今後の人生いかに生くべきかという大問題について
占ってもらったという矢先に恥ずかしい場面を見られてしまった。
「いや、なにも。ふらっと立ち寄っただけ」
不測の事態に直面した私はさも占い婆の呪いによって金縛りにあった哀れな人形のごとく筋肉を強張らせた。
呼吸は浅くなり、硬直したまま苦し紛れに口から発せられる言葉は抑揚を失っている。
「そうでしたか…。なんだか先輩が思いつめているように見えたので、少し心配に…」
本当に他人に気を使う人である。なんだかこっちが申し訳なくなってきてしまった。
それにしてもこんな夜中だというのに彼女の輝かしさはいったいどういうわけだろうか。
単に髪の毛が明るい色をしているだけではないような気がした。
「あの、琴吹さんはなぜこんな所に?」
「実は私もたまたま通りかかっただけなんです。たまには違う道から帰ろうかなって」
なんという奇遇であろうか。
「あの、もしよかったら途中まで一緒に帰りませんか?
実はここがどこかよく分からなくて、迷っちゃったんです」
ここまで来ると私は占いの老婆に畏怖の念すら抱いてしまう。
まさかこれが好機だというのだろうか。
だとすれば千載一遇の好機をみすみす見逃すわけにはいくまい。
「ぜひともお供させてください」
考えるより先に言葉が口をついて出てきてしまった。
ここまで来たらもう後に引き下がることは出来ない。
大学に入って以来二年、
ひょっとするとあるかもしれない異性との薔薇色の交際に向けて、
私は十分すぎるほど男女の営みについて予習してきたつもりであったが、
そもそも色恋沙汰とは遥か無縁の青春時代を過ごしてきたため
美女との恋の駆け引きは妄想に始まり妄想に終わるのであった。
このとき私は、好機を決して逃すまいと必死だった。
何か話を切り出さなくてはと、当たり障りのない話題を提供しようと試みるも喉元でつっかえてしまう。
後悔することには慣れているはずだった。いまさら何を恐れるというのだろうか。
様々な思案を巡らせながら、気付くと私たちは怪しくネオンがきらめく桃色の街並みを目前にしていた。
「わぁ、きれいな所ですね」
私の悶々を尻目に、彼女が目をらんらんと輝かせながら言った。
いくら英会話のクラスメイトとして半年の付き合いがあるとはいえ、
ここでみだらに猥褻な行為を期待するのは野暮というものである。
それは紳士たる私が許さない。
「ところで、私の家は駅の方面なんですけど…」
私は彼女と一緒に帰れるという意識のあまり、すっかり目的を見失っていた。
駅の方面といったらまるっきり反対側である。
「すまん、間違えた。こっちだ」
そうこうしているうちに夜も更けてきた。
街はだんだんと夜の顔を見せ始め、路上は酒に呑まれるべく居酒屋を練り歩く輩で賑わってきた。
「あ、この道知ってます。まっすぐに行けば駅の南口に着くんですよね」
「琴吹さんの家は駅のすぐ近くなのか?」
「はい。先輩はどちらにお住まいなんですか?」
「私は大学の近くの下鴨幽水荘という所に下宿している」
言った瞬間しまった、と思った。
「え!じゃあ先輩の家って駅の方向じゃないんですか?てっきり一緒に帰れるものだと…」
私は自分の愚かさを呪いたくなった。今の琴吹さんの心情を察するに、次に彼女はきっとこう言うであろう。
「特に用事があるわけでもないのに一緒に帰るだなんて…先輩の変態!ストーカー!」と。
しかし彼女は私の予想に反し、こう言った。
「ごめんなさい、私の勘違いでわざわざこんな遠くまで送ってもらっちゃって…。
もうすぐ私の家なんですけど、お茶でも飲んでいきませんか?お礼と言っては何ですけど…」
彼女の驚くべき提案を前に、私の脳味噌は半ば麻痺していた。
その誘い入れを断るなど、それこそ紳士の名を汚す愚劣極まりない行為である。
気がつくと私は広々とした部屋のソファに鎮座ましましていた。
普段と変わらない休日を過ごすはずが、とんでもない事態になってしまった。
中世ヨーロッパの城塞よろしくそびえたつマンションのエレベーターに乗り込んだ時点では、
もはや自分が何者なのか、どこから来てどこへ行くのか、
悠久の時の流れの中に置いてけぼりにされたような心細さを感じていた。
3LDKはあるかと思われる巨大な空間にぽつんとたたずむのは存外心が落ち着かないものである。
豪華絢爛な家具や装飾がまぶしく、猥褻文書がひしめく四畳半に
身も心も蝕まれていた私は、華やかな女性の部屋というものに
多少の居心地の悪さを禁じ得ないでいた。
「お茶入りました~」
甘い紅茶の匂いが漂ってきた。
「最近良い紅茶の葉を買ったんです。
これといったおもてなしは出来ませんけど、よかったら飲んでみて下さい」
私は軽く会釈をして紅茶をすすった。形容しがたいほど美味い。まさに本物の味である。
今まで飲んできた紅茶とは一体何だったのだろうか。
しかし、もはや私には高価なお茶の葉などどうでもよかった。
女性が一人で暮らす部屋に誘われて二人っきりでお茶を飲んでいるという、
あまりにも典型的な異常事態を迎えて、いかに紳士的な体面を保って切り抜けるかと思案していた。
一方の琴吹さんといえば、異様にむつかしい顔をする私をよそに、ニコニコとお菓子を用意している。
それにしても、やけに高そうなお菓子ばかりが並べられている。
「こんな高級そうなお菓子まで用意してもらって、なんだか申し訳ない」
「いいんです。お客さんが来た時のためにあるものなので、遠慮せず食べちゃってください」
すすめられた折、食べないわけにはいかないので、とりあえず目の前のケーキを口に運ぶことにした。
「今日はありがとうございました。私、ちょっと方向音痴なところがあって…」
人間である以上、琴吹さんにも弱点の一つや二つあるだろう。
しかし方向音痴という欠点は彼女にとって弱点たりえるものではなく、
むしろ人間味を演出するための個性となった。
考えてみれば、私は今まで琴吹さんの表面的な部分だけを見て一方的に完全無欠と決めつけていた。
しかしながら、少なくとも表面の部分で完全無欠であることはことさらに否めない。
私は俄然、彼女の内面をもっと知りたいと思った。
「こんなに大きな部屋に住んでるなんて驚いた。一人暮しなんだろう?」
私は努めて慎重に言葉を選び、あくまでさりげない口調で聞いた。
「ええ、一応一人暮らしなんですけど…。実際は両親にほとんど世話をしてもらっているようなものです。
本当はもっと学生らしいアパートに住みたかったんですけど、親がなかなか認めてくれなくて…」
「それだけご両親は琴吹さんのことが心配なんだろう」
「でも、大学生にもなって親から何でもやってもらうのは何だか違う気がします。
いいかげん私も一人で生活できると思うんですけど…」
そう言うと彼女は頬をぷくーっと膨らませて不満をあらわにした。
話を聞く限り、彼女は幼き頃より至れり尽くせりの裕福な家庭に育ったことは想像に難くない。
貧乏の星の下に生まれ育った私には到底理解できない悩みもあるのだろう。
「中学までは何の疑問も持たずに、両親の言うとおり過ごしてきたんです。
でも高校では色んな友達ができて、
私はとても狭い世界のことしか知らなかったんだって気がついたんです」
気が付いただけよかったじゃないか、私に至っては気付くことを恐れ
自己を肯定し続けてきた結果がこの有様だ、と言いたくなったが
なんのアドバイスにもならないのでやめた。
「実は私、高3の冬に私立の女子大に受かってたんです。
それも両親が勧めた名門の学校だったんですけど、蹴ってこの大学に入りました。
こっちの方が入るのが難しいし、自分で選んだ大学に行きたかったんです。
でも、結局今も親の世話になっちゃって」
「頼れるうちは頼っておくのも親孝行だ。琴吹さんは卒業したら就職するんだろう?」
「そのつもりです。両親の会社に、後継ぎとして、ですけどね」
琴吹さんはどこか皮肉めいた言い方をした。
あらかじめ敷かれたレールの上をただ漫然と進むことに疑問を抱いているのだろう。
よくある話だが、実際は小説やドラマでしか聞いたことがない。
琴吹さんのようなお嬢様の要素を必要十分に兼ね備えている人物が
私のような例外的変態貧乏学生と釣り合うわけがないと思う一方、
彼女の典型的な悩みへの対処法を遺憾なく助言できるのはむしろ私の得意分野ではないかと思われた。
敷かれたレールをこなごなに破壊し、己で道を切り開くことに関しては自信がある。
しかし敢えて自ら険しい道のりを歩むことによって得られたものは、
およそ失ったものに比べ遥か無に等しいことは火を見るより明らかである。
彼女がいかに自分の境遇を嘆いているとはいえ、今まで得たものを失ってしまっては元も子もない。
破滅的なまでに大学生活を無駄に過ごしてきた私の巻き添えをくらって、
希望ある彼女の未来までをも台無しにしてはいけない。
それは人として間違っている。
「あっ、ご、ごめんなさい。さっきから私、自分のことばかりしゃべってしまって…」
琴吹さんはわたわたと慌て、ごまかすように紅茶をすすった。確かに彼女らしからぬ愚痴である。
若干頬を赤らめ上目づかい気味な彼女を前に、
紳士的体面を保つと決めた私の理性もどこか遠くへ行ってしまうかに思われた。
「ちゃんとお話したのは今日が初めてなのに、いきなり変なこと言ったりしてすみません」
「なに、気にすることはない」
「…じゃあ、今度は私が先輩に質問してもいいですか?」
琴吹さんが私に興味を持ってくれたのは大変喜ばしいことであるが、
質問の内容およびそれに対するやむにやまれぬ回答如何によっては
私に対して興味を失うどころか失望のまなざしを深々と投げかけるであろうに違いない。
失望するにしても、そもそも彼女が私に何を期待するのか、
もとより私が自己を語るに値する人間なのか、
様々な陰陰滅滅たる負の感情を巡らせながら、私は恐る恐る言った。
「なんでも聞いてごらん」
すると琴吹さんは身を乗り出し、少し張り切った様子で言った。
「さっき、何を占ってもらったんですか?」
彼女の眼に宿っているのは純粋に好奇心からくる光であった。
いたずらに繊細なハートを鷲掴みにし、弁護の余地もないほど
徹底的に変態呼ばわりするつもりは微塵も感じられず、私は安堵した。
が、素直に老婆との意味不明な戦略的人生計画のあれこれを話していいものか、私は少し迷った。
「う~ん…どう話していいのやら…。簡単に言えば、これから私は何をすべきなのか、を占ってもらった」
「まあ、なんだか壮大なお話ですね。それで、なんて言われたんですか?」
「色々と言われたが、要するに好機を掴め、ということらしい。私には何が好機だか分からなかったが」
嘘は付いていないが、ところどころ省いて説明したため彼女には妙に味気ない占いに聞こえただろう。
コロッセオだとか、そもそも今この時こそ好機なのだとかいう
いらん情報をおおっぴらに宣言する必要もあるまい。
「へぇ~。道端の占い師さんに占ってもらうなんて、私もやってみたいです」
「そんなに楽しいもんじゃないけどなあ。お金だって取られるし」
「でもなんだか面白そう。きっとそのお金に見合った助言をしてくれているんです」
琴吹さんはどんなに些細なことでも好奇心を隠しきれないという印象であった。
彼女は紅茶をおかわりしに台所へ赴き、
「私だったらなんて占ってもらおうかしら~」とニコニコしている。
気がつくと私は先程まで震えあがって緊張していたのが嘘のように落ち着き、
菩提樹の下で悟りを開いたかのような気分でいた。
限りなくお釈迦さまへの冒涜に近い心境に達したのも、
彼女が極上のリラクゼーション空間を知らずの内に作り上げているからに他ならなかった。
我が愛しの四畳半とはまた違った余裕のある居心地の良さ、
俗世から切り離されたかのような高揚感、そしてなによりおいしい紅茶とお菓子。
心の平安を取り戻した私は、今一度冷静に自分の置かれている状況を分析した。
私は綿密に物事を分析して分析して分析し尽くした挙句、おもむろに万全の対策をとる。
むしろ万全の対策が手遅れになることも躊躇せずに分析する男である。
「先輩、どうぞ~」
新たな紅茶が運ばれ、琴吹さんが脇のソファへと腰を下ろした。
私は改めて彼女をまじまじと観察した。ふっくらとおもちのように柔らかそうな肌、
聖母マリアを彷彿とさせるあふれんばかりの母性、そして温かみのある目元、
包容力のある笑顔、すべてが完璧だった。決して卑しい目で見ていたわけではない。
これぞ私の理想とする幻の繊細微妙なふわふわの黒髪の乙女なのではないか。
琴吹さんは黒髪ではないが、細かいことはどうでもよい。大切なのは心である。
「?先輩、私の顔に何か付いてますか?」
私は慌てて目線を紅茶へと向けた。
「な、なんでもない」
あからさまに挙動不審を見せびらかし、
向かいにいるのが琴吹さんでなかったら通報されても文句が言えない規模まで
犯罪めいた行為をしていたことに気付いた私は、
思いついたようにお菓子をぽりぽりと食べてごまかした。
最終更新:2016年12月28日 08:04