「そ、そうかしら…」
「普通、大学生だったらお酒と出会うもんだよ。
それでもちゃんと法律を守ってお酒を飲まないなんてむぎちゃんは偉いっ!」
そういうものなのかしら。
私は普通に大学生活を送ってきたつもりだったけどお酒に出会う機会は滅多になかったし
そもそも普通の大学生活を送っていたら未成年でもお酒は飲むものなのでしょうか。
「もしかして唯ちゃん、お酒飲んでるの?」
「少し、ね。だいたい飲み会とか、友達に誘われて…っていう感じなんだけど」
私としてもお酒に興味がないわけではありません。
「ね、唯ちゃん。お酒って美味しいの?」
「う~ん…美味しい、といえば美味しいのかな?私もよくわかんない。
でも、みんなで飲むのは楽しいよ!」
私はこのとき、唯ちゃんから魅惑の大人の香りが漂ってきたような気がしました。
「今度機会があったら、その時はお酒飲もう。澪ちゃんもりっちゃんも、あずにゃんも呼んでさ!」
「うん!楽しくなりそうね」
私は唯ちゃんとひとしきり話しこんだ後、帰りの終電に間に合うように駅まで送っていき、別れました。
久しぶりの友達との楽しい一日を過ごし、
私は寝る支度をしながら放課後ティータイムの想い出に浸っていました。
そして、お話は英会話教室に戻ります。
○ ○ ○
「雨、また少し降ってきたみたいですね」
英会話教室も何事もなく終わり、出口へ向かう所で琴吹さんに声をかけられた。
外の様子を見ると、暗がりではあったが確かにぽつぽつと雨音がする。
「明日から大雨だと聞いてるからなあ。このまま止みそうにないな」
「せっかく明日はお休みなのに、これじゃあんまり外に出たくありませんね」
琴吹さんは残念そうに笑った。言われるまで気付かなかったが、そうか、明日は大学は休みか。
思い返してみればここ数日多忙をきわめていたような気がしないでもない。紳士にも休息は必要である。
私はなんだか得したような気分になり、上機嫌で琴吹さんと外へ出ようとしたが、はたと気づいた。
愛用の傘がどこにも見当たらない。
奇怪なり。
私は一瞬思考を巡らせ、一呼吸置いた後、傘が盗まれていることを理解した。
愛用とは言ってもまだ数回しか開いていない新品同様の安いビニール傘であったが、
休日の喜びを補って余りある怒りに駆られたのは言うまでもない。
「先輩、どうかしましたか?」
急に動きを止めた私に琴吹さんが不思議そうに声をかけた。
「私の傘がない。きっと心ない者が盗んでいったんだろう」
私の不幸をよそに、外ではいっそう強く雨が降り続けている。
私は途方に暮れた。
「あの……私の傘、使いますか?」
「それでは君が帰れなくなってしまうだろう」
琴吹さんの心遣いはありがたかったが、相合傘でもしない限り2人が安全に帰ることはできないだろう。
むしろ相合傘によって私の精神構造が不安定に揺れ動くことは想像に難くない。
おもむろに妄想の世界へ羽ばたきかけた私であったが、
次の瞬間その妄想が現実になろうとは夢にも思わなかった。
「私の傘大きいので2人くらい入れますし、今度は私が先輩を送って差し上げる番です。
それに、一度先輩の家にも行ってみたいですし」
私は目眩がした。
いくらこの一週間でそれなりに親しくなったといっても、これではあまりに話が急すぎる。
何か大事な過程をすっとばしているのではないか。
私とて一つ傘の下、琴吹さんと仲睦まじく帰宅し、紳士らしく部屋へ招き入れるにやぶさかでない。
しかし私の暗黒面を限りなく凝縮したような四畳半空間へ、
それこそ穢れを知らない深窓の令嬢を誘致するとなれば話は別である。
私のなけなしの人間的尊厳と、四畳半の混沌すら意に介さぬ紳士的態度、
ひいては圧倒的な男性的魅力を思う存分発揮するチャンスだと思ったら、
それは大間違いのこんこんちきである。
そんな結構なものをこれみよがしに携えて琴吹さんを招いても、嘆かわしいほど双方に得るものがない。
しかしながら、私の冷静かつ客観的な分析とは裏腹に、
琴吹さんと2人きりで過ごすという耐えがたい魅力が脳裏をかすめていく。
次第に妄想は体中の欲望という欲望を吸い上げ爆発的に肥大化し、
一大勢力となって脳味噌を支配しようと暴れまわる。
意味不明の葛藤に苛まれることおよそ0.5秒、
スーパーコンピュータもかくやと思われる驚異的な思考速度の末に私が導き出した答えは
抗わないことであった。
全てを受け入れよう。
ありのままの自分をさらけだそう。
「ならばお言葉に甘えるとしよう。私が傘を持つよ」
琴吹さんは嬉しそうに笑った。
桃色遊戯の達人を目指す器でないなら、変に気取るよりも精一杯の誠意を示す他あるまい。
ざあざあと降りしきる雨の中、私は琴吹さんとくっつき、並んで歩いた。
深窓の令嬢の横で紳士らしく傘を携え、優雅にエスコートする映像がありありと思い浮かばれる。
私は全身に鳥肌が立つのを感じた。
決して自分と琴吹さんの間にある絶対的な違和感を感じ取ったわけではない。
灰色がかった人生の、かすかに残された希望の光へ向かっていく覚悟に震えたのだ。
そこでふと、琴吹さんの方へちらっと眼をやる。
彼女は相合傘という一大イベントの渦中にあっても、まったく意に介していないように静かに歩いている。
その横顔は凛としていて、薄暗い路地を背景に整った顔つきが美しく映えている。
気分を曇らせる雨が周りに打ちつけられていても、
その雨粒一つ一つが琴吹さんの艶やかな色気を演出していた。
私はごくりと生唾を飲み込み、その横顔からとっさに目を背けた。
言い知れぬ罪悪感がぞくぞくと込み上げる。私は未だかつて経験したことがないが、
これが美女の魔性なのかと恐怖に怯えた。もしかしたら彼女はその美貌で男を惑わす魔女なのではないか。
取って食われたらどうしようといらん心配をする必要もなく、
むしろ心置きなく取って食べられたい衝動に駆られた。
道中、私と琴吹さんの間には心地よい沈黙があった。
というのは体の良い言い訳であり、実のところ会話の切り口に迷って押し黙っていただけである。
当の琴吹さんも何か話しかけてくる様子もない。
隣に歩く彼女を直視できないせいで私は都合の良い客観的風景を想像した。
そこには紛れもなく繊細微妙で確固たる男女の仲が存在しているように思えた。
一人こそばゆい妄想に身を悶えさせ、紳士の面構えを保ったまま鼻の下だけ異様に伸ばすという
器用な顔芸をしていることに気付き、我に返った。
まあ、そんな具合の帰路だったと思ってもらって問題はない。
私と琴吹さんは湿っぽい下鴨幽水荘に到着した。
「ここが先輩の住んでいるアパートなんですね」
「見ての通り立派な建物ではないが、立地はわりと良い。私の部屋はこっちだ」
そう言ってかの四畳半へ案内した。
私にしてみれば見飽きた廊下の風景だが、
琴吹さんはしきりに辺りをキョロキョロと興味深そうに観察している。
それに、なぜか頬を紅潮させて少し興奮気味である。
私は部屋の前に着くと、琴吹さんに待ってもらうよう言った。
「部屋を片付けるから、少しの間ここで待っててくれ。すぐに終わる」
なるべく中を見られないように彼女の視界を遮りつつ、私は大して物がない四畳半に入った。
ひとまず卑猥図書を暗部に押し込み、散らかっているあれこれを隅っこに放り投げた。
そして私は琴吹さんを招き入れた。
「おじゃまします」
丁寧に靴を脱ぎ揃え、礼儀正しく部屋に上がり込む。
ふわりと浮くように髪をなびかせ、男汁の染み込んだ窮屈な空間に不釣り合いなほど
清楚な匂いを発散させていた。
琴吹さんはみすぼらしい私の部屋を、今にも「わぁ~」とでも言いたげな表情で見渡した。
この「わぁ~」は決して不快に身を引く「わぁ~」ではなく、少年が未知の存在と遭遇し、期待を込めて
感嘆するような「わぁ~」であることを読者諸君には理解していただきたい。
つまり私の部屋は琴吹さんにとって、まさに未知との遭遇だったのだ。
「むさ苦しい所だが、まあゆっくりしてくれたまえ」
「は、はい」
心なしか琴吹さんは緊張した様子でうやうやしく腰を下ろした。
その肩には妙に力が入っている。
改めて考えると、我が四畳半に一端の女子大生が面白みを感じるような変わった所などないように思えた。
しかし口をきゅっと結び、縮こまりながらも身を乗り出し
興味深そうにおわしましている琴吹さんを見る限り、それは杞憂にも感じられた。
琴吹さんは何か言いたげにそわそわとしているが、
私とてコーヒーの一つや二つ用意するくらいの礼節はわきまえている。
コーヒーメーカーを準備しようと流し台に向かおうとした時、
半開きになっている部屋のドアの前に小さな置き手紙を発見した。
私はしゃがみこんで内容を読んだ。
『先日お話した極寒麦酒の件ですが、運よく大量に仕入れることが出来ました。
師匠への貢物として買い溜めしたのですが、小津先輩も同じく大量に手に入れてしまったので
余った分を先輩に差し上げます。よろしければ貰って下さい。 明石』
私はドアを開け、廊下に置いてあった段ボール箱を見つけた。
明石さんが小津と共に師匠と呼ばれる人物の元に出入りしていたとは。
なんだか仲間はずれにされたような気もしたが、正体不明の師匠などについて行ったら
これ以上踏み外しようもない人生をさらに逸脱するのは目に見えていたので、特に悔しいとは思わなかった。
私はコーヒー豆を放っておき、その段ボール箱を部屋に持ちこんだ。
「それはなんですか?」
琴吹さんが不思議そうに聞く。
「お酒……のようだな」
大きくない段ボール箱の中を開いてみると、見たこともないラベルの缶麦酒がずらりと揃っていた。
「これがお酒……」
琴吹さんが覗きこむようにして乗り出した。
「例の小津が余った分をこっちに寄こしたらしい。なんでもかなり希少な麦酒なんだとか」
そこで私ははたと思いだした。
極寒麦酒と呼ばれるこの麦酒は飲めばたちまち涼しくなるという魔法のようなお酒だと。
見れば琴吹さんはじわりと汗をかいていた。
それも当然である。ただでさえ湿気と気温で汗ばむほどの暑さであるのに、雨風が入ってこないように
窓を閉め切っていたのだ。残念ながらこの部屋にクーラーなどという便利な装置はない。
この極寒麦酒は彼女に不快な思いをさせないために神が与えたもうた好機であると考えた。
「せっかくだから酒でも飲んでみるかね?」
思ったことをそのまま口にした。
言った瞬間、男女二人が一室に居る状態で酒を勧めるという軽率な発言に自ら焦った。
まさに紳士の皮を被った変態野郎、下心がめくれて現れそうな危機感に襲われたが、
琴吹さんは予想外の反応をした。
「飲みたい!飲んでみたいです!」
目を輝かせて頷く彼女に、逆に私が戸惑った。
琴吹さんは私の顔に驚きの表情を見ると、気付いたように慌てながら目を逸らした。
「その、私お酒を飲んだことがなくて……大学生なら飲むのが普通だと聞いたんです。
それに前々から興味があって……」
照れながら必死に弁解する様子がまたこそばゆい。
私は落ち着いて微笑むと、缶を2本取り出して自分と琴吹さんの目の前に置いた。
「確かに大学生ともなれば酒の一つや二つ知っておかなければならん。
これもいい機会だ。酒との付き合い方も学ぶにしても、飲まないことには始まらん」
私はそう言うと、残りをありったけ冷蔵庫に放り込み、琴吹さんと向かいあって缶を手に取った。
爽やかな音を立てて蓋を開け、琴吹さんにもそうするよう促す。
「記念すべき琴吹さんの初麦酒だ。遠慮せず乾杯といこう」
これはあくまで余興であり、酒を飲むなど特別なことではないという調子で言ったつもりだったが、
琴吹さんは真剣に私の振舞いを観察している。
「まあそう固くならずに」と言うと彼女は拍子抜けしたように眼をぱちくりさせ、静かに乾杯の音頭をとった。
私はぐいっと一口目を仰いだ。
刺激的な快感が口元から胃袋まで流れこみ、敏感な喉を荒く震わせる。
その過剰なまでの清涼感が全身を巡り、苦味とアルコールを感知した脳味噌が瞬く間に覚醒する。
自然と缶を持つ手が2口目、3口目を供給し、肉体という肉体に冷たく染み渡っていった。
極楽なり。
「う、旨い」
思わず声を漏らした。
これほどまでに旨い麦酒は飲んだことがない。
私はあっという間に500mlの缶を半分まで減らしていたことに気付き、驚きのあまり目を丸くした。
私は対面している琴吹さんを見た。
彼女はまるで古今未曾有の奇怪事を眼前に捕えたような不思議な顔をして麦酒缶を凝視していた。
その真面目とも驚きとも取れる表情がなんだか微笑ましい。
「初めての酒はどうだ」
「……嫌な味はしませんでした」
琴吹さんは静かに言った。
「でも、美味しい訳でもないんです。なんというか……とにかく不思議な感覚です」
そう呟く彼女は、美味しくないという不快感を表にすることもなく、ただ謎めいた感覚を考えている。
なんとも新鮮な反応だった。
「酒というのは旨さが分かるまで意外と時間がかかるものだ。
特に麦酒なんぞは最初はただ苦いだけの炭酸水だと思うかもしれないが、しばらく飲んでいれば慣れる」
そう言って私はもう一度、今度は豪快に飲んでみせた。
のどを鳴らしながら一気に流し込む。
私は実に気分良く飲みっぷりを披露し、これ見よがしに快感を演出した。
それを見た琴吹さんは姿勢を正し、同じように豪快に飲んだ。
そこから先はあっけないほど自然に会話が弾んだ。
琴吹さんはしきりに私の私生活に興味を持った。
学部の勉強に興味を示し、交友関係に興味を示し、狭い四畳半を大きく占める
本棚に興味を示し、棘だらけの過去に興味を示し、ギー太郎に興味を示した。
「えっ、先輩もバンドをしていらしたんですか?」
「大学のサークルに参加していたが、去年の冬に辞めて以来活動してないなぁ」
「それはなんていうサークルなんですか?」
「『ぴゅあぴゅあ』という、いかにもお花畑なバンドサークルだ」
「ぴゅあぴゅあ……そういえば私の友達もそんな名前の同好会に所属していたような」
その後も矢継ぎ早に質問されたが、その度に私は気前よく答え、饒舌さを増していった。
極寒麦酒のおかげでサウナのような湿気をはらむ部屋の空気でさえ涼しく感じられた。
酒が入っていたこともあって私はどんどん機嫌を良くし、調子に乗って偉そうに雄弁をふるっていった。
下手をすれば説教まがいの戯言を口走ることもあったが、
琴吹さんは実に器が広いようでそんな与太話にも熱心に耳を傾けてくれた。
かたや琴吹さんの具合はというと、私と同じくらい麦酒缶を空けていながらも
まるで変わった様子を見せない。ふにゃふにゃと言動が怪しくなる私と違って平然としていた。
「琴吹さんは全然酔ってないみたいだな」
「はい~平気です~」
「酒は楽しいかね?」
「楽しいで~す」
少しずつ頭が回らなくなる中、琴吹さんもいささか酔っていることに気付いた。
今の彼女はいつも以上に言葉が伸びている。
かと言って朦朧とした口調ではなく、あくまでマイペースぶりに拍車がかかったということだろうか。
「あ……」
私は極寒麦酒を取りに冷蔵庫の扉を開けたが、既に切らしてしまっていた。
5、6缶は空けただろうか、もう私の体は十分清涼感に満ち満ちている。
極寒麦酒の役割はとうに終えたのだ。
しかしこれではどうにも中途半端ではないか。
私は冷蔵庫の扉を閉めると、ふらふらと部屋の隅を漁った。
「先輩?」
「……あった」
ごそごそと取りだしたのは、以前小津と一緒に酒盛りをした時に買ったウヰスキーだった。
「まだ酒が足りん」
不明瞭にぶつぶつと呟くと、私は小さなコップになみなみとウヰスキーを注いだ。
琴吹さんの手元にはまだ麦酒が残っていたのでウヰスキーを欲しがったりはせず、
邪気のない笑顔で私をニコニコと見ている。
流石にウヰスキーを一気に飲むことはしなかったが、麦酒を飲むよりも確実に酔いが回る。
私はその後も琴吹さんと大いに楽しく語らい、夢のような至福の一時を過ごしたはずなのだが、
まるで本当に夢を見ているようにふわふわと地に足が付いていない感覚に襲われた。
そう、まるで夢のように。
……これは夢なのか?
薔薇色のキャンパスライフを思い描くあまり、私の脳がむにゃむにゃした挙句
ありもしない幻覚を見ているのではないか?
そう言えば私は琴吹さんと何を話しているのか良く覚えていない。
私の目の前にいる可憐で繊細微妙なクリーム色の髪の乙女は天真爛漫に微笑んでいる。
その姿は次第に揺らめき、形を変えていった。
何かがおかしい。
その琴吹さんの像が消えてなくなったかと思うと、目の前にぬらりひょんが正座していた。
「ぎゃ」と飛び上がりそうになるのをこらえてよく見ると、それは小津であった。
もしかして英会話教室の琴吹さんは仮の姿であり、その皮をめりめりと剥けば
中に小津が入っていたのではないかと想像した。
ひょっとすると私は女性の皮を被った小津と相合傘をし、女性の皮を被った小津に交際の申し込み、
あわよくば合併交渉にまで思いを馳せるところだったのではないか。
「なんでお前がここにいる」
私はようやく言った。
小津は気取ったように頭を撫でた。
「なんでも何も、あなたが持ってる極寒麦酒を返してもらいに来たんですよ。
明石さんが変な気を利かせたみたいですが、あなたはいつも通りむさ苦しいこの部屋で
精神修行していればいいんだ。あの麦酒は師匠の物ですから」
どういうことか分からない。
「琴吹さんは?」
私はそこで初めて四畳半を見渡した。
外は明るい。時計を見ると午前九時とある。
「琴吹?何を寝ぼけたことを言ってるんですか。あの架空のメールアドレスが
とうとう人格を持って貴方の目の前にでも現れたんですか?」
小津が辛辣に言い放った。
ますますわけがわからない。
「それで明石さんから貰った極寒麦酒、どこにあるんですか。返して下さい」
「そ、そうだ!私はもう極寒麦酒は全部飲んでしまったぞ!証拠に部屋に空き缶が散らかっているだろう――」
私は喚きながら辺りを見るが、琴吹さんと飲み交わした麦酒の缶など綺麗さっぱり無い。
「な……」
「あれ、どうやら本当になさそうですね」
小津は勝手に冷蔵庫やらを調べ、「ふん」と鼻を鳴らすと
「まあいいでしょう。この近辺に極寒麦酒はまだ出回っているみたいですし。
後で明石さんに確認しときますわ」
小津はそれだけ言うと部屋から立ち去った。
私は一人四畳半の中心で呆然としていた。
本当に琴吹さんは幻覚だったのか?
堂々巡りの思惑にふけっている内、段々と頭が痛くなってきた。
絶望の淵に立たされたように私は頭を抱え、その場にうずくまった。
昨日の出来事を思い出そうと必死に脳をこねくり回すが、かえって何も思い出せない。
そうしているうち、おぼろげな私の意識は「
琴吹紬という人物は存在しなかった」という
結論を導き出そうとしていた。
なんという悲劇。
これほど残酷な仕打ちがあろうか。
私はもごもごと意味不明な言葉を口走り、布団にもぐりこんだ。
恐怖のあまり生まれたての小鹿のようにぷるぷると体を震わせ、仮想現実と区別がつかなくなった
人間の末路を想像し、ますます恐怖に打ちのめされていった。
いっそ狂人になってやろうかとも思ったが、その覚悟があるようなら私はもっとまともな人生を
送れるだけの気概があったに違いない。
結局、私は今の境遇に不満を持つだけで何一つ自ら動こうとしなかったのだ。
哀しい人生であった。
枕に顔をうずめながら誰にでもなく罵詈雑言をぶつけていると、不意にドアをノックする音が聞こえた。
また小津か、と顔をしかめていると、ドアが開かれた。
私は息を呑み、布団から飛び起きた。
琴吹さんであった。
「先輩、大丈夫でしたか?」
汗をかきながら私の方へ近寄ってくる。
私は固まったまま琴吹さんを見ていた。
「起きたら先輩がすごく苦しそうにしていたので、お薬と栄養剤を買ってきました。
あと飲み物も」
琴吹さんはそう言うと私にスポーツドリンクを差し出した。
口をパクパクさせていた私だったが、先程の頭痛が強く響いてきたのを感じると
ペットボトルを闇雲に胃に流し込んだ。
飲み終わり、ぜぇぜぇと息を切らす私に琴吹さんは優しく声をかけた。
「二日酔いの時は水分を吸収するのがいいと聞きました」
二日酔い。頭痛。そして今更気付いたが、震えるほどの寒気。
私は琴吹さんが現れたことに安堵しながらも、今度は別の意味で布団に倒れ込んだ。
「こ……琴吹さんは二日酔いは大丈夫だったのか?」
「私は全然平気です。昨日先輩がウヰスキーを飲み始めたかと思ったらそのまま
横に倒れたので心配しました」
そうか。私は昨日アルコールを摂取しすぎたせいで意識が飛んでいたのだ。
「私も眠くなってその時は寝ちゃったんですけど、朝起きたら先輩が震えてるので
どうしたのかと思って……。幸い友人が極寒麦酒について色々と知っていたらしくて
二日酔いと冷え性の併発の話を聞いてお薬と栄養剤を用意していたんです」
私は心の底から申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
紳士として情けないこと極まりない。
しかし琴吹さんが看病してくれるというこの状況は、これはこれで幸せだとも考えた。
「先輩、顔がニヤけています」
琴吹さんの背後から冷ややかな声が聞こえた。
「あ、明石さん!?」
私は驚きのあまり上半身を勢いよく起こし、目眩に襲われた。
「え?先輩、明石さんとお知り合いだったんですか?」
琴吹さんが私と明石さんを交互に見ながら目を丸くした。
「まったく、紬さんの知り合いが極寒麦酒を飲み過ぎて倒れたと聞いたので訪れたら
先輩だったのですね。阿呆なことです」
入口付近で静かにたたずみ、明石さんは厳しく言った。
横になりながら詳しく話を聞くと、琴吹さんと明石さんは1年生の時に
友達の友達として知り合ってから仲良くなり、以降頻繁に連絡を取り合っているのだという。
意外なところで繋がっているものだ。
「スモールワールドですね」と琴吹さんは言った。
死んだように横たわる私に気を配りながら、うら若き乙女二人は他愛もない世間話をしていた。
「明石さんも小津さんという方を知ってるの?」
「小津さんとはサークルも一緒でしたし、今は師匠の門下として兄弟弟子でもあります」
「そうなんだ。師匠だなんて、きっと立派な方なんでしょうね」
「師匠はそれなりに立派です。あくまでそれなりに。
それはそうと、紬さんは先輩とはどういう関係なのですか?」
「大学外の英会話教室で半年くらい前に知り合って、最近よくお話しするようになったの。
昨日たまたま遊びに来たら素敵なお酒を頂いたらしくて、せっかくだから飲んでみようって……」
「なるほど。それで極寒麦酒を無下に消費してしまったんですね」
「そういえば、明石さんは何故その麦酒に詳しいの?」
「そもそもこの部屋に極寒麦酒を提供したのは私です」
「まあ、そうだったの」
「この麦酒も、元はと言えば師匠の貢物として探し求めていたのですが中々見つけることが出来ず、
業を煮やした小津さんが何らかの手段でもって強引に集めたらしのです」
「何らかの手段?」
「聞いた話では、小津さんは大学中のありとあらゆる組織を動かすことが出来る影の支配者という
大層な噂があるのです。現に小津さんはひと夏どころかあと四回は夏を越せるくらいの極寒麦酒を
どこからともなく入手してきました。私はその余りを先輩に分けようと思ったのですが……」
そこで明石さんは私を一瞥した。
予期せず目を合わせてしまった私は一瞬どきりとして慌てて布団に身を隠した。
これではまるで私が怯えているようではないか
最終更新:2016年12月28日 08:08