空も白んできた明け方の街を歩いた。
実に数時間にも渡って琴吹さんとお茶を飲み、まるで以前から親しい仲だったかのように会話は弾んだ。
夢のような幸せを思うさま満喫していたはずなのに、
「明日も学校があるので」と自ら彼女を気遣って帰宅を申し出たことが悔やまれてならない。

しかし案ずるなかれ、私はとうとう好機を掴むことに成功した。彼女の連絡先を手に入れたのだ。
棘だらけの思い出とともに残っているかつてのサークルの同輩たちの名前や、
記憶の隅に追いやられた顔も浮かんでこないような哀れな者たちの名前がひしめく
携帯電話のアドレス帳に燦然と輝く「琴吹紬」の文字。

男性から女性へ連絡先を尋ねるなど、
理性を放擲して闇雲に結び付かんとする軽佻浮薄な輩のすることである。
がつがつと醜く女性の尻を追いかけ妥協に妥協を重ねた結果、
偽物の恋を手に入れるくらいならむしろ私は名誉ある孤独を選ぶだろう。
そう思っていた時期が私にもあった。

しかし時代は変わったのである。
義務教育や高等教育の現場における学問的、
人間的閉鎖空間から解放され一時の自由を約束された大学生が、
目前に広がる無限とも思しき異性との交際に躍起になるのも無理からぬ話である。
切っては結ばれ、切っては結ばれを繰り返す赤い糸を尻目に、
何も行動を起こさない者はただ指を咥えて見ていることしかできない。
入学から二年の歳月を経て私がその事実に気付いた時にはもはや手遅れかと思われた。

琴吹さんとお茶を飲み交わしていたとき、そのような七転八倒の孤独な心理的暗転の末、私は決心した。
タイミングを計り、ここぞという所で男らしく所存のほぞを固め、彼女に声をかけた。

「そういえば、知り合ってから半年近く経ってるのにお互い連絡先を知らないというのも寂しいな。
良い機会だから、琴吹さんのアドレスを教えてくれないだろうか」

我ながら極めて流暢に、かつ自然に話しかけられたことに驚嘆した。
琴吹さんは快く了解してくれた。






おびただしい量のカフェインを摂取したためか足取りも軽やかに、
朝のすがすがしい日光に浄化された気分で帰路についた。
昨日一日で私に明日を生きる希望を与えてくれた琴吹さんに感謝しなくてはいけない。

これを機に、良き友や先輩後輩に恵まれ、溢れんばかりの才能を思うさま発揮して文武両道、
その当然の帰結として傍らには黒髪の乙女改め琴吹さん、目前には光り輝く純金製の未来、
あわよくば幻の至宝と言われる「薔薇色で有意義なキャンパスライフ」をこの手に握ることであろう。

めくるめく妄想の果て、無駄に元気を持て余したかに見えた私も、
下鴨幽水荘に帰りついた時にはいささかゲンナリした。
普段よりいっそう薄汚く感じられ、これがお前の現実なのだと突きつけられたように思えた。
部屋の前まで足を運ぶ頃にはすでにカフェインによる覚醒も切れてしまい、
疲れ切った私はそのまま四畳半の万年床に倒れ伏した。

午後の講義に間に合うように目覚ましをかけ、
温まってやわらかくなる布団の中でひとまず眠りに着くことにした。






まだ六月の半ばだというのに、もう夏が来たかのように蒸し暑い。
けたたましい目覚ましの音にむりやり体を起こし、午後の講義の支度をした。
昨日の出来事がまだ頭の中にチラついてしまい、
これからは女性との出会いが引きも切らず、予定帳には逢引の予定がびっしり、
喉から血が出るほど睦言を語らねばならないだろうと、たくましく妄想に余念がなかった。

その日の講義もいつも通り何事もなく流して聞き、
食堂で遅い昼飯を軽く済ませ、つつましくも平凡な学生生活を滔々と過ごしたが
四畳半で夕飯の魚肉ハンバーグを焼いているときにふと思った。
今日一日、私は何事も為していない。
ただただナイアガラ瀑布のごとく貴重な時間を浪費しているだけではないか。
私は非常に今更ながら、焦った。焦ったついでに魚肉ハンバーグを足元へ落としあやうく火傷しかけた。

琴吹さんと連絡先を交換しただけでは何も進展しないではないか。
願わくば彼女の方からデートのお誘いだの近況報告だのを心のどこそこで期待していたのではないか。
なんたる紳士にあるまじき腑抜けた性根よ。
私は自分を叱咤し、いかにして残り少ない学生生活を有意義に過ごせるか思案をこねた。
しかし今までの二年間数多の機会を見事に棒に振ってきた私が昨日今日で変わるとも思えない。
琴吹さんに何かしらの連絡でもと考えたが、いきなり夕飯でも一緒にいかがですかなどと
およそ紳士の面をした変態を嗅ぎつけられたら全ては水の泡である。
ここは定石通り昨日は楽しかったです、の旨をさらりと伝え
次の機会を伺うのが今の私にできる精一杯のことであろう。

携帯電話を取り出し当たり障りのない無難な文章を打ち込み、
推敲して長くも短くもせずそれらしくまとめ、
いまどきの顔文字を一般的な女子大生が違和感なく受け入れられる程度に添えて送信のボタンを押した。
返信が来ない場合を想定して、最後は『次の英会話教室でまたお会いしましょう』と
返信してもしなくても自然な文章を付け加えた。

ささやかながら、しかし確実に一歩ずつ前へ踏み出せたような気がして
妙な達成感に浸っているとき、部屋のドアをドンドンと叩く音が聞こえた。
ここ最近ではもはや私の部屋を訪ねるのは新聞か宗教の勧誘、
もしくは小津しかいなかったので、十中八九それが小津だと分かった。
玄関のドアを開けると何やら四角い箱を抱えている。






「おや、今日はなんだか機嫌がよさそうですな」
「別段いつもと変わらん。むしろお前の顔を見て気が滅入っているところだ」
「またそんなひどいことをおっしゃる。こんなに可愛らしい顔をしているのに」

小津のぬらりひょんのような顔を見て
可愛らしいという言葉が出てくる人が居るとすればそれはおそらく人ならざる者だろう。

「相変わらず陰険な態度ですな」と彼は言う。
「恋人もいない、サーカルからも自主追放された、
 真面目に勉強するわけでもない。あなたはいったいどうするおつもりだ」
「おまえ、口に気をつけないとぶち殺すぞ」
「ぶって、しかも殺すなんて、そんな。ひどいことを」
小津はにやにやした。「これあげるから御機嫌なおしてください」
「なんだこれ」
「カステラです。樋口師匠からたくさんもらったので、おすそわけ」
「めずらしいではないか、おまえが物をくれるなんて」
「大きなカステラを一人で切り分けて食べるというのは孤独の境地ですからね。
 人恋しさをしみじみ味わってほしくて」

樋口師匠とは同じ下鴨幽水荘の2階に住む人物である。
その「師匠」とはいったい何者なのかと訊ねても、
小津はにやにやと卑猥な笑みを浮かべるだけで答えようとしない。
おおかた猥談の師匠であろうと私は思っていた。






「おや?あなた携帯が鳴ってますよ」

手元に置いてあった携帯にメールが届いた。
きっと先程の返信であろう。本能的に私は携帯を隠したが既に遅かった。

「なになに…琴吹紬?まさか、とうとう出会い系に手を出したんじゃ」
「そんなわけあるか」
「じゃなきゃ、あなたに女性からメールが来るなんて説明がつかない」
「俺にだってそれなりの人付き合いというものがある。ほっとけ」
「そんなこと言って、その女性に卑猥な言葉を送りつけて興奮するんでしょう、
 まったく手のつけられないエロなんだから困ってしまう。この桃色筆まめ野郎!」
「そんな不埒なことはせん」
「またまた。僕には分かってます。あなたの半分はエロで出来ている」

小津はさんざん私を小馬鹿にしたあと、「今宵は師匠のところで闇鍋の会があるのです」と言って出て行った。
私は心の平穏を取り戻し、一人孤独にカステラをほおばりながら琴吹さんからのメールを確認した。

『私もとても楽しかったです。また今度機会があれば遊びに来てください。ではまた英会話教室で』

遊びに来てくださいと言われて、じゃあ今から遊びに行きますというほど私は野暮ではないし
社交辞令に過ぎないことは分かっていたが、素直にうれしかった。
出来ればこのカステラを一緒に食べたいと思った。







  ○     ○     ○

大学に入ってからの友達とのお付き合いは、高校のそれとは比べ物にならないほど味気ないものでした。
桜ケ丘高校を卒業してからすでに1年と少し経ち、
同じく卒業していった私の友達とはまだ連絡を取り合っていますが
最近はみんなも忙しくなり、会う機会も減っています。

高校のころに組んでいたバンド「放課後ティータイム」のメンバーは
それぞれ自分の望む進路へ進み、思い通りとまではいかないものの
みんな自分の生活を楽しんでいるようでした。
私自身も楽しくないわけではなかったけれども、どこか物足りないと思っていたのも事実です。
大学の友達とはおしゃべりもしますし、一緒に遊びに行くということも何度かありましたが、
どこか私に遠慮していることが薄々と感じ取れたのです。
高校の頃、放課後ティータイムのみんなは一人の友達として平等に接してくれました。
今でも逢うときはお互いにふざけあい、心の底から笑うことができます。

けれど、いつまでも楽しかった過去に縛られていては今を楽しむことは出来ないのです。
私は自分にそう言い聞かせ、せっかくの大学生活なのだから
思う存分やりたいことを成し、後悔のないようにと心に決めました。

私が進学した大学は日本の幾多の学問施設の中でもとりわけ優秀な学生が集まる場所でしたので、
ひとまず勉学に勤しむことにしました。

大学の勉強というのは知的好奇心を大いに刺激するもので、
まるでどこか知らない土地へ旅をするような楽しさがあります。
目的をもって敢然と己の勉学の道を歩んでもよし、
ときには寄り道をしながら新しい発見に心躍らせてもよし、とひたすらに自由だったので
始めこそ戸惑いましたが、時には夢中になってレポートを書きあげることもありました。

そして1年生の秋、大学生活にも慣れてきた頃に、私は英会話教室に通い始めたのです。
私の実家が経営している会社の多くは海外にも進出しているので、
より広い世界を知るためには英語力が必要不可欠だと悟りました。
英会話教室は受験や大学で学ぶ英語とは違い、
とても開放的で堅苦しくないものなので、変に気を張らずにのびのびと英語を学ぶことができます。
私は元々のんびりとした性格なので、自分のペースで英語のスピーチをし、
クラスメイト達に拍手喝采を受けるのはとても気持ちの良いものでした。

先輩が新しくクラスメイトになったのは、私が入ってから数週間後のことです。






先輩はとりわけ期待の新人というわけでもなく、ましてや英語を自由自在に操れる風には見えなかったので
初めのうちはやはり上手くいかないようでした。
でも、一生懸命会話しようとする姿勢に、私はとても好感を抱いたのを覚えています。

英会話で聞き取れた自己紹介からは、先輩が私と同じ大学に通っていて1つ上の学年だということ、
何か一つでも自分の得意な分野を持ちたくてこの英会話教室に入ったこと、などを知りました。
クラスに同じ大学に通う人は他にいませんでしたから、
先輩とならいろいろと話も弾んで楽しいクラスになるのでは、と期待していましたが
なかなかその機会に恵まれず、ついこの間までまともに話すこともありませんでした。
あの時たまたま迷い込んだ路地に先輩がいなければ、
めったに会えないとても楽しくて愉快な出来事を体験することはなかったでしょう。


その日はいつも通りに英会話教室が終わり、いつも通り帰路に着こうとしていたところです。
私はふと思い立ち、小さな冒険をしてみようとしたのです。
時折私はこんなふうにささやかな好奇心を発揮し、やんちゃな行動を起こすことが少なくありませんでした。
それもこれも放課後ティータイムのみんな、特に唯ちゃんとりっちゃんの影響だと私は勝手に考えています。

普段と違う薄暗い夜道を一人で歩くのは思った以上にスリルがあるものです。
こんなところを執事の斎藤に見られたら無理やり連れて帰らされた挙句、
お父様からきついお叱りを受けることでしょう。
道行く人たちは大声で何かを歌ったり、ふらふらとおぼつかない足取りで
両脇の人に支えられていたりと夜の顔を少しずつのぞかせています。
その魅惑の大人ぶりといったら、私が今まで経験したことのない
新しい世界がそこに開けているような気がしました。

私はまだ二十歳を迎えていないのでお酒は飲めないけれど、
いつか私も無手勝流にお酒を嗜みたいなとぼんやり考えながら歩いていると
困ったことに自分が今どこにいるのか皆目見当がつかないことに気付いたのです。
冒険してみたはいいけれど目的地に着かなければ意味がありません。
周りももはやすっかり暗くなり、どうしようかなと考えている時、ちらと遠くに先輩の姿が目に入ったのです。






そっと近づいてみると、先輩はなんだか真剣な表情で小さなお婆さんと話しています。
橙色に光る行燈や小ぢんまりとした机に垂れかかっている布を見る限り、
どうやら占いをしてもらっているようでした。
占いが終わり、先輩が釈然としない表情で料金を支払っているとき、私は思い切って声をかけてみたのです。
私が道に迷っていて、図々しいながらも一緒に帰りませんかとお願いしたところ、先輩は快諾してくれました。
結果、私の勘違いで先輩が遠回りしてしまった事態になり、
大学に入ってから一度も知り合いを招いたことのない私の部屋でお礼をさせていただくことになったのです。

そこで私は柄にもなく愚痴を漏らしてしまいました。
しかもお父様や実家のことなど、他の誰にも打ち明けたことのない話を
一方的に語ってしまったのは自分でも驚きです。
確かに琴吹家や両親に縛られていて不満を感じているということは少しありましたけれども、
それは高校から大学にかけてのことで今は自分のことで精いっぱいで悩んでいるつもりはありませんでした。
ただ、時々そういった不満を強く思うこともあったのは事実です。

実際、私が一人暮らしをしたいと両親に願い出たときにはとても反対されました。
家は大学からそう遠くないのになぜわざわざ一人暮らしをする必要があるのか、
一人暮らしでもしものことがあってはならない、とお父様をはじめ様々な人に言われました。
でも、私も普通の大学生として一人暮らしをしたいと強く希望したのです。
お父様も仕方なしに折れてくれましたが、結局は親に甘えている現状に変わりありません。

ここ最近ではむしろ開き直ってきてしまい、特に気にすることも無くなっていたのですけれど
たまに、何度か両親の過保護が行き過ぎている時もありました。
かつて夜遅くまで大学の友達の家で遊び、寝泊まりしようとしたとき、
突然斎藤が車で迎えに来たことがあったのです。
半ばむりやり帰らされ、お父様にこっぴどく叱られました。

実はあの日、先輩が帰ったあとにも斎藤が部屋を訪ねてきたのです。

「紬お嬢様、くれぐれも夜の遊びはご控えください。私が庇っていられるのも限界があります。
 特に今夜は男を連れ込むなど、旦那さまに知れたら私は首です」
「…分かったわ。でも斎藤、聞いて。このままだときっと私、世間知らずの駄目な人間になってしまうわ。
 もっといろいろな経験をしたいの。お父様の会社を継げというなら、継ぎます。
 だから、せめて自由でいられる時は好きにやらせてほしいの…」






「…それは旦那様におっしゃってください」
「何度も言ったわ!でも聞く耳をもってくれないの…」
「紬お嬢様を思ってのことです」
「それも何度も聞いたわ…。ごめんなさい、こんなわがままばかり斎藤に押し付けちゃって…」
「………」

このようなやり取りを過去に幾度と繰り返して、そのたびに斎藤を困らせてきました。
確かに私は親不孝者かもしれません。これほど裕福で恵まれた環境に育って
なお文句を言おうとしているのがどれだけわがままなのかも分かっています。

「…わざわざ忠告しに来てくれてありがとう。あの男性は大学の先輩というだけで特に何もありません。
 絶対にあの方に余計な探りなどいれないこと」
「…承知致しました」
「…おやすみなさい、斎藤」
「紬お嬢様こそ、体調には充分お気をつけ下さい。わたくしめはこれで…」

斎藤が静かに扉を閉め、あたりが夜明け独特の静寂に包まれました。
先程まで先輩と楽しくおしゃべりしていたのに、
窓から暖かい朝日が差し始めると急に眠気が襲ってくるのです。
私は嫌なことを忘れるように思い切りベッドに倒れ込みました。
自然とまぶたが閉じる中で、今日の出来事を頭の中で少し思い出していました。

私が先輩と遅くまで話をしていたのは単にお礼をしたかっただけではなく、普通の大学生活や
自分の知らない世界を先輩に感じていたからなのかもしれません。







  ○     ○     ○

琴吹さんとの一方的な恋の駆け引きを演じてから1週間、
私が精神力、忍耐力、知力、その他人間的に一皮剥けた立派な青年を目指すべく
健康的な生活を送ってきたかと言えば、残念ながら残念でしたと言うほかない。
当初は私も目前に控えたかに見えた薔薇色の交際への布石を打つべく、
肉体的な鍛練や学問への精進を覚悟して臨んだこともあったが
ここ数日の記録的猛暑の所為により早くも志半ばに挫折したのである。

我が四畳半において、移り行く四季の中でもとりわけ夏は過酷を極める季節であった。
地獄の釜茹での片鱗を思わせる室温に、よどんだ空気が種々の秘密成分を織り交ぜながら
じっくりと時間をかけて熟成され、
ひとたびこの四畳半に立ち入ったものを完膚なきまでに酩酊させずにはおかない。
湿度と温度に敏感なギー太郎を部屋の隅にたたえ、私は何もする気が起きず部屋の空気と一体化していた。

蒸し暑い日中をなんとか切り抜け、ただただ不毛な我慢大会を
人知れずやり遂げた私は今日の英会話教室の準備をするため重たい腰を上げた。
ついでに何か冷たい飲み物を求めて冷蔵庫を開けたが、
無計画な水分補給や不規則な食生活によって飲み物はおろか食べ物もなく
賞味期限の切れた納豆が一つ、恨めしく奥へ追いやられているだけであった。
今から買い物に行くのもためらわれたが、
涼しくなってきたこの機を逃すわけにはいかないと思い、私はそそくさと食材を買い足しに出かけた。

大学にほど近いスーパーは、財布への信頼に一抹の翳りある私のような人間を
何度も貧苦から救いだした名誉ある学生支援物資センターであり
その驚くべき価格設定は天晴れの一言である。
この日も私は値段とおいしさを天秤にかけ、うんうんと吟味していると不意に横から声をかけられた。

「先輩、こんなところで会うとは奇遇ですね」

横にいたのは明石さんであった。











明石さんは私の一つ下の学年で工学部に所属している。
彼女は私がかつて入っていたバンドサークル『ぴゅあぴゅあ』の後輩にあたり、
たびたび私の演奏を聴いてくれることがあった。
まっすぐな黒髪を短く切り、理屈に合わないことがあると眉間に皺を寄せて反論した。
そう簡単には弱々しいところを見せない女性であった。
歯に衣着せぬ物言いで、同回生からも敬遠されていたようである。
彼女自身は楽器の腕前も良く、万事手回しがいいし
機材の扱いも一瞬で呑み込んでしまう頭の良さだったので、
遠巻きにされつつも尊敬されている面があった。
その点、同じ遠巻きにされつつ軽蔑されている私や小津とは雲泥の差がある。

小津に聞いた話だと、私たちがサークルを辞めてしばらくしてから明石さんも辞めたそうだ。

「彼女も少しサークルで浮いた存在でしたからね。
 今はバードマンの設計でもしてるんじゃないかな」とは小津の言葉である。

実に数カ月ぶりに顔を合わせたのだが、彼女の冷ややかで理知的な目線は相変わらずであった。

「明石さんじゃないか。珍しいね」
「お久しぶりです。先輩も『極寒麦酒』をお探しに?」
「極寒麦酒?なんじゃそりゃ」
「巷でまことしやかに噂されている幻の麦酒のことです。
 一口飲めばその冷たさは尋常ではなく五臓六腑にしみわたり
 下手をすれば冷え性をこじらせてしまうという、にわかには信じ難い麦酒らしいのですが…」
「それがこのスーパーに?」
「あくまで噂です。いつ搬入されるかも分かりませんし、
 そもそも実在するかどうかすら怪しいので確証はありません」

あるとすれば今後の本格的な夏に備えてぜひとも買いそろえておきたいものだ。

「それで、その極寒麦酒は置いてあったのかね?」
「残念ながら見当たりませんでした。先輩ももし見つけたら早めに買っておくことをお勧めします。
私は他のお店をあたってみますので、これにて失礼します。では」

明石さんはそれ以上会話する必要性を感じていないかのように颯爽と去ってしまった。
私は「明石さん、そのまま君の道をひた走れ」と心の中で熱いエールを送った。






買い物を終え外に出ると、今にも雨が降り出しそうな曇が空を覆っており
私はじめじめとした空気を裂いて自転車を走らせ早急に部屋に帰ることにした。
家に着いた直後に夕立が降り、出かける前に窓を開け広げていたことを思い出した。
あわや四畳半が水浸し、貴重な書籍類を猥褻非猥褻のへだてなく
ふやけさせるかとも危惧したがなんとか間に合い、事なきを得た。

私は先程買った麦茶をぐびぐびと飲みながら、これから始まる英会話教室のことを考えていた。
外では雨が節操もなく派手な音を立てているし、
こうも閉め切ったむさ苦しい部屋ではてきぱきと準備をするのでさえやる気がそがれる。
だが今日は行かないわけにはいかない。なぜなら琴吹さんに会うためだからである。
幸いなことに英会話教室へと向かう前には夕立は止み、
私は梅雨の季節を肌で感じながら街を歩いて行った。

  ○     ○     ○

今週もまた英会話教室の時間がやってきました。
先程まで激しく降っていた夕立もすっかり止み、濡れた路面を慌ただしく人や車が往来しています。
今日は朝から湿気が多く、癖毛の私にとって梅雨の時期はどうも苦手です。

教室に入り準備をしていると、先輩が少し遅れてやってきました。

「おや、琴吹さん今日は早いな」
「雨が降っていたのでいつもより早めに家を出たんです。もうすっかり止んじゃいましたけど」
「梅雨もそろそろ本格的になってきたかなあ」
「天気予報では明日から雨がひどいそうですね」
「雨もそうだが、やはり湿気がどうも苦手だな」
「私も、今朝は髪の毛をセットするのにすごい時間かかっちゃいました」

先週たっぷりとお話したせいか、今では他愛のない会話でも長く続きます。
これが英会話となると先輩はとたんに口数が少なくなるのですが、先輩曰く
文法的に破錠した英語をしゃべるくらいなら、栄光ある寡黙を選ぶのだそうです。






今日の授業も先輩は小津さんという人物について熱いスピーチを披露していました。
この半年間、私たちクラスメイトは顔も見たことのない
小津さんという人物に関する知識が飛躍的に増えました。
それが良いことなのかどうかは分かりませんが、先輩のスピーチは妙に説得力があり
その熱弁ぶりも含めクラスメイトからの評判は上々でした。

先輩の話を聞く限り、小津さんという方は
常に悪事を働いていないと気が済まない人という印象を受けます。
誰彼の恋路を邪魔しただとか、あらぬ噂を周りに広め他人を不幸に陥れるだとか、
どこまで本当のことかは定かではありません。
私はそのような人が実際にいるなんて信じられなかったのです。
でも、そんな悪友の話をするときの先輩はとても楽しそうでした。


そして私は今日、放課後ティータイムついてスピーチをしました。
というのも、実は二日ほど前に久しぶりにメンバーと会う機会があったからです。

きっかけは私が昼過ぎに駅前で買い物をしている時に、
たまたま唯ちゃんと出会ったことから始まりました―――。







 ――――――
 ――――
 ――

「あれ?もしかしてむぎちゃん?」
「え?」
「やっぱりむぎちゃんだ~。久しぶりだね、元気してた?」

唯ちゃんと最後にしゃべったのは今年の3月、大学の春休みの時以来でした。
彼女は高校を卒業しても、ちっとも変っていません。

「唯ちゃん!こんなところで会うなんて久しぶりね。私は変わらず元気よ」
「えへへ~。むぎちゃん、今ひとり?」
「そうよ。唯ちゃんも買い物?」
「そうなんだよ~。せっかくだし、二人で見て回らない?」
「うんっ!」






唯ちゃんは高校を卒業後、家から離れたS大学に進学したそうです。
そこでも軽音楽サークルに入り、ライブハウスなどでも積極的にバンド活動をしているみたいです。

「唯ちゃん、最近どうなの?」
「どうって?」
「ほら、大学の事とか、ライブの事とか」
「あっ、そういえばこの間ライブやったんだよ~」
「そうなの?見に行きたかったな」
「ほんとは誘おうと思ってたんだけど、忙しくて忘れちゃった」
「ふふっ。唯ちゃん相変わらずね」
「あっ!見て見て、この服かわいいよ~」

彼女と居ると、なんだかとても楽しい気持ちになれます。もうお互い大学2年生だというのに
高校生のようにきゃっきゃとはしゃぎながら夢中で買い物をしました。
そうこうしているうちに時間も経ち、今日は一緒に夕飯を食べよう、ということになりました。

「唯ちゃん、何か食べたいものある?」
「え~とね…むぎちゃんの手料理が食べたい」
「ふえ!?」
「だって私まだ一回もむぎちゃんの家行ったことないし、むぎちゃんの手料理も食べたことないもん」

よく分からない理由でしたが、断る必要もなかったので私は喜んで家へ招きました。






私の部屋を見た唯ちゃんはやっぱり驚いているようでした。

「すご~い!むぎちゃんの部屋広いねぇ~。私の部屋の2倍…3倍くらいあるかも!?」
「唯ちゃん、夕飯は何がいい?」
「なんでもいいよ~」
「じゃあ、出来るまでちょっと待っててね」
「ほいほ~い」

唯ちゃんは私が料理を作っている間テレビを見たりして時間を潰していました。
ときどき家事や料理を手伝ってくれたりと、彼女も高校の時に比べ少し大人になったような気がします。
その日は冷蔵庫に残っていたありあわせの料理しか出来なかったけど、
唯ちゃんはとても喜んでくれていました。

「お、おいしぃ~!こんなに豪華な夕飯久しぶりだよ~」
「もうちょっとたくさん作ろうと思ったんだけど、あまり冷蔵庫に残ってなかったの…ごめんね?」
「そんなことないよ!私なんてもっと適当に作ってるし。むぎちゃんってば良いお嫁さんになりそうだよね~」
「唯ちゃんったら、もう」

夕飯を食べ終わった後にも、色々なことを話しました。
放課後ティータイムの他のメンバーが今どうしているのかという話題になり、
私は新しい情報を唯ちゃんから聞きました。

「そういえばあずにゃんね、なんと私と同じ大学に入学したのです!」
「ええっ、そうなの?じゃあ憂ちゃんは?」
「憂はK大に行ったよ」
「K大!?すごい名門じゃない!」

私はてっきり憂ちゃんが唯ちゃんと同じ大学に進学するものだと思っていました。






「りっちゃんや澪ちゃんはどうしてるのかしら…」
「私も最近は全然みんなと連絡取ってないから分かんないや」

唯ちゃんは事もなげに言います。
まるで軽音部は過去のこと、今の自分には関係ないかのようにあっさりとしています。
きっと彼女は今を楽しむことに精一杯で、想い出に浸っている余裕はないのでしょう。
私は、寂しいとは思いませんでした。

唯ちゃんも私も、少しずつ大人になってきたのです。

「そういえばむぎちゃん、お酒とか置いてないの?」

唐突に唯ちゃんが言いました。

「え?お酒はないけど…」
「もしかして飲んだことない?」
「ないわ。だって未成年だもの」

唯ちゃんは「おお…」と小さく驚いた後、目を輝かせて私の手をとりました。

「流石むぎちゃん!偉い!」

彼女はなにやら感激しているようでした。



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最終更新:2016年12月28日 08:06